名前は遠野侑希(とおのゆうき)
 中学二年生の夏前に、リンパ腺の病気になり入院治療していた。

 今は「寛解」という状態だが経過は良好。予後も心配ないと言われて去年の秋に退院できたそうだ。
 ただ基礎体力がなかなか回復せず、体調を崩しやすいらしい。

 それと、遠野は原因をぼかしていたが、皮膚感覚が過敏になり、不用意に触れられると健康時の倍以上に刺激を感じるようになってしまったそうで、『接触恐怖症』と診断されている、と言っていた────そんなだから、留年したことに加えて、余計に人付き合いに積極的になれないでいる、ということも。


「あんなやつじゃなかったのに。明るくて話しやすくて」と涼介が言っていた。本当にそうなのだろう。テラスで話していた遠野にはこれまでの刺々しさなどまったくなく、わずかにあどけなさの残る和やかな雰囲気は、一緒にいて心地がよかった。

『明日、また話そうぜ。昼休みはどうしてんの? 一緒に昼メシ食わない?』

 ベッドに寝転がり、スマートフォンからメッセージを送る。なんだか浮ついていると思うけれど、こんな気分は悪くはない。

 すぐに返信……はなく、しばらくしてから『無理。望月といるだけで目立つだろうし、昼休みは無理』と素っ気ないメッセージが。

 ええ~、と思ってガックリしたところに、またメッセージが入った。

『放課後、俺の家に来る?』

 えっ! と身体を起こし、スマートフォンを落としそうになりながらも大急ぎで返信する。

『行く、行くよ! 絶対なにがあっても行く』

 すぐさま『必死かよ。キモい』と返ってきて、『スンマセン』と謝る棒人間のイラストのスタンプを送って、メッセージを閉じた。

 一日で凄い進歩だ。友達になった翌日にまさかの遠野の家訪問だなんて、展開が早すぎる。

 友達との約束で浮かれた経験などない皓斗が、ニヤニヤしつつ何度も遠野からのメッセージを見直した。

 そんなわけで、翌朝も上機嫌の皓斗の顔は緩みっぱなしだ。

「おっ、はよーっす」
「なんだ? いつもに増してのそのアホ面は。昨日は学友たちとのデートをサボってなにしてたんだ? ん~?」

 野田が肘で肩をつついてくる。

「べーつに。世界史のレポートがうまくできただけ」

 これは事実だ。放課後の楽しみを考えると、意欲的に課題に励めた。

「なにっ、皓斗、抜け駆けかよ。先に帰って、まさかレポートをまとめるとかしてたわけ?」
「そうなのかよ、皓斗」

 あっという間に皓斗のまわりにクラスメイトが集まり、教室が騒がしくなる。
 そこへ、じっとりと暗い顔の涼介がやって来た。

「はよ……」
「なんだよ涼介、ここんとこずっと暗いな。背中に暗幕背負ってるみたいだぞ」

 皓斗が声をかけると、涼介はため息をこぼす。

「だってさぁ、遠野とあんな感じになったままで……あれから何回かすれ違ったけどナチュラルに無視されるし、中学のときの奴らに聞いても誰とも連絡取ってねぇみたいだし……これっきりかもと思ったらなんか後味悪くて」
「あー……」

 なんとなく、まだ遠野との昨日のことは話せず言葉を濁してしまう。目立ちたくない、と言っていた遠野を思えばなおさらだった。
 そこへ口を挟んだのは野田だ。

「へー。やっぱこのあいだの昼休み、例の一年のところに行ったわけ? そりゃ駄目だろ。事情が事情なんだから急に来られてすぐに素直に前みたいに仲良く、とか無理だろ。涼介は真っすぐすぎんだよ」
「野田、お前もなんか達観してるよな……まじで高ニかよ」

 仙人みたいな物言いの野田に皓斗はしみじみと言い、それに気をよくしたらしい野田は、黒縁眼鏡をズイと上げながら「君たち、なんでも俺に相談しなさい」と格好をつける。

「はあ……」

 対照的に、その隣では変わらず暗い表情の涼介がため息をついていた。

 そして放課後。
 いつもなら誰かと下校したり寄り道をしたりするのに、今日は皆それぞれに用事があるというナイスタイミングの日。誰にも放課後の予定を聞かれることなく済み、軽く速い足取りで、待ち合わせ場所にした学校近くのコンビニエンスストアに向かった。

 遠野はすでに到着していて、レジで支払いをしている。

「望月はカフェオレでいい? 俺は桃のソーダだけど」

 侑希が選んでくれたのは皓斗の定番だった。友達になった日、テラスで皓斗が飲んでいたものを見て覚えていてくれたのかもしれない。そう思うと心臓が高鳴る。できるわけもないが、飛びついてありがとうを伝えたくなる。

「ありがと! でも俺がお邪魔すんのに、どうして遠野が買ってんだよ。これ、金な」

 肌に直接触れないように気をつけながらも、カフェオレと桃のソーダ、シュークリームの入ったレジ袋をぶんどって、代わりに小銭を握らせた。

 遠野の家に着くと、すぐに部屋に通される。遠野の両親は共働きで遅くまで帰ってこないらしい。
 お構いできませんが、と悪戯っぽく笑う表情になぜかドキっとして、彼女の部屋にも友達の部屋にも何回も行ったことがあるのに、少しばかり……いや、かなり緊張した。

「わ。なんか大人の雰囲気だな。家もお洒落だし」

 部屋は、遠野の雰囲気に合ったやさしいブラウンの色合いに、高校生にしては洒落た家具が置いてあった。

「退院したあと、とーさんが奮発してリフォームしたんだよ。新しいスタートだ! とか言って。で、せっかくならカッコよくしたくてさ」

 言葉の端々から、大変だった治療と寛解してからの家族の喜びが伝わる気がして、皓斗は何度も相槌を打った。

 普段から、話すよりは聞き手に回る側の皓斗だが、遠野の前では心からそうしたいと思う。遠野が話すのを、たくさん聞いていたいからだ。

 けれど光陰矢の如しと、昔の偉い人はうまいことを言ったものだ。
 遠野の部屋にある本やCDなんかの話をしていただけなのに、気づけばもう外は暗くなり、いつもより早く時間が過ぎた気がした。

「なんか俺のことばっかりだったな。また次は望月のことも教えてよ」

「また次は」なんて言われて胸がギュッとなる。次の約束って、一緒にいて嫌な相手には言わないだろう。

「明日、明日は? 明日、うちにも来てよ」
「……だからキモいって。そんな食い気味になんなくても」

 ただでさえ一定の距離を開けて座っている遠野が、後ろに退くような姿勢を見せる。

「う……ゴメン」

 うなだれる皓斗を見て、遠野がクスッと笑った。

「そのうち慣れるかもだから、まあいいよ。許す」

 また胸がきゅっとなった。

 ――遠野がクスッと笑うの、俺、凄く好きだ。

 絶対に『キモい』と言われるから、内緒だけれど。