一日目:八月二十日 十二時四十分


 東京から熱海まで新幹線で約四十五分。あっという間に熱海駅にたどり着くと、そこからは徒歩で会場である『温泉旅館はまや』に向かった。二十分ほど歩いたので、途中でタクシーでも使えばよかったかと後悔する。気温は午前中ですでに三十三度を回っていて、目的地までできるだけ日陰を歩いてきたけれど、それでもシャツは汗でぐっしょりだ。
『温泉旅館はまや』の二階の大広間前で受付を済ませると、そのまま会場である大広間に入る。受付の際に、善樹はDと書かれた札を渡された。グループ分けの記号だろう。

「風磨、お前は何グループだ?」

「ん、俺も同じ」

 どうやら風磨も善樹と同じDグループらしい。双子で同じグループにされたのは、何か意図があるのだろうか。普通なら違うグループにされる気がする。

「俺、ちょっとトイレ」

「ああ、分かった」

 午後十二時五十五分、風磨が用を足しに消えていった。ほとんどの学生が席についている中、善樹は一人でDグループが並んでいる列に移動する。広間には机や椅子が一切置かれておらず、畳の上に学生たちがひしめき合って座っていた。
 多くの学生がいるが、誰も何も言葉を発さない。ほぼ全員が初対面で、緊張しているのだろう。善樹にもその気持ちはよく分かる。静かに定位置に座り、インターンが開始するのを待った。

 午後一時になっても善樹のそばに風磨は現れなかった。何やってんだあいつ、と呆れながらも風磨のことだから仕方ないかと諦める。せめて悪目立ちする行動はしないでほしいと思う。
 会場の前方にスーツを着た三十代ぐらいの男性が現れた。スーツといってもワイシャツは適度に上のボタンが外され、中から覗くTシャツは水色だった。服装に関しては正直かなり規定が緩い。会場にいる学生たちの中にもきちんとワイシャツを着ている者もいれば、善樹と同じようにラフなシャツとパンツを着ている者もいた。どちらかといえば、後者の方が多い。案内メールに『動きやすい格好で問題ない』と書かれていたからだろう。

「皆さんこんにちは。株式会社RESTARTの人事部長、岩崎優希と申します。以後、お見知り置きを」

 明らかに三十代という年齢で人事部長と名乗る彼の自己紹介に、会場が一瞬ざわついた。

「さて、今日からいよいよ弊社の宿泊型インターンが始まります。本来なら最初に会社紹介を——というところですが、会社紹介はあえて明日の夕方に時間をとることにしています。ここでは、弊社に対する先入観や余計な知識なく、皆さんに熱い議論を繰り広げてほしいからです」

 岩崎の一言で、集まっていた学生の熱気が一段階上がったような気がする。善樹自身、当然のように最初に会社説明がされると思っていた。インターンの空気に慣れる意味でも議論の前のウォーミングアップを期待していたのだが、どうやら予想通りにはいかないらしい。

「皆さんは今、それぞれグループ分けされた札を持っていると思います。ちょうど、グループごとに並んでくれていますね。今回のインターンではそのグループごとに議論を行ってもらう予定なので、よろしくお願いします」

 一列に並んでいる以上、まだ同じグループのメンバーの顔はちゃんと把握できていない。他のみんなも、グループのメンバーの顔を見たいのか、頭をそわそわと動かしていた。

「それでは最初に、今回のインターンの日程表を配りたいと思います。前の人から順番に回してください」

 会場の外から他の社員たちが入ってきて、前の人に書類の束を渡す。しばらくして善樹のところにも回ってきて、残りを後ろの人に渡した。
 渡された紙は、まるで修学旅行の栞のようにホッチキスで止められていて、パラパラとめくってみると十ページほどページがあった。最初に日程表が現れて、その次に館内図、簡単な会社概要と、残り半分は「メモ欄」と記されている。ディスカッションをするなら確かにメモ用紙が必要だ。善樹は一ページ目の日程表を確認した。
《株式会社RESTART宿泊型インターンシップ 日程表》

■一日目(八月二十日)
十三時         集合
十三時〜十三時半    ルール説明
十三時半〜十四時    各グループで自己紹介
十四時〜十五時     館内案内&休憩
十五時〜十八時     ディスカッション①※自分史を開示
十八時〜十九時半     夕食
十九時半〜        入浴など自由時間
二十三時        就寝、消灯

