仕方なく一度家に戻ると、詩乃も帰宅していて、昼食の準備をしていた。
「すみません、迎えに行けなくて。向こうはもう終わったんですか?」
「どうにか落ち着いたから、ひとまず戻ってきたの。圭太さん、嫌な役目をさせてごめんなさいね」
「全然問題ないです。このあと、清里さんのところですか?」
「ええ。できればすぐに行こうと思って。お願いできる?」
二人で食事を手早くすませ、都留へと向かった。
走りながら十島の父親の顔が浮かんでいた。彼は娘に打ち明けたのだろうか。また出くわす、などという偶然はさすがにないだろうが、清里も苦手なタイプであることに違いない。
部屋の前まで叔母を送り届け、もちろん、早々に帰るつもりだった。
マンションに到着し、エントランスを入ろうとしたときだ。自動ドアの手前に、二人分の人影が見えた。
間接照明の中、うしろ姿ではあったが、五感が異変を察知する。
背の低いほうが人の気配を感じたのか、ゆっくり振り返った。
相手より早く、その横顔で認識した。
まさかの十島だった。であれば、もう一人は彼女の父か。
天文学的な間の悪さだ。
ここ最近、どちらかと言えば、善行に分類される行動のほうが多いはずなのに――。
このまま気づかぬ振りをして、逃げ出そうかと考えた瞬間だった。
真の修羅場は唐突にやってきた。
「お、お母さんっ?」
見開いた十島の目が追っていたのは、圭太ではなかった。
その声に、彼女の父親が反応する。振り向くと同時に、口を半開きにした。
「し、詩乃……。どうしてここに……。千紘、お前が呼んだのか?」
想定不能な事態だった。状況判断が追いつかない。
確か十島の両親は彼女が幼い頃に離婚しているはず。
別れた母と偶然再会した。
ここまではいい。あってもおかしくない場面。
だが、その相手となるべき女性は今この空間に一人しかいない。
そして父親が口にした詩乃という名前。
右斜めうしろにいたはずの、叔母にゆっくり振り返る。
ちょうど彼女が言葉を発するところだった。
「千紘……ちゃん。あなた……」
そういえば詩乃も離婚歴があると言っていた。
ああ――。もはや、偶然などではなく、奇跡か、でなけれは呪いだ。
「長坂くんがどうしてここにいるの?」
ほんの三十秒前まで、ただのクラスメートだった人間の声が、狭い空間にこだまするのがぼんやり聞こえた。
そのひと言に、三人の視線が圭太に集まる。
自身を落ち着かせるために一つ咳払いをして、精神を再起動した。
「つまりこういうことじゃないか。十島と僕は、いとこ同士ってことだ」
「えーっ!」
三人の声が揃った。
いやいや。向こう二人はともかく、叔母が驚くのはおかしいだろう。
「お母さんが例の給薬師だったなんて。えーと、ちょっと待って。そのお客さんがお父さんの再婚相手?それで長坂くんがいとこって。ダメ、頭がどうにかなりそう……」
すぐにでも走って逃げ出したかったが、そんなことは許されるはずなく、そのまま清里の部屋へと連行されてしまった。
驚いたのは訪問先の相手も同様だ。
恋人かと、開けたドアの向こうに、彼の娘と別れた妻がいたのだから。
新旧の妻と、夫とその娘が、四人がけのテーブルで相まみえる。
圭太は離れたソファーに一人座らされたが、こんな居心地の悪い空間から抜け出せるなら、十万までは払えた。
視界の端で繰り広げられる軽微な地獄絵図を横目に、携帯を確認したが、塩崎からの返事はまだだった。
やがて十島の父が机に頭をつけた。
「みんな、すまん。何もかも私が悪いんだ。許してくれっ」
「お父さんが謝ることないと思うけど」
「そうよ。課長は何一つ悪くないじゃない。もっと堂々として。そっちの人とはもう他人なんでしょ?」
詩乃は、あははと、ただ愛想笑いを返すだけだ。
「今さらだけど、娘の千紘だ。千紘、さ、再婚したいと思ってる、清里さんだ」
「ここに来るときも言ったけど。あたし、全然反対してないよ。お父さんの人生だもん。清里さん、こんな父ですけど、いいんですか?」
幸い、新しい家族のほうは無事打ち解けられそうだ。
そして当然の流れで、三人の注意は元妻に移った。
