晴れて調理師免許を取得した正は、あこがれのボナペティで働き始めた。
 ハルとは卒業きり、連絡すら取っていない。ハルへ抱いた気持ちすら、押し込めた。ハルからの連絡もない。
 正は意固地になっていた。
「あ、先輩。そのソース、ちょっと味薄いです」
「は? 新米が偉そうに先輩に指図か?」
 調理場は、こと上下関係に厳しい。時代遅れともいえる。
 先輩の言うことは絶対だし、口答えなんて許されるはずもなかった。
「でも、」
「でもじゃない。オマエ、生意気なんだよ!」
 ひとりだけ、昼ご飯のテーブルを別にされた。まかないだって、先輩の半分ももらえない。
 むろん、まかないなんて作らせてもらえない。正は一番下っ端だ、朝は誰より早く来て掃除、夜は誰よりも遅くまで洗い物。
 日中はひたすら野菜の皮むき、皮むき。皮をむく。
 ジャガイモと玉ねぎ、にんじんの皮をむいて、乱切りにする。
 仔牛の骨をひたすら洗う。
 煮込んでいる鍋を付きっ切りで混ぜる。
 毎日、毎日。
「励んでるか」
 今日も今日で、夜遅くまで洗い物にいそしむ正に話しかけたのは、コック長の境だった。
「や、あの」
 疲れた体で振り返るも、うまく頭が回らない。こんなはずじゃなかった、もっと自分は、この絶対味覚を重宝されて、まかないを任されて、仲間に恵まれて認められて。
 そうやって『コック』になっていくのだと思っていた。
「言っとくが、うちはめったに新人をとらない」
「はい。俺が就職するときに散々聞かされました」
 つまり、正はこの先何年も、下っ端であり続けるということだ。
 それは、この生活が何年も続く可能性があることを示唆している。
「でも、俺はやめないです」
「わたしも、同じ道をたどってきた。料理の世界は旧態依然。わたしの時代からなにも変わってやしない」
 境もまた、こうして先輩にいびられ、つらい下積み時代を過ごしたのだろう。だったら、なおさら正は今が踏ん張り時だと思う。まだ就職してたった半年だ。
「ほかのコックたちにはよく言い聞かせておく。君も嫌がらせされたらわたしに言いなさい」
「いや。俺は大丈夫です。先輩たちも、新入りの俺が味付けに口出しすべきじゃありませんでした」
 しばしの逡巡の後、境が、
「明日、ソースを作ってみるか?」
「え?」
「オマエが作ったソースを客に出す。嫌ならいいが」
「やります!」
 まかないならまだしも、いきなりソースを任されると言われて、戸惑いがなかったわけではない。しかし、このチャンスをものにしない手はない。
「コック長、は。いや、コック長も、絶対味覚、あるんですよね」
「ああ」
「それで苦労したって、専門学校に教えに来てくださった時におっしゃってましたけど」
「そうだな。君もすぐにわかる」
 わかる? 聞き返す気力もなかった。今朝は四時に起きて、今は深夜二時。
 いい加減、まとまった睡眠をとりたいと体が悲鳴を上げている。
「明日は、頼んだぞ」
 言い残して、境が調理場を後にする。絶対味覚を持っていて、苦労したことなんて一度もない。
 境はなにに苦しんだのだろうか。それをどうやって克服したのだろうか。
「ねむ……」
 最後の一枚の皿を洗いあげて、正は調理場を後にした。

 翌日。コック長から直々の指名で、正は今日のコース料理のメイン、仔牛のローストのソースを任された。赤ワインのソースだった。
 これなら正にも自信がある。
 専門学校時代の実習、校外実習での実食。二回だけではあるが、正はこのソースを食べたことがある。ならば、その味を再現することはまるっきり不可能ではない。

「青野。コック長に取り入ってんじゃねえぞ?」
 その日の夜、正は先輩コックに呼び出された。営業が終わった深夜零時、正は人気のない廊下に、三人の先輩に取り囲まれていた。