■二日目(八月二十一日)
八時〜九時       朝食
十時〜十二時      ディスカッション②
十二時〜十三時半    昼食&休憩
十三時半〜十六時    ディスカッション③
十六時〜十八時     RESTARTによる会社説明
十八時〜十九時半     夕食
十九時半〜        入浴など自由時間
二十三時        就寝、消灯

■三日目(八月二十二日)
八時〜九時       朝食
九時〜十時       発表準備
十時〜十一時      発表&フィードバック


「日程表には目を通してもらえましたか? 大まかな流れはその紙に書いてある通りです。多少時間が前後する可能性はありますが、悪しからず」

 全員がパンフレットを見つめる中、岩崎は話を続けた。

「さて、その日程表に記載している通り、今からインターンの概要——ルールを説明します。必要ならメモを取ってください」

 学生たちはガサガサと鞄の中から筆記用具を取り出す。善樹も例外ではない。筆記用具のほかに、念の為持ってきていたバインダーにパンフレットを挟み込んだ。他の学生は主にノートを下敷き代わりにしている。土台になりそうなものを何も持ってきていない人は、書きにくそうに背中を丸めた。地べたで書くつもりらしい。
 いつのまにか、会場の前にはプロジェクターが用意されていた。会場の明かりが少しだけ落とされる。プロジェクターに「株式会社RESTARTインターンシップ・ルール説明」というタイトルが映し出された。

「では説明を開始します。先ほど説明した通り、このインターンではAからFのグループでディスカッションを行います。各グループの中で次の課題について、ディスカッションしてください」

 画面がパッと切り替わる。
 浮かび上がる文字を目で追うのと、メモをするのに皆必死だ。

「『課題:グループの中に一人だけ、犯罪者がいる。その一人を炙り出せ。ただし、他人への自白はNGとし、自白したその者は即脱落とする。自分が犯罪者であるという自覚がある者は、正当事由をもって他の人を犯罪者だと指摘し、納得させればよい。議論の期限は三日後の発表の時まで』」
 映し出された世にも奇妙な課題に、会場がざわつき始める。
 当然善樹も、課題の内容を見て混乱していた。

「犯罪者? 炙り出す……?」

 一体どういうことだろう。と考えたところで、ピンとくる。もしかしたら、事前にグループのメンバーの一人に「犯罪者」の役割を担うように何らかの指示があったのかもしれない。例えば受付で「犯罪者」という札を渡されたとか。人狼ゲームみたいに、誰かがそういう役目を与えられている可能性は高い。それから、これから役割を与えられるというのも考えられる。どちらにせよ、会社の事業とは一切関連のない課題に、違和感を拭えなかった。

「静粛にお願いします。この課題を見て驚かれた方が大半かと思います。皆さん、弊社の企業研究をして準備されてきたことでしょう。弊社の事業内容とはまったく関係のない課題に、どう取り組んでいただけるか。それを、私たちに見せていただきたい」

 岩崎の言いたいことは、なんとなく理解できた。
 誰しもインターンシップに参加するにあたり、その企業の概要を調べるのは当たり前のことだろう。だが、RESTARTはそういう学生の予想の裏をついて、まったく新しい課題を出してきた。突発的で前例のない問題にどう立ち向かうのか——学生たちの人となりを知るのには確かに納得できる課題だった。

「課題はここに書かれているとおりですが、何か質問はありますか?」

 岩崎が全員の顔を見回して問いかける。シンと鎮まりかえる会場で、やがて一つの手が上がった。Aグループに所属する女の子のようだ。

「はい、そこのきみ」

 岩崎に指名されて、一人の女子が立ち上がる。そばにいた社員からマイクを渡された。

「課題の『犯罪者』についてなのですが。ここでいう『犯罪者』とは、グループの中に一人、そういう役割を担っている人がいるということですよね? すでに本人は把握しているのでしょうか」

 善樹が先ほど気になったことを代弁してくれた。おそらくこの場にいる全員が同じ疑問を抱いていることだろう。

「良い質問ですね。座ってください。彼女の言う通り、この中のA〜Fグループに一人ずつ存在する犯罪者は、ご本人が把握している状態です。なぜなら彼らは——実生活で実際に犯罪を犯したことがあるからです」

