プロローグ

 フレンチはさながら宝石のようだと思う。もしくは絵画。
 大きな皿に料理を盛り付け、周りをソースで色付けする。その様が絵画のようでもあり、散りばめられた宝石でもある。味は至って重厚。ふんだんに使われるバターや生クリーム。味付けはやや濃い。これは、ワインと一緒に食べることを想定した味付けで、いわゆる『マリアージュ』されることでフレンチは完成する。
 対して、和食を表現するなら、『わびさび』という言葉以外に思いつかない。和食の代表とも言える懐石料理は、季節ごとに器を変える。その中に、空間を意識した盛りつけを施し、季節を表す木の芽や柚の皮をあしらう。
 和食は基本的に素材の味を生かす。色味も、薄口醤油を使って極力色を生かす調理に徹している。ちなみに、薄口醤油というと濃口醤油より塩分が薄いと勘違いされがちだが、実際は濃口醤油の方が塩分が低い。この場合の『薄口』の意味は、色合いが『薄口』なのである。
 中華といえば、ニンニクや香辛料が食欲をそそる料理だ。四千年の歴史を誇り、『医食同源』の言葉通り、食べることにさえ医を求める様は他の料理には無い考え方だ。中華料理は地方により四大中華料理にわかれ、寒さを凌ぐために発達したショウガやニンニクを使った肉料理に秀でた北京料理。夏の暑さ、冬の寒さをしのぐ知恵が詰まった香辛料をふんだんに使った料理である、麻婆豆腐やエビチリが有名な四川料理。海に面した海鮮料理が有名な上海料理。『食は広東にあり』と謳われる、高級食材であるフカヒレやツバメの巣などを使った広東料理。
 いわゆる町中華で出される中華は、日本人の舌に合わせた味付けがされている。豚の角煮を例に取れば、本格中華では八角を始めとした香辛料をふんだんに使い、味付けは日本のものとは違い甘味は少なめ、つまり食べた瞬間一番に感じるのは香辛料の香りだ。
 トルコ料理。あまり知られていないが、フレンチ、中華料理とトルコ料理の三つはいわゆる『世界三大料理』と呼ばれている。トルコ料理の特筆すべきは、アラブ、ギリシア、東ヨーロッパの食文化の融合だ。また、フレンチや中華料理と同じく、宮廷料理として発展したことも大きな要素だ。肉詰めピーマンやロールキャベツのルーツはトルコ料理だと言われており、日本でも馴染みのある料理である。
 そしてイタリア料理。イタリアは南北に長い地形のため、南と北では料理が異なる。南は海に面しているため、魚介料理やオリーブやトマトを使う料理が多い。ピザ、アクアパッツァ、オレキエッテ。パスタは乾燥パスタが主だ。対して北は、肉料理が発達した。また、寒い地方のため体を温める生クリームやバターなどを使った料理が多い。パスタは生麺だ。日本で有名になったイタリア料理は南部のもののため、北イタリアの料理はあまり日本人には知られていない。
 これら五つの料理は、いわゆる『世界五大料理』と呼ばれる。洋食は『味を楽しむ料理』、和食は『目で楽しむ料理』、中華は『香りを楽しむ料理』。
 ならば、この五つをかけあわせれば、世界で一番美味しい料理、が出来上がるのだろうか。






「青野正です。料理歴は十年。出身高校はN高校です。よろしくお願いします」
 春田学園、春田調理師専門学校。本日付で調理師の卵二十七名が入学を迎えた。
 出席番号一番の、青野正は少しだけマウントをとるかのように、料理歴を誇らしげに自己紹介する。身長は平均的な百七十センチ台。なににも染まっていない髪の毛は光に透けるとほのかに茶色く、短く切りそろえられて清潔感があった。
 次いで、正の後ろの席、出席番号二番の女子生徒の自己紹介に、クラス中がしんと静まり返るのが分かった。
「秋田ハルです。出身はR高校です。よろしくお願いいたします」真っ黒な髪は烏の濡れ羽色という表現がぴったりだった。髪の毛と同じく瞳は黒真珠のように輝いており、しかし自己紹介の緊張からか、顔がほのかに桜色にそまっている。
「マジかよ」「あのR高校?」すでに友人を作ったグループが、ひそひそと耳打ちしている。
 正も同じだった。
 R高校と言えばこの県内でもトップの進学校、誰もが知るその高校の進路と言えば、東大京大が排出されるくらいの超がつくほどの進学校で、正直に言えばなぜハルがこの田舎の辺鄙な調理師学校に進学したのか、疑問を持たないほうがおかしいくらいであった。
 正は内心で悔しく思う。こんなことなら、自分ももう少し自己紹介を工夫すべきだった。
 正にはひそかな自慢がある。絶対味覚だ。絶対舌感や神の舌、なんて呼ばれ方をすることもある。
 簡単に言えば、正には食べた料理の材料や調理方法が、すべてわかってしまうのだ。
 一度食べた料理の味は忘れたことはないし、再現だってできる。
 とはいえ、この特技を持っていて得したことなんてほとんどなかった。ここ、調理師専門学校に進学するまでは。
「秋田さんって、なんで調理師になりたいの?」
 自己紹介を終えて、一限目はしょっぱなから調理実習が組み込まれている。
 実習のために男女別にロッカーで着替えるその前、休み時間のほんの隙間に、ハルはふたりのクラスメイトに問いただされていた。
「料理のことを勉強したくて」
「それはわかるよ。けど、正直その頭ならこっちの学校じゃなくて隣にあるつじちょーのほうがよかったんじゃないの?」
 つじちょーというのは、春田調理師専門学校があるこの市から一駅隣、同じ市内にある辻本調理師専門学校のことである。
 通称つじちょーは春田調理師専門学校と違い、制服が用意されているし、カリキュラムだってしっかりしている。招くコックだって一流だったし、入学に際して学力試験がある。
 対してこの春田調理師専門学校は『はるちょー』と呼ばれる。はるちょーは入学時に作文を書かされるだけで、ほぼ誰でも入学できるような、緩い校風はこの市に住んでいれば誰でも知っていることだった。
 進学校から調理師を目指す理由は分かった。だとしても、せめてつじちょーに行ってくれたらよかったのに。というのが、ハルに詰め寄る生徒の言いたいところだろう。
 春田調理師専門学校は、つじちょーに比べて自由な校風だ。だから、こうやってハルのようなまじめな人間が同級生にいるだけで、自分たちに不利になるのだと、彼らはハルをけん制したいらしい。
「あほらし。別に調理師になるのに出身高校なんて関係ないじゃん」
「オマエは……青野、だっけ。だけどさ、秋田に合わせた授業を教師が考えたら、迷惑するのこっちだぞ?」
「ひとりだけ特別扱いもしないだろ。てか、料理は頭じゃないんだよ。腕だよ腕。秋田がどれだけ頭いいのか知らんけど、そんなに気にするなら料理の腕でけん制しなよ。あほらし」
 別に、正はハルの味方をしたいわけではなかったのだが、なんとなく気に入らなかったのでハルに助け舟を出しただけだ。
 ハルに突っかかった生徒ふたりが、顔を見合わせて教室を出ていく。
「ありがとう。えと、青野くん?」
「別に、オマエの為じゃないし」
「うん。わかってる」
 わかってるなら、実技でぎゃふんと言わせてみろ。そう言いかけて、やめた。
 どうせこの秋田ハルという人間は、勉強ばかりで料理の腕なんか磨かずに、なんとなく料理が好き、という理由で入学してきたに違いない。
 ほかの生徒だってそうだ。ぱっと見、社会人が半数、ストレートに進学してきたのが残り半分。そのうち、二年コースが五人。
 正とハルは、一年コースだ。
「さて、俺着替えに行くから。また絡まれたら今度は自分でなんとかしろよ」
「ありがとう。でも、心配無用だよ」
 不敵ともとれるハルの笑みに、正は口を結んで教室を後にした。

 真新しいコック服を洋服の上から着こんで、下は真っ白なズボンに真っ白な靴。
 白は汚れを目立たせやすくするための色だ。料理人の服はたいていがそういった工夫がなされている。
 コック帽もかぶって、調理室に二十七人の生徒がそろう。
「まずは、コック服の袖のまくり方ですね」
 調理実習を教えてくれるのは、この学校の副校長の春田明子先生だ。年齢は既に七十は超えているだろうか。
 化粧はせず、背筋がしゃんと伸びた副校長は、生徒たちから「明子先生」と呼ばれている。二年生がそう呼んでいたのを聞いたと、新一年生の誰かが言っていた。
 明子先生はまず、コック服の袖のまくり方を指導する。一度肘あたりから大きく折り上げてから、半分ほどを手首に向かって折り返す。
 前掛けエプロンは胴を一周させたら、紐の部分を折り返して固定する。
「実習は基本的に、出席番号順で班を振り分けます」
 げ、と正の顔がゆがんだ。ハルと同じ班だったからだ。
「今日は、皆さん専用に名前を入れた包丁を研いで、オムレツ用のフライパンのコーティングをクレンザーで洗い流します」
「え、それだけですか」
「はい、それだけですよ。えーと、高田くん。不満ですか?」
「不満じゃない、ですけど。料理は次回ですか?」
「いいえ、次回も包丁を研ぎます」
 ええ、とクラス中から不満の声が上がった。その中には、正もいる。
 しかし、ハルだけはそういった雰囲気は一切見せず、ただ黙って明子先生の説明に耳を傾けた。
「うちは基礎をみっちりやるよ。応用は社会に出てからでも身につくけれど、基礎はそうはいかないからね」
「でも、つじちょーに行った友達は、一日目から料理したって言ってましたよ」
 誰かが雑音に混じって愚痴った。明子先生が朗らかに笑った。
「それでも、包丁を研がなければ、食材が切れない。料理以前の問題ですよ」
 むっと、生徒が口を結んだ。
 こんなことなら、つじちょーにすればよかった、なんて声もちらほら聞こえた。
 明子先生はいまだに笑っている。毎年のことなのだろう、こうやってブーイングが起こるのは。
 ハルが包丁の入ったケースをじっと見ている。正は、ハルもハルで変わり者に違いないと思った。証拠にクラス中が明子先生にジト目を向けているというのに、ハルだけはそうじゃない。
「では、始めます」
 まずは砥石を水につけるところから。
 そのあと、砥石の下に濡れたぞうきんを置いて、包丁を研ぐ。
 しゃり、しゃり、と金属が削れる音が教室に響く。だけど、それだけだ。
 延々と、延々と。
 ひたすら言われた通りに、包丁を研ぐ。
 包丁は砥石に対して四十五度、上に押すときに力を込めて、手前に引くときは力を抜く。
 和包丁は片面だけだが、洋包丁・牛刀やペティナイフは両刃の為、少しだけ手間だった。
 一日目は、昼休みをはさんで、ずっと、ずっと包丁を研いだ。
「手が痛いよ」
「俺も」
 研いで、明子先生に確認してもらう。ダメ、と言われて、もう一度研ぐ。
 それを何回も繰り返す。何人も繰り返す。

 結局、一日目は包丁研ぎで終わって、二日目は大根の桂剥きをひたすらやらされた。
 その、二日目。二日目にしてほとんどの生徒が振り落とされた。
 桂剥きなんて、誰ひとりできない。分厚くむかれた大根は見るも無惨だ。
 正とハルを除いては。
 しゃき、しゃき、と菜切り包丁を上下に動かして、向こう側が透けるほど薄く大根がむかれていく。大根は体の真ん前に構え、包丁は大根の真ん中に当てる。そこから、右手と左手の親指の感覚を頼りに、包丁を上下にスライドさせながら包丁は左へ、大根は右へ送っていく。
 使う大根は青首でも根でもダメだ。丁度真ん中辺りの大根を十五センチほど切り取って、厚く皮を剥いて上下均等な円柱状に。
 基本に忠実に、ハルの桂剥きの長さは三十センチを超えたくらいだ。先にハルの大根が切れた。
「すげ。頭良くて包丁もうまいとか」
「でも見ろよ、青野まだ切れてない」
 周りには野次馬ができていたが、正の集中力はそれしきではきれない。結局、五十センチを超えたあたりで、正の大根がぶつりと切れた。
「どれどれ」
 明子先生がふたりの桂剥きを見に来る。
「ハルさんはまだ不安定さがありますね。厚さにバラツキがある。けど、初めてでこれなら、一ヶ月あればもっとうまくなりますよ」
「ありがとうございます!」
 ハルの顔が綻んだ。
 次は正の番だ。
「正さんのは……ほとんど言うことはないですね。あえて言うなら、ここからさらに薄さと長さを磨けば完璧ですね。ふたりは、そうですね。これをケンにしてみましょうか」
 ケン、というのは漢字では『剣』と書く。簡単に言うと刺身のつまだ。
 剣には縦剣と横剣がある。繊維に沿って切るのが縦剣、繊維を断ち切るのが横剣。
「縦にします? 横にします?」
 ハルの言葉に、正も明子先生の答えを待った。周りの生徒はハテナ顔だ。剣、の意味が汲み取れていない。
「では、縦にしましょう」
 桂剥きした大根を五センチ幅に切りそろえて重ねる。右側から菜切り包丁で細く、細く切り進める。
 トントン、トントン。
 クラス中がふたりに注目している。
「菜切り包丁は、手前から向こう側に押すように切ります。切り幅は左手の人差し指の第一関節で調整」
 ほんの一ミリにも満たない幅で、ケンが切り増えていく。
 先にハルが切り終えて、次いで正も切り終える。
「これを水にさらすとパリッとしたケンになります。今回は縦剣なので、真っ直ぐ上に立たせる盛り付けができますよ」
 おぉ、と外野から歓声が湧いた。
 正は得意げに鼻を鳴らし、ハルは恥ずかしそうに縮こまった。

