外交官の知り合いということで、ある程度、予想していたが、目的地は大崎駅近くの高層マンションだった。
 郵便受けで、依頼者の塩崎(しおざき)という名前を確認した詩乃は、背筋をぴんと伸ばし、オートロックの前で真っ白な顔を圭太に向けた。
「あの、英会話は全部、一切お任せしますから。そ、それが報酬の条件ですっ」
 学生時代、英語は壊滅的だったと言っていたが、どうやらそれは誇張ではなさそうだ。
 部屋番号を押すと、インターフォンから、けだるげな声が返ってきた。
「はい」
 詩乃は見たこともない早さで圭太の腕を取り、前に押し出しながら、耳元に顔を近づけた。
「さっ。早く答えてっ」
 今のは、Hiではなく、はい、だったような。
「あの、市ノ瀬です。依頼を受けて参りました」
「ああ、どうぞ」
 最後の音節が終わるより早く回線は切れ、同時にドアが開いた。
「さすが圭太さんね。でも私もちょっとだけ、今の会話わかった気がする」
 彼女は、真面目な口調でそう言った。
 十二階で降り、部屋のドアフォンを鳴らして間もなく、姿を見せたのは、派手な格好をした女性だった。
 おそらく三十代か。化粧のことは詳しくなかったが、きっと濃い部類に入るのだろう。肩が大きく開いたブルーのショートワンピース。
 圭太が普段接触しないタイプな上に、あまり歓迎されている気配がない。
 相変わらず緊張しているのか、頬を少し上気させて無言の詩乃を、塩崎はいぶかしげに見つめた。
「えー……と。こちらが市ノ瀬です。僕は――助手の長坂です」
 仕方なく名乗ると、不機嫌そうだった相手の表情がさらに歪む。続けて、堰を切ったように早口で不満を口にし始めた。
「助手って、そっちも料金に入ってるの?ジョーイの紹介だったから仕方なくお願いしたけど、いくら何でも高くない?こっちの足下を見てさ」
 視線の端で詩乃を見たが、彼女の剣幕にあまり驚いている様子がない。
 口を開いて、何か答えようとしているのがわかった。
「叔母さん、さっきからずっと日本語で会話してます」
 小声で伝えると、彼女ははっとした表情に変わり、慌てた様子でバックから名刺を取り出した。
「ご挨拶が遅れてすみません」
 依頼主が片手で受け取る様子を見て、マナー違反ではないだろうかと考えた直後にはっとした。
 名刺に肩書きが、キュウヤクシの漢字が書かれているのではないか。
 覗き見ようとした瞬間、塩崎はそれを無造作に胸のポケットに収めた。
 くっ。
 仕方ない。
 今のやり取りで、これまでにない情報が加わった。
 客が不快に、不信に思う程度に高い料金。さらに足下を見て、と言っていた。つまり、依頼せざるを得ない状況だ。弱い立場。
 病気か、法的なトラブル。あるいは何かの個人講師という可能性もあるか――。
 祖母が病室で娘のことを語っていたときを思い出した。
「苦労して一流の大学に行かせてやったんだよ。無事卒業して、地元じゃ知らない人間がいないような会社に入社できたっていうのに。たったの二年で結婚したんだ。それだけならいい。さっさと家庭に入ってしまって。あの子には私みたいな思いをさせたくなかったのにさ。親心をまったく理解してないんだよ」
 医者でも法律家でもない。FPか行政書士あたりなら、あとからでも資格を取ることは可能ではある。
 違う。それなら出張という謎が解けない。そもそも依頼が携帯メールだけというのもおかしな話だ。
 猛スピードで頭を回転させていると、いつの間にか、詩乃は玄関を入り、廊下の先にいた。
 慌ててあとを追う。
 玄関からわずかに見えていたリビングにたどり着くと、そこはかなりの広さだった。三十畳はあるかもしれない。
 廊下と反対側は一面が窓で、レースのカーテン越しに、大崎の再開発されたエリアが見渡せる。
 部屋の中央には黒い革製の応接セット。サイドボードやテレビ台も全体に黒っぽく、部屋は全体に硬い雰囲気だ。
 塩崎はリビングを通り抜け、そこから続く部屋のドアを開けると、体を詩乃に向けて立ち止まった。
 部屋に誰かいる?となるとやはり病人だろうか。
 他人の生活や考えに興味を持つことは無価値だと、いつの間にかそんな考えを持っていたのは、友達がいないことへの言い訳だったのだと思う。だが、今ばかりは、隣室を見たい衝動を抑えられない。もし、入室の権利のためのセリが始まったら、五十万までは出した気がする。
 詩乃の真後ろまで、急いで、しかし音を立てずに近づき、息を止めて中を覗き込んだ。
 そこは、リビングとは趣のまるで異なる、お姫様の寝室という雰囲気だった。家具は大きなベッドが一つとサイドテーブルだけ。花柄のベッドカバーの上に、ラメがきらきらしたクッションが五、六個と、ぬいぐるみが数個、無造作に置かれているが、肝心のベッドには誰もいない。
 頭がおかしくなりそうだった。
 予想をはるかに裏切って、謎が解けなかったからだ。
 さらに、恐れていたことが起きる。
 詩乃が上着を取った。
「日数と回数はどうされますか?」
 話が先に進み始めたではないか。
 圭太の焦燥感をよそに、依頼者は無表情に答えた。
「日に三回、とりあえずそうね、三日でいいわ。それより料金の内容、説明してよね」
 三回が三日?合計九回、何をするというのだ。
「まずは実費です。ここまでの交通費が……圭太さん、いくらでしたっけ?」
「え……と、一人分の片道が二千五百円です」
「それは仕方ないわ。他には?」
「宿泊費が三日分。ホテルは今から探しますので。こちらは一人分です」
「それもいいわ。それで?」
 女の目が強い光を放つと、叔母は一瞬目を伏せ、それから相手の目を見据えた。
「はい、処置のほうですが、一回、三千円とさせていただいております」
 詩乃にしては、強い口調で行われたその宣言のあと、塩崎は血が出るのではないかと思うくらい、唇をぎゅっと噛んだ。
「それさあ。何でそんなにするの?十五分もかからないんでしょ。それでその金額って、さすがに暴利だと思わないのっ?」
 頬を赤くし、そこまでまくし立てたところで、うしろにいた圭太と目が合い、きまりが悪そうに背中を向けた。
 そんな相手の攻撃的な言動にも、詩乃の表情は仏のように穏やかだ。
「私は他に取り柄がありません。このお仕事には誇りを持っておりますので、減額するつもりはありません。さっき、足下を見ているとおっしゃいましたけど――この金額は対価として不当でしょうか。私でしたら、どんなに高くても、財産をすべて売り払うことになっても払うと思います」
 まるで安っぽいテレビドラマを観ているようだった。
 あの叔母が、こんなに毅然とした態度を見せたことにも驚いたが、現場にいて、これだけ会話を聞いてなお、作業の内容が不明であることは、もはや感動の域に達していると言える。
 この謎解きを本にすれば、そこそこ売れるのではないか、などと妄想していたとき、塩崎の「もうっ」という言葉で、現実に引き戻された。
 納得している様子はなかったが、彼女は業務を依頼することに決めた。
 宿泊場所を探すため、一度部屋をあとにした詩乃は、マンションのエントランスあたりでほっと息をついた。
「ごめんなさい。驚いたでしょう?ああいうお客様もたまにいらっしゃるんです。でも、日本語が通じたので安心しました。圭太さんにわざわざ来てもらうこともなかったですね」
 そう言って笑顔を見せた。
 結局、何の手伝いもせず、謎が解かれることもないまま、帰宅することになった。
 山手線に乗り込んだあと、脱力してドアにもたれかかった。
「処置って何をするんですか」
 そんな風に、無理やりにでも話に割り込めば、答えは出ただろうが、この期に及んで、そんな安易な結末は認められない。
 とりあえず、宗教関連ではなさそうだなと思うのと同時に、十島の顔が頭に浮かび、憂鬱さが再燃した。