「え、どういうこと?」

「本物の犯罪者がいるの?」

「さすがに嘘だろ」

 今日一番のざわめきが会場中に広がる。善樹も例外ではなかった。周りの人間の顔をつい見てしまう。みんな同じだった。きょろきょろと頭や視線を動かして、周囲の様子を伺っている。それこそ犯罪者を見るような疑いのまなざしを他人に向ける者もいた。
 本当の犯罪者がいるだって?
 善樹の頭も当然困惑していた。
 前代未聞の課題に、さらに前代未聞の前提条件が付け加えられる。今この状況を冷静に受け入れることができている人間などいないだろう。

「皆さん、落ち着いてください。さすがに、殺人のような重い犯罪を犯した人はいません。どれも言ってしまえば軽い罪です。ですが、犯罪者というのには変わりありません。その一人を、議論で見つけ出してくださいということです」

「……」

 狂った課題を淡々と口にする岩崎に、誰も何も言い返すことができない。口を開けば自分が犯罪者だとバレてしまうのではないか——そんな空気さえ感じられた。

「この課題は、あくまで犯罪者を炙り出すまでの思考を試すものです。必ずしも正解を求めているわけではありません。たとえ間違った答えを出したとしても、納得できる主張をすればいいのです。そのため、犯罪者として自覚のある人自身も、正当な理由をもって誰かを告発してください。真偽は問いません。ただ我々を唸らせてほしいのです。あと、この課題ではグループで一つの答えを出すのがゴールではありません。各グループの中でそれぞれが一人ずつ、犯罪者だと思う人物を発表してください。その中で一番面白い発表をした人(・・・・・・・・・)を、優勝者とします」

「面白い発表……?」

 誰かが疑問を口にした。岩崎にも聞こえていたはずだが、彼はスルーして続けた。

「優勝者は各グループに一人なので、A〜Fグループでそれぞれ六人の勝者が現れます。優勝者には賞金の授与、さらにこのインターンシップの後、弊社の特別選考にご招待します」

 特別選考。
 誰もが頭の中に、「内定」の文字を浮かべたに違いない。善樹も、特別選考という甘美な響きに心を奪われていた。
 経団連の取り決めでは、基本的に決められた期間内でしか就活生に内定を出せないことになっている。普通は四年生になってから採用開始となるのだが、実際はそれよりも前に内々に内定を出す会社も少なくなかった。株式会社RESTARTも、その一つのようだ。
 特別選考で合格=内定とは誰も口にしていないはずなのに、みんなの頭の中では同じ方程式が成り立っている。岩崎がニッと口の端を持ち上げたのが分かった。

「特別選考で上手くいけば、皆さんが想像している通りの報酬が得られるでしょう。ぜひ、頑張ってください」

 最後に一礼をした岩崎は颯爽と会場から出ていった。
 途端、会場全体の空気が弛緩したのが分かった。

「これから各グループで自己紹介の時間に移ります。グループ同士で顔が見えるように、輪になりましょう」 

 司会らしい社員が声をかけると、善樹たちは一列に並んでいた列を崩し、それぞれのグループで輪の形になった。
 グループの人数は自分と風磨を除いて四人。男二人、女二人だ。その中に見知った顔が二人もいて、善樹は驚く。彼・彼女は善樹を一瞥し、意味ありげに視線を逸らした。

「えっと、初めまして!」

 グループの中で一番小柄で少年のような可愛らしい顔をした男子が、まるで友達に挨拶をするみたいに「よっ」と右手を挙げた。その軽さに、その場にいた全員が驚いたのが分かる。少年は構わずに続けた。