「課長が離婚した理由は聞いていません。興味もありません。そしてあなたには、本当ならここにはいてほしくなかった」
空気があっという間に希薄になるのと同時に、十島が席を立ち、圭太の隣に移動してきた。
「ね、まだ信じられないんだけど。ホントにいとこなの?偶然がすごくない?」
「僕だって信じられないよ。でも、叔母さんはうちの母の妹だから、その子供である君は僕のいとこ、ということにならざるを得ないよね」
「でもいとこで良かった。ぎりぎりセーフじゃない」
そう言うと、うれしそうに腕を両手で掴み、だが、すぐに真顔に戻った。
「あーでも長坂くんは違うんだよね……」
「違うって何が?」
「前、秘密を教えてくれたじゃない」
「あのさ、何か誤解してるような気がするんだけど」
「誤解って――」
彼女は一瞬、大人たちに視線を向けてから、圭太の耳元に口を寄せた。
「男の人が好きなんでしょう?まさかOMごときに遅れを取るなんて、思ってもみなかった」
落胆の吐息とともに披露された的外れな解釈に、ある意味ほっとした。
「やっぱりか。早めに訂正できて良かった。そんなわけないだろ」
「え……。だってこの前――」
彼女は再び上気させた頬を近づける。
「女には興味ないって」
耐えきれずに立ち上がった。それから彼女の手を取る。
「すみません、ちょっとだけ外に出てきます」
部屋を出て、廊下の突き当たりに見えた非常階段の踊り場へと向かった。
「そうじゃないんだ」
近い親族という新事実も手伝ったのだと思う、今まで誰にも話したことのなかった、圭太の過去を語る決意をした。
「小学五年の秋だった。朝、学校に行ったら、インフルエンザで学級閉鎖になったことを知ったんだ。それで、スキップしながら家に帰ったんだけど――」
あの当時、住んでいたのは古い団地だった。圭太の日々の小さな娯楽は、玄関の蝶番を軋ませないように開けること。いつもは盛大に失敗するというのに、そのときは、過去にないほど上手くいった。
喜んでいたせいで、玄関に、普段はないはずの男物の靴が並んでいたことには気づかなかった。
廊下の先にあるダイニングキッチンに向かおうとしたときだ。その手前にある寝室から、人の声がした。母が電話でもしているのだろう。
どこか普通でない気がしたが、中がどんな状態なのか、わかるはずもなかったのだ。
「もしかして、開けちゃったの?」
息を殺し、目を輝かせた十島に、非常階段の手すりに肘をついたまま、無言でうなずいた。
まさか、そんな時間に戻ってくるとは、想像もしていなかったのだと思う。二人には何の罪もない。
だが、実の母が、一糸まとわぬ姿で、見知らぬ男といる現場を見せられ、正気を保てるはずもなかった。
そこで何が行われていたか、ぼんやりとした知識はあった。ただ、遠い世界の寓話だと思っていたのだ。
次に意識が戻ったのは、立川行きの電車の中だった。
「知らない女の人から、ボク、大丈夫って、声をかけられた。ドアに映った自分の顔が真っ白だった」
祖母から何があったのか聞かれたが、もちろん事情を話すことなどできない。
「学校行かないなら、一緒に株でもやるかい」
気を紛らわせようとしてくれたのだろう、その日の夕食で、彼女はそう言った。
「おばあちゃん、何か斬新だね」
それから三日、いい加減、学校を休むのが怖くなり、やむなく一度帰宅したとき、すでにそこは無人だった。
「書き置きとかは?」
「何もない。唯一、いつもと違ってたのは、寝室の布団が、きれいになくなってたことくらいだ」
それ以来、顔を合わすどころか、たった一人の身寄りと完全に音信不通となっている。
「そう、だったんだ……」
「話はまだ終わってないんだ」
同居した祖母の明るい性格もあって、母のことは、小学校を卒業する頃には、ほとんど思い出さなくなっていた。
もう忘れたと思っていた。
だが、違ったのだ。
中学に入ると、男子たちの、特に異性に関しての会話は、小学生のときとは、異質なものになった。
そして気づかされる。
女子に対する感情が、他の子たちと異なることに。
ネットを調べて、それを確信した。