 調理実習を終えて、正はまるでヒーローのような扱いだった。
「青野すげぇよ、どこかで習ったの?」
「いや。料理歴は十年だから、できて当然」
 しかし、ハルはどうなのだろうか。正は十年の料理歴があるからわかるが、ハルもまた、家で料理をして来たのだろうか。
 正は後ろの席のハルを振り返った。ハルもまた、女子生徒に囲まれてしどろもどろしていた。
「秋田。って、料理始めて何年? やっぱりずっと家で料理してきたの?」
 正の家は共働きで、いつからか正が家の食事を作るようになった。だからこその、この包丁の腕である。
 だから、ハルも同じような境遇だと思ったのだが、
「私は……十七の頃からだから、一年半くらいかな」
「……は?」
 一年半といったら、正はまだまだ料理に苦戦していた時期だ。正が料理を始めた年齢が幼かったとはいえ、正はあまり器用ではなかった。思い通りに包丁を扱えるようになったのは、中学に上がった頃だと記憶している。
「一年半で桂剥きできるんだ」
 女子生徒が嬉しそうに言った。
「青野もすげえけど、秋田最強じゃん。頭もいいし」
 面目が立たない。悔しい。自分はここに到達するまで十年かかったのに。
「でも、青野くんみたいに私の桂剥きは均等な厚さではできてなかったよ」
 そんな慰め、いらない。
「俺さ、絶対味覚あるんだよね」
 正がハルに対抗するように言った。
 一瞬だけ静まり返り、しかし周りに群がる生徒が正を褒めたたえる。
「え、絶対音感みたいなやつ?」
「そう。食べた料理の材料わかるよ」
「マジかよ! そんなん調理師になるために生まれてきた超エリートじゃん!」
 すごい、すごい、と周りが持て囃す。ハルは悔しがっているだろうか。正がハルを見ると、ハルもまた、正に尊敬の眼差しを向けていた。ざまあみろ。
 正の絶対味覚は、確かにすごい能力だ。しかし、料理の材料や調理方法が分かったところで、それを再現できるとは限らない。本人に調理の腕がなければ、似た料理すら作れないのが現実だ。
 現に、正には絶対味覚が備わっていたが、まったく同じ料理を作れるようになるまでに、五年はかかった。
 火加減、調味のタイミングなど、全く同じ料理を作るには、これらもまったく同じにする必要がある。
 絶対的な舌を持っていても、正には腕がなかった。なかったから、身につけた。
 いつも食べる母の料理は、毎回味が不安定で耐えがたかった。正は、美味しいと思える料理の材料が分かってしまうだけに、なぜ同じ分量で料理ができないのか、不思議でたまらなかった。
「秋田は? 絶対味覚とかあったりするの?」
 早々同じ特技を持つものなんかいるはずがない。
「私は無いかな。青野くんが羨ましい」
 ハルの控えめな言葉が、嫌味にしか聞こえない。
「じゃあ秋田さ」
 正が敵対心むき出しに、
「個人的に料理勝負しない? どこかの惣菜買ってきて、それ再現するやつ」
 どうせ乗ってこないと思っていた。しかし、存外ハルは負けず嫌いのようだ。
「いいよ。なんか青野くん、私が気に入らないみたいだし」
 ここで逃げたら、ずっと正はハルに突っかかるだろう。そんなの面倒だ。ハルの言葉にはそんな意味が見て取れた。
「負けても泣くなよ?」
 俄然、やる気がわいてくる。

 その日の放課後、特別に調理室の使用許可を得て、ふたりは近くのスーパーの惣菜を前に難しい顔をしている。
 公平を期すために、惣菜は別の生徒が買ってきた。
 肉じゃがだった。またベタなものを。
「それじゃ、始めるぞ」
「分かった」
 甘めの肉じゃがだった。味がよく染みている。
 が、これが煮物の難しいところだ。煮物は基本、冷める時に味が染み込む。つまり、出来上がり時点での味と、冷ました後ではまったく別物となってしまう。
 今回は、出来上がってから三十分後に試食をすると取り決めがされた。
 三十分あれば大体味も馴染む。しかし今日は、惣菜と同じ味の再現だ。
 じゃがいもの皮をむき大きめに切る。乱切りだ。人参も皮をむいて乱切りにして、玉ねぎは櫛形に。
 材料の切り方も味に重要な影響を及ぼす。しかし、出来上がりの肉じゃがと同じ大きさに切ってはダメだ。煮込む間に材料の大きさは多少変わる。特にじゃがいもは煮崩れるくらいに煮込まれていたから、気持ち大きめに切った。
 ここまでは、正もハルも同じ手際だった。
 ここからが、ふたりの違うところだ。
 ハルは材料を炒めずに、じゃがいも、人参、玉ねぎ、肉の順に材料を重ねて、最後に砂糖を振りかけるように重ねて、酒、みりんを加えて鍋にぴったりと蓋をして火にかけた。肉をまるで落し蓋にするかのような重ねかただった。
「マジか。なんだよ、あれ」
 呟きながら、正はじゃがいもを炒めている。
 この惣菜は、圧力鍋が使われている。正はすぐさまそれに気づき、頭を抱えた。圧力鍋を使うと調味料も煮込み時間も普通に煮込むのとは違ってくる。
 味付けはやや濃いめにする。冷まし時間を考慮してだ。
 じゃがいも、人参、玉ねぎを炒めたら、肉を炒める。酒、みりん、だし汁と砂糖を加えて落し蓋をして七分煮る。
 その間に、ハルは重ねて煮ていた具材を、鍋を振って上下を返す。そこからさらに、五分煮込む。
 料理の基本は『さしすせそ』。砂糖、塩、酢、せうゆ(しょうゆ)、味噌、の順に味付けをする。
 分子の関係だ。分子が小さいものから最初に入れて、分子が大きいものはあと。それから、香りを残したいものも最後に入れる。味噌汁を作る時、最後に味噌を入れるのもこの基本に則ったものだ。
 甘みのみの煮込みを終えたのはふたり同時くらいだった。
 最後にしょうゆを加えて、さらに煮込む。この時点でふたりともが煮汁の味見をした。
 ハルはみりんを大さじ一ほど付け足して、正はそのままの味付けで、火加減をやや強めの弱火にした。
 煮込む途中に鍋を振って上下を返す。
 煮上がったら蓋をして冷ます。
 ここまでで約一時間。クラスメイトのほとんどが、ふたりの勝負を見守っていた。
「できた」
「私も」
 あんな作り方は初めて見た。肉じゃがの作り方すらまともにできないのか、と正は内心でがっかりさえした。それくらい、ハルの肉じゃがの作り方は異端だった。
 判定するのは、無作為に選ばれたクラスメイトだ。
「じゃあ、どっちが惣菜に近いか、食べてみて」
 正とハルが、同じ器に肉じゃがを盛り付け、どちらがどちらの肉じゃがか分からないようにして、三人の生徒に器を渡す。
「見た目……同じだな」
「うん。においも」
 そもそも、絶対味覚がないクラスメイトに、判断なんてできるのだろうか。
 まずはじゃがいもを屠る。
「うまい。こっちは……あ、れ。同じじゃん。あれ?」
 惣菜、ハルの肉じゃが、正の肉じゃが。三つを行き来して何度も食べて、しかし三人が三人、首を傾げた。
「同じ、だな、全部」
「私もそう思う」
「俺も」
 示し合わせたかのように、クラスメイトが口を揃えた。
「んな馬鹿なことあるか!」
 業を煮やして、正がハルの肉じゃがを口に入れた。
 ぱく。ぱく、ぱくぱく。
 ほぼ同じだった。だが、まったく同じではない。正の肉じゃがとは僅かばかりの違いがあった。最初に炒めていない分、油が材料に馴染まずコクが浅い。しかし、だし汁を加えず落とし蓋もせず、蓋をぴったりして対流を起こして煮たからか、圧力鍋ほどは行かずとも、この短時間で火の通り具合と味の濃さは惣菜の肉じゃがそのものだった。
 ここまで寄せてくるなんて。なぜ、作り方は正の方が正しかったはず。
「秋田。なんでこの味にできたんだ?」
「青野くんは、自分の肉じゃがは食べないんだね。味見もしてない」
 ハルは正の肉じゃがを口に入れ、「ちょっと違うね」と笑った。
「秋田。オマエも絶対味覚が、ある……のか?」
 だとしたら、正がハルに勝てることなんて何一つない。
「ないよ」
 ハルは顔色一つ変えない。
「私は、色んなレシピを見て、書き出して、味の予測を立ててから、自分のレシピに落とし込んだだけ」
「なんで炒めなかった? 野菜を重ねて一番上に肉と砂糖を重ねた理由は?」
「うーん、じっくり甘味を下に行き渡らせたかったから、かな。あとは圧力鍋の再現として、煮汁を少なくしたかったから。砂糖を一番上にすれば、素材の汁気だけで煮ることができるでしょ?」
 ハルには絶対味覚はない。あったのなら、そんな作り方試すはずがない。正の作り方の方が正しい。圧力鍋で煮込んだものを再現するには、やはりオーソドックスな作り方が正解だ。
「試してみたかったんだよね、この作り方」
「いや、今は俺と勝負してるだろ。知らない作り方で思いもしない味になったらどうするつもりだったんだよ」
「大丈夫。その場合、修正するレシピも考えてあったし」
 理論で料理をする、とはこういうことなんだと、正は思った。
 正のそれが天性の才能、だとしたら、ハルの料理は理論の掛け合わせだ。いや、正の料理だって調理の理論は踏襲している。が、ハルのそれは、最初から最後まで理論なのだ。
 様々なレシピを見て、自分の中で味を組み立て、調味料を増減させる。料理中だって、途中で味見をして微調整する。
 正とは違う。なにもかもが。
「秋田、バカにして悪い。オマエの腕は確かだよ」
「ありがとう。私も、青野くんには敵わないって思ったよ」
 ふたりの間に友情が芽生えた瞬間だった。