「俺は、天海開(あまみかい)。カイは“開く”っていう漢字です。東山中央大学情報学部三年生。あ、愛知県の大学ね。よろしく」

 この場にそぐわない明るいテンションで自己紹介をする開は、インターンシップという緊張を強いられる場面でも上手く立ち振る舞えていると、善樹はさっそく感心させられた。

「愛知県から来たんだ」

 ショートカットの女の子がコメントする。

「うん。ここ静岡だし、近いでしょ」

「そうですね。RESTARTのインターンだし、近いならぜひ参加する価値ありますよね」

「そうそう」

 初対面の女子とも臆することなく会話をしている開に、善樹は驚きっぱなしだ。

「それで、みんなの名前は?」

 開が今度は他のメンバーに問いかける。先ほど開にコメントをした黒髪ショートカットの女子が口を開いた。

「私は、坂梨友里(さかなしゆうり)です。京和大学経済学部三回生。よろしくお願いします」

 ハキハキとした喋り方をする友里は、日本人なら誰もが知っている京都の国立大学の名前を口にした。善樹の通う東帝大学と肩を並べる大学だ。RESTARTのインターンに参加するにはふさわしい大学の学生。善樹はこのインターンが今後の人生を左右する鍵になることを確信した。

「京和大学なんてすごいですね。ちなみに僕は、京和大学を受験したんですが、落ちてしまって、滑り止めの松慶大学に通っています。理学部三年です」

「滑り止めで松慶大学も十分すごいですよ。難関私立大じゃないですか。ちなみにお名前は?」

「ああ、林田宗太郎(はやしだそうたろう)です。よろしくお願いします」

 林田宗太郎。
 懐かしい名前に、善樹は一瞬目を細める。
 宗太郎とは高校時代の同級生だ。向こうも気づいているはずだが、善樹に対しあえて何かを言ってくることもない。

「林田くん。よろしく〜」

 開がまた明るい声で右手を差し出した。何の握手なのか、と宗太郎は戸惑っている様子だった。だが開はそんな宗太郎の逡巡などお構いなしに、右手を握った。

「それで、残りの二人は?」

 自己紹介を終えた三人が一斉に善樹と、もう一人の女子を見る。善樹はようやく自分の番が来たと思い、告げた。

「一条善樹です。東帝大学法学部三年生。社会福祉事業サービスに興味があって今日ここに来ました。よろしくお願いします」

他のみんなは名前と大学名しか言わなかったが、善樹はインターンに対する心意気まで話した。「おお」と開が感心したように声を漏らす。宗太郎は真顔で善樹を見ている。

「東帝大なんだ。すごい」

 一番大きなリアクションをしたのは、意外にも友里だった。友里も京和大という偏差値の高い大学に通っているのだから、「すごい」と言われるほどのことではない。だが悪い気はしなかった。

「へえ、結構な高学歴が集まってるね。そっちのきみは?」

 再び開が自己紹介を進める。最後に一人の女子の方へ視線が集まる。少し茶色みのあるストレートの髪が艶を帯びている。善樹もよく知っている人物だった。

「申し遅れてすみません。私は長良美都(ながらみと)といいます。一条くんと同じ東帝大学の文学部で……今、三年生です」

 心なしか、大学名と学年を言う時に渋るような素ぶりを見せたような気がする。美都は、こういう場で大学名を伝えるのが恥ずかしいと思っているのかもしれない。善樹の周りにも同じようなことを言っている同級生がいたのを思い出す。「インターンで大学名を言うでしょ。そしたらみんな、高学歴の自分に過度な期待を寄せてくるというか、色眼鏡で見られる気がして嫌なんだ」とその人は言っていた。同じ学部の女子だった。善樹には持ち得ない感覚だったので、適当に「へえ」と相槌を打った記憶がある。

「うわ、東帝大の人が二人!? じゃあ俺たちのグループ強いんじゃない?」

 興奮気味の開の声が響き渡る。

「いや、確かグループで協力してやるような課題じゃなかったですよね? だったらグループ全体の偏差値ってあんまり関係ないような」

 ショートへアの友里の言葉に、ああ、そうかと善樹も思い直す。

「そういえば、そう言ってましたね。今回の課題って、発表も個人でするみたいですし」

「はい。だからどちらかと言えば、グループのメンバーが敵ということになるんです」

「……」

 敵、という身も蓋も無い分かりやすい表現に、全員が押し黙る。発言をした友里自身も気まずそうに顔を伏せた。

「ま、まあ、敵なんて固いこと言わずにさ、仲良くしようぜ」

 開のポジティブな発言に、善樹はほっとさせられていた。他のメンバーも同じようで、「そうですね」と胸を撫で下ろす。

「インターンはインターンですし、楽しみながら課題こなすのが一番ですよね」

 機転の利く開と友里の会話に、善樹、宗太郎、美都の三人はすでに出遅れたようなかたちになった。
「あ、そういえば実はもう一人、僕の双子の弟が来てるんです。ちょっと席を外しててまだ戻ってきていないんですけど。お腹でも壊したのかも」

