変性性脊髄症(Degenerative Myelopathy)は、人間で言うところの筋萎縮性側索硬化症(Amyotrophic lateral sclerosis)と似ている病気なのだという。
 痛みはなく、ゆっくりと進行する脊髄の病気だ。後ろ足の麻痺から症状が始まり、麻痺が進行していくと最終的に呼吸不全に陥り、死に至る。
 犬種を問わず、変性性脊髄症の原因は不明な点が多く、未だにはっきりした原因は解明されてはいないようだ。
 ……まー、ぜーんぶあの弁護士さんの受けおりなんだけどねー。
 あたしには、そーいう難しー事はわからない。わかるのは、二つだけだ。
 トートがもう、あまり長い間生きられないということ。
 そしてトートがキャリーケースから出てきて、後ろ足を畳の上に押し付けるように座っているのは自分の意志ではなく、病気のせいだということだけだ。
「では、後は皆様でお話になってください。私は、一階で待っておりますので」
 そう言って、弁護士さんは親族控え室から出ていく。彼があたしたちに話し合えと言ったのは、トートの事だ。
 ……トートの世話を、引き受けるか、引き受けないかー。
 部屋に残っているのは、あたしたち六人。そして話題の中心のトートが、つぶらな瞳であたしたちを見上げている。そのトートを囲み、あたしたち六人は畳に腰を下ろしていた。
「で、どうするんだ?」
 あたしたちの中でトートから一番離れた場所に座るよっしーが、不機嫌そうにそうつぶやいた。
「その犬の、トートの世話すんのは、平日の放課後だけって話だけど」
 よっしーの言葉に、しずーがすぐに反応する。
「……私は、嫌」
「ど、どうして? 静花ちゃん」
「怖い」
 しおしおの言葉にそう答えた後、しずーは震える両手を握りしめて、顔を伏せる。トートと最初に出会った時とは打って変わり、しずーはまるでトートのことを自分に『死』を宣告しに来た死神を見るような目で見つめていた。
 ……まー、しずーは仕方がないかー。
 彼女の『死』の向き合い方を、あたしはどうこう言うつもりはない。ただ、それで楽しいのかな? とは、少し思う。
 ……そう思うのは、しずーだけじゃないんだけどねー。
「わ、私は、引き受けてもいいと思うな!」
「僕も、しおりと同じ意見だよ」
 しおしおの意見に、ひさが賛同する。
 その二人に、よっしーは冷たく言い放った。
「俺はもう、こいつを保健所に連れてってやった方がいいと思ってる」
「ちょ、ちょっと義法くん! なんてこと言うのっ!」
「病気の事、さっきスマホで調べた。この病気、痛みもないままどんどん歩けなくなって、最後は自分で動くこともできなくなって、終わるんだ」
 よっしーは淡々と、しおしおに向かって言葉を紡ぐ。
「だったら、早く終わらせてやったほうが、こいつのためだろ」
「そ、そんな事ないよ! しおり、この子のお世話をすれば皆から認めてもらえるんだもんっ!」
「そもそも、これは先生が死んだ後も僕たちに残していってくれたものなんだよ? 先生が生きた証を、僕たちが引き継がなくてどうするのさ」
 しおしおとひさの言葉に、よっしーは嫌そうに顔を歪めて舌打ちをした。しずーは黙ったまま震え続け、たけも同じく口を開かない。たけの場合は、恐れなどではなく単にトートへの向き合い方に無関心なだけだろう。
 違う理由で寡黙な二人をよそに、よっしーとしおしお、ひさの噛み合わない会話が続いていく。
 ……やっぱ、みーんな楽しそーじゃないなー。
 あたしは、楽しいことを求めている。
 一分一秒、あたしが生きている限り、ずっと楽しいほうがいい。気持ちいことが続いたほうがいいに、決まっている。
 だってあたしは、必ず『死』を迎える。
 なら、辛いことや悲しいことより、楽しいことや気持ちいいことで、自分の人生を満たしていたい。
 楽しくないと、つまらない。
 だからあたしは、じゃあさ、と口を開いた。
「多数決で、決めよーよ。昔やってたみたいにさー」
 それは昔、あたしたちが小学生三年生から使っている、取り決めだ。
 意見が割れたら、多数決。その決定に、皆従う。それが、あたしたちのルールだった。
 投票権を持つあたしたちは六人いる。偶数だが、この多数決で意見が決まらなかったことは、かつて一度もない。
 あたしの言葉によっしーは舌打ちをしたが、しおしおはすぐに手を上げた。
「わ、私はトートのお世話をするの、賛成っ!」
「僕も、賛成に一票だ」
 ひさも右手を、まっすぐ伸ばして自分の意見を口にした。
「……私は、反対」
 一方しずーは、両手で自分の震える体を抱いた。
「『死』を、『死』が近いものを、私に近づけないで……」
「……同じだろ。『生』も、『死』も」
 しずーの反応に、たけはぶっきらぼうにそう言った。
「……なら、どれを選んでも同じだ」
「相変わらず、剛士は保留かよ」
 そう言ったよっしーの方を、たけが一瞥する。
「……保留じゃない。どちらでもいいと言ったんだ」
「どちらか選ばず結論を出さないんだから、保留じゃねぇかよ」
 よっしーは舌打ちするが、たけが毎回答えを出さないため、六人いるあたしたちの多数決は必ず何かしらの結論が出てもいるという事実もある。
 あたしは眼鏡を押し上げるよっしーに向かって、問いかけた。
「それでー? よっしーはどっちなの?」
「当然、俺は反対だ」
 あたしの言葉に、憮然としながらよっしーは腕を組んでそう口にする。
「と、言うことは――」
 そう言ってあたしは、現在の投票結果を頭の中に思い浮かべた。
 賛成:しおしお、ひさ  計二票
 反対:しずー、よっしー 計二票
 保留:たけ       計一票
 つまり――
「あー、あたしの投票で決まるのかー」
 それは、ちょっと面白い。だって、あたしが楽しいと思える事に、皆が付き合ってくれるからだ。
「で、どうするんだ?」
 弁護士さんが出ていった時と同じセリフを、よっしーが再度口にした。
 だからあたしは、小さく頷いてこう言った。
「あたしは賛成かなー」
 これで、賛成三、反対二、保留一。
 多数決の結果、あたしたちはトートの面倒を見ることに決まった。
 しおしおは歓声を上げ、ひさは嬉しそうに笑う。たけは相変わらず、余計なことは口にしない。
「お前は本当に、何でそうも考えなしなんだよ……」
 恨めしげにこちらを睨むよっしーに向かって、あたしは小さく肩をすくめた。
「だってー、そっちの方がなーんか楽しそーだったしー」
「……私、無理。一人でこの『死』と、犬と一緒に居なきゃいけないなんて、絶対無理!」
 しずーがそう言って、悲鳴を上げる。そのためあたしたちは、一日ごとに二人一組の持ち回りでトートの世話をする事に決めた。
 その間、渦中のトートはというと、暴れることも吠えることも、まったくなかった。
 もう感覚の無くなっている後ろ足を畳に押し付けたまま、トートはあたしたちの事をただただ黙って、楽しそうに見つめていた。