催花雨、とは言うけれど、学年末テストの期間は雨が降る日が多かった。
ひと雨ごとに春が近づくという意味でつけられた呼び方のようだが、まだ少し冷たい雨は、皓斗の心を薄ら寒くしていた。
「あー、もう最悪」
返却された物理と数学Bのテストに向かってため息を吐く。
過去最低の結果だった。三年生では特進コースで希望を出しているのに、これでは面談で厳しいことを言われるだろう。
そしてもうひとつ、皓斗にとって最悪なのは、侑希とあの日依頼連絡を取れていないし、顔も見れていないということ。
『テストが終わるまで集中しよう。連絡は俺からするから』と侑希からメッセージを送られてしまったからだ。
皓斗にとってはそれが勉強に集中できない原因となってしまったのだけれど。
「調子悪そうだな」
「わ、やめろよ野田」
背後から近づいてきた野田に、テスト用紙をひょい、と奪われた。
「なんだ。ケアレスミスだけじゃないか。難問ほど解けてる。これなら春休み開けの課題テストで取り返せるだろ。一緒に直してやるから他のも見せろよ」
「野田、神……!」
皓斗が野田を拝むと「皓斗、昔からそれ言ってるな」と、野田はフンと鼻を鳴らして笑った。
そうだっけ、と皓斗は過去を思い返す。
野田との付き合いは丸二年になるが、野田は本当に頭が良く、確かに何度も勉強を教えてもらってきた。
ただ一年生頃の野田はまだ背も低く、口数も少ないためかどちらかといえば目立たない存在だった。
それが今では学年代表だ。三年生の卒業式には送辞を読んだし、自分たちの卒業式では答辞を読んでいることだろう。
――卒業か……そんとき俺、どうしてるだろう。侑希も……。
侑希とのやり取りを思い出し、勉強から気がそれた。
「ほら、集中しろよ」
「ん」
野田に小突かれて、視線をテスト用紙に戻す。
そうしてしばらくテスト直しをやっていると、いつの間にか周りにクラスメートが群がり、野田への質問の列ができていた。
「この光景も一年の時から変わらないな。俺、もう大丈夫だから他の奴見てやって」
「おう。代わりに昼休みは皓斗専属になってやるよ」
「へ」
「調子悪そうなの、テストの結果のせいだけじゃないだろ」
「――そうそう、なんか遠野とあったんじゃねえの?」
観察眼の優れている野田に指摘されて呆けるなり、涼介がのしっと背中に乗ってきた。こちらも鋭い。
「涼介、重……」
「「昼休み、屋上集合」」
野田と涼介、頼もしい友人たちの声が重なり、皓斗は唸り声で返事をした。
***
「そりゃ重いわ。重すぎ」
昼休み。
侑希との一件を洗いざらい吐かされたあと、野田からの容赦ない突っ込みが入った。
「お前のためにランクを下げて大学決める、とかゴミが言うこととしか思えんな」
「だな。遠野はタメとはいえ現実高一だからな。そんなん言われたら引くわな。うん。皓斗、ゴミカスだな」
「ゴ、ゴミカス……」
いつも優しい涼介にまで鋭い刃で斬りつけられ、うなだれてしまう。
「皓斗って、祥大の法学希望だったよな。確かに難しいけどビビるなよ。皓斗はやればできるんだから、そろそろ本腰入れろよ」
野田がメガネのブリッジを上げて言った。顔つきはもう、真面目になっている。
「や、ビビってるわけじゃなくて、俺はどんなときも侑希との時間を大事にしたいってことを言いたかっただけで……」
どうして俺はこんな恥ずかしいことまで言わされているんだと思い、皓斗は軽くうつむいた。
「それは逃げだろ」
すると、珍しく涼介が語気を強めて言ってきた。
「楽な方に行っても先はないぞ。高校で付き合って別れる奴等がどんだけいると思ってんだよ。同性ってだけでもマイノリティなのに、今の楽しさだけで進んだらなにかあった時にすぐ駄目になる。そうなってから、遠野のためにやったのに、とかなるのサイテーじゃん。長く一緒にいたいなら今のうちから自分で土台作れよ。ちょっと離れたら壊れるような関係にするな」
「……」
同じく同性の相手を想っている涼介の、視野が広い諭しに皓斗はぐうの音も出ない。