「え、そうなんですか? 私たち以外、誰もいないような気がしますけど」

「ちょっと、自由なやつで。また戻ってきたら紹介します。迷惑かけてすみません」

 風磨の代わりに善樹が頭を下げる。まったくどこに行っているのか。ため息をつきながら、日程表に目を移した。善樹がそうしている間、美都がじっと善樹の方を見ているような気がして、善樹はあえて目を合わさないようにしていた。宗太郎とは美都はもともと知り合いだ。だが、自己紹介の際には全員知り合いだとは話さなかった。それなりに、みんな意図があるに違いない。善樹自身、自分から言う必要はないと思った。
 なんといっても、今回の課題である「犯罪者を炙り出せ」——は、グループ内で心理戦になる可能性が高い。必要以上に個人情報を話すのにはリスクがある。もっとも犯罪者だと指摘されたところで、善樹は完全な白であるからダメージは少ないのだけれど。「お前が犯罪者だ」と言われればきっといい気分はしない。
 個人情報の開示には気をつけないとな。
 ひっそりと胸に誓いを立てる。

「そろそろ二時ですね。この次は館内案内があるみたいなので、少し休憩ですね」

 丁寧な口調で宗太郎が言う。優しそうな顔をしており、眼鏡をかけて知的な様子で振る舞うので、昔から女子によくモテることを善樹は知っている。今日も、相変わらずにこにこと微笑みながら全員の話を聞いていた。誰もが宗太郎のことを、人畜無害な人だと思うだろう。実際善樹も、宗太郎に悪い印象を抱いたことはなかった。

「十四時になりましたので、今から館内案内と休憩に入ります。自己紹介がまだ終わっていないグループは、ディスカッション開始までに終えるよう、よろしくお願いします」

 司会者の一声で、学生たちがグループごとにわらわらと大広間を退出する。

「修学旅行みたいだな」

 いつのまにかそばに戻ってきた風磨の声が降ってきて、善樹ははっとする。スマホの時計盤を見ていた時だ。

「風磨、どこ行ってたんだ」

 他の人には聞こえないよう、小さな声で尋ねる。

「トイレに行ってたら迷っちまって。あ、あと売店とか見てたけど」

「トイレと売店? 一時間もかかるのか」

「他人のトイレの時間にまで文句つけるなよ、兄貴」

 呆れ声で善樹の小言に文句を言う風磨だが、呆れているのは自分の方だと思う。

「人数が多いので、グループごとに順番に館内を案内します。Aグループはこちらへ」

 善樹たちは再びグループごとに整列をさせられ、それぞれ違う順番で館内案内を受けた。『温泉旅館はまや』は見たところかなり立派な旅館で、団体客が何組も泊まれるほど広い。一階にある売店は地元の名産品で溢れているし、温泉も案内図で見た限り、かなり大きいことが分かる。もちろん露天風呂もあり、「洞窟風呂」なんていうお風呂もあるようだ。宿泊型インターンシップで温泉旅館に泊まれるなんて、とても恵まれている。それもこれも、株式会社RESTARTだから為せる業だった。

 館内の施設を巡った後、最後にそれぞれの部屋に連れて行かれた。なんと、一人一人個室だそうで、またも善樹は驚かされた。とはいえ、風磨と善樹は兄弟なので同じ部屋らしい。まあ、その辺りは不満などないので別に良い。男子全員同じ部屋に入れられるのかと思っていた善樹はほっとしていた。

 部屋は十畳ほどの広い和室で、トイレとお風呂はセパレートだった。なんとも贅沢な空間。ここに二泊もしながらRESTARTの特別選考を受けられるかもしれないとなると、全員のやる気がみなぎるに違いない。RESTARTがそこまでして優秀な学生を引き抜きたいと思っていることがよく分かった。
 十五時までは休憩時間と聞いているが、現在十四時三十分。あと三十分は部屋でのんびりできるな、と善樹は窓辺の椅子に座る。窓にうっすらと映る自分の顔を見ながら、先ほどもらったパンフレットのメモ欄を広げて風磨に問う。