***

 そもそも男女間に友情は成立しない。それが正の考えだった。それなのに、ハルと過ごす学生生活は、なににも代えがたい時間だった。
「さっきの実習さ。オムレツの。秋田フライパン全然振れてないのな」
「だって重いんだもん。そういう青野くんこそ、火加減少し強かったよね」
 オムレツは基礎にして一番難しい料理だ。
 卵の溶き方一つとっても、勉強になることが多かった。
 オムレツに使う卵は三個。ボウルに割り入れたら、菜箸を垂直に立てて、底に菜箸を当てたまま混ぜ合わせる。よくある、ボウルを斜めにして菜箸で底からかき混ぜるやり方ではない。やり方は人それぞれではあるのだろうが、明子先生はこうやって混ぜることを生徒に教えた。確かに、卵に空気が入ると泡になるし、底に菜箸をつけたまま混ぜるとよく白身のコシを切ることができた。
 フライパンは最初に、多めの油を入れて十分ほど油をなじませる。
 キッチンペーパーでフライパンと油をこすり合わせるようになじませてから、油を捨ててオムレツを焼く。
 火加減は終始強火。
 よく溶いた卵にひとつまみの塩を加えて、それを一気にフライパンに流し込む。じゅっと音がするのが理想だ。
 そして、ここからは時間との勝負だ。卵を外から内側に向かって手早く混ぜる。躊躇するいとまは一秒たりともない。
 半熟の一歩手前、まだ卵が柔いくらいで、フライパンを向こう側に傾けて、卵を向こう側に寄せていく。寄せたらすぐに右手でこぶしを作り、フライパンの柄の根元をトントンと叩く。すると向こう側に寄せた卵の生地が、くるくると回転するのだ。
 こう書くと簡単に見えるかもしれないが、フライパンの柄を叩く力加減が、これが本当に難しい。左右どちらかに力が偏れば、卵は回らないし、逆に強すぎれば、卵はフライパンのヘリを飛び越えてコンロに落ちる。
 くるくる、くるくる、と回して、外側が固まった状態で皿に移す。
 明子先生のオムレツは芸術品だ。外側はつまめるけれど、切ってみると中はとろりと溶け出す半熟で、それだけでとても美味しそうなのだ。
「秋田ってなんで料理始めたの?」
 最初の一か月は包丁研ぎか、フライパンを油になじませる作業が多かった。時折、桂剥きやオムレツの実習が入って、だけどクラスメイトは誰もかれもが辟易している。
 基礎はつまらない。しかしそのつまらない基礎すら、まともにこなせるのはこのクラスにはほぼいなかった。
 ハルは一瞬ためらって、
「料理を学びたくて」
「それは誰も同じだろ」
 しかし、確かに調理師専門学校では学びも多かった。例えば、まな板の前に立つ時は、利き手と同じ足――正の場合は右足だ――を半歩後ろに引く。すると体が右側に開くから、自ずと右手がまな板に垂直に開く。こうすることで、まな板を右から左まで目いっぱい使える。これが、まな板と足を平行に立つと、右手がまな板に対して斜めになる。これではまな板全体を使うには窮屈だ。
「じゃあ、青野くんはなんで調理師に?」
「俺? 俺はさ、世界で一番おいしい料理を作りたいんだよ。料理人ならだれもがそうだろ」
「そう、なのかな」
 少なくとも、ハルは違うことを正だって気づいている。だからこそ、聞いてみたかった。
「で、秋田はなんのためにこの学校に入学したの?」
「うーん。これは明子先生にしか言ってないから、ほかの子には黙っててね」
 言われなくとも、正にはこのクラスにハル以外の友人はいない。
「私、調理師の免許取ったら、栄養士の短大に行く予定なの」
「え、その腕で調理師にならないつもりなの?」
「や、調理師になるか栄養士になるかは決めてないんだけど」
 正は腹が立った。このクラスで正に並ぶことができるのは、ハルただひとりだ。正が認める腕を持つのは、正の隣にいる、この秋田ハルただひとりだというのに。
「それとね、私見栄張ったんだ」
「見栄?」
「本当は、R高校卒業してないの」
 初耳だった。なんでそんな嘘をついたのだろう。だが、あの嘘がなければ正がハルに張り合うことも、勝負を挑むこともなかっただろう。そうなれば、今こうして友達として昼休みを過ごすこともなかった。
「私、中退してるんだ」
「え……でも、専門学校って中退で入学できるんだっけ」
「高認って知ってる?」
 聞いたことがない。正は首を横に振った。
「高校卒業程度認定試験って言って。昔は大学入学資格検定、って言ったんだけど。それを受けると、高校を卒業と同等と認められて、専門学校や大学への入学資格が得られるの」
 難しい試験なんだろうな、と考えたが、そもそもR高校に入学しているだけで、ハルの頭の良さは証明されている。ハルは高認になんなく合格したんだろうなと思うと、正は余計に腹が立った。
 高認の合格率は四十~五十パーセント。
 大検時代の科目は、国語が必須、古典は選択。高認では国語総合として必須科目。
 地理歴史から世界史A・世界史Bのどちらか一科目必須。高認は世界史A・Bから必須科目。日本史A・日本史B・地理A・地理Bのうちどれか一科目選択必須。公民は現代社会・倫理・政治経済のうち、現代社会一科目ないし倫理と政治・経済の二科目のどれか必須。高認では日本史A・日本史B・地理A・地理Bのいずれか一科目必須。さらに公民として、現代社会・倫理・政治経済のなかから現代社会一科目または倫理、政治・経済の二科目のどちらか必須。
 数学は数学Ⅰが必須、数学Ⅱ・数学Aは選択。高認でも同じく数学Ⅰが必須。
 総合理科・物理ⅠA・物理ⅠB・化学ⅠA・化学ⅠB・生物ⅠA ・生物ⅠB・地学ⅠA・地学ⅠBのどれか2科目選択必須。高認では科学と人間生活・物理基礎・化学基礎・生物基礎・地学基礎の中から、「科学と人間生活」と「基礎」が付く科目一科目、または「基礎」が付く科目を三科目、いずれか必須。
 家庭のうち家庭は必須。高認では廃止された。
 保健体育の保健は選択。大検時代はこの科目が穴場だった。高認にはない。
 外国語、英語は選択。これは高認になって必須科目となった。
 工業の工業数理は選択。商業の簿記・会計も選択だ。どちらも高認からは省かれた。職業訓練に関する科目、情報関係基礎も選択。こちらも工業と同じく高認にはない。
 この中から十一ないし十二科目を選択した大検に対して、高認は八から十科目を受験する。
 一回で合格する必要はない。何回にも渡って受験するひともいる。試験は八月と十一月があり、それぞれ二日に渡って行われる。
 ハルは聞いた話によれば、一回で全ての科目に合格したらしい。
「なんで嘘ついたの?」
「だって、中退って言ったら、みんな私を避けるでしょ……友達ができないのだけは、嫌だった、んだよね」
 それに、とハルが続ける。
「実は私、つじちょーも受けてるんだ」
 こちらもまた初めて聞くことだった。
 入学して二か月たつが、正は春のことをこれっぽっちも知らないと思う。
「つじちょーって、入学試験あるじゃない。多分だけど……テストの点は申し分なかったはずなんだ。でも、その。面接で聞かれたの」
 なにを、とは聞かなくてもわかった。なぜ中退したのか。
「それで、私答えられなかったんだよね。責められてるみたいで」
 確かに、中退と聞くと身構えてしまうのは事実だった。正だって、最初にハルが高校を中退していると聞いていたら、先入観でハルへの態度が変わっていたに違いない。
 だが、今は違う。もう正とハルは友達で、同じ志を持つ同士で、だからこそ、正は偏見なしに、聞きたかった。
「どうして中退したの?」
 正の問いに、ハルは顔をうつ向かせた。
「学費を、稼ぐため」
「え?」
 拍子抜けした、というのが本音だった。学費を稼ぐ? なぜ。
「私の家ね、母子家庭なの。それで、奨学金借りるには二年制の専門学校に通う必要があるんだけど。それでも、奨学金って入学後に出る――五月に支給されるのね。それじゃ私、入学できないじゃない。だから、事前にまとまったお金を稼ぐには、中退するしかなくて」
 正は自分がどれだけ恵まれているのかを知った。ハルがそんな事情を抱えていたなんて、これっぽっちも知らなかった。
 だからこそ、ハルはこの学校で誰よりもまじめに勉学に励んでいる。
 とはいえ、この学校の入学者は元社会人も多いから、自分の学費を自分で払っている人間なんてそう珍しくはない。
 世間知らずなのは正のほうだ。
「でも、短大に行ったら奨学金は借りなきゃなんだよね。今もアルバイトして短大の入学金ためてはいるんだけど」
「そっか。そこまでして料理の道にこだわる理由って、なに?」
 ハルがアルバイトをしていることは知っていた。だけど、それが短大に進学したいからだなんて一言も聞いてない。
 正の問いかけに、ハルは言葉を濁した。
「いろいろあるんだよ、私にも」
「なんだよ、水臭い」
「今はまだ言いたくないかな。ごめんね」
「なんだよそれ、信用ないのか、俺って」
 自分が果てしなく子供に思えた。ハルはなにを思って調理師を目指すのだろう。なにを思って、短大への進学を目指すのだろうか。

***

 日曜日、正はスーパーに買い物に来ていた。今日の夕飯の買い出しだ。
 夕刻のスーパーはいろいろなものが値下げされていて、正はいつもこの時間にスーパーに来るのが日課だった。
「あれ、秋田?」
 そのスーパーで、見知った顔を見つける。ハルだった。
「あ、青野くん」
 スーパーのかごを片手に、ハルが正に手を振った。その時、ハルの陰に女の子が隠れるのが分かった。
「ナツ。大丈夫。このひとは私の学校のお友達」
「お姉ちゃんの?」
 どうやらハルの妹らしい。ひょこっと顔を出したハルの妹のナツに、正は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「あ、あ。青野くん。この子私の妹のナツ」
 青野が硬直したのを察して、ハルがすかさず言葉を出した。
「あ、初めまして。青野正です」
 頭を下げると、ナツもハルの陰に隠れながら、ちょこんと頭を下げた。
「青野先輩、っていうんですね。いつも姉から聞いてます」
「秋田から?」
「なんかすごい同級生がいるんだよって」
 にこりと笑うナツに、しかし正は違和感をぬぐえなかった。褒められたことよりも、ナツに釘付けで言葉が出ない。
「さ、ナツ、行こう」
「え、お姉ちゃん。話していかなくていいの?」
「いいよ、学校でいつも話してるんだもん」
 ナツの手を握り、ハルはそそくさとその場を後にした。その後姿を見て、正は眉をひそめた。
「ほっそ……」
 ハルも華奢な女の子ではあったが、ナツはその比にもならない。例えるなら、小枝の様にぽっきりと折れそうな体つきだった。

 翌日、休み明けに開口一番、正はハルに話題を振った。
「秋田。昨日はなんかごめんな。妹さんびっくりさせたみたいで」
「ううん。あの子人見知りなの」
 ハルの顔がややひきつる。その話題には触れないでほしい、そう書いてあるのは明らかだった。
「あのさ、秋田の妹って、ご飯食べてるの?」
「……」
 単刀直入に聞くと、ハルが観念したように息を吐いた。
「うちの妹、拒食症なの」
「え……?」
「ごめん。こういう話は困るよね」
「いや、いや……聞いたの俺のほうだし。もしかしてとは思ってたけど」
 あれだけ細ければ、誰だってその結論に至る。ナツはそれほど異様なやせ方をしていた。
「……私が調理師……とか、栄養士を目指すのって、ひとえにあの子のため、なんだよね」
 うつむかせた顔を上げて、ハルが力なく笑った。
「妹さんのため?」
「うん。妹……ナツね、納豆と味噌汁しか食べないの。一日に」
「え、それじゃ死ぬだろ」
「わかってる、わかってるんだよ。でも」
 拒食症ならば、しかるべき病院に入院して、一刻も早く治療するべきだ。それは誰もが思うところだが、ハルの家には事情があるようだ。
「うちが母子家庭なの、話したよね」
「うん」
「で、うちの親は世間体をものすごく気にするひとで。なおかつ、自分の子供に興味がない、っていうか」
 確かに、ハルが高校を中退してまで自分の学費を稼がなければならない事情を鑑みれば、すぐに考えが至ることだったというのに。
「ナツね、肉とか肉と一緒に料理したものは食べなくて。たまに私が作った料理なら食べてくれるの。だから、もっと私の料理が美味しくなったら、食べてくれるのかなって。期待して入学したんだけど」
 だが、そう簡単な話ではなかったようだ。
 あのナツという女の子は、今にも折れそうな手足で、頬はこけて、顔色も真っ青だった。
 どうにか手を打たなければ、命の危険すら感じられる。
「私、どうしたらいいか、わかん、なくて」
 ぼた、とハルの目から涙が落ちた。ぎょっとして、だけれど正はなんと声をかけたらいいのかわからない。
 この場合、安易な慰めは気休めにすらならないだろう。だからといって、なにも声をかけないのも友達としてふがいない。
「俺、も。なにかレシピ考えよう、か」
「え?」
「え?」
 涙にぬれた目で、ハルが正を見据える。その目には、一筋の希望が宿っているようにも見えた。
「いいの?」
「え、むしろそんなことで役に立てるならいくらでも」
「じゃあ、じゃあさ!」
 言葉に力がみなぎっている。ハルは前のめりに、
「今度うちに来て、なにか作ってほしいんだけど」
「え、ちょっと待って。え、秋田の家に?」
 突拍子もない提案に、正は気圧される。ハッとして、ハルが申し訳なさそうに身を縮こませた。
「ごめん、迷惑、だったよね」
「いや、そういうわけじゃ。いや、えっと」
 普通に考えて、女の子の家に男が遊びに行くのはどうなんだろうか。正の気にしすぎか、あるいは正は男として見られていないのだろうか。
 正が言葉に困っていると、ハルが不安そうに眉を下げた。
「や、行く。行くよ。なにが食べたい、とかある?」
「ほんとに? いいの?」
「いいもなにも。てか、俺が料理しても、妹さん気持ち悪くないのかな」
 家族以外の人間の手料理を受け付けない、というのはよくある話だ。
「むしろ逆。いつもね、妹に青野くんの話してたんだけど。昨日青野くんに会ったあとね、『青野先輩の料理食べてみたいな』って」
 とたん、正の肩に大きな荷がのしかかった気がした。
 なんで。
 拒食症の女の子が、自分の料理を食べたいと言っている。それはいいことなのだろうが、何分、正には拒食症の知識がない。
「とりあえず、食べられるものと食べられないもの、教えてもらえるかな」
「うん。わかった」
 かくして、正はハルの家で料理することとなったのだった。