「遠野くんもさ、死ぬ思いの病気とかしたわけじゃん。だから思うところも多くあるんじゃないか? とりあえずはさ、頑張ってる姿を見せれば惚れ直してくれるさ」
野田が皓斗の背をぽん、と叩くと、涼介も頷いた。
自分と中身も変わらないだろうと思っていたふたりの、大人びた内面に感心しながら皓斗は聞いてみる。
「野田はT大行ってどうすんの?」
「お、ようやく他人に興味を示すようになったか?」
野田はニヤッと薄い笑いを浮かべつつ、続けた。
「医者だよ、医者。俺んち、代々続く病院だからな。最終的には家を継ぐ」
「えぇー。今まで知らんかった……マジかよ……病院ご子息だったのか……。涼介は? 大学どうすんの?」
「あ、俺行かない」
「えっ!」
どうすんの、とは進学先がどこなのかを聞いたつもりだったのに、まさかの返答だ。
「まじで? 指導入んじゃね?」
「夏まではうまく誤魔化す。調査書には適当に大学名を書いておくし、スレスレにテストの点を取っておけばなにも言われねーよ。その間に家族を説得するつもり」
「はー……。びっくり……じゃあ就職とか考えてるってこと?」
「うん。大変なのはわかってるけど、早く社会に出て親の力を借りずに独立したい。そしたらさ、あの人にちゃんと言うんだ。パートナーになってほしいって。だから一心不乱に頑張る」
涼介の真剣な瞳と意志のある口調からは、相手を強く思う熱量が感じられて、心から応援したくなる。
ふたりともまだ、進路や将来への展望は不透明なのだろうとどこかで思っていた部分があった。けれど皓斗とはまるで違った。自分の行く道を意識しているからこそ、こうして皓斗のことも明瞭に見えるのだろうか。
――野田は前から涼介の決意を知ってて、密かに応援してたんだな……涼介も、野田の家や進路の話を聞いてたんだ。お互い全然驚いてなかったもんな。
友人のことを知ろうとしなかった自分が、隠していたつもりはないだろうけれど、知らされていなかった自分が、少しだけ寂しい人間に感じる。今までならこんな風に感じることはなかったのに。
けれど、自分から踏み込めば相手もこうして踏み込んでくれる。
ひと雨ごとに春が近づくという意味でつけられた呼び方のようだが、まだ少し冷たい雨は、皓斗の心を薄ら寒くしていた。
「あー、もう最悪」
返却された物理と数学Bのテストに向かってため息を吐く。
過去最低の結果だった。三年生では特進コースで希望を出しているのに、これでは面談で厳しいことを言われるだろう。
そしてもうひとつ、皓斗にとって最悪なのは、侑希とあの日依頼連絡を取れていないし、顔も見れていないということ。
『テストが終わるまで集中しよう。連絡は俺からするから』と侑希からメッセージを送られてしまったからだ。
皓斗にとってはそれが勉強に集中できない原因となってしまったのだけれど。
「調子悪そうだな」
「わ、やめろよ野田」
背後から近づいてきた野田に、テスト用紙をひょい、と奪われた。
「なんだ。ケアレスミスだけじゃないか。難問ほど解けてる。これなら春休み開けの課題テストで取り返せるだろ。一緒に直してやるから他のも見せろよ」
「野田、神……!」
皓斗が野田を拝むと「皓斗、昔からそれ言ってるな」と、野田はフンと鼻を鳴らして笑った。
そうだっけ、と皓斗は過去を思い返す。
野田との付き合いは丸二年になるが、野田は本当に頭が良く、確かに何度も勉強を教えてもらってきた。
ただ一年生頃の野田はまだ背も低く、口数も少ないためかどちらかといえば目立たない存在だった。
それが今では学年代表だ。三年生の卒業式には送辞を読んだし、自分たちの卒業式では答辞を読んでいることだろう。
――卒業か……そんとき俺、どうしてるだろう。侑希も……。
侑希とのやり取りを思い出し、勉強から気がそれた。
「ほら、集中しろよ」
「ん」
野田に小突かれて、視線をテスト用紙に戻す。
そうしてしばらくテスト直しをやっていると、いつの間にか周りにクラスメートが群がり、野田への質問の列ができていた。
「この光景も一年の時から変わらないな。俺、もう大丈夫だから他の奴見てやって」
