貴重な高校時代、などとよく大人たちは言うが、当事者たちはそこまで価値を見出していないと思う。少なくとも圭太自身は、制約のない成人になることをずっと待ち望んでいた。
 それでも、三度しかない夏休みの初日の予定が、明白に好戦的な人間に頭を下げることというのは、枕草子なら、にくきものの章段に入れられるはずだ。
 テレビにはまるで興味がないというのに、行き慣れた撮影スタジオの前で待ってしばらく、彼女はコンビニのレジ袋を手に、通りを歩いてやってきた。
「朝ご飯?ごめん、忙しいのに」
「ただのおやつよ。撮影って、主役級以外は待ち時間が結構多いから。このバイク、イタリア製なんだってね」
 腰かけたシートを芦川は軽く叩いた。
「それで話って何よ?」
「今度うちの文化祭で模擬店をやることになったんだけど――」
 それから経緯と現状を簡単に説明した。
「学校の紹介ページに?わたしは全然いいけど、一応、事務所に確認しないといけないかな。でも、そんなんで来場者が増えるかなあ。インスタで紹介してあげようか?」
 想定を段違いに覆す手厚い返答に驚愕する。
 同じ人間なのか、思わず真正面から相手を見てしまった。
「何で無反応なのよ。そこは、感謝を表す場面でしょう」
「そうだけど。まさかこんな簡単に了解してもらえるとは思ってなくて――」
「誰も了解なんてしてないけど」
 何だって?!
「一つ、条件があるのよ」
「何?僕にできることなら――」
「塩崎って人に会わせてくれない?というか、わたしの写真を撮ってもらえるよう頼んでもらえないかしら?もしそれができるなら、文化祭のこと、事務所にお願いしてあげる」
 大崎でのやり取りを思い出し、一瞬気が遠くなった。話したくないレベルでは、芦川を上回る。できれば一生関わりたくない人種だった。
「そういうのって、事務所の人が交渉したりするんじゃないのか」
「ホント、世間知らずね。最後はそうするけど、内諾って言葉、知ってる?ネゴシエーションよ。事前に顔見知りに声かけてもらったほうが、物事は円滑に進むことくらい、小学生でもわかることでしょ」
 中学時代、相性が悪そうな人間とは、極力、関わらないようにしてきた。それが可能だったのは、おそらく金融資産という、心のよりどころがあったから。学校で冷淡な扱いを受けたときも、何の力もない子犬が吠えているだけだと、そう思えば、大抵のことは気にならなかった。
 それなのに――女優の言葉で、体が、頭が熱を帯びる。どうしても聞き流せない。
「あれ、もしかして怒った?はあ、この程度で。ホント、情けない」
 さらに追い討ちをかけてきた。相手が不快になったのなら、態度を改めるというのが、この世の自然律ではないのか。
 彼女に気取られないよう、下を向いて一度深呼吸した。
「別に怒ってない。ただあの人、海外でしか撮影しないと思うけど」
「どうして知ってるの?写真、見たことあるんだ」
「写真集を……見せてもらったことがある。君はどうして?」
「全部買ったわ。彼女みたいな、他人と違う感性の人に撮ってもらえたら、新しい自分が出せるんじゃないかと思った。ほんとはわたしも砂漠とか密林に行きたいけど、さすがにそこまでは無理だろうから。でも、今は日本にいるんだよね。猫と住んでるんでしょ?」
 彼女の部屋と、まだ見たことのないジョーイのイメージがぼんやり頭に浮かんだ。
「今は、確かに。でもいつまでいるかわからないけど」
「それでどうする?頼んでくれる、くれない?」
「試してみるけど、もしダメだったら?」
「これは取り引きよ。その条件はさっき言ったでしょ。口頭であっても有効なのよ」
 彼女が去り、置かれた状況を改めて認識し、心底嫌気が差した。
 高校に入学して以降、思い通りにならないことばかりだ。面倒事に次々と襲われて頭がおかしくなりそうだ。
「どこで道を間違ったんだ。部屋にただ座って、トレードさえしてれば良かったはずなのに」
 いっそ、すべてを投げ出すか。
 だが、その考えは、即座に打ち消される。終業式前に見た、教室での光景によって。
 芦川とは、この先一生会わないかもしれないが、同級生たちとは三年間一緒だ。それに何より、今は十島の立場を最優先に考えなくてはならない。彼女の負担を少しでも減らす責務が圭太にはあったのだ。
「嫌なことは先に済ませるしかないか」
 ほとんどやけっぱちで携帯を取り出し、会うことはできないかと、塩崎にメールを送信した。
 このまま大崎に行ければ楽だと、しばらく返事を待ったが、そう都合良くはいかなかった。