 次の日曜日、正は両手に食材を買い込んで、ハルの家にお邪魔した。
「どうぞ」
「お邪魔します」
 こざっぱりした家だった。母親は仕事でいないらしく、正はかしこまりながらハルの家に上がる。
 通されたリビングにまず食材を広げて、
「インドカレーを作ろうと思う」
「インドカレー」
 ハルがふむ、と声を漏らす。
「お姉ちゃん、青野先輩来た?」
「ナツ。来たよ」
「こんにちは、お邪魔してます」
 正が頭を下げると、ナツがぴょこんと正の隣に歩いてきた。
「変な材料ですね」
 ナツが食材に興味を示す。
「うん。インドカレー作ろうと思って」
「インドカレー?」
 ナツが首をかしげる。
「うん。インドって宗教柄肉を食べない人も多い国で。だからこそ、肉を使わないカレーなんかもポピュラーなんだよね」
「へー、知らなかった。でもカレーかぁ」
 ナツの心配するところは正にもわかった。
「インドカレーって、日本のカレーとは全く別ものでさ」
 正はトマト缶を指さした。
「どちらかというと、トマトスープって感じで。日本のカレーみたいに、薄力粉とかバターとか、そういうのはほとんど使わないんだ」
「え、カレーなのに?」
「うん。日本で売ってるカレールウのカレーって、日本独自のもので。そもそもインドではカレーなんて食べ物はなくて。スパイスを使って煮込んだ料理はあるんだけど」
 正のうんちくを、ナツは楽しそうに聞き入っている。傍ら、ハルは泣きそうな顔でナツを見つめている。
「それで、今日のはココナツベースにしてトマトを少し。で、メインはダル。インドの豆ね。ひきわりの豆を使ったダルカレーにしようと思う」
「豆のカレーか。想像つかない!」
 嬉しそうにナツが声を上げた。
「ひきわり豆のカレー、ってことは、この豆、煮溶ける感じ?」
 ハルが好奇心旺盛に聞く。
「そう。よくわかったな。豆のカレーはいくつかあるんだけど、このムングダルは煮とろけてトロトロになってすごくうまい」
 へー、とナツが嬉しそうにはねた。
「じゃあ、キッチン借りるな」
「了解。私も手伝う」
 ハルが正を案内する。ナツは、ダイニングテーブルに座ってニコニコと上機嫌に鼻歌を歌っていた。
「まずは玉ねぎをみじん切りにして、スパイス計量」
 正はレシピを紙に書き起こしたメモを取り出して、ハルに渡す。
「スパイス頼める?」
「了解。私スパイスとか初めてだからワクワクするな」
 まずはクミン。これは『ザ・カレー』といったにおいである。次はコリアンダー。パクチーの実を乾燥させたものだ。
「ほろ苦いね」
「味見するのかよ」
「そりゃ、経験値積みたいもん」
 ハルが笑う。
 次にカルダモン。
「あ、いい香り。これ好き」
「えー、お姉ちゃん。私もそれ嗅ぎたい」
 かんきつを絞った時の様に、あたりにはじけるいい香りがした。
 次はオールスパイス。これは、シナモン・ナツメグ・クローブの三つを合わせたような香りがするスパイスだ。
 さらにターメリック。これはなじみがある。ウコンと呼ばれるもので、黄色い色付けに使われる。
 チリペッパー。辛味付け。
「青野くん。スパイスの計量終わったよ」
「サンキュ。じゃ、みじん切りの玉ねぎをあめ色まで炒めて」
「わかった」
 フッ素樹脂加工のフライパンに、少量の油。これは、ナツが油を嫌うためでもあるが、本来のレシピでもフッ素樹脂加工のフライパンは必須だ。
 正のレシピでは、玉ねぎをあめ色に炒めるのに、弱火ではなく強火で炒める。
 焦げる寸前に木べらで玉ねぎを返し、また焦げる前で玉ねぎを返す。これを繰り返すと、三十分もかからずに玉ねぎがあめ色になる。
「暑いね」
「だよな。あ、主食はナンと米、どっちがいい?」
 正はダイニングテーブルに座るナツに、バスマティライス、タイ米、薄力粉の三つを見せる。
「そのお米はなにか特別なお米なんですか?」
「ああ、タイ米は知ってると思うんだけど、バスマティライスは香り米っていって、アーモンドみたいないい香りがする。どっちも日本の米と違ってパラパラしてて、インドカレーと相性いいんだ」
「へえ……じゃあ、バス、ばす……」
「バスマティライス?」
「そう、それでお願いします!」
 弾んだ声でナツが答えた。
 正はキッチンに戻り、バスマティライスを計量する。
「それ、今から炊いて間に合うの?」
 玉ねぎを炒めながら、ハルが問う。
「炊いてもいいんだけど、今回はよりパラパラにしたいから、茹でる」
「茹でる?」
「うん。バスマティライスを使った料理――ビリヤニなんかは、茹でた後炊くんだよな」
 大きな鍋にお湯を沸かして、ホールカルダモン、ホールクローブ、油、ターメリックを入れて、バスマティライスを茹でる。
「青野くん。玉ねぎもういいかな」
「うん、いい色。次はおろしたニンニクとショウガを炒めて」
 よく炒めて青臭さがなくなったら、次はスパイスを一分以上丁寧に炒める。
 そのあと、トマト缶を大さじ二ほど加えて炒めたら、ココナッツミルクとムングダルを入れて、ムングダルが煮とろけるまでよく煮込む。
「その間にバスマティライスを茹でて」
 茹でたらざるにあげて、余熱で火を通す。
 十五分ほどで、カレーが出来上がる。
「わ、とろとろ」
「だろ。この豆。豆というよりジャガイモに近い感じで美味いんだよ」
 最後に、塩で味を調えたら、ダルカレーの出来上がりだ。
「ナツちゃん、ご飯どれくらい食べる?」
「あ、あ。自分でよそう!」
 ダイニングテーブルの椅子から立ち上がり、ナツは一口だけバスマティライスを皿に盛りつけた。
 これだけ、と思った正に対し、ハルはそうではなかったようだ。
「いいね、私もたくさん食べちゃお」
 ハルもナツに倣ってバスマティライスを皿に盛りつけた。
「青野くんは? どれくらい食べる?」
「俺も秋田と同じくらいで」
 盛り付けはハルに任せることにした。
「いただきます」
 三人そろったところで、手を合わせてカレーを屠る。
 ハルがナツの様子を固唾をのんで見守っている。
 まずは一口。
「あつ……あ、おいしい」
 アーモンドとカシューナッツを合わせたような香りがするバスマティライス。カレーはココナッツミルクの甘みと芳醇なスパイスの香り、ムングダルはじゃがいもの様な食感で、とろとろに溶けていて甘い。
「だろ? インドカレーって種類たくさんあって、どれもおいしいんだよ」
「へえ、ほかにもあるんですか?」
「うん。トマトベースのダルカレーもあるし、あとインドカレーではないんだけど、タイカレーも俺は好き」
 基本のインドカレーはトマトベースのスープ状だ。スパイスとニンニク、ショウガにトマト缶と牛乳で煮込む。具材は飴色玉ねぎと鶏もも肉。トマトの酸味とスパイスの香り、牛乳がそれらをまろやかにして、ニンニクとショウガが食欲をそそる。
「えー、食べてみたいな。ね、お姉ちゃん?」
「あ、うん。そうだね」
 ハルはどこか上の空だ。心なしか、目が潤んでいるようにも見える。
「てかさ。青野先輩はさ」
 ちびちびとカレーを食べながら、ナツはそろりと正の顔色を窺っている。まるで子供が母親を恐れるかのように、ナツはひとつ息を吸い込んだ。
「肉が食べられない、とか……面倒だと思いませんでした?」
 恐らくナツは、いつも誰かの顔色を窺っている。きっとナツは、自分が肉を食べないことを、誰よりも自分が疎ましく思っている。誰かになじられたのだろうか。
「え。考えもしなかった」
「え?」
「いや。だってさ。実際世界にはベジタリアンとかヴィーガンとか、肉を食べない人なんて珍しくもなんともないわけじゃん」
 ナツが脱力するのが分かった。椅子の背もたれに寄りかかる。背中には汗が滲んでいた。
「でも、私のは単なるわがままっていうか」
「肉を食べないのが?」
 心底不思議そうに正が首を捻った。
「ナツちゃんは気にしてるのかも知れないけど、その人がなにを食べてなにを避けるのかって、言ってしまえばその人の人生そのものだよ。だったらそれに、他人が口出しするのは野暮じゃない?」
「人生、ですか?」
 虚をつかれたように、ナツは驚きを隠せなかった。
「例えばだけど。俺は昆虫食だけは無理なんだけどさ。イナゴの佃煮なんかは、日本でも昔から食料として確立されていた訳じゃん。でも俺は、食べられない」
「げ。青野先輩。虫は誰だって食べられませんよ」
「そうでもないよ。もしも俺の食生活――食文化とも言えるかな。小さい頃から昆虫食に触れてきたら、俺もイナゴの佃煮を食べられたかも知れないし」
 ナツは納得いかないふうに腕を組んだ。この例えは分かりにくかったかもしれない。正は別の事例を持ち出すことにする。
「じゃあ納豆は? ナツちゃんは納豆が好き?」
「それは……好きです」
「でもさ、海外の人のほとんどは納豆が食べられない。糸を引く見た目も、あの味も。海外の人から見たら、納豆はただの腐った豆、なんだよ」
「……そっか……そうですよね」
 この例えはナツにも分かりやすかったようで、うん、と頷いてナツはまた、カレーを口に運ぶ。相変わらずひと口は小さいし、カレーの量も少ないが、ナツは美味しそうにカレーを咀嚼していた。
「ご馳走様でした。じゃあ、私二階で休んでくる。青野先輩、ごちそうさまでした」
「あ、うん。お粗末様です」
 ひらり、手を振って、ナツが食卓を後にした。
 どっと疲れて、正は椅子の背もたれに体を預けた。
「なんだよ、全然普通じゃん」
 正の言葉に、ハルは笑った。
「今日はちょっと、頑張ったんだよ」
「頑張った?」
「ナツ、普段あんなに食べないもん。よほど青野くんのカレーがおいしかったんだね」
 ハルが涙をぬぐうのが分かった。正はそれを見て見ぬふりして、
「物珍しいから食べただけだろ」
「いや、私だって、いろんなもの作ってあげてるよ。でも、なかなか興味すら持ってもらえないし。それに」
 それに? と正が繰り返すと、ハルはきょろきょろと周りを見渡して、声を小さくして、
「あの子。多分今頃、二階の部屋で腹筋とか背筋とか、とにかく運動してるはず」
「え、なんで?」
「太りたくないからだよ。あんなにやせてるけど、本人は全然そう思ってないの。ご飯食べるとね、太る、怖いって、いつもはご飯のあと私に泣きながら訴えるんだ。それで、外に走りに行ったり、筋トレしたり。だからね、太る暇さえないんだ、拒食症って」
 よくわからない、というのが本音だった。あんなに細いのに、あんなに不健康なのに。
 さっき食べたカレーだって、ご飯一口に、それにみあった量の、ほんのわずかなカレーだけだ。
「でも、久々にあんなに食べてくれて、私もほっとした。青野くんには迷惑かけたかもしれないけど、今日は来てくれてありがとう」
 ハルの気持ちがこれっぽっちも理解できない。できなくて当たり前だ。正は当事者じゃない。拒食症でもなければ、家族が拒食症なわけでもない。
 どこまでも他人事なのだと、正は自分の薄情さを恥じた。

***

 梅雨に入り、集団調理実習の準備が始まった。
 調理師専門学校では、ある程度国が定めたカリキュラムがある。その一つが集団調理実習だ。
 これとあとは、秋には校外実習に二週間いかなければならない。
 正はこの二大イベントを、心待ちにしていた。
「俺たちの班は、マグロを使った料理が課題だから、無難にマグロ丼でどうだろう」
「賛成。でも、普通のマグロ丼じゃつまらないよね」
 正の提案に、同じ班のハルが意見する。正の班は、正のほかにハルと、神尾、それから小野寺と上田、井上が一緒だ。六人で五十人分の食事を作る集団調理実習は、この専門学校があるビルの二階にある、食堂を模した実習室で行われる。
 この六人で、月曜から水曜日まで、日替わりで食堂の料理を提供する。
 六人を二人一組に分けて、各々が一つの献立を立てる。正は出席番号の都合でハルとペアになった。
「じゃあ、づけ丼にするのはどう?」
 ハルの提案だ。
「いいね。ただのづけ丼じゃなくて、すりごま入れたらどうだ? 栄養価も上がる」
「だね。栄養価で言えば、あとは付け合わせはほうれんそうのお浸しとかぼちゃの煮つけ、みそ汁があれば栄養価は満たせそうだよ」
 この集団調理実習では、栄養価計算も組み込まれている。
 本来なら、調理師の専門外であるのだが、明子先生があえてこの集団調理実習では、栄養価計算も含めて献立を作成するように課題を出している。
 むろん、栄養価だけでなく、原価も大事だ。
 給食の原価率は基本的に三割と言われている。ここの食堂の一食分の値段は四百円だから、原価は百二十円を超えてはならない。
「原価計算どうなった?」正の確認。
「うーん、二百円は切ったんだけど」ハルが答える。
「難しいな。マグロは削れないから、付け合わせ変える?」正が考える。
「でも、栄養価が振り出しに戻るよ」ハルが頭を抱える。
 正たちの班は、集団調理実習の一番最初の班である。そのため、前の班を参考にすることもできない。なにもかも手探りだった。
「じゃあ、付け合わせのほうれんそうのお浸しの上に乗せる鰹節を削って、ほうれんそうとかぼちゃの量を減らそう。それならぎりぎり栄養価もキープできるはず」
 栄養計算においてハル以上に頼りになる人間はいない。この班の誰もが思っていることだろう。
 ハルたちを横目に、同じ班の残り二組は、すでに行き詰まっているようだった。神尾や小野寺、上田に井上は、ハルと組める正をうらやましがった。そもそも、ハルだけでなく正にも実力が備わっていることは、すでにクラス中が知るところである。なぜよりによってスタートダッシュがこの二人なのか。憂鬱なクラスメイトなどつゆ知らず、ハルと正は献立作成に精を出す。
 ハルが栄養士の学校を目指していることは、正以外は誰も知らない。ほかの班員は、単にハルが頭の良さで栄養価計算をしているのだと思っているのだろうが、それは違う。
 ハルはそうならざるを得なかったのだ。ハルの妹は拒食症だ。だからハルは、必然、食材を買うときは真っ先に原材料とカロリーに目が行くし、自分が作る料理のカロリーを無意識に計算してしまう。
 それらは全部、ナツのためだ。ナツはカロリーがわからない料理には手を付けないのだと聞いた。だからハルは、ナツに作る料理は面倒でも一つ一つ材料を計量して、栄養価を計算してメモしたものを料理と一緒に出す。
 そうまでしても、ナツが料理に箸をつけるかは別の話だ。
「あ、原価収まった……ぽい?」
「うっし。栄養価は?」
「待ってね。……まあ、ちょっと足りないのもあるけど、おおむね満たしてる」
 やったー! と二人で万歳して、献立表を指定の箱に入れに行く。
「青野くん。実習楽しみだね」
「おう、一等賞とろうな」
 この調理実習は、一番最後に投票が行われる。そこで、どの班が、どのペアの料理が一番おいしかったかを決めるのだ。
 めでたく選ばれたペアは、一年の終わりに表彰される。
 クラスメイトは、どうせ正とハルのペアがその表彰に選ばれるのだと半ばあきらめているが、二人にはそんなことは関係ない。
 どんな状況だろうと、誰かのためにおいしい料理を作る。それが二人がこの学校に入学してきた理由なのだ。
 少なくとも、正はそう、思っていた。

