九月中旬。
 一次選考をパスした祥陽大学の総合型入試、二次選考の日。
 これが決まれば早くも九月末には合格発表があり、皓斗は晴れて受験生活から解放される。
 夏期講習で対策には力を入れたし、講師陣からの評価も上々だった。自分でも自信があり、皓斗はとても落ち着いていた。

 会場までは一時間。対策用の冊子を最終確認しながら向かう。
 途中メモしたいことがあり、侑希のシャープペンシルを出して使った。その後会場の最寄り駅に着くアナウンスで冊子だけをカバンに戻し、ドアが開くのを待った。

 このとき、なぜシャープペンシルをカバンに戻さなかったのだろう。無意識に、そのまま手に持っていたいと思ったのかもしれない。

 ホームにはたくさんの小学生がいて、いつも以上に混雑していた。この先の地域でイベントでも開催されているのか、どのドアの前でも小学生の団体が前列を陣取っている。

 ドアが開いて降りようとしたとき、その小学生たちが我先にと一度に突っ込んできた。
 「降りる人が先よ」と言う引率者の声も聞こえないらしい。
 避けたつもりが別の隙間から入った小学生とぶつかり、手に持ったままだったシャープペンが手から弾かれた。

「あ」

 まるでスローモーションだった。 
 シャープペンが弧を描いて、電車とホームの隙間に落ちる。
 そのまま線路に潜ったのを目で追った。
 乗っていた電車が走り去ってから急いで線路を見る。

 ある。そこにある。

 どうしようか。次の電車は十五分後だ。
 急いで改札に上がり、駅員を探すも人数がいない。ようやく話を聞いてもらえたときには、どれくらい時間が経っていたのか、もうわかっていなかった。

 電車が来る合間にペンを確認してもらえたものの、落ちている場所には道具が届かないからと、終電のあとに収集すると伝えられて書類を書いた。

 そして、試験会場へと向かった。早めに自宅を出ていたから試験開始にはぎりぎりで間に合った。けれど皓斗は気持ちの切り替えができないままとなり、明らかに試験は奮わず……落ちたな、と自分でわかった。

 あとになれば自分がおかしかったことが自覚てきるのだが、そのときの皓斗は、試験の合不合よりも侑希のシャープペンシルを気にしていた。

 試験が終わってから駅へ走り、線路を覗いてペンが無事なのを確認する。終電後に収集できたら連絡をすると伝えられているのに、その場を離れることができなくて、電車が通るたびにペンの無事を確認した。

 ふとした時にホームの時計を見ると、十九時になろうとしていて、試験前からスマートフォンの電源を切っていたことを思い出して操作する。
 学校からと両親からの着信が大量にあり、途中から野田と涼介、そして侑希の名前もあった。

 ――試験が終わったら学校に報告に行くんだった……。

 どこから連絡したら良いのかとスクロールする指を止めたとき、侑希からの着信が鳴った。
 受話アイコンを押すとすぐに声がする。

「どこにいる!?」
「あ……M駅に……」
「M駅? なにやってんだよ、試験が終わってから何時間経ってると思ってるんだ。とりあえず学校に戻って。まだ先生が待ってくれてるから」

 後ろで「いたのか」と聞く野田の声もする。涼介が「皓斗の家と学校に連絡する」と言っているのも薄く聞こえた。

「でも俺、シャーペンを待ってないと」
「シャーペン? ……なんの話?」
「線路に落ちたから、それで……」
「……まさか、皓斗。……動くな、そこ。今すぐ行くから」

 通話はそこで途切れた。

 ――……今からすぐって、一時間はかかるのに。ああ、でもどうせ俺、ここから動けないから。

 ***
 
「皓斗、皓斗」

 うたた寝をしていた。
 静かな声と優しい揺れで、瞼を開ける。

「ゆ、き……?」
「……なにやってんだよ」
「ごめん、俺、侑希のペン落としちゃって。終電まで取れないんだって」
「そんな話じゃないよ。試験にはちゃんと行ったのか? 帰る時に落としての今?」
「……」

 なにも言わない皓斗を見て、侑希はしゃがみこんで皓斗の腕を掴んだ。手には力が入っているが、努めて穏やかに話そうとしているのが伝わる。

「試験前に落とした? でも試験はしっかり受けたんだよな?」
「……受けたけど、全然集中できなかった……落ちたと思う」

 侑希の顔に青味が差した。

「皓斗……しっかりしてくれよ。たかがペン一本に振り回されてどうするんだよ」
「でも侑希にもらったペンだから……あれがないと俺」
「皓斗!」

 侑希の手と声に力が入る。

「俺はここにいるよ? ペンは俺じゃない。頼むからしっかりしろ」
「あ……」

 侑希が今にも泣きそうな顔をしている。
 急に頭の中の霧が晴れた。同時に、試験を棒に振った後悔と、自分がおかしくなっていたことが怖くなり、手が震えた。
 侑希はそれに気付いた様子で、皓斗の左手をしっかりと繋いでくれる。

「帰ろう。みんな心配してるから」



 学校に着くともう、二十一時を過ぎていたのに、進路指導の担当と担任に両親、それに野田と涼介が待っていてくれた。
 先生たちにこってりと絞られた皓斗だが「急に体調が悪くなって気が動転した」と伝えた。

 本当の理由なんか言えるわけがない。
 進路については後日改めて三者面談をすることになり、まずは一般入試に向けて頭を切り替えろと言われて指導室を出た。

 両親は皓斗を責めずに、体調が悪かったのだと信じて気遣ってくれて、申しわけなさと情けなさで、押し潰されそうになった。

 自宅に着いてから先に帰った野田と涼介に連絡をすると、侑希から聞いたのか、察した部分もあるのか、散々馬鹿扱いをされた。
 心配されるよりずっといいことを、ふたりは知っている。

 侑希からはスマートフォンにメッセージがあり『今日は疲れたから早く寝る。皓斗もゆっくり休めよ』と書いてあった。
 皓斗はそれに返信ができないままだ。

 本当に馬鹿だ。なにやっているんだ、と自分を責め立てる。

 受験自体は今からの頑張りで取り返せても、侑希に自分を責めさせるようなことをしたんじゃないのか? 自分のシャープペンが、と侑希はきっと気にするだろう
 
 ――俺が馬鹿なだけなのに、きっと侑希は自分を非難してしまう……ごめん、侑希。

 その夜、皓斗は後悔で目が冴えて眠ることはできなかった。

 ならば今やれることをやろう。
 皓斗は机に着いて、数学の苦手分野のページを開いたのだった。