「今日のソース。オマエ誰からレシピ盗んだ?」
「あれは、俺が自分で考えて」
「あ?」
 がん! っと壁を先輩が殴る。逃げ場はない。
「コック長になに言われてた? 次のチーフはオマエだって?」
「違います。違うんですって」
 ソース作りを任された正は、自分の知識と経験と、舌の感覚を総動員して、言われた通りの赤ワインのソースを作り上げた。言ってはなんだが、自信作だ。
 出来上がったソースを、コック長に味見してもらう。
「コック長、できました」
 時刻は午前十時半。あと三十分で昼の営業が始まる。
 コック長は自分の作業を中断し、正の作ったソースをスプーンですくって味見した。
「どうですか?」
 久しぶりだった、この高揚感は。やはり料理は楽しい。正は、自分が『世界で一番おいしい料理』に一歩近づけた気がして、うれしくて跳ね上がりたいほどだった。
「……わたしが指示したソースはこれだ。けれど同時に、これではない」
「え? でも味は完璧ですよ?」
「味は、な。青野、今日は洗い物は休んでウェイターの手伝い」
「え?」
「え、じゃない。オマエが作ったソースを食べる人の顔、見てこい」
 境の指示に、首を捻った。

 正のソースを添えた仔牛のローストは、お客さんにも上々の評判で、正は鼻高々だった。しかし、境の言葉がどうにも腑に落ちない。
 指示されたソースはこれに間違いない。なのに、これではない、とはどういうことなのだろうか。

「褒められたわけじゃなく。『これじゃない』って言われたんです」
 正は三人の先輩におびえながら、震える声で反論した。
「でも、前半は褒められてるだろ。調子に乗りやがって」
 正のコック帽を乱暴にとり、先輩コックが足で踏みつけにした。
「ちょ、やめてください」
「やめるのはオマエだ。この店辞めろ。コックなんてやめちまえ!」
 心無いことを言う。だが、めげない。これはうらをかえせば、正の才能に嫉妬しているだけなのだ。
 正はそう自分に言い聞かせて、ぐちゃぐちゃになったコック帽を拾い上げた。
「コック長がした苦労って、このことだったのかな」
 正にはなにが正解で、なにが間違いなのか、わからない。
 自分で見つけるほかに手立てはない。自分はコックになりたい。ここのコック長、境のような、たくさんの人を笑顔にできる、一流のコックに。

 正の下積みはそれからまた数か月続いた。しかし、その間、正はコック長から二度とソースを作らせてもらうことができなかった。
 自分のなにがいけなかったのだろう。素直に意見を求めたこともあった。しかし、境は首を横に振るだけで、なにも教えてはくれなかった。

 季節が春に差し掛かる。三月とはいえ、とても寒い一日だった。
 ドカン! と地面が突き上げられる音は、最初なにかが爆発したのかと思うほどに、店ごと縦に大きく揺れた。
「地震だ! ガス閉めろ!」
 コック長の指示で、すぐさま調理場の火は消された。
 三月十一日、時刻十四時四十六分。
 ちょうど正たちがまかないを食べていた時間だった。
 突如起きた縦揺れに、機敏に反応したのはコック長だけだった。
 ガタガタと揺れる店内で、正はテーブルの下でテーブルの足にしがみついた。実に長い時間揺れていたように思う。店内の食器は床に散乱し破片と化す。
 シャンデリアも大きく揺れて、天井に当たってパラパラと割れた。テーブルやレジががたた!と倒れた。
 なにもかもが、一変する。二分以上の大きな揺れは、正の店も、一般の家も、等しくすべてを狂わせた。
 ものが散乱し、午後の営業は不可能だろう。いや、外はどうなった? この揺れで倒壊した建物もあるかもしれない。
 感じたことのない、大きな大きな揺れだった。
 テレビをつける。どこも地震速報でもちきりだった。
 実家は大丈夫だろうか。携帯を取り出し電話をかける。回線が込み合ってつながらない。