***

 集団調理実習には、講師陣も食堂で生徒の献立を食べにくる。それで、毎日日替わりで先生が生徒の作った献立を評価していくのだ。
 正とハルの献立は初日も初日、集団調理実習の一番最初の班で、一番最初の献立だ。
 この日の実食の先生は栄養学の先生だった。
 この講師は外部から呼んだ講師で、近くの短大で栄養学と食品学を教えている。
 大学の教授なだけあって、教え方はうまい。が、授業内容を覚えているかと聞かれたら、正には危うかった。
 正は勉強が苦手だ。反して、ハルはこの講師の授業はわかりやすいと、この講師に特別目をかけられていた。
 今日の献立は、ハルと正の自信作だ。
 味付けもそうだが、一番気を使ったのは塩分量だ。
 マグロ丼となれば、普通はしょうゆを各々がかける。だが、それでは献立作成で塩分の算出ができない。そこですりごまを加えたづけ丼にすることで、塩分の量を把握することにしたのだ。
「お、青野。やってるな」
「おう、食べてって」
 厨房はてんやわんやだ。
 五十人分の食事を作るのは、そう簡単な話ではなかった。
 まず、調味料の計算の難しさを思い知らされる。
 普段の数人分の調味料を、そのまま五十倍すると、それがまあ、調味料が多すぎて、やむなく様子を見ながら調味料を再計算し、使用量を減らしたほどだ。
 そして衛生管理。とにかく、まめな消毒と使い終わった容器の洗浄が忙しい。
 洗い物をためると使える機材が減ってしまうため、いかにして作業を分担するかが試される。
 集団調理実習の厨房には、もちろん講師も指導、兼評価のために同席する。が、基本的に助言はしない。
 正とハルの献立は、おおむね問題はなかった。はずだった。
 かぼちゃの煮つけの煮汁が、思ったより多いことに気づいたのは、正ではなくハルだった。
「秋田さん、どうする?」
 かぼちゃ担当の小野寺が、ハルに一応の確認をする。正もその場に居合わせたが、ここで調味料を減らして、出来上がりの味が変わることを危惧した正と、瞬時に煮汁の量を減らし、なおかつ味付けが変わらないように計算しなおしたハルとでは、なるほど適性が違うのだと正は思った。
 ハルは根っからの栄養士気質だ。
 こういうところで、ハルの元来の頭の良さは発揮されると思う。正は即断できなかったことを、ハルは即断できる。
「でも、煮汁減らしたら味が」
「大丈夫。味見はした。これでいける」
 煮汁を減らして、小野寺は回転釜に材料を投入した。
 回転釜というのは、煮物などに使う大量調理用の釜で、蓋をして密閉した後、ハンドルを回して釜を回転させながら加熱することができる。
 それに、今日は使わないがスチコン――スチームコンベクションオーブンと呼ばれる、ここいらじゃ最先端の設備も備わっている。
 つじちょーほどではないにしろ、春田調理師専門学校には、最先端の設備が整う。
 全部明子先生の采配だ。
「そろそろ盛り付けの時間。あと、デザートも出してください!」
 調理場を仕切るハルに、正は言葉にならない悔しさを感じるのだった。

 今日の献立について、実食の先生から辛辣なコメント。
『ほうれんそうのお浸しとかぼちゃの煮物、それからづけ丼。一つ一つはおいしかったです。ですが献立全体として見たとき、どれも味付けが濃い料理だったので、全体のバランスを考えたらよりよくなると思います』
 正はもちろん、これにはハルもやや落ち込んだようだった。
「栄養価と原価ばかりで、食べ合わせを考えてなかったのは次の課題だと思いました」
 昼食が終わってある程度洗い物を片付けて、班員と実習担当の講師の先生を交えての反省会。
 ハルは自分の反省点を即座にとらえて、さらりと反省文をまとめ上げた。
 正はハルの言葉を受けて、無難に同じような反省点を述べた。どうも正は、集団調理実習には向いていないようだ。
「では、明日の班長は、明日の実習の下準備の指示を出してください」
 反省会を終えたら、もう次の献立の準備だ。
 基本的にデザートは前日に仕込んで、あと野菜も前日に切っておく。
 生ものは当日に届くから、前日にどれだけ下ごしらえできるかが、実習をスムーズに進めるポイントだった。
「でもさ、やっぱり秋田さんはすごいね」
 小野寺が言う。
「なんで?」
「だって、先生に褒められてたじゃん。今日の班長は応用力があってよかったって。あれって、かぼちゃの煮汁のことだよね」
 だけど、実習が終わったら煮汁を計算しなおして、原価も栄養価も計算しなおす必要がある。正直面倒だと正は思う。
 応用力は大事だが、ハルのあの決断のせいで、かぼちゃの煮物は正が理想とするものよりも若干味が薄くなった。
「私なんてまだまだだよ。煮汁のことだって、今日はたまたまうまくいっただけで、本当は献立作成の時点で気づけたらよかったんだけど」
 謙遜はよしてほしい。
 正は不機嫌に大根を切った。
「てかさ、青野もすげえよ。あの盛り付け」
 正は今日、マグロのづけ丼の盛り付けを担当した。
 正は和食の志望ではない。フレンチの道に進みたいと思っている。
 だからこそ、盛り付けには人一倍こだわりがある。
 ただのづけ丼じゃ味気ない。盛り付けは華やかに。ただでさえ、原価計算のせいでマグロの量を減らしたのだから、少ないマグロでも多く見えて、なおかつ華やかになるように、薔薇の花びらを模した盛り付けにしたのだ。
「別に。今日活躍したのほとんど秋田だろ」
「またまた。献立作成だって秋田さんひとりってわけじゃないんだからさ」
「……そりゃそうだけど」
 デザートに抹茶淡雪を提案したのは正だった。
 抹茶の寒天の上に、メレンゲを固めて乗せた和風のデザートだ。普通の淡雪は抹茶を入れないが、抹茶を入れることを提案したのも、淡雪を提案したのも正だった。
 料理は味だけじゃない。見た目の時点から始まっている。正の持論だ。
「抹茶淡雪、きれいだったしおいしかったなあ」
「だろ? 原価も低いし、あれはいろいろ生かせると思う」
 とはいえ、集団調理実習は一年コースではこの一回限りだ。二年コースの生徒は、また来年もあるらしいが。
「秋田。一年コースの実習が終わったら二年コースの集団調理実習、一緒に食いに行こうぜ」
「うん。私も誘おうと思ってたんだ」
 ハルがにこやかに答えた。

***

 はじめのころ、クラスメイトは正とハルと、どうかかわっていいのか様子をうかがっているようだった。
 それはそうだ、正がハルに、あんな勝負を持ち掛けて、なまじふたりともレベルの違いをほかに見せつけたのだから、関わりたくないと思うのは自然なことだろう。
「青野と秋田って、もっととっつきにくいやつかと思ってたけど、案外いいやつだよ」
 集団調理実習を終えて、同じ班だった小野寺や上田が、そんなことを友達と話していた。
 そんな風に見られていたとは。
 正は苦笑するも、別にいいかとも思う。
 現状、ハルという友人がいれば、学校生活は退屈しない。
「青野くん。相談なんだけど」
 ハルがかしこまった相談を持ち掛けるときは、たいていろくな話じゃない。
 正は少し身構えつつ、
「なんだよ」
「あのね。ナツが、青野くんと一緒に遊園地行きたいって……なんかごめん。なついてるみたいで」
「……ふーん」
 悪い気はしなかった。女の子になつかれるのは生まれて初めてだが、だが相手がナツということもあり、手放しには喜べなかった。
「なんで遊園地?」
「うん、友達が彼氏と遊園地行ってきたって、自慢話聞いてさ。それでむきになったみたいで」
 ナツは聞いた話、学校には通っていないのだそうだ。不登校というものらしい。
 正はそれもそうかと納得している。ナツは登校する体力すらないのだろう。
 今もナツは、一日に味噌汁一杯と納豆、よくてパン一枚しか食べていないらしい。
「でも、倒れられたら困るしな」
 正の本音が出る。
「だよね。それに、青野くんと二人きりだと、なにかあった時に申し訳ないじゃない。だから条件として、私と一緒に行くこと、体調が悪くなったらすぐに帰ること、は。約束したんだけど」
 でもねえ、とハルは渋い顔だ。
「今もナツちゃん、ご飯食べられてない感じ?」
「うん。カロリーゼロのゼリーとかは食べるんだけど。それ以外はこんにゃくとかところてんとか? あんまり進歩してない感じ」
「あー、そうか……夏だし熱中症もあるしなあ」
 季節は梅雨をすぎ、夏休みを目前に控えていた。
 だからこそ、ナツは正を誘いたいのだろう。夏休みなら、不登校のナツが平日に外出しようと、誰もなにも思わない。
「夏休みだから行きたいんだろうけど。せめて秋、とかじゃダメか?」
「私もそう言ったんだけど。本人がどうしても夏休みに行きたいって。あーもう、わがままだなあ」
 とは言いつつも、ハルの顔には期待がにじんでいた。
 やめてくれ。
 下手にかかわって、ナツの体調が悪化したら。そう思うと、正はナツの好意を素直に受け取ることができない。
「せめて、遊園地以外ならなあ。博物館とかさ。夏の遊園地は暑すぎる」
「うーん、博物館か」
「そう、確か県内にあったよな。県内って言ってもかなり遠くはあるんだけど」
 うーん、とふたりして腕を組む。
「まあ、あれだな。一日くらいなら俺も車借りられるかも、なんだけど」
「え」
「え?」
 ハルが素っ頓狂な声を漏らし、正もつられて突飛な声を漏らした。
「青野くんって、運転できるの?」
「いや、普通に高校卒業の冬休みに取ったけど」
「え。え? 普通そうなの?」
「いや。普通、かは知らんが。でも、今年の夏休みに取るって友達も多いし」
 そこでハタと気づいた。
 ハルの家庭は、やや普通ではない。ひとり親であることは珍しくないが、ハルの学費を出してくれなかったり、あんなにやせ細ったナツを病院に連れて行かなかったり。
「運転か。うん、その手があったか」
「え、なになに。怖い」
「いや、こっちの話」
 その晩、ハルはナツを説得した。その内容は正には黙っているが、ハルはナツに「青野くんの運転、見てみたくない?」と、ナツの興味を遊園地から正のほうへと向けたのだった。

