午後からの気分は最悪だった。
 小テストで野田に教えてもらった類題が出たのに、またドボンだった。

「まーたなんかあったか。どうせ遠野くん絡みだろ? 聞かないけどさ、皓斗はちょっと恋愛に振り回されすぎてるぞ。まあ初恋みたいなもんだから仕方ないけどさ、もうちょいセルフコントロール。な?」

 塾に行く道で野田に肩を小突かれ、半分からかわれる。

「うっせ、初恋もまだの奴が」
「失敬だな。これでも同じ講義の子とイイ感じなんだぞ」
「え、マジ?」
「マジマジ。一緒に合格しましょうね、とか言われてさ。休憩タイムにお話してる。ムフ」

 野田は皓斗のやさぐれた気持ちをなごまそうとしてくれているのだろう。
 皓斗は深呼吸をひとつ落として「また聞かせろよ」と表情をやわらげ、コースの教室に向かった。

 着席すると侑希の顔が浮かんだ。あれからメッセージのやりとりをしていないが、社会第二準備室で会う前に送った皓斗のメッセージに対してはどう思ったのだろうか。

 ――そういえば、メッセージを送るのもいつも俺からだ。

 侑希からのメッセージといえば、要件を伝えてくる以外には滅多にない。
 恋人同士にありがちな、愛情を伝える言葉が送られたこともない。
『好き』はもちろん、『会いたい』のひと言さえも。

 考えていると、また胃がムカムカしてきた。
 侑希と付き合う前の皓斗なら気にもしなかったことなのに、今は酷く辛い。

 侑希と出会ってからの自身が変化している自覚はあったものの、余裕だけじゃなく了見も小さくなっていることに苦い気持ちになる。

 そろそろ講義が始まる時間だ。
 集中しなければ、と皓斗はぎゅ、と瞼を閉じてみて、払い切れない雑念をやり込めようと努力した。

***

 十九時からたっぷり三時間の講義後は、昼から痛かった胃のせいで間食を取らずにいたため、流石に腹が減っていた。
 ため息をついてエントランスを出る。

 外は久しぶりに空気が淀んでおらず、空には北斗七星やこぐま座、乙女座がはっきりと見えてキラキラしているのに、皓斗の心は真反対にどんよりと曇っている。

 スマートフォンを出して画面を見る。やはり侑希からの連絡はない。

 どうしよう。やはり自分から謝った方がいいだろうが、返事がないかもと思うと指が動かない。

「皓斗」

 すると、悶々と考え込みながら曲がった最初の角だった。
 目の前に突然侑希が現れて、皓斗は思わずのけ反った。

「えっ。侑希? なにやってんの。もう十時だぞ」
 
 侑希の顔とスマートフォンの時計表示を見比べる。侑希は同性だが、夜道をひとりで歩いてくるなんて、と心配がよぎった。

「……話、しなきゃと思ったから。時間合わせてさっき来たところだから、大丈夫」

 侑希はそう言うと、持っていた紙袋を皓斗に押しつけ、近くの公園に促した。

 小さいけれど綺麗に整備された公園の、ふたつ並んだブランコにそれぞれ腰を落とす。

 侑希に押し付けられた紙袋を覗くと、中にはおにぎりとシーザーサラダ、唐揚げが入っていた。  
 皓斗の好きなものばかりだ。

「これって……」
「来る前に晧斗の家に電話して、皓斗借ります、夕飯食べさせますって言っといた……それで足りる?」
「お、おぉ……」

 思ってもみなかった展開に頭の整理が追いつかず、言われるままおにぎりから手に取った。

「時間、ないからそれ食べながら聞いて。あの、誕生日のことは本当にごめん。俺、いつなのか聞きそびれたままになってて……皓斗は俺の誕生日を祝ってくれたのに……ごめん。これに関してはすっかり抜けてたとしか……でも興味がないとか、絶対にそんなんじゃないから!」

 侑希が一生懸命に言ってはくれるが、すっかりいじけ虫になっている皓斗は無言でおにぎりをかじった。

「あと、学校でのことだけど。もうここ半年以上休んでもいないし、早退もなくて。皮膚の痛みもほとんど感じないんだ。そしたら自然にクラスの人たちと打ち解けてきてさ」
「ふーん……」