 コック長が冷蔵庫を確認する。
「今日はもう帰っていい。家族の無事を確認しなさい。それから、冷蔵庫にある水と保存食は、社員で分け合って持ち帰るように」
「え、え?」
「青野。落ち着け。この中でオマエが一番若い。一番経験値が低い。一番気遣わなければならないのはわかってる。けど、青野。ここから一週間が勝負だ。この地震は、日本に大きな影響を与えるだろう」
 コック長の言うことはもっともだった。のちに三一一と呼ばれる大地震は、死者・行方不明者数二万人を超える大災害として知れ渡ることとなる。

 正たち見習いコックは、コック長の計らいで食料と水を等分に分けて、混乱する交通網の中、あるひとは歩いて帰り、あるひとは厨房に泊まった。
 正は幸いにも店の近くにアパートを借りていたため、その日のうちに帰宅することができた。
 今でも耳にこびりつく、皿やシャンデリアの割れる音。
『避難してください』
 テレビはどこも同じ言葉を繰り返す。
 家に帰って、ぐちゃぐちゃに散らかった自分の部屋で、しばし呆然とする。
 大地震なんて、大災害なんて、自分が経験するとは思わなかった。明日からどうなるのだろう。ライフラインが断たれたとコック長が言っていた。水も電気もガスも使えない。
 正は店からもらってきた食料と水を数える。
「持って三日……? いや、一週間は持たせなきゃ」
 ライフラインが断たれたとはいえ、一週間もすればすべて元通りになるだろうと、正はその日はなにも食べずに布団に入った。
 明日目が覚めて、すべてが夢だったら、なんてことを思った。

 翌朝起きて携帯を起動して、昨日の地震の情報を集めた。
 阿鼻叫喚、とはこのことだろうか。地獄絵図のような映像と写真。
 津波が来た、沿岸部に。
 この県も海に面してはいるが、正が住んでるこの場所は、海には程遠い。だが、他人事でもない。同じ県内の人間が、津波の被害にあっている。ここは北関東だ。
 こと、東北の津波は目を覆いたくなるような惨状だった。
「ひとが、流されてる……?」
 車も、家も。
 正はそのまま携帯で実家の母に電話する。昨日と同じでなかなかつながらない。
 何度も、何度も。
 小一時間格闘して、ようやく実家の家電につながった。
「もしもし、母さん?」
『正。そっちは無事だった?』
「こっちは物が散乱してるけど、おおむね無事。そっちは?」
 同じ県内でも、実家のほうは震度が一ほど大きかった。
 正の母は、「大丈夫」と力なく答えた。
『正、仕事は?』
「今日は休みって先輩からメール来てた。今日だけじゃなくて、しばらくは営業できないと思う」
 建物は損傷しなかったものの、店内のものは散乱しているし、テーブルも椅子も、落ちてきた電球もどうにかしなければならないだろう。
「母さんが無事ならよかったよ」
『正もね。あんまり話すと電池なくなっちゃうだろうから、もう切るね』
 ぶつ。つーつー。
 実家は無事だったようでほっと息をつく。
 しかし、この状態はいつまで続くのだろうか。
 コック長にもらった食料を見ながら、正は途方に暮れた。

 結局ライフラインが復旧したのは、震災から十日後のことだった。
 それまで正は、コック長にもらった食料と、何日かに一度少量だけ入荷されるコンビニの食糧だけが頼りだった。
 水は市がタンクに積んで配り歩いてくれたおかげで、脱水にならずに生き延びることができた。
 普段当たり前に使っていた水道も、トイレも、お風呂も、暖房も。なにもかもを失って、寒い春を孤独に過ごした。
 どこから情報を仕入れるのか、ガソリンがガソリンスタンドに入荷されると聞き及んでは、早朝四時には大行列ができる。
 コンビニの物資だってそうだ。入荷とともに皆が我先にと買い占めるから、結局情報に疎いものは食料さえ得られない。
