最強になれる気がする。

 朝起きて、まずペンケースを開ける。緑色の握りやすいシャープペンがあるのを確認して、またケースに戻す。

 それが皓斗の新しい日課になった。
 そして、あの夜から皓斗の日課で変化があったことがもうひとつ。

 朝の中庭での挨拶のときに、侑希が手を振ってくれるようになった。振るというよりは上げるという方が正しいかもしれない。
 周囲から見れば窓に手をかけているだけに見えるその合図を、皓斗だけが感じ取るのだ。

「調子良さそうだな、皓斗」
「おー。課題テスト、結構良かったから。野田は?」 
「むろん一位。全て満額だ」

 野田の眼福な結果表を拝みながら昇降口へ進むと、先に涼介と侑希がきて待っていた。

 これも変化のあったことだ。本当にときおりだけれど、四人で放課後の寄り道をすることがある。

 野田と皓斗は塾までの時間を、涼介はアルバイトの時間までを侑希と過ごす。 

 必然的に、涼介が侑希といる時間が一番長くなるわけで、元々同じ中学で仲の良かった涼介と侑希は話も合うらしく、皓斗が妬いてしまうほどだ。
 今日だって侑希は、皓斗とは横並びにはならずに涼介と肩をぶつけながら歩いて、最近刊行された小説の話に熱中している。

 こんなとき、皓斗は「皓斗だと指が触れただけでもドキドキするんだよ。声を聞いたら触れたくなるし、会ったらもう離れたくなくなる」を思い出して、侑希は今も本当は皓斗とくっつきたいのを我慢しているんだ、なんて、無理やり納得することにしている。

 カフェに入れば、ようやく隣同士になれた。広くない店内の広くない四人席。ラッキーな触れ合いでちょこんと肩が当たるのさえ幸せ。それなのに三十分も経たずに野田に「おい」と声をかけられ、塾へ向かう時間を通告される。
 
 これには[お前は悪魔の手先か」と睨みたくなる皓斗だ。
 侑希とほとんど話せなかった。またしばらくは、朝の挨拶での逢瀬だけになりそうだ。

「じゃな、侑希。またメッセージ送る」

 心の涙を隠し、いかにも平気そうにスマートに席を立つ。すると、侑希も席を立った。

「今日は送ってく」
「え?」
「塾の近くまでね」
「え? マジで?」

 嬉しい驚きでトレイを持ったまま突っ立ってしまうと、野田がひょい、とトレイを(さら)ってくれた。

「じゃあ先行けよ。これは涼介と俺が片付けておいて差し上げよう」
「どうぞ楽しいお時間を」

 涼介はそう言って侑希のトレイを受け取る。

「野田様~、涼介様~。君たちは神様だ!」

 皓斗はインド人の挨拶みたいに両手を合わせてふたりを拝むと、侑希と肩を並べてカフェを出た。

「外、結構暑いな」

 小春日和の最近は、放課後も気温が高い。

「ほんと。じんわり汗が出る。俺、汗かくの嫌いなんだけどな」

 侑希が制服の襟元をぱたぱたと揺らして小さな風を送る。
 これも変化のあったことだ。侑希はもう、制服の上にパーカーを着ることも、制服をきっちりと着込むこともしなくなった。
 誰かと体が触れることも、もう怖がらない。

 接触恐怖症は体調の良し悪しにも比例していようだから喜ばしいことではあるものの、贈ったパーカーを着る姿を見る機会が減ったことは寂しいし、皓斗としては、以前までのように肌を隠してくれていた方がありがたかった。

 敬虔な聖職者のような禁欲的な雰囲気が侑希に似合っていたし、なによりも他の奴が侑希の白肌を見るなんて、けしからん。絶対に見られたくない。

 とはいえ、もうすっかり閉ざさなくなった襟元から覗き見えるか細い首の白さに、皓斗はつい視線を留めてしまう。

「皓斗、キモい」
「あ、はは」

 侑希には(よこしま)な気持ちがすぐに伝わってしまうようで、毎回愛想笑いで誤魔化す皓斗だった。

 ────コツン。

 道を進み、一本中へ入れば予備校が建ち並ぶ狭い通路になり、並んで歩けば肘と肘が当たる。

 ────コツン。

 離れては当たり、また繰り返す。

「……」

 なんとなく会話にならずに、互いをちらりと見合った。
 ふたりとも熱を孕んだ瞳をしている。

 ────コツン。

 次に手の甲が当たると、ふたりはそれをくっつけたまま歩いた。

 わずかな肌の触れ合いが酷く熱く感じるのは、気温のせいか、それとも……。

 そのまま無言で歩き続けて、以前侑希が「好きだ」と言ってくれた公園の前まできた。
 示し合わせたわけでもないのに、ふたりとも足が自然に公園内に向いている。

 黄砂や花粉飛散の影響もあるのか、公園内には珍しく誰もいなかった。砂場にも、以前並んで座ったブランコにも鉄棒にも。

 それでもふたりは、トンネルのついた石造りの大きな滑り台まで歩き、人目の死角になる場所に身を落ち着かせる。

 高校生のふたりには広くないその場所で自然に肩が触れ合うと、頬を寄せてキスをした。

 死角になっているとはいえ外なのに、侑希は皓斗にぴったりと寄り添ってくれる。
 少しだけ開いた侑希の唇はとても熱かった。

「……はぁ……」

 唇が離れると、皓斗は悩ましいため息を吐いた。このままこうしていたいが時間だ。

「……皓斗、行かないと」
「うん。ここからは一人で行く」

 侑希が皓斗の腕から手を下ろし、皓斗も掴んでいた細腰を離した。
 互いの体温が離れる瞬間がとても切ない。

 けれど塾の講義の教室に入っても侑希の存在を強く感じていられて、皓斗は勉強に気合いを入れることができたのだった。