***

 専門学校は七月いっぱいまで授業があった。二学期制で、七月は一学期の期末に当たる。期末の試験に正は必死で食らいついた。
 ハルが鬼コーチして正に勉強を教え込んだのだ。
「ほら、また間違ってる」
「だって、公衆衛生の定義って、これ調理師に必要?」
「必要でしょ。青野くん、フレンチの道に進むんでしょ?」
「そうだけど。それと公衆衛生って関係ある?」
 公衆衛生学、栄養学、調理理論、食品学、エトセトラ……。
 正の頭では、これらを一気に頭に詰め込むのは至難の業だった。
「将来的にレストラン開くなら必須。公衆衛生の定義とは」
 公衆衛生とは、組織的な地域社会の努力を通じて疾病を予防し、寿命を延伸し、身体的および精神的健康と、能率(efficiency)の増進を図る科学であり、技術である。
「わかんねー」
「はい、きゅうりの苦み成分は?」
「……きゅうりアルコール?」
「それはきゅりの香気成分。正解はククルビタシン。じゃあ、ショ糖、麦芽糖、乳糖、果糖、ブドウ糖を甘みの強い順に並べて」
 正解は、果糖、ショ糖、ブドウ糖、麦芽糖、乳糖。
「必須アミノ酸を答えよ」「バリン……ひすち……?」
「ヒントは『メスロバふとりヒイ(ヒイ)』」
「め……メチオニン、す……すれお……ヒスチジン……」
 メチオニン、スレオニン、ロイシン、バリン、フェニルアラニン、トリプトファン、リジン、ヒスチジン、イソロイシン。
 いずれも、人間の体内では合成できず、食物から摂取する必要がある。
「では、精白米の第一制限アミノ酸は?」
 第一制限アミノ酸とは、その食物に含まれるアミノ酸のうち、もっとも含有量の少ないアミノ酸のことだ。
「リジン?」
「正解」「あ、あってたんだ」「あてずっぽう?」
 九種の必須アミノ酸のうち、ひとつでもアミノ酸スコアが低いものがあれば、全体のアミノ酸はそのアミノ酸スコアの値となる。
 例えば、第一制限アミノ酸以外のアミノ酸スコアが一〇〇でも、一つでもアミノ酸スコアが低いもの――例として五〇とすると、その食品のアミノ酸スコアは五〇となる。
「糖尿病食の計算に使われる一単位はなんキロカロリー?」
「……五〇?」
「ぶー。答えは八〇」「八〇って中途半端じゃね?」
「でも、身の回りの食物って、八〇キロカロリーのものが多いんだって。卵一個とか、炊いたご飯五十グラム、ジャガイモ一個、油大さじ一」
「へー、なるほど。それは覚えられるかも」
 糖尿病食はこの一単位を基本として、一日十八~二十二単位で計算する。そこからさらに、炭水化物、たんぱく質、脂質のカロリーを割り当てる。
「PFC比率の理想値は?」
「PFC比率……?」
 先ほどの糖尿病食とつながっている。Pはたんぱく質、Fは脂質、Cは炭水化物を指している。
 総摂取カロリーをそれぞれ、P 十五パーセント(十三~二十パーセント):F 二十五パーセント(二十~三十パーセント):C 六十パーセント(五十~六十五パーセント)にすることが、望ましい割合とされている。
「それでは、炭水化物、脂質、たんぱく質のそれぞれの一グラム当たりのカロリーは?」
「それ本当に苦手なんだけど」
 炭水化物とたんぱく質は一グラム当たり四キロカロリー、脂質は九キロカロリー。ちなみにアルコールは七キロカロリーだ。
「O一五七の正式名称」「あ、それならわかる。腸管出血性大腸菌O一五七」「正解。これは有名だったもんね」
 ならば、難易度をあげる。
「手指の傷が原因で起こる食中毒と言えば?」
「手指の傷……えーと、なんだったか」
 黄色ブドウ球菌。この菌は、食物中で増殖するときに『エンテロトキシン』という毒素を排出する。そのため、この菌におかされた食品は、加熱して黄色ブドウ球菌が死んでも、毒素であるエンテロトキシンは消えないため、そもそも食中毒の対策として、菌を『付着させない』ことがかなめとなる。
「食肉を加熱するとき、中央の温度を何度以上で、何分以上の加熱で食中毒を防げるとされているか」
「えーと。七十五度で一分」
「やるね。やっぱり調理に関係すると青野くんは強くなるね。じゃあ、大さじ一、小さじ一、一カップはそれぞれなんミリリットル?」
「十五、五、二百」「さすが。じゃあ、米を炊く時の水加減は?」
「体積比一・二倍、重量比一・五倍」
 米一カップ(二百ミリリットル)なら水は二百四十、米一カップは約百六十グラムのため、重量比なら一・五倍の二百四十となる計算だ。ちなみに一カップと一合は容積が違う。一合は約百八十ミリリットルだ。
「大根の辛味成分は?」
「えーと、あれだよな。わさびと一緒、ってのは覚えてる」
「うん、イソチオシアネート」
 ううう、と正がうなる。
 ここまで、ハルは一切教科書もノートも開いていない。
「てかさ、秋田ほんとに勉強の鬼だよな。全部暗記してるんだろ?」
「そりゃ……好きなことは特別だよ」
 正は先ほどハルに出題された問題を頭の中で反芻する。しかし、半分以上は既に頭から抜け落ちていた。先が思いやられる。
「ほんと、調理師になったら忘れるのに、なんでこんなに覚えなきゃなんないんだよ。もういっそ、補講受けたほうがテストより楽……」
 ダメでしょ! とハルがいさめる。
「ほら、再試・補講になったら博物館行けないじゃない。覚えて」
「あーもう、青野にはわかんないんだよ!」
 ばん! と大げさにノートを閉じて、放課後の教室で正はごちた。
 そもそも、頭のつくりが違うのだ。どうせハルは、一度聞いた講義はすぐに覚えられるし、テストだって危なげなく満点をとれるのだろう。
「青野くん。私だって、努力してる」
「でも、言ってR高校だもん。頭が違う」
「……私さ、高校で零点とったこと、あるんだよね」
「え……?」
 神妙な面持ちのハルに、正は顔を上げた。
「高校の授業が、全然わからなくて。私は逃げたんだよ。専門学校に行くために、学費を稼ぐために中退した。って言ったら聞こえはいいけど。学費免除してくれる大学だってあったのに。私はね、妹のせいにして、進路を変えたんだよ」
 顔をうつむかせたハルの表情は、正からは見えない。夕日が逆光になっているからかもしれない。
「青野、悪い。そういう意味で言ったんじゃなくて」
「それに私だって、授業の復習、毎日してるんだよ。アルバイトの合間とか、寝る前とか。何度も何度も習った部分をノートに書き写して、暗記できるまで何回も書いてるの」
 そんなこと、知らなかった。知らなかったから、自分を恥じる。
 なにが、頭の出来が違う、だ。
 好きなことなのに、努力すらしない自分は、どの口で「世界で一番おいしい料理が作りたい」なんて言えるのだろうか。
 調理師になるには、二つの道がある。一つは正の様に、専門学校に通うこと。
 もう一つは、働きながら実務経験を二年積んで、学科試験を受けて合格すれば調理師免許を受け取ることができるのだ。
 正は前者を選んだ。後者では自分は試験に受からないと思ったからだ。
 甘い。
 本当に自分に厳しい人間ならば、専門学校なんて行かずに、高校を出てすぐに実務を積むだろう。専門学校に通う一年の時さえ惜しんで、自分が魅入られたレストランで修行を積むだろう。
 調理師免許がなくたって、調理場の仕事はできる。
 だが、あえて専門学校に通うのはなぜか。それは、専門学校に通えば試験なしに免許を授与されるから。多くの人間の目的はここだろう。
 だがきっと、ハルには違うのだ。ハルは真剣に、真摯に、調理と、料理と向き合っている。
 それが妹のためにせよ、この学校で誰よりも調理師になるべきなのは、ハルなのだと正は思った。
「ごめん。ちゃんと頑張るから、泣くなって」
「泣いてないし」
「泣いてんじゃん」
 こうやってふたりで勉強したり、調理実習で競ったり。
 食べたもののレシピを予想しあったり。
 知れば知るほど、ハルという人間が分からなくなっていくのはなぜだろう。

***

 夏休み目前、正は頭を抱えている。
 前期の期末試験に向けて、正はハルに勉強を教わっている。
 いつものように学校を使えればよかったのだが、あいにく土日は学校が開いていない。
 正とハルは、成り行きで正の部屋で勉強会を開くこととなった。
「私の家はちょっと……お母さんが夏季休暇で休みだし」
「いや、それなら勉強教えてくれなくてもいいよ」
「ダメだよ! このままじゃ赤点じゃない」
 たしかに、平日の勉強会だけでは足りていないのも事実だった。正は渋々ハルの提案を飲む。
「でも、うちも親がいる可能性はあるからな?」
「わかってるって。でも、そっかあ。友達の家に行くのって夢だったんだよね」
 そんなのんきな。思って、正はため息をついた。
「今、ため息ついたよね。そんなに嫌?」
「いや、嫌とかじゃなくて。なんか秋田って、変なところで子供っぽいよな」
 別に、友達なのだから、家にハルを呼んでもなんら支障はない。

 いざ日曜日、テスト週間の前日。正の家を訪れたのは、ハルだけではなかった。
「えーと、なんでナツちゃんも?」
「ごめん、行くって聞かなかった」
 それに、と続けて、ハルは右手で左手の腕をぎゅっと握った。「お母さんと二人きりにするのは」
「……そっか。仕方ないな。お茶菓子とか用意してないんだけど」
「お構いなく。ごめんなさい、青野先輩」
「いや、ナツちゃんが謝ることじゃないし。どうぞあがって」
 ハルとナツは正のマンションに上がり込んだ。生活感のある部屋だ。
 掃除は正はあまり得意ではない。だからか、物がところどころ積んであって、人間らしい部屋だとハルは思った。
「じゃあ、とりあえず俺の部屋ね」
「わー、青野先輩の」
「うん。向こうの一番奥。飲み物用意していくから先に行ってていいよ。……あまりじろじろ見るなよ?」
 はあい、とハルとナツの返事が重なった。絶対にこの二人はおとなしくしているはずがない。
 正はそそくさとキッチンへ歩く。用意していたのはコーラだったのだが、ナツが一緒なら緑茶がいいだろう。お茶菓子は持っていかないことにした。
「お待たせ。って、おい、なんでひとの机の引き出しあけてんの」
「や。ナツが」
「お姉ちゃんだって乗り気だったじゃん。卒アルあるかなって見てたの」
 悪びれもせずにナツが答えた。
「ないよ。そこじゃない」
「じゃあどこです?」ナツが身を乗り出した。
 正は緑茶をローテーブルに並べて、一番下の引き出しをあけた。
「見てなんになるの?」
「だって、高校時代の青野先輩、見てみたいですし」
 別に、今とそんなに変わりないと思うが。……いや、少し眉毛が細かったかもしれない。
 ナツは上機嫌に卒アルを開く。その隣で、
「さ、秋田は勉強な」
「え、私も卒アルみたい」
「だめ。でさ、この教科なんだけど」
 正はあらかじめ付箋を貼っておいたページをめくる。ナツが卒アルのページをめくる音が重なった。「あ、いた」
「どれどれ!?」
 ハルが身を乗り出す。「おい、集中しろよ」「これだけ見たら!」
 ハルはナツと頭をそろえて、卒アルに見入る。
「へえ、こんな感じか」
「なんだよ、『こんな感じか』って」
 あーもう、と正は教科書に夢中なふりをする。ハルとナツがふふ、と笑う。
「青野先輩って、昔からこんなんなんですね」
「だから、『こんな』ってどんなだよ」
「なんか、優しい。いや、お人よし?」
 ナツが二コリと笑って、緑茶に口をつけた。
「わ、この緑茶、甘い」
「だろ。俺ここの緑茶好き」
「うーん、でも緑茶って淹れるひとによって全然味が違ってくるよね」
 ハルが思案する。正は、
「そう。これは八十度に冷ました湯冷ましで淹れてるから甘い。お茶を淹れる温度は一般的に八十度が適温って言われるんだけど、それは本当なんだよな。沸騰したお湯を湯のみに注いでから急須にいれると丁度八十度なんだって。沸騰したお湯で淹れると、甘みは少なくなって、渋さ――苦みが強く出る」
「へえ、飲み比べしてみたい」
 ナツがまた一口お茶をすすった。
「いいよ。飲み終わったら次は飲み比べしようか」
「やった。お茶って奥が深いんですね」
「ああ、お茶は面白いよ。これが紅茶とかウーロン茶になるとまた淹れる温度が変わってくるし」
 ナツがニコニコと笑っている。ハルはほっとしたように息をつき、正の勉強をようやく始める。
「じゃあ、この前の復習からやろうか」
「おう、よろしく頼む」
「私は?」ナツが少し不服そうだ。
「ナツちゃんは……漫画用意しといたんだけど、読む?」
「え。漫画! 読む読む!」
 予想外に喜ばれて、正は目を真ん丸にするのだった。

 午後零時を回ったころ、遠くで鍵が開く音がした。
「げ。もしかして」
 正は立ち上がり、自室を出る。
『~~~~』
『~~~~』
 正が誰かと話している。そのまま自室に帰ってくるなり、
「悪い。母さん帰ってきた。うるさくなるかも」
「や。私たち、お邪魔してていいの?」
「それは大丈夫。母さんに話してあるから。問題は」
 わざわざ正の母親が帰ってきたことだ。正が友達を連れてくると聞き、一度は外出したのだが、いいお茶菓子を見つけたからいったん帰ってきたのだという。
「なんか、お母さんって感じですね」
「……? ナツちゃん?」
 正が首を傾けた。「いえ、なんでもないです」
 ナツの取り繕うような笑み。
 こんこん。
 部屋をノックする音。正が答える前にドアがひらいた。
「まあ、まあまあ、女の子二人? ひとりって聞いてたけど」
「お邪魔してます」
「あ、こんにちは……」
 ナツがハルの陰に隠れた。人見知りは治っていないらしい。
「あの、妹をひとりで置いてくるのは気が引けて……すみません」
 ハルが謝る。
「あ、いいのいいの。じゃあ、正の分はあとから持ってくるから、これ、ふたりに」
 正の母が出したのはコーラだった。
「あ、母さんそれは……!」
 本当なら、正はハルにコーラを出す予定だった。市販されているコーラより、だいぶ薄い色、茶色のコーラだ。
「え、ダメだった?」
「もういいから、出てけって」
「なんでよ。美味しいケーキ買ってきたの」
 正はハルに目配せする。ハルは首を横に振った。
「いや、ケーキは……いらない」
「いらないの? あ、もしかして洋菓子ダメだった?」
「そんなとこ」
 正はごみを掃き出すかのように、母親の背中を押して部屋から追い出した。
 ナツが嘆息する。
「ごめん、ナツちゃん。緊張したよね」
「いいえ。なんだか、なんだか母親って、あんな感じなんですね」
「あんな感じ?」
「軽口叩ける間柄」
 正が聞いた話、ハルの家の母親は子供に無関心で世間体を気にすると聞いている。
「……まあ、家庭によるよ、母親なんて」
 正の言葉に、ハルまでもが苦笑した。
「そういえば、コーラって言ってたけど。色が薄いね」
「あ。ああ。……これ、作ったんだ」
 え! とハルとナツの声が重なった。
「なんで出してくれなかったんです!」
 ナツがカップを手に取る。少しだけ考え込んで、コクリ、コーラに口をつけた。
「酸っぱい」
「あ、うん。レモン強めに作った」
「私も飲んでみていい?」
 ハルの言葉に頷く。ハルもまた、小さな口でカップに口をつけた。
「わ、香りがいいね。……シナモンに……なんだろう」
「クローブ、カルダモン、黒コショウのホール。唐辛子と、それにバニラビーンズも」
「ええ! コーラってバニラビーンズ入ってるんですね!」
 ナツの嬉々とした表情。
「ああ。あと、砂糖の半分はカラメルにして風味を出してる」
「なるほど。私も今度作ってみよう」
 ハルがノートの端に、コーラの味の感想を書きとめる。ハルはいつも、こうやって自分のレシピを作る。
「いいね、私もお姉ちゃんのコーラ楽しみにしてる」
「そう? 張り切っちゃおうかな」
 嬉しそうにハルが破顔した。
「てか青野先輩、知ってます? お姉ちゃんってなんでも作れちゃうんですよ」
 それは正にも心当たりがあった。入学してすぐ、料理勝負をしたことを思い出す。
「まあ、だろうなとは思うけど」
「です! だから、このコーラのレシピも再現しちゃうと思うんですけど、青野先輩的にはおっけーですか?」
 別に、自分のレシピをおいしいと思ってもらえて、再現したいとまで思われるのは光栄なことだ。……少し悔しい気もするが。
「てか。青野先輩って家でも料理するんですね」
 ナツがコクリとコーラを飲みながら言う。ハルもコーラを味わうように口に入れた。
「ああ。まあ……俺ん家は共働きだから、八歳の頃から食事は俺の担当」
「八歳!? その頃私なんて友達と遊んでばかりでしたよ」
 うん、まあ。と正が言葉を濁す。
「あれだな。俺はさ、絶対味覚があるからさ。ある日は母親のご飯が美味いのに、ある日はあまり……ってのが耐えられなかったっていうか」
 正の絶対味覚はいいことばかりではない。美味い料理と不味い料理をはっきり判別できるが故に、他者の料理が前回と少しでも違えば、それがダイレクトに舌に伝わる。正の中での理想の味がはっきりと存在するため、母親の料理の味付けが日によって変わることは耐えがたかった。
「そっか。青野くんも苦労してきたんだ」
「いや……まあ……小さい頃は絶対味覚のこと分からなかったから……やな子供だったよ。母さんの料理に不味いとか前の方がよかったとか。文句ばかりで」
「でも、青野先輩もわざとじゃないですし」
「そうだけど。まあ、そんな感じで自分で料理を始めたら、難しさもあったけど、なにより楽しくて。あと母さんが毎日ご飯作ってくれてた苦労もわかったし」
 正がはは、と照れ隠しに頬をかいた。
 ナツがなにかを思いついたように手を叩く。
「お姉ちゃん、今度青野先輩招いてなにか料理作ってあげたら? 今度はうちに来てもらってさ」
「ナツ? うちに招く訳にはいかないって分かってるでしょ」
 ハルは語気強めにナツをいさめた。ナツが唇を尖らせる。
「俺は興味あるけど」正が呟く。「でしょ!」ナツが身を乗り出した。
「夏休みのうちにさ。青野先輩をうちに招いてお姉ちゃんの料理を自慢したい」
「なんでナツが自慢するの」
「だって。だってさ、お姉ちゃんの料理だって負けてないもん!」
 ナツが恨めしそうに正を見た。どうやら、正がコーラを手作りしたことが悔しかったらしい。正は話題を逸らすため、そわりとナツから目を逸らした。
「てか、あれ?」
 正がナツの手元にある紙切れを指さした。どうにか誤魔化さねば。
「それ、今読んでる漫画のキャラ……の、イラスト?」
「わ、わ。ごめんなさい!」
 慌ててナツは紙切れを隠す。しかし、正にはばっちり見えていたため、
「隠すことないじゃん。ナツちゃんが描いたんでしょ? めちゃくちゃ上手い! 見せてよ」話題転換は成功したようだ。
「え。えー、恥ずかしいもん」
「ナツ、私にはいつも見せてくれるじゃない」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん。青野先輩に見せるのは恥ずかしい」
 そういうもんなのか、と正は食い下がることをやめることにした。
 しかし、ナツはそわそわと正を見ている。どうやら、褒められたことはまんざらでもないようだった。
「ナツ、見せてあげてもいいじゃない」
 ハルのダメ押し。「仕方ない、なあ」
 ナツが正に紙切れを渡した。
「え、うま! うまいな、これほんと漫画そのままじゃん!」
「でしょ? ナツってすごく絵がうまいの。いつも絵画コンクールで賞もらってて」
「へー! すごいな。これ本当に才能あるよ、ナツちゃん」
 ほめられ慣れてないのか、ナツがもじもじと手を膝の上でからませている。「本当に?」小さくつぶやいて、
「私、漫画家に……なりたいの」
 消え入りそうな声で言った。
「なれるよ! お世辞ではなく、本当に!」
 語気強めに正が身を乗り出した。ナツは驚き目を見開いて、だけれど嬉しそうに笑うのだった。
「うれしい、です」
 ナツと正のやり取りを、ハルはほほえましく見守っていた。