 三月とはいえまだまだ肌寒く、暖房のない日中のアパートはより一層寒さがこたえた。
 冷蔵庫が使えないから、おのずと保存食ばかりに頼ることになる。火も使えないから冷えた食事ばかりだった。
 普段は大好きなパンに、飽きた。たまには温かいご飯が恋しくなるが、そうわがままも言ってられない。
 一度だけ、近くの小学校で炊き出しが行われたことがあった。正はそれを、ボナペティの先輩から聞いた。先輩はネットに明るく、そういう情報をどこからか聞いたのだ。
 普段は正に冷たい先輩たちだが、困った時は別だった。こういう事態なのだから、気に入らない後輩だろうが、仲の悪い先輩だろうが、関係ない。
「うわ、行列じゃん」
 正は炊き出しを頼りに小学校へ向かった。朝は八時、行列は百人はいるだろう。足りるだろうか。
「あ、先輩」
「青野。炊き出し、自衛隊のだからなくなることはないだろうって。最後尾三十分待ち」
「ありがとうございます」
 先に炊き出しの牛丼を食べていた先輩に挨拶をして、正は列に並ぶ。
 三月だというのに底冷えする日で、ダウンコートを着ているひともいるくらいだった。
「さむ」
 両手をポケットに突っ込みながら、空を見上げる。晴れているからまだいいものを、これで雨や、ましてや雪などふったら二次災害も起きるだろう。
「お待たせしました」
「ありがとうございます……わぁ」
 もくもくと辺りに白米と牛丼のにおいが立ち込めている。温かい食事は五日ぶりだ。コック長に言われて持ち帰った食材は、パンやハム、茹で野菜などのため、出来たての食事は本当に久しぶりだ。
 プラスチックのどんぶりに牛丼をよそってもらい、体育館に急ぐ。少しでも温かいうちに食べたくて、久しぶりに腹の虫が鳴いた。
 体育館に行く途中、小学校の敷地内の壁際に座って、待ちきれんと食べている人がたくさんいた。正もそうしたかったのだが、なにぶん場所がないし、寒い。
「ふぅ。ついた。さて」
 体育館も人でごったがえしていて、正はようよう場所を確保して、座る。牛丼はいまだにほかほかと湯気が立っており、正は箸を持ち、どんぶりに口をつけて豪快に牛丼をかきこんだ。
「うんま! あったか! うま!」
 隣にいた老夫婦に笑われた。しかし、美味いものは美味い。久々の温かな食事に涙が出そうだ。
 牛丼のタレが細胞ひとつひとつに染み渡るようだ。甘辛い味付けは濃すぎず薄すぎず丁度いい。
 なくしかけていた活力が湧いてくるのがわかった。
「うまい、うまいな……やっぱり炊き出しは大量調理だからうまみが出るのかな」
 こんな時まで分析してしまうのは、もう癖のようなものだ。
 あっという間に牛丼を平らげて、場所を譲るために忙しなく体育館を出る。
 炊き出しをしてくれた自衛隊に頭を下げてから、家路を歩く。
 ライフラインの復旧まであと何日かかるだろう。コンビニもスーパーも、物資が滞ったままだ。
 美味しい食事で腹が満たされて、多少は心が落ち着いた。しかし、まだまだ不安な日々は続くだろう。
 北関東でこれなのだから、東北はもっとひどいのだろう。今はもう、テレビを見るのさえ嫌になった。余震の恐怖も、目を覆いたくなるような惨劇も、なにも見る気にはなれない。
 そういえば、ハルは無事だろうか。携帯を開いて連絡先を読み込む。
 通話ボタンを押しかけて、やめた。
 一年近く連絡も取っていなかったくせに、いまさらだ。それに、震災で忙しい時に無駄に時間と携帯の電池を使わせるわけにもいかない。
 正は携帯をポケットにしまって、いまだ片付け切れていない家に帰った。

 十日ぶりにボナペティに赴くと、コック長の神妙な面持ち。
「コック長、大丈夫でしたか?」
 いまだ食料が手に入りにくい状況ではあるが、いったん店員全部を店に呼んだのは境だった。