「おう。代わりに昼休みは皓斗専属になってやるよ」
「へ」
「調子悪そうなの、テストの結果のせいだけじゃないだろ」
「――そうそう、なんか遠野とあったんじゃねえの?」
観察眼の優れている野田に指摘されて呆けるなり、涼介がのしっと背中に乗ってきた。こちらも鋭い。
「涼介、重……」
「「昼休み、屋上集合」」
野田と涼介、頼もしい友人たちの声が重なり、皓斗は唸り声で返事をした。
***
「そりゃ重いわ。重すぎ」
昼休み。
侑希との一件を洗いざらい吐かされたあと、野田からの容赦ない突っ込みが入った。
「お前のためにランクを下げて大学決める、とかゴミが言うこととしか思えんな」
「だな。遠野はタメとはいえ現実高一だからな。そんなん言われたら引くわな。うん。皓斗、ゴミカスだな」
「ゴ、ゴミカス……」
いつも優しい涼介にまで鋭い刃で斬りつけられ、うなだれてしまう。
「皓斗って、祥大の法学希望だったよな。確かに難しいけどビビるなよ。皓斗はやればできるんだから、そろそろ本腰入れろよ」
野田がメガネのブリッジを上げて言った。顔つきはもう、真面目になっている。
「や、ビビってるわけじゃなくて、俺はどんなときも侑希との時間を大事にしたいってことを言いたかっただけで……」
どうして俺はこんな恥ずかしいことまで言わされているんだと思い、皓斗は軽くうつむいた。
「それは逃げだろ」
すると、珍しく涼介が語気を強めて言ってきた。
「楽な方に行っても先はないぞ。高校で付き合って別れる奴等がどんだけいると思ってんだよ。同性ってだけでもマイノリティなのに、今の楽しさだけで進んだらなにかあった時にすぐ駄目になる。そうなってから、遠野のためにやったのに、とかなるのサイテーじゃん。長く一緒にいたいなら今のうちから自分で土台作れよ。ちょっと離れたら壊れるような関係にするな」
「……」
同じく同性の相手を想っている涼介の、視野が広い諭しに皓斗はぐうの音も出ない。
「遠野くんもさ、死ぬ思いの病気とかしたわけじゃん。だから思うところも多くあるんじゃないか? とりあえずはさ、頑張ってる姿を見せれば惚れ直してくれるさ」
野田が皓斗の背をぽん、と叩くと、涼介も頷いた。
自分と中身も変わらないだろうと思っていたふたりの、大人びた内面に感心しながら皓斗は聞いてみる。
「野田はT大行ってどうすんの?」
「お、ようやく他人に興味を示すようになったか?」
野田はニヤッと薄い笑いを浮かべつつ、続けた。
「医者だよ、医者。俺んち、代々続く病院だからな。最終的には家を継ぐ」
「えぇー。今まで知らんかった……マジかよ……病院ご子息だったのか……。涼介は? 大学どうすんの?」
「あ、俺行かない」
「えっ!」
どうすんの、とは進学先がどこなのかを聞いたつもりだったのに、まさかの返答だ。
「まじで? 指導入んじゃね?」
「夏まではうまく誤魔化す。調査書には適当に大学名を書いておくし、スレスレにテストの点を取っておけばなにも言われねーよ。その間に家族を説得するつもり」
「はー……。びっくり……じゃあ就職とか考えてるってこと?」
「うん。大変なのはわかってるけど、早く社会に出て親の力を借りずに独立したい。そしたらさ、あの人にちゃんと言うんだ。パートナーになってほしいって。だから一心不乱に頑張る」
涼介の真剣な瞳と意志のある口調からは、相手を強く思う熱量が感じられて、心から応援したくなる。
ふたりともまだ、進路や将来への展望は不透明なのだろうとどこかで思っていた部分があった。けれど皓斗とはまるで違った。自分の行く道を意識しているからこそ、こうして皓斗のことも明瞭に見えるのだろうか。
――野田は前から涼介の決意を知ってて、密かに応援してたんだな……涼介も、野田の家や進路の話を聞いてたんだ。お互い全然驚いてなかったもんな。
友人のことを知ろうとしなかった自分が、隠していたつもりはないだろうけれど、知らされていなかった自分が、少しだけ寂しい人間に感じる。今までならこんな風に感じることはなかったのに。
けれど、自分から踏み込めば相手もこうして踏み込んでくれる。