友達付き合いが難しくなった、二つ目の理由だ。
「女の人を性的に意識しようとすると、最後に見た母親の顔が頭に浮かぶんだ。それで、すごくイヤな気もちになって……意欲が奪われる。だから、その……大人になるための儀式を、たぶんまだ経験できてない」
他人がどう思うのか、おそるおそる隣を見ると、十島の顔が間近にあって仰天した。彼女は眼鏡の位置を直し、圭太の手を握る。
「一応の確認だけど、ゲイじゃなくて、EDってことでいいんだよね?」
「いや――。いくらなんでも、もう少し、遠回しな表現を心がけるべきだろ」
「こっちは死活問題なのっ。答えて」
掴まれた手首が痛い。
「好きっていう感情がどういうものなのか、もしかしたら理解してないかもしれないけど……そうだと思う」
仕方なく答えると、ようやく彼女は力を緩め、ほーっと息をはいた。
「お母さん、長坂くんのことを嫌いになったわけじゃないと思うよ。きっと、自分が許せなかったんじゃないかな」
「それは……そうかもしれない」
それからしばらく、手が触れた状態のまま、どちらも無言だったが、やがて十島は握っていた力を再び強くした。
「ちなみに、き、キスくらいはできるのかな」
少し前から彼女の頬は桜色に染まり、体温が上昇していることが判別できる程度に、指先は熱くなっていた。
そして、どうしてそんな返事をしたのか、あとから恥ずかしくなるような言葉が自然に口をつく。
「なんだったら、今、試してみようか」
なぜか彼女はあまり驚いた様子を見せない。
眼鏡を外したとき、廊下の先でドアが開く音がした。
ほとんど条件反射で二人が同時に距離を取る。
扉から顔を見せたのは詩乃だった。
「ごめんなさい。千紘ちゃん、圭太さん。もう入ってもらって大丈夫よ」
部屋の空気は、出たときよりは和らいでいた。
三人は文字通り、大人の対応を決断したようだ。
元妻は、今回の任務を誠実に遂行し、それが終われば、二度と元夫と関わらない。そのことを清里に確約したらしい。
詩乃だけが処置のために残ることになった。
三人でマンションを出たところで、十島が自分の母の住む家を見たいと言った。
「気をつけて行きなさい。遅くならないようにな」
背中に彼女体温を感じて走りながら、非常階段でのやり取りを思い出していた。あれをなかったことにはできないだろう。この先、二人きりになる状況を想像して、少しだけ不安になった。
十島は、家を不思議そうに見上げた。
「何か、うちよりずっといいな。お母さん、家がイヤで離婚したのかな」
「こんなこと聞いていいのか――。そのあたりの詳しい経緯とか、知ってるのか?」
「教えてもらえないの。ただ、あたしに対する愛情の違いだって、お父さんは言ってた」
つまり、教育方針の違い、といったところか。十島は物心つく前に離れたと話していたから、ほとんど何も覚えていないだろう。
「そういえば、今はアビーがいるんだっけ。会いたいな」
庭を抜けて勝手口に向かう途中で、彼女は首を傾げた。
「玄関から入らないの?」
「あっちは叔母さん専用だから」
「同じ家に二人だけで暮らしてるのに、わざわざ入り口を分けてるんだ。変な感じ」
なぜか声のトーンが下がる。
先に入る圭太を見たまま、十島は扉の前で立ち止まった。
「お母さん、若かったな。写真で見るのと、全然変わってなかった」
彼女が何を考えているのか、皆目わからなかったが、あまり前向きな気配がしない。
入らないのかと尋ねると、それは放置して、質問で返してきた。
「前に長坂くんを怒らせちゃったこと、覚えてる?」
「あったっけ、そんなこと」
ほんの三ヶ月ほど前のことだ。そして、記憶が許す限り、圭太が初めて他人に怒りを表した場面だと思う。忘れようがない。
その答えに、相手の表情から感情がなくなる。
「あたしとお母さんならどっちが好き?」
機械のように淀みなく言った。彼女の長くない髪が風になびく。
前後の会話がつながらない。一般的に考えて、比較の対象になるはずもなく、返事に困った。
それは、と言いかけたとき、突然十島は背中を向け、あっという間に姿を消した。
追いかけようと足を一歩踏み出したとき、携帯が振動した。