 テスト週間を終えた次の日曜日、結局正はハルの家に再びお邪魔していた。ナツの押しに負けたのだ。
「いらっしゃい、青野先輩」
「うん、お邪魔します」
 ハルたちの母親の夏休みは終わったらしく、正は恐る恐るハルの家に足を踏み入れた。
 瞬間、なんとも言えない懐かしいにおいに、一目散にキッチンへと向かう。
「わ、筑前煮」
「うわ、青野くん、キッチンには来ないでよ」
 今日は和食で統一するらしく、ダイニングテーブルにはぬか漬け、味噌汁、筑前煮、タラの焼き物に梅ソースが添えられている。
 きゅる、と正の腹が鳴き、ナツは無遠慮に笑った。
「ほら、お姉ちゃんの料理、すごいでしょ」
「む……確かにすごいけど」
 だけど、普通なのだ。ごく一般的な、模範的な和食。
「もう、青野先輩、早く食べましょ」
 なにに期待しているのか、ナツは正を席に座らせ、料理を促した。向かいにはナツとハルが座っている。
 まずは味噌汁を一口。
「落ち着く~。てか、……麹歩合高い味噌だな」
 ハルとナツが顔を見合せて笑った。
「タラの焼き物も食べてください」
「わかったよ」
 なんの変哲もないタラだ。そこに、素朴な色の梅肉ソース。
「酸っぱ! てか、しょっぱ! え、梅酸っぱいな!?」
 しかしこれは、生まれて初めて食べる味だった。
 梅干しといえば、市販されているものは塩抜きされて、調味液に漬けて甘くしたものが主流だ。なのにこの梅は、純粋な酸っぱさしかない。
 よもや。
「……梅干し、作った、とか?」
 思い当たるのはそれしかなかった。昔ながらの梅干しは、塩分が十八から二十パーセントだと聞いている。これくらいしないと保存がきかない。逆に言えば、本来の梅干しは、半永久的に保存が可能なのだ。
「正解。あと、味噌も手作りだよ」
「……は?」
「あと、ぬか漬けもお姉ちゃんのマイぬか床ですよ」
 情報が追いつかない。いくら料理好きな正だって、そこまで作ったことはない。
 今一度味噌汁を飲む。そのあとはぬか漬けをバリボリと食べた。
 うまい。染みる。うまい、こんなにも。
「青野先輩? おいしくなかったです?」
 タラ、筑前煮、ぬか漬け、味噌汁。繰り返し、繰り返し、無言で食べる。なにが普通だ。素朴だ。
 材料ひとつで、料理はこんなにも変わる。
 ハルはきっと、ナツのために味噌を、ぬか漬けを、梅干しを手作りしているのだろう。愛だ。
「うっっっっまい。これ全部。俺大好き」
「……! 大好きとか……青野くんって本当に料理のことになると素直だよね」
 ホカホカの白米をお代わりして、正はブツブツと料理を分析する。
「麹歩合は十五……」
 麹歩合というのは、味噌の材料である大豆を十としたときの麹の割合だ。普段売っている味噌は麹歩合十が普通口とされる。
 味噌を手作りする場合、カビとの戦いになる。どうしても、梅雨の時期になると表面がカビる。しかし、麹もカビの一種であるので、カビることは自然なことだ。味噌作りで表面がカビたら、周りを広めにカビを取り除けば問題はない。このカビは、麹歩合が高い方がカビにくいとされているため、初めての味噌作りなら、麹歩合は十以上が望ましい。
 一晩浸水した大豆(浸水時間を十二時間以上取るのがポイントだ)を柔らかく煮て、塩切りした麹(麹を解してよく塩と混ぜたもの)を混ぜ合わせる。一度団子状に丸めてから容器に叩きつけるようにして詰めていく。空気を抜くためだ。詰めたら平らにならす。最後に上から振り塩をして、冷暗所で十ヶ月。
「梅干しは……塩分十八、か……」
「正解。ソースにしてない梅干し食べてみる?」
「ぜひ!」
 ハルがキッチンの脇にある地下収納からカメを出し、梅干しを一粒取り出した。
 正は梅干しを一気に口に入れ、唇をきゅっとしぼませた。
「うー、うまい! けど、酸っぱいと塩っぱいが同時に来る!」
 昔は、畑仕事の休憩に、梅干しとお茶が出されたそうだ。確かにこれなら、塩分補給になって熱中症対策にもなる。
 最後にぬか漬け。これはもう、分析なんてできるはずがなかった。
「お手上げ。ぬか漬けってなに使ってるの?」
「うちはね。ぬかに自家製の陳皮(ミカンの皮を干したもの)、山椒の実、昆布、干ししいたけ、唐辛子かな」
「やー、ぬか漬けは絶対味覚でも無理だわ」
「やった! やったねお姉ちゃん!」
 ナツが嬉しそうにぬか漬けを口に運んだ。小さな口がぱりぱりとぬか漬けを咀嚼する。
 筑前煮だって、鶏肉の代わりに竹輪が入っていた。肉を食べないナツのためのレシピだ。確かに竹輪は魚から出来ているから、いい味が出る。
 料理はこんなにも自由だ。
「マジでうまいわ。秋田って料理の才能あるよなぁ」
 しみじみする正に、ハルはもじもじと手をからませた。
 三人で会話が弾み、ナツも筑前煮を一口、ぬか漬けは二切れ、味噌汁を一杯飲み終わったころ、不意に家のドアがひらいた。
「アンタたち……誰?」
 ハルにそっくりな女性だった。ナツには似ていない。恐らくハルたちの母親だということはすぐに分かった。
「朝からおかしいと思って早退してきたら……アンタたち、私に隠れてなに? 男?」
 ひゅっとハルの喉が鳴るのがわかった。ぎゅ、と拳を握りしめ、この嵐が去るのをひたすら祈っているように見えた。
 対して、ナツは違った。
「男って。なんでいつもそんな話になるの? 下世話なひと」
「は? アンタ母親に向かってなんて口の利き方」
「母親? なにが母親だよ、育児放棄してるくせに?」
 ぎり、っと母親が奥歯を噛んだ。そのままナツに手をあげん勢いだったため、正はその場に立ち上がり、ナツと母親の間にたった。
「すみません。俺がどうしても秋田……さん、の料理を食べたくて、お邪魔させていただきました」
「はっ。アンタ、あの子のなに?」
「友達、です」
 はっとまた、母親が鼻で笑った。
 ナツが猫のように全身を総毛立たせて、母親を威嚇している。
「ナツちゃん、秋田。いったん外。出よう」
 絞り出した声はかさかさで、正は情けなさで消えたくなった。

 ハルとナツを連れてハルたちの家から出ていく。しばらくは三人とも無言だった。
「なんか、ごめんなさい」
 謝ったのはナツだった。ナツはことさら母親と仲が悪いらしい。
「いや、そもそも俺が行かなければ、こんなことにはならなかったし」
「青野くんのせいじゃないよ」
 でも、と口を開いたが、そのあとが続かない。自分が帰ったあと、ハルとナツは大丈夫なのだろうか。母親はなぜ、あんなに怒っているのだろうか。
「うちの母親」
 ナツが『お母さん』ではなく『母親』と言ったことが、この親子の全てを物語っていた。
「男はみんな、お父さんと同じだと思ってるんだよ」
「こら、ナツ!」
 それ以降は、ハルに阻まれてなにも聞けなかった。
 正にはどうすることもできず、その日はそのままハル達と別れた。
 ハルの母親のことがあんなに気まずかったはずなのに、その日の正は、ハルが作った料理の味ばかりが頭と舌を支配していた。

***

 夏休みが始まる。
 赤点ぎりぎりで補講を回避した正は、待ち合わせのコンビニに車を走らせた。
「あ、おはよ」
 ハルが車の外から手を振るのが分かった。助手席の窓を開けて正も挨拶する。
「はよ」
「青野先輩、おはようございます」
 驚く。
 化粧っ気のないハルに対し、今日のナツは女の子らしい服にメイクまでして、どちらが姉なのかわからないくらいだった。
 車の鍵を開けると、ハルがうしろのドアを開けた。
「ナツ、先乗りな」
「えー、私助手席がいい」
「ダメだって。運転って集中力いるんだよ?」
 まるで正の運転を疑うような言い方に、
「いいよ。ナツちゃんは助手席に乗って。秋田は後ろで俺の運転よーく見てろよ」
「やった!」
 ナツがぴょんと跳ねて助手席のドアを開ける。
「失礼しまーす」
 助手席に入ってきたナツから、ふわりと甘い香りがした。
 正はフルフルと顔を横に振った。集中しなければ。
「秋田、シートベルトした?」
「先輩、その、『秋田』って呼び方、紛らわしいのでやめません?」
 助手席でシートベルトをしめながら、ナツが何の気なしに言った。
「え?」
「だって、私も『秋田』なんですもん。まあ、ナツちゃんって呼んでくれるからわかることはわかるんですけど。でも、私もつられて返事しそうになるっていうか」
 それもそうだ。だが、だからって、いまさらハルを名前で呼べと?
「え、いや。でも」
「ふたりは親友。なんでしょ? お姉ちゃん」
「いや、私に振る?」
「えーなに、名前で呼べない理由でもあるの?」
 ナツがにやにやとハルを見る。
「だって、名前で呼ばせるなんて申し訳ないじゃない」
 ハルが反論する。
 正は平静を装って、車を発進させることにした。
「発車させるからな?」
「えー、青野先輩、はぐらかさないでくださいよ」
「はぐらかすもなにも。秋田は秋田で、ナツちゃんはナツちゃん。それでよくない?」
「えー」
 ぶうん、と車が発車する。
 正は左右を確認して、コンビニの駐車場を後にした。