「風磨、お前、この課題どう思う?」

「ん、ふざけた課題だな」

「直球だなあ」

「そりゃそうじゃねえか。そんな課題考えつく会社なんて、絶対やべー会社だって」

「はは、お前の価値観でいくとそうだろうな。僕は、割と面白そうな課題だって思ったんだけど」

 善樹は今回のインターンの奇想天外な課題について、冷静になってみるとなかなかよく考えられた課題ではないかと感じていた。

「なんでそう思うんだよ」

「いや、なんかさ、自分に合ってそうな課題だって思っただけ。犯罪者を指摘するって、正義のヒーローぽい演出じゃない?」

「兄貴、そういうのが好きなのかよ。まあ分からんでもないか。兄貴って昔から正義感強いもんな」

「それ、よく言われるけど自分じゃ分かんないんだよなあ。普通に、いいと思ったこととダメだと思ったことを、実生活で実践してるだけなんだけど」

「それが正義感なんだよ」

 風磨とは生まれてからこの方価値観が合うと思ったことがない。だから、合わなくてもまあどうってことないし、特に気にもしていない。

「そろそろ時間だから行こうか」

「えー、行きたくないな。ディスカッションなんて面倒臭い」

「はあ。風磨、お前さ、じゃあなんでインターンなんて参加したんだよ」

「そりゃ、美味い飯と広い風呂にありつけるからだろ? それ以外ないってんだ」

 風磨らしい言い分を頂戴したところで、善樹はさっさと外靴を履いて部屋を出た。その時ちょうど、隣の部屋から宗太郎が出てきて鉢合わせする。
「久しぶりだよね、善樹」

 柔和な笑顔を浮かべて、まんざらでもないふうに善樹に話しかけてきた。

「ああ、宗太郎、久しぶり。さっきは素っ気ない態度をとってしまったけど、同じグループにいて驚いたよ」

「はは、実は僕も。高校卒業以来だもんね。元気にしてた?」

「おかげさまで。勉強は難しいけど、なんとかついていってる感じ。宗太郎は?」

「僕も同じかな。サークル活動の方も忙しいし」

「そうか。お互い頑張ろうな」

 宗太郎とは、高校時代の同級生だ。三年間で二回同じクラスになったので、それなりに仲が良かった。確かお父さんが警察官で、厳しい人だと嘆いていたのを思い出す。それでも勉強が得意な彼は成績は常にトップクラスで、善樹とはしのぎを削っていた。いい意味でライバル同士だったというわけだ。

「今回の課題……善樹は得意そうだね。僕、善樹には負けちゃうかも」

「そんなことないよ。僕は宗太郎のことが一番怖い」

「はは、じゃあお互い要注意だね?」

 柔らく笑いながら、宗太郎は両目を三日月型にした。それからは無言で二人で大広間まで戻っていく。だが、ディスカッションの会場は別なようで、大広間とは違う、別の小さめの部屋に案内された。どうやらグループごとに個室で分かれているらしい。
 Dグループの部屋に入った善樹と宗太郎は空いている席に座った。他の三人はすでに着席しているので、これで全員揃ったことになる。

「うわーここでディスカッションすんのか。なんか監獄みたいだな」

 いつのまにかふらりとそばに現れた風磨が声を上げる。

「ああ、すみません。こいつ、弟の風磨です。こんなやつですが、よろしくお願いします」

 善樹がみんなを見回しながら風磨の紹介をした。四人はそんな善樹を訝しげな目で見ている。友里は首を傾げていた。まあ、風磨のような放浪者が堅実な会社のインターンに現れたら、誰だって不思議に思うだろう。

「じゃ、じゃあさっそくディスカッションに入ろうか。あ、そういえば社員の人が来るんだっけ」

 開がそう言うと同時に、部屋の扉が開く。外から現れたのは「今田」という社員。名札が付いているので、分かりやすい。今田と目が合うと、善樹は軽く会釈をした。

「こんにちは。株式会社RESTART人事部の今田です。今日から三日間、きみたちDグループのディスカッションをそばで見せてもらいます。最後の発表の時も私がジャッジしますので、よろしくお願いします。基本的に口出しはしないので、いない者として扱ってください」