「この震災の被害は大きすぎた」
 散らかったコックたちの食事部屋で、境がこうべを垂れている。
 嫌な汗が伝った。もしかすると、この災害は他人事ではなかったのかもしれない。
「わたしの妻の実家が東北で」
 境が声音を低くする。
「妻の両親が津波に、巻き込まれた。義父は見つかったが、義母は見つかっていない」
「……義父さんは無事だったんですか?」
 先輩コックがかすれた声で言った。
「いや。遺体で見つかった」
 境の目が潤んでいるように見えた。
 皆がしんと静まり返る。かける言葉が見つからない。
「あの、こういう時だからこそ、食事でみんなを励ませませんかね」
 正がカラカラののどから絞り出した。先輩たちが目を真ん丸にする。
「元気にするって言ったって、食材も手に入らないのになに言ってるんだよ」
「だからこそ、ですよ。今すぐにとはいかないけど、ライフラインが完全に復旧したら、誰でも気軽にフレンチを楽しめる、立食、そうだ、立食パーティーみたいなの、開きませんか」
 もちろん、そのためには材料を仕入れる費用が掛かる。手間も。
 ボランティアで料理は作れないが、少しでも参加費を設けて、できる範囲内でフレンチを食べてもらう。
 震災のさなかでも、ひとは絶対にものを食べる。極限状態であれば、どんなものでも。
 正直、正は日本がどれだけ恵まれた国だったのかを、まざまざと感じた。
 食べたいときにいつでもご飯が食べられる。コンビニに行けば弁当等がある。水だって、蛇口をひねれば飲める水が出てくる。海外ではこうはいかない。海外の水道水は、日本の様に飲めるものは少ない。
 水を買う、というのは世界では当たり前のことであるが、正はこの震災を経て、初めて『水を買う』経験をした。
 トイレだってそうだ。水が流せなければトイレは汚物で汚れて臭くなる。
 風呂に入らなければ体がかゆくなるし、電気やガスがなければ料理もできない。食材の保管だってままならない。
 食うや食わずの日々は、正の食への執着心をより一層芽生えさせた。
「人間って、食べなきゃ死んでしまうんですよ。でも、極論を言えば、食べられればなんでもいいはずなんです、生きる上では。それでも人類は、いかに食べ物をおいしく調理するかを研究してきた。食は人間の根源であり、一生の課題なんだと思います」
「なに講釈垂れて。オマエさ、料理の腕があるからって、ちょっと世間知らずなとこあるよな?」
 先輩コックの辛らつな言葉。もっとも過ぎて返す言葉もない。
「今さっき、コック長の義父さんのこと、聞いてたか? コック長の心中察しろよ」
「……わかってます。でも、この催しは、食べるひとのためだけじゃなくて、作る側のためでもあるんです」
 人間の三大欲求を満たせない今、そのうちのひとつでもいい、食欲を満たせたら、救われるひともいるのではないか。
「オマエ、この状況分かって言ってるのか? 薬が必要な人間に、薬情やお薬手帳の提示があれば処方箋なしで薬が処方された。それを取りに行くための車のガソリンがない。だったらどうする? 歩きか自転車で何時間もかけて薬をもらいに行く。そんな事態なんだよ。今は」
「今すぐにって話じゃないです」
「じゃあなんだよ、いつだ? 復旧したらとか、ライフラインが回復したらとか。そんなことどうでもいいんだよ。この災害で悲しむひとを救いたい? そんなのただの傲慢だ。コックにできる人助けなんてないんだよ。だってそうだろ、食は本能とか言ったって、こういう災害の時にわざわざフレンチを食べたがる人間なんていない」
 先輩の言うことはもっともだった。
 正は口をつぐむ。だからって、なにもしないよりはましじゃないか。
「青野。オマエが誰かのために調理師になったのは理解してる。わたしも同じ境遇だったから。でもな、今回の件で思い知ったよ。わたしが幸せにしたかったのが、誰なのか」