塩崎からだった。
「すみません、迎えに行けなくて。向こうはもう終わったんですか?」
「どうにか落ち着いたから、ひとまず戻ってきたの。圭太さん、嫌な役目をさせてごめんなさいね」
「全然問題ないです。このあと、清里さんのところですか?」
「ええ。できればすぐに行こうと思って。お願いできる?」
二人で食事を手早くすませ、都留へと向かった。
走りながら十島の父親の顔が浮かんでいた。彼は娘に打ち明けたのだろうか。また出くわす、などという偶然はさすがにないだろうが、清里も苦手なタイプであることに違いない。
部屋の前まで叔母を送り届け、もちろん、早々に帰るつもりだった。
マンションに到着し、エントランスを入ろうとしたときだ。自動ドアの手前に、二人分の人影が見えた。
間接照明の中、うしろ姿ではあったが、五感が異変を察知する。
背の低いほうが人の気配を感じたのか、ゆっくり振り返った。
相手より早く、その横顔で認識した。
まさかの十島だった。であれば、もう一人は彼女の父か。
天文学的な間の悪さだ。
ここ最近、どちらかと言えば、善行に分類される行動のほうが多いはずなのに――。
このまま気づかぬ振りをして、逃げ出そうかと考えた瞬間だった。
真の修羅場は唐突にやってきた。
「お、お母さんっ?」
見開いた十島の目が追っていたのは、圭太ではなかった。
その声に、彼女の父親が反応する。振り向くと同時に、口を半開きにした。
「し、詩乃……。どうしてここに……。千紘、お前が呼んだのか?」
想定不能な事態だった。状況判断が追いつかない。
確か十島の両親は彼女が幼い頃に離婚しているはず。
別れた母と偶然再会した。
ここまではいい。あってもおかしくない場面。
だが、その相手となるべき女性は今この空間に一人しかいない。
そして父親が口にした詩乃という名前。
右斜めうしろにいたはずの、叔母にゆっくり振り返る。
ちょうど彼女が言葉を発するところだった。
「千紘……ちゃん。あなた……」
そういえば詩乃も離婚歴があると言っていた。
ああ――。もはや、偶然などではなく、奇跡か、でなけれは呪いだ。
「長坂くんがどうしてここにいるの?」
ほんの三十秒前まで、ただのクラスメートだった人間の声が、狭い空間にこだまするのがぼんやり聞こえた。
そのひと言に、三人の視線が圭太に集まる。
自身を落ち着かせるために一つ咳払いをして、精神を再起動した。
「つまりこういうことじゃないか。十島と僕は、いとこ同士ってことだ」
「えーっ!」
三人の声が揃った。
いやいや。向こう二人はともかく、叔母が驚くのはおかしいだろう。
「お母さんが例の給薬師だったなんて。えーと、ちょっと待って。そのお客さんがお父さんの再婚相手?それで長坂くんがいとこって。ダメ、頭がどうにかなりそう……」
すぐにでも走って逃げ出したかったが、そんなことは許されるはずなく、そのまま清里の部屋へと連行されてしまった。
驚いたのは訪問先の相手も同様だ。
恋人かと、開けたドアの向こうに、彼の娘と別れた妻がいたのだから。
新旧の妻と、夫とその娘が、四人がけのテーブルで相まみえる。
圭太は離れたソファーに一人座らされたが、こんな居心地の悪い空間から抜け出せるなら、十万までは払えた。
視界の端で繰り広げられる軽微な地獄絵図を横目に、携帯を確認したが、塩崎からの返事はまだだった。
やがて十島の父が机に頭をつけた。
「みんな、すまん。何もかも私が悪いんだ。許してくれっ」
「お父さんが謝ることないと思うけど」
「そうよ。課長は何一つ悪くないじゃない。もっと堂々として。そっちの人とはもう他人なんでしょ?」
詩乃は、あははと、ただ愛想笑いを返すだけだ。
「今さらだけど、娘の千紘だ。千紘、さ、再婚したいと思ってる、清里さんだ」
「ここに来るときも言ったけど。あたし、全然反対してないよ。お父さんの人生だもん。清里さん、こんな父ですけど、いいんですか?」
幸い、新しい家族のほうは無事打ち解けられそうだ。
そして当然の流れで、三人の注意は元妻に移った。