 いない者、と言われても、扉の脇に椅子を置いて腰掛ける今田のことを、全員が気にしているのがよく分かった。慣れない環境だから余計に、些細なことで気が散ってしまう。
 今田が座っているのはちょうど善樹の背後だった。善樹は今田からの視線を感じつつも、気にしないようにと努める。

「あ、そうだ。これ忘れてました」

 今田がタイマー付きのデジタル時計を善樹たちのテーブルの上に置いた。ディスカッションが終わる十八時にタイマーが作動するようになっているのだろう。

「それでは議論を開始してください」

 今田の合図と同時に、善樹たちは全員で視線を交わす。誰が一番に口を開くか——あまり考える暇はなかった。

「えーっと、今回の課題の確認を、まずするべきなのかな」

 やはり、最初に切り出したのは開だ。こういう時、緊張しないタイプの彼のような人物がいると議論がスムーズに進むのでありがたい。

「そうですね。課題は、『この中に一人いる犯罪者を炙り出せ』ですよね」

 友里の発言で、全員の顔に緊張感がぴりりと駆け抜けた。

「犯罪者なんて、本当にいるのか?」

「いたとしても、軽犯罪なんですよね」

「私、てっきりRESTARTの事業に関する課題だと思って下調べしてきたので、正直どう議論したらいいか分からないです……」

 自己紹介の時、ほとんど発言をしなかった美都がしゅんとした表情で肩を落とす。美都とは同じ大学で、学部は違うけれど知り合いだった。一年生の時に、たまたま一緒になった一般教養の授業で打ち解けて以来、仲良くしていた。アルバイト先のカフェも同じだったので、彼女のことはそれなりに知っている。といっても、大学以前のことは知らないので、このインターンでどこまで彼女について考えられるかは未知数だ。

「普通そうですよね。僕もRESTARTについてはOBの先輩に聞いて色々調べてきましたけど」

 宗太郎も美都と同じ意見のようだ。
 株式会社RESTARTは、創立八年目にして年商二千億円、社員一千人のメガベンチャー企業だ。理念は確か、「マイノリティ、社会的弱者が生きやすい世の中へ。人生を再スタートさせる」だった気がする。
 社会福祉事業といえば普通なら社会福祉法人を考えると思うが、最近、福祉事業サービスを展開する企業が増えている。それもこれも、二〇二〇年代から二〇三〇年の今日にかけて政府が掲げている政策に起因している。生活保護、LGBTQ,、高齢者問題など喫緊の社会問題を解決すべく、社会福祉事業を行う会社に、政府が一定の助成事業を開始したのだ。要するに、社会問題を解決してくれる会社には助成金を支払ますよ、という内容である。

 株式会社RESTARTは早い段階で時勢を読み、IT技術を駆使して社会福祉事業に取り込んできた。みるみるうちに業績が伸びて、ニュースでも散々報道されるようになった。さらに、優秀な人材を確保することに余念がなく、SNSを駆使して十代、二十代に認知が広がるよう戦略を打っている。給料も、同業界では考えられないような高額っぷりだ。就活を見据えた若者の間で「今、RESTARTがきている」と話題に上り、こうしてインターンや採用選考に参加する学生が多くなっていった。

「事前調べはほとんど役に立たないみたいですけど、この課題はかなり考え甲斐があるんじゃないかと思います」

 善樹が率直な意見を述べると、全員が善樹の顔を一斉に見やった。奇天烈な課題に対して前向きな善樹のことを、異端児だと感じているようなまなざしだった。それでも善樹は動じない。今は、このインターンシップで与えられた課題を遂行するだけだ。