 車の運転は久しぶりだったが、危なげなく正の運転で博物館の駐車場へと到着する。その間、三人の間に会話はなかった。
「わ、博物館とか幼稚園ぶりかも」
 車を降りて、ナツが、「ん」と伸びをする。
「私も小学生ぶりかな」
 ナツの隣に降り立ったハルがもまた、両手を天に伸ばして伸びをした。
 最後に正が車を降りて、夏の日差しを手で仰いだ。
「いい天気だな」
「うん。遊園地日和だったのに」
「まだナツはそんなこと言ってるの」
「だってぇ」
 それほど遊園地に行きたかったらしい。
 正は歩き出しながら、
「じゃあ、涼しくなったらまた三人で遊園地行く?」
「え?」
 ナツがきょとん、と固まった。ハルもまた同じく。
「え、ふたりともどうかした? 早くいこうぜ」
「いや。いやさ、青野先輩って天然って言われません?」
「え? 天然って?」
 今度は正が足を止める。
 ナツは高らかに笑って走り出す。
「こら、ナツ! 走ったら危ない――」
「はいはい、お姉ちゃんは心配性だなあ」
 ふふ、と笑うナツが拒食症だと、ここにいる誰が気づくだろうか。
 おそらく意図的なのだろう、今日の服装は体形が隠れるものを選んでいる。
 元気に走り出すさまを見て、正は少しだけ心が軽くなった。
「元気そうでよかった」
 正は拒食症のことをわかっていない。わかったつもりでいた。
 動物は本来、空腹であっても動けるように本能が備わっている。例えば狩りに失敗したライオンが、空腹で動けなくなってしまったら、獲物を捕らえることができない。
 だから動物は、空腹のときほど活発に動けるものなのだ。
 この本能は人間にも残っている。拒食症の患者は時として、驚くほどアクティブに動き回る。
 それが空腹ゆえの本能だとしても、周りの人間も、本人でさえも、気づけることは稀なのだ。

 思春期やせ症。拒食症。正式名は摂食障害。しかし、摂食障害には過食型と拒食型が存在するため、拒食症、の方が世間に浸透している。
 多くは真面目な性格の人間がなりやすく、実生活でなんらかの挫折を味わった人間が、ダイエットで成功体験を得ることで、拒食症になるものが多い。さらに言えば、母子関係が関与するとの文献もあり、特に母親の愛情の過不足が原因とも言われる。ナツは恐らく母子関係が原因だ。
 ダイエットに成功する人間はごく少数だ。食欲は人間の三大欲求、だとすれば、その食を抑え込むダイエットとは、本能に逆らうこと、だからこそ、ほとんどの人間が挫折する。
 その、誰もが挫折するダイエットにおいて、成功体験を得てしまうとどうなるか。ダイエットに自分の存在意義を見出してしまうのだ。痩せている自分は有能だ、ダイエットに成功した自分は他より優れている。
 だからこそ、太れない。太ることになによりも恐怖を感じる。たった一口の白米でさえも、脂肪に、贅肉になるのではと死と同等の恐怖を抱く。
 体重が減ると、自身の精神年齢も減っていく。幼児退行というものだ。これは母の愛情の過不足に関係する問題で、しばしば拒食症では、『育て直し』の作業が必要になる。簡単に言えば、幼児期に満たされなかった母への愛情を、一から得直す作業である。
 しかし、ナツの母親はナツを見ていない。拒食症のことだって受け入れていないし、ナツやハルの父親のことだって乗り越えられていない。
 正は拒食症のことなんて、なにひとつ理解できていなかった。

 入館券を買って、三人で意気揚々と博物館に入館する。
 真夏の日差しは、駐車場から博物館までの数分だけで、正を汗だくにするには十分だった。
「はー、生き返る~」
 正がクーラーにきいた館内に声を漏らす。しかし、ナツはリュックの中から薄めのカーディガンを取り出して羽織った。
「ナツ、大丈夫そう?」
「大丈夫だって。お姉ちゃん心配しすぎ」
 この寒暖差はナツにとっては少々しんどいようだった。
 正はハルの視線を感じ、無言で首肯した。
「なあ、先に喫茶店よらない?」
「え?」
 ナツが拍子抜けしたように息を漏らした。
「ほら、この博物館ってさ、喫茶店のワッフルが美味いらしいんだよ。ガイド本情報だけど。どんなのか食べてさ、レシピ欲しい」
「レシピ欲しい?」
 ナツが首を傾げつつ、三人の足は喫茶店へ向かう。
 喫茶店への道すがら、ハルが先ほどの疑問に答えを出す。
「ナツには言ってなかったね。青野くんって絶対味覚を持ってるんだよ」
「絶対味覚? え? 食べたものの材料が全部わかっちゃうってやつ?」
「そう、それそれ。俺さ、いろんなところの名物食べるの趣味なんだよな」
 半分は本当で、半分は嘘だ。
 確かにいろいろな名物を食べることは好きだが、だからと言って、博物館そっちのけで喫茶店を目指したことなんて、今日以外にはない。
 ハルが申し訳なさそうに目で合図した。
「そっか。それじゃ仕方ないですね」
 ナツも納得したのか、喫茶店へ向かう足に迷いがなくなる。
 正はハルの無言の合図に頷いた。ナツを少し休ませよう、という内容のものだ。
 正はハルから直接言われたわけではないが、ハルの言いたいことはよく理解できた。
 たしかに、ナツはしんどそうだし、顔色も悪い。
 真夏だというのに汗ひとつかかない。正とハルは鼻の頭に汗をにじませているというのに。
 体重が生命維持ぎりぎりのナツにとって、汗をかくことすら体力を使うため、体がそれを拒否しているのだと正は思った。
 本当に、ナツを今日、博物館に連れてきてよかったのだろうか。
「早めに来て正解だったな」
 待ち時間もなく、すぐさまテーブル席に案内される。
 椅子に座ると、ナツがほっとしたように脱力するのが分かった。相当だるかったのだろう、背もたれに百パーセントの体重を預けているようにも見える。
「ナツちゃん、大丈夫そう?」
「やだな、青野先輩まで。心配性はお姉ちゃんだけで充分ですって」
 あーあつい、と汗ひとつかいていない顔を手で仰ぎ、ナツは備えてあったメニュー表に手を伸ばした。
「なになに。当店名物恐竜ワッフル? え、青野先輩、これ食べたかったんです?」
 にや、とからかうように笑うナツに、「悪いか?」と正がむきになる。
 別に、正はワッフルなんてどうでもよかった。ハルの目配せに応じてこの喫茶店に来ただけなのだから。
 しかし、ナツに余計な気を遣わせないためにも、ここはワッフルに興味があるふりを貫く。
「だってさ、ワッフルってシンプルな料理だけに、自慢のワッフルなんて言われたら、どんな材料使ってるか俄然気にならないか?」
 な? と正がハルに同調を求めると、ハルは疲れた様子で「だね」と答えた。
「お姉ちゃんこそ、疲れてない?」
「え? そんなことないって」
「……私ってさ、ナツって名前じゃん」
 唐突に、ナツが言う。ハルも正も首を傾げた。
「だからかな、夏に強いんだよね。ほら、汗もほとんどかいてない」
 強がりなのは明らかだった。ナツが汗をかかないのは、単に拒食症の副産物であるはずなのに、ナツはナツで、二人に迷惑をかけたくないらしい。
 ここはナツの話を肯定することにした。
「私はハルだから、夏には弱いな」
「俺は冬生まれだから、言わずもがな」
「え、青野先輩冬なんですか? 意外」
「意外か? じゃあ逆に、俺っていつ生まれに見える?」
 ハルが「春」と答えてナツが「夏」と答えた。
「なんだよそれ、偏見だ偏見。俺はれっきとした冬生まれだ」
 やいのやいのと一通り騒いで、正はワッフルを、ハルはパフェを、ナツはストレートティーを頼んだ。

「わ、ふわっふわだな、このワッフル」
「本当だ。一口ちょうだい」
 ハルが正のワッフルに興味を示し、さも当たり前にわけっこする。
 それを、ナツがじっと見ていた。
「ナツちゃんも食べる?」
「あ、私は……」
 一瞬のためらいだった。正はハッとしてハルに助けを求める。
 やってしまった。
 ナツは拒食症だ、こと、食べられない自分を誰よりもナツ自身が疎んでいる。
「ナツ、青野くんに悪気はなくて」
「食べる」
「え?」
 ハルが目を真ん丸にしている。
 ナツはテーブルに置かれたかごの中からフォークを取り出し、正のワッフルを一口ちぎると、カプリと口に放り入れた。
「甘い……!」
 幸せそうなナツを見て、ハルと正は呆けるしかなかった。
 たまにこういうことがあるから、ハルでさえもナツへの接し方に自信が持てない。
 ナツが甘いものを食べたのは、拒食症になって以来のことだった。
「ねえ、青野先輩。レシピわかったんです?」
「あ。ああ。薄力粉百にバターが二十。ベーキングパウダー三グラム、卵は一個。砂糖二十五に牛乳九十……」
「すごい。で、お姉ちゃん。ワッフル一個のカロリーは?」
「え。えーと、多分このサイズでその材料なら二百カロリー強だと思う」
「へえ、じゃあ私が食べた分だと二十キロカロリーくらいかな。てかさ、青野先輩とお姉ちゃんがいれば、どんな料理も丸裸じゃん!」
 心底嬉しそうに無邪気に笑うナツ。
 正はナツの笑顔を直視できなくて、ワッフルに夢中なふりをしてバクバクと食べ進める。
 ナツの隣でハルが眉をひそめていたのは、見えてないことにした。

 腹ごしらえをした一行は、本来の目的である博物館へと足を向けた。
 目玉は大きなクジラの標本だ。
「すごい、大きいね」
「うん。大きい」
「これ、人間も食べるのかな」
「間違えて食べることはあるらしいけど」
 ナツとハルが朗らかに話している。
 傍ら、正は先ほどのナツの表情が忘れられない。ナツはなにを思って拒食症になってしまったのだろうか。なぜ食べられないのだろうか。
 あんな風に笑えるのに、ナツは病気なのだ。この博物館でそれを知るのは正とハルの二人だけだけれど。
「青野先輩、楽しくなかったですか?」
 ナツの心配そうな声に、正はハッとする。
「いや。あの、そう。あのワッフルさ。再現しようかなって考え事してた」
「なにそれ! 青野先輩ってお姉ちゃんが言ってた通り、料理馬鹿なんですね」
「あっ、ナツ!」
 ハルが注意するも、正はハルにジト目を向けている。
「秋田。オマエ俺のことそういうふうに思ってたわけ?」
「や、や。違うの。違うんだって。こらナツ、笑ってないで謝りなさい」
「なんで私が謝るの」
「もう、もう、この子は!」
 本当に仲のいい姉妹なんだと思う。はたから見たら、なんの問題もない姉妹。

 博物館には、標本のほかにはく製や、鉱物の展示など、一日では回り切れないほどの催しがあった。
「ナツ、疲れてない?」
「平気平気。次あそこ行きたい」
 あそこ、と指さしたのは、とあるハンコ屋の前だった。
 どうやら撮った写真でハンコを作ってもらえるらしく、ナツは乗り気でそこに足を向けた。
「ねえ、三人までなら同時彫りオッケーだって」
「え、私やだよ」
「俺も一緒なの?」
 二人が渋るも、末っ子のナツには誰もかなわない。半ば強引にカメラの前まで連れてこられて、三人で肩を組んで写真を撮った。
「一時間後には出来上がってますよ」
 店番のおじさんが言った。「仲のいい兄弟ですね」
「いや、俺は友人で」
「私が彼女です」
「ナツちゃん!?」
「冗談ですって。そんなに嫌がることないのに」
 むむっと口をとがらせて、ナツは上機嫌に歩き出す。
「次は体験コーナー行きたいです」
「あの目がぐるぐる回るやつ?」
「私はパス。青野くんとふたりで行ってきて」
「えー三人じゃなきゃつまんないよ。お姉ちゃん、ね?」
 ハルはナツに甘いところがある。こうやって頼まれるとハルはどうしても断れないのだ。
 小さいころからずっと一緒だったかわいい妹。自分が守らなければ。自分がしっかりしなければ。
 優しい姉と、ちょっとお調子者の妹。だけどそこに、母親はいない。
「なあ、ナツちゃんってさ」
「はい?」
「……世界で一番おいしい料理、って、なんだと思う?」
 訊きたいことは山ほどあった。なんでご飯を食べられなくなったの、とか。お母さんのことどう思ってるの、とか。
 学校行けなくてつらくないの、とか。お姉ちゃんとは仲良くやってるの。とか。
 でも、どれも正なんかが口を出すべき問題ではなかった。ただひとつ、正が許される質問と言えば、この言葉以外に思いつかなかった。
「んー。そうですね。あ! 青野先輩が作ってくれたダルカレー。あれが世界で一番おいしかったです」
 そんなもの、と言いかけてやめた。
 泣きたくなった。
 この世界においしいものなんて山ほどある。さっき食べたワッフルだってそうだ。正が実習で作ったマグロ丼だってそうだ。
 正だけじゃない。誰かが作ってくれた料理、高級レストランのコース料理。
 これからたくさんの、たくさんのおいしい料理を、ナツだって食べられるはずだ。そういう未来が来るはずだ。
 いつまでもこのままのはずがない。ナツだって、いつかはきっと、普通にご飯を食べられる日が来るはずだ。
 その時はきっと、正の作ったダルカレーの味なんか忘れるくらい、おいしいものをたくさん食べて、たくさん幸せを感じて、たくさんの友達に囲まれて、充実した毎日を過ごすべきだ。
「青野先輩? 怖い顔してどうしました?」
「いや、なんでもない」
 自分で質問しておいて、正にはわからない。
 世界で一番おいしい料理ってなんだ。少なくとも、正が目指しているものは、あんな家庭料理じゃない。
 正はたくさんの人に、自分の料理を食べさせたい。専門学校を卒業したら、就職したいフレンチのレストランだって決めている。
 雇ってもらえるかはわからないけれど、正が思う世界で一番おいしい料理は、少なくともナツがおいしいと言ってくれた、あんなダルカレーなんかでは決してないない。