信号が青に変わると、コップが倒れ水が溢れたみたいに人の波が広がる。それは、向こう岸からの波とぶつかることなく交わり合う。そんな光景を、外国の観光客がセルフィースティックを使って撮影している。みんな、楽しそうな笑顔だ。
 岡本智志は渋谷駅を出て、その波を横目に交差点を通り過ぎ道玄坂を登っていた。
 野球をやめて伸ばし始めた髪の毛が、彼の歩みに合わせてふわふわと揺れている。背負ったリュックサックはずしりと重たく、ここ数日分の合宿の荷物が詰まっている。それでも、彼の足取りは軽かった。
 初めての撮影はうまくいった。
 好天に恵まれ滞りなく進行しただけでなく、思いもしなかった素材も撮影できた。予定外の収穫は、おそらく映画のかたちに少なからず影響を及ぼすだろう。作品が想定外の方向に転がっていくことを、智志は嬉しく思っていた。何かを作り上げるということはこういうことか、という新鮮な喜びだった。
 横断歩道の待機中、彼はスマホを開いて、その画面にまず一度嬉しく笑って、それからその素材の切り抜き画像を見た。
 どうやって使おうか。そう考えると胸が躍った。
 はやく、あいつにも見せたい。そう思って、メッセージを確認する。田沼誠一郎からの連絡によれば、彼はカフェのテラス席にいるという。視線を上げて歩いていると、当のカフェの看板が通りの向こうにあった。
 さっき、渡らなくてよかったのか。そう思いながら横断歩道の信号が変わるのをもどかしく待って、智志は半ば駆け足でカフェに向かった。既に誠一郎の姿は視界に入っていた。彼はテラスの端のテーブルで文庫本を読んでいた。智志にはまだ気づいていない様子だった。
「誠一郎!」
 智志が呼びかけると誠一郎は顔を上げ、文庫本にしおりを挟んで閉じた。智志はリュックをテーブルの脇に下ろし、テーブルにつく。
「合宿お疲れ様」
 誠一郎が言う。
「誠一郎も。初勝利おめでとう」
 智志の合宿と誠一郎の公式試合が重なったのは偶然だった。それは誠一郎が大学に入ってから最初の公式試合だったので、智志はそれを見に行けないことをとても悔やんだけれど、体が二つない以上仕方がない、という当たり前の結論に至った。
 明日にはどうせ大学で会うのだけれど、新幹線で智志が帰ってくるその夜に、二人は自然に待ち合わせの約束をした。
「どうだった。良い画撮れた?」
 誠一郎が尋ねる。智志はうずうずして、
「もうさ、本当に最高でさ。逆にこれから選別するのが大変そう」
「良かったね」
 智志にとっては初監督作品で、もちろんサークル内の趣味的な活動に近いものだったけれど、映画を撮っているということが楽しかった。
 智志は誠一郎に撮れたものを見せるためにスマホを開く。
「あっ!」
 誠一郎が声をあげた。
「智志、おま、なに」
「え?」
「ま、待ち受け」
 動揺する誠一郎に、「ああ、これ?」そう言いながら智志は画面を開いてみせた。
「見た? 良い写真だろ?」
 それはスポーツニュースのサイトから拾った、公式試合の誠一郎の画像だった。
「これ、俺の彼氏♡」
 大学のユニフォームとチームカラーのキャッチャー防具を身に付けて凛々しく指示を出している誠一郎。その写真を見つめながら智志は言う。
「いやぁ、やっぱプロはすごいよ。めっちゃいい写真。かっこよすぎるから思わず待ち受けにしちゃった。まあ、実物が一番かっこいいんだけどさ」
 誠一郎は顔を手で隠している。そんな誠一郎に気が付かず、
「あ、それでさ、これがほら、撮れたやつ。なんか良い感じに朝靄が出てさ」
 智志が画面を見せる。誠一郎は手を外してそれを覗き込んだ。その顔は真っ赤だったけれど、智志は話に夢中でそれに気づかない。
 智志のスマホには、乳白色の靄の中をさまよう女性が写っていた。
「あ、すごい綺麗だ。幻想的」
「だろ?」
 智志はそれから、合宿がとても楽しかったことを嬉しそうに誠一郎に報告した。山中の撮影で一番の敵は虫だったとか、人生初のバーベキューが美味しかったとか、そういうことを嬉しそうに楽しそうにしばらく話して、
「あ、てか俺も飲み物買ってくる。誠一郎、なんかいる?」
「俺は、まだ大丈夫」
「おっけー」
 智志は立ち上がって、自動ドアから店内に入っていった。誠一郎はそれを見送って、顎を指で少し引っ掻いたあと、くしゃっと嬉しそうに笑って一言いった。
「やっぱり、かなわないなぁ」

(完)