「まあ、そうですよね。事前調べは本番の選考においては活きてくるでしょうし。とにかくディスカッションをしましょう」

 友里も善樹の意見に賛成なのか、議論を進めたいという意思を示した。開がコホンと咳払いをして、「それじゃあ」と口火を切った。

「とりあえず、判断材料になるものが必要だな。さっき自己紹介をしたけど、もう一度深掘りしていく?」

「それなら、『自分史』を見せ合うのはどうですか? ほら、日程表にも※印で書いてあります」

 宗太郎の鶴の一声で、そうだったと全員が気づく。
 今回のインターンシップに参加するに当たり、全員が『自分史』を作成するように事前課題が出ていた。

「そうだった。みんな、持ってきてる?」

 開がみんなの顔を一瞥する。誰もが頷いた。

「じゃあ、それぞれの『自分史』を見てみようか。テーブルの上に出そう」

 善樹は部屋から持ってきたトートバックの中から、一枚の紙を取り出す。そういえば、とふと風磨のことに思い当たる。

「風磨、『自分史』作ってきた?」

「いやまさか。俺がそんなもん作るわけないだろ」

「はあ、やっぱり。じゃあ風磨は僕と一緒ということで」

「はいはい」

 善樹が小さい声が風磨と会話をしていると、美都が何度も瞳を瞬かせてこちらを見ていた。他のメンバーも、チラチラと善樹の方を見る。私語が多かったか。気をつけよう。
 五人分の『自分史』が出揃うと、全員が自分以外の『自分史』と睨めっこを始める。善樹も、みんなの『自分史』をきちんと見ようと立ち上がった。
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〈林田宗太郎〉
【自分史】
二〇〇九年九月二十日 東京都に生まれる
◯父親が警察官、母は高校教師の家庭に生まれる

二〇一二年四月   海南保育園入園
◎保育園でひらがな、九九を覚えたことが自信につながった
△女の子からよくモテた

二〇一六年四月   美山小学校入学
△合気道、空手、ボーイスカウトを習う
◎プログラミングを習う
◎数学、理科、英語が得意
×国語の音読の宿題、夏休みの読書感想文が苦手

二〇二二年三月   美山小学校卒業

二〇二二年四月   高嶺中学校入学
×公立中学校へ進学
◎物理部に所属。大会で優勝

二〇二五年三月   高嶺中学校卒業

二〇二五年四月   開名中高一貫校高等部進学
◎初めて私立の学校へ進学する。中高一貫校の高等部からだが、なんなく馴染むことに成功。
×新歓で野球部に誘われ、入部。高二の春に退部

二〇二八年三月   開名中高一貫校高等部卒業

二〇二八年四月   松慶大学理学部入学

◎難関私立大学に合格
◎これまでに某大手外資系コンサル、証券会社、鉄道会社などのインターンに参加
◎色々な会社を見て来た中で、現在は「人を助ける仕事」に興味を持っている

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〈長良美都〉
【自分史】
■略歴
二〇〇九年四月九日 岩手県に生まれる(すぐに東京に引っ越す)
二〇一三年四月   西が丘幼稚園入園
二〇一六年四月   富中小学校入学
二〇二二年三月   富中小学校卒業
二〇二二年四月   富中東中学校入学
二〇二五年三月   富中東中学校卒業
二〇二五年四月   城陽高校入学
二〇二八年三月   城陽高校卒業
二〇二八年四月   東帝大学文学部入学

■小学校時代
 教室で絵を描いたり、本を読んだりと内向的な性格だった。成績はよく、テストの際にはクラスの男子からよくカンニングの被害にあっていた。その場で相手に「やめて」とは言うものの、先生には報告する勇気がないような子供だった。

■中学校時代
 美術部に所属し、ひたすら絵を描く毎日。先生から褒められて、大会で入賞した時は素直に嬉しかった。人生で一番嬉しかったかもしれない。

■高校時代
 中学時代に引き続き美術部に入った。美大を目指そうかと迷ったけれど、将来のことを考えて、国立大学を目指すことにした。
 勉強は得意だったので第一志望の大学に合格した。一人暮らしについては不安しかなかった。返済型と給付型、二つの奨学金を借りて、なんとか一人暮らしができる目処がたったときにはほっとした。

■大学時代
 文学部に入り、美術史を専攻することに決めた。サークルには入らなかった。下宿先でイラストの仕事を探して、実際に受注まで漕ぎ着けた。

■資格
 普通運転免許
 漢字検定準一級
 日商簿記二級
 秘書検定一級
 TOEIC九〇〇点

■特技
 イラストを描くこと。
 幼いころから一人で家にいることが多かったので、絵を描いていた。現在はWEBイラストを中心に描いており、イラストレーターを目指している。個人でSNSアイコンやWEB小説の表紙など受注実績あり。イラストを通してお客さんから