 そーかよ。じゃあなんで俺だけ駄目なんだよ。

 心の中でそう拗ねると、侑希が衝撃のひと言を投げつけてきた。

「でも、皓斗は駄目なんだよ」
 
 皓斗の頭に想像の矢が刺さった。
 ダメージは測定不能だ。

 ――なんだよ、それ。

 おにぎりの次に口に入れていた唐揚げが喉につまったわけでもないし、脂っこくない軽い食感なのに、喉のあたりが重くなってくる。

 これはもしかして、アレじゃないだろうか。

「それって……別れ話、だよな」

 口に出しながら血の気が引いていく。
 距離感バグってるわ、重いわ、女々しいわで、今日でとうとう愛想を尽かされてしまったのか。

「……! ちが……違うって。だから、あの……」

 侑希が歯切れ悪く口ごもる。

「違う? じゃあなんだよ、早く言ってくれ。悪いところがあるなら直すから。いや、悪いところだらけだけど!」

 皓斗がヤケになりかけたときだった。

「~~~~皓斗にだけは感じちゃうんだよ!」

 突如、侑希がブランコチェーンの両側を握り、座面を揺らして立ち上がった。

「……皓斗だと指が触れただけでドキドキするから! それなのに声を聞いたら触れたくなるし、会ったらもう離れたくなくなんの! 誰にバレなくても俺自身がそんな俺を恥ずかしいから、ふたりきり以外では会いたくないんだよ!」
「ほぇ……?」

 耳を疑うような嬉しい言葉の羅列が信じられない。
 おそらく自分の顔が埴輪みたいになっていると予想できた。言葉も出なくなり、ただただ侑希を注視する。

「皓斗、聞いてる?」

 聞いてる。
 聞こえている。
 けれど世界が真っ白だ。魂が体から抜けて、宇宙まで猛スピードで飛んで行ったような気がした。
 今の侑希の言葉は、幻聴じゃなく現実なのだろうか。

「俺は……皓斗に勉強を頑張ってほしかったから邪魔をしたくなくて。極端なのはわかってるけど、なるべく皓斗のことを考えないようにして我慢して……だから色々……ごめん」

 皓斗がいまだ声も出せないでいると、侑希の指が皓斗の腕に触れた。それでようやく皓斗は我にかえり、侑希の手首を掴む。

 侑希はビクッと身体を震わせて、頬の赤みを強くした。

「手首は触っても大丈夫って、前に言ってなかったっけ……」 
「久しぶりだから。今、凄くドキドキしてる」
「…………ちょっと待ってて」

 今すぐにでも抱きしめたい気持ちをなんとかこらえた皓斗は、侑希から手を離すと急いで食事を終え、お茶で流した。
 侑希が持ってきてくれた食べ物を粗末にしたくない。

「よし、ご馳走さまでした!」
「ああ、はい」

 皓斗が食べている間、きこきことブランコを揺らして待っていた侑希が頷いた。頬の色が、まだ少しだけ赤い。

「では、いただきます」
「いただきます?」
「食べ終えたところではありますが、キス、させてください」
「え。わっ」

 伝えるなり、皓斗は隣のブランコの座面から侑希を引き剥がし、対面で自分の膝に乗せた。それから頭を引き寄せて、まだ許可をもらっていないのにそっとキスをする。

 侑希が瞼を閉じ、唇から甘い吐息を漏らしたのを確認して、少し深く重ねてからゆっくりと唇を離した。

「なんだよ、その理由。めちゃくちゃうれしいじゃん。でももっと早く言ってよ」

 侑希の胸に顔を埋める。胸いっぱいに、柔らかい、久しぶりの侑希の香り。

「言えるわけないじゃん。恥ずかしい……あ、そうだ、これ」

 侑希は皓斗を躊躇なく引き剥がして、自分のボディバッグを開けた。

 もう少し侑希を抱きしめていたかった皓斗は、余韻を持たない侑希が少し恨めしい。

 そんな侑希はゴソゴソとバッグを探ると、シャープペンと定規を取り出し、皓斗の手に握らせた。

「クリスマスのとき、交換って言ってたのにそのままになっててごめん。これ、ずっと俺が使ってた年季物。誕生日プレゼントはまた別で渡すから、とりあえず」
「……覚えててくれたんだ……めちゃくちゃ嬉しい。これで十分だよ。サンキュ」

 皓斗が心から微笑むと、侑希は切なげに眉を寄せた。次に首に腕を回してきて、皓斗の頭を薄い胸に押し付けると、きつく抱きしめてくる。

「侑希、ちょっと苦しい……」
「……きだよ……」
「え?」
「好きだよ、皓斗。好きだ」

 好き。
 初めての言葉だった。

 胸が締めつけられて、鼻の奥がジンとする。
 嬉しいのに、泣きたい気持ちになってくる。
 
 梅雨の晴れ間の星空の下、侑希からの「好き」に満たされた皓斗は、自分も華奢な体に腕を回して包み込み、揺れるブランコの上で侑希と抱き合っていた。