「課長が離婚した理由は聞いていません。興味もありません。そしてあなたには、本当ならここにはいてほしくなかった」
空気があっという間に希薄になるのと同時に、十島が席を立ち、圭太の隣に移動してきた。
「ね、まだ信じられないんだけど。ホントにいとこなの?偶然がすごくない?」
「僕だって信じられないよ。でも、叔母さんはうちの母の妹だから、その子供である君は僕のいとこ、ということにならざるを得ないよね」
「でもいとこで良かった。ぎりぎりセーフじゃない」
そう言うと、うれしそうに腕を両手で掴み、だが、すぐに真顔に戻った。
「あーでも長坂くんは違うんだよね……」
「違うって何が?」
「前、秘密を教えてくれたじゃない」
「あのさ、何か誤解してるような気がするんだけど」
「誤解って――」
彼女は一瞬、大人たちに視線を向けてから、圭太の耳元に口を寄せた。
「男の人が好きなんでしょう?まさかOMごときに遅れを取るなんて、思ってもみなかった」
落胆の吐息とともに披露された的外れな解釈に、ある意味ほっとした。
「やっぱりか。早めに訂正できて良かった。そんなわけないだろ」
「え……。だってこの前――」
彼女は再び上気させた頬を近づける。
「女には興味ないって」
耐えきれずに立ち上がった。それから彼女の手を取る。
「すみません、ちょっとだけ外に出てきます」
部屋を出て、廊下の突き当たりに見えた非常階段の踊り場へと向かった。
「そうじゃないんだ」
近い親族という新事実も手伝ったのだと思う、今まで誰にも話したことのなかった、圭太の過去を語る決意をした。
「小学五年の秋だった。朝、学校に行ったら、インフルエンザで学級閉鎖になったことを知ったんだ。それで、スキップしながら家に帰ったんだけど――」
あの当時、住んでいたのは古い団地だった。圭太の日々の小さな娯楽は、玄関の蝶番を軋ませないように開けること。いつもは盛大に失敗するというのに、そのときは、過去にないほど上手くいった。
喜んでいたせいで、玄関に、普段はないはずの男物の靴が並んでいたことには気づかなかった。
廊下の先にあるダイニングキッチンに向かおうとしたときだ。その手前にある寝室から、人の声がした。母が電話でもしているのだろう。
どこか普通でない気がしたが、中がどんな状態なのか、わかるはずもなかったのだ。
「もしかして、開けちゃったの?」
息を殺し、目を輝かせた十島に、非常階段の手すりに肘をついたまま、無言でうなずいた。
まさか、そんな時間に戻ってくるとは、想像もしていなかったのだと思う。二人には何の罪もない。
だが、実の母が、一糸まとわぬ姿で、見知らぬ男といる現場を見せられ、正気を保てるはずもなかった。
そこで何が行われていたか、ぼんやりとした知識はあった。ただ、遠い世界の寓話だと思っていたのだ。
次に意識が戻ったのは、立川行きの電車の中だった。
「知らない女の人から、ボク、大丈夫って、声をかけられた。ドアに映った自分の顔が真っ白だった」
祖母から何があったのか聞かれたが、もちろん事情を話すことなどできない。
「学校行かないなら、一緒に株でもやるかい」
気を紛らわせようとしてくれたのだろう、その日の夕食で、彼女はそう言った。
「おばあちゃん、何か斬新だね」
それから三日、いい加減、学校を休むのが怖くなり、やむなく一度帰宅したとき、すでにそこは無人だった。
「書き置きとかは?」
「何もない。唯一、いつもと違ってたのは、寝室の布団が、きれいになくなってたことくらいだ」
それ以来、顔を合わすどころか、たった一人の身寄りと完全に音信不通となっている。
「そう、だったんだ……」
「話はまだ終わってないんだ」
同居した祖母の明るい性格もあって、母のことは、小学校を卒業する頃には、ほとんど思い出さなくなっていた。
もう忘れたと思っていた。
だが、違ったのだ。
中学に入ると、男子たちの、特に異性に関しての会話は、小学生のときとは、異質なものになった。
そして気づかされる。
女子に対する感情が、他の子たちと異なることに。
ネットを調べて、それを確信した。
友達付き合いが難しくなった、二つ目の理由だ。
「女の人を性的に意識しようとすると、最後に見た母親の顔が頭に浮かぶんだ。それで、すごくイヤな気もちになって……意欲が奪われる。だから、その……大人になるための儀式を、たぶんまだ経験できてない」
他人がどう思うのか、おそるおそる隣を見ると、十島の顔が間近にあって仰天した。彼女は眼鏡の位置を直し、圭太の手を握る。
「一応の確認だけど、ゲイじゃなくて、EDってことでいいんだよね?」
「いや――。いくらなんでも、もう少し、遠回しな表現を心がけるべきだろ」
「こっちは死活問題なのっ。答えて」
掴まれた手首が痛い。
「好きっていう感情がどういうものなのか、もしかしたら理解してないかもしれないけど……そうだと思う」
仕方なく答えると、ようやく彼女は力を緩め、ほーっと息をはいた。
「お母さん、長坂くんのことを嫌いになったわけじゃないと思うよ。きっと、自分が許せなかったんじゃないかな」
「それは……そうかもしれない」
それからしばらく、手が触れた状態のまま、どちらも無言だったが、やがて十島は握っていた力を再び強くした。
「ちなみに、き、キスくらいはできるのかな」
少し前から彼女の頬は桜色に染まり、体温が上昇していることが判別できる程度に、指先は熱くなっていた。
そして、どうしてそんな返事をしたのか、あとから恥ずかしくなるような言葉が自然に口をつく。
「なんだったら、今、試してみようか」
なぜか彼女はあまり驚いた様子を見せない。
眼鏡を外したとき、廊下の先でドアが開く音がした。
ほとんど条件反射で二人が同時に距離を取る。
扉から顔を見せたのは詩乃だった。
「ごめんなさい。千紘ちゃん、圭太さん。もう入ってもらって大丈夫よ」
部屋の空気は、出たときよりは和らいでいた。
三人は文字通り、大人の対応を決断したようだ。
元妻は、今回の任務を誠実に遂行し、それが終われば、二度と元夫と関わらない。そのことを清里に確約したらしい。
詩乃だけが処置のために残ることになった。
三人でマンションを出たところで、十島が自分の母の住む家を見たいと言った。
「気をつけて行きなさい。遅くならないようにな」
背中に彼女体温を感じて走りながら、非常階段でのやり取りを思い出していた。あれをなかったことにはできないだろう。この先、二人きりになる状況を想像して、少しだけ不安になった。
十島は、家を不思議そうに見上げた。
「何か、うちよりずっといいな。お母さん、家がイヤで離婚したのかな」
「こんなこと聞いていいのか――。そのあたりの詳しい経緯とか、知ってるのか?」
「教えてもらえないの。ただ、あたしに対する愛情の違いだって、お父さんは言ってた」
つまり、教育方針の違い、といったところか。十島は物心つく前に離れたと話していたから、ほとんど何も覚えていないだろう。
「そういえば、今はアビーがいるんだっけ。会いたいな」
庭を抜けて勝手口に向かう途中で、彼女は首を傾げた。
「玄関から入らないの?」
「あっちは叔母さん専用だから」
「同じ家に二人だけで暮らしてるのに、わざわざ入り口を分けてるんだ。変な感じ」
なぜか声のトーンが下がる。
先に入る圭太を見たまま、十島は扉の前で立ち止まった。
「お母さん、若かったな。写真で見るのと、全然変わってなかった」
彼女が何を考えているのか、皆目わからなかったが、あまり前向きな気配がしない。
入らないのかと尋ねると、それは放置して、質問で返してきた。
「前に長坂くんを怒らせちゃったこと、覚えてる?」
「あったっけ、そんなこと」
ほんの三ヶ月ほど前のことだ。そして、記憶が許す限り、圭太が初めて他人に怒りを表した場面だと思う。忘れようがない。
その答えに、相手の表情から感情がなくなる。
「あたしとお母さんならどっちが好き?」
機械のように淀みなく言った。彼女の長くない髪が風になびく。
前後の会話がつながらない。一般的に考えて、比較の対象になるはずもなく、返事に困った。
それは、と言いかけたとき、突然十島は背中を向け、あっという間に姿を消した。
追いかけようと足を一歩踏み出したとき、携帯が振動した。
塩崎からだった。