 デジャヴだ。誰のために作る。
「私はただ、みんなにおいしいって言ってほしいわけじゃなかったって気づいたんだよね」
 ハルの言葉が頭にこだまする。誰のために。誰のためって、みんなのため。レストランを訪れる、すべてのお客様。
「わたしはね、恥ずかしい話、家では料理は妻に頼りっきりだったんだ」
 境がぼそぼそと口を動かす。いつもとは違い、のっぺりとしたしゃべり方だった。
「でも、震災で。たった十日前のことだけど。十日前、妻の両親が行方不明になって、妻は食事も喉を通らなくなってしまって」
 正も先輩コックも、境の言葉に耳を傾ける。
「妻に、『食べたいものはないか?』って聞いたら、『今までそんなこと一度も言ってくれなかったくせに』って言われてしまったよ」
 力なく笑う境。
「だからね、私なりに台所に立ったんだ。私の家は、一足先にライフラインが復旧したから。でもね、わたしはフレンチしか作れない。家庭料理なんてからっきしで。炊飯器すら使い方がよくわかってなくて」
 境がうつむき、ぎゅっとこぶしを握った。
「だからね、冷蔵庫に入ってたジャガイモで、冷たいヴィシソワーズを作ったんだ」
「……奥さん、今は大丈夫なんですか?」
「いや。今もまだ立ち直れてない。落ち着いたらご遺体を見に行かなきゃならないし」
 境は正を見る。弱弱しい瞳だった。
「私が作ったヴィシソワーズを、妻が食べてくれたんだ。そしたら、『あなたの料理って、こんなにおいしいのね』って。わたしが作ったのは、スーパーで手に入る普通のジャガイモを、裏ごしもせずに作ったヴィシソワーズだったのに」
 境の言いたいことが、正にはよくわからなかった。境の腕は一流だ。ならばどんな材料だろうと、おいしい料理になって当たり前だ。
「青野。青野は誰に『おいしい』って言ってほしくて調理師になった?」
「俺、は。この店に来る、みんなにです」
「そうか。そうだな、青野。きっと青野は、その言葉の本当の意味を、まだ分かってない」
 むっと口を結ぶ。
 確かに正は半人前かもしれないが、誰かのために料理をする喜びは知っているつもりだった。
「わたしはね、この店をたたむことにしたんだ」
「え……?」
「やっぱり。コック長も色々ありましたもんね」
 境が頷く。しかし、正は納得いかなかった。なんで。どうして。たたんでどうするんだ。
 一緒についていきたいとさえ、思った。
「落ち着いたら妻の要望通り、海のない場所に引っ越して、そこで小さなレストランを開こうと思う」
「なんで……! なんで! 引っ越したって、地震から逃れられるわけじゃないのに!」
「わたしはみんなのために料理を作りたかったわけじゃなかった。妻がわたしのヴィシソワーズをおいしいと言ってくれて、気づいてしまったんだ」
 そんなの勝手だ。奥さんに料理をふるまいたいのなら、この場所で、この店ででもできるはずだ。
 それをわざわざ海のない地域に引っ越して、そこでレストランを開くなんて。
「コック長、俺も一緒に――」
「青野。わたしはもう、フレンチはやらない。妻とふたりで、気ままな小さな町レストランを開くつもりだから」
「なんで!」
 なんで、正が好きになった人間はみんな、そんな無責任なことを言い出すのだろう。
 正の頭の中はハルのことでいっぱいだった。
 ハルは今、どうしているだろう。調理師にならなくて正解だったな。この震災で、店をたたむレストランは増えるだろう。
 復興作業に何年もかかる。その間、正はまた別のレストランで修行しなおしだ。
 いや、そもそも新しく調理人を雇う余裕のあるレストランが果たしてどれだけ存在するか。
「自分勝手で済まない。退職金は後程振り込む」
 一か月ほどして、境は内陸の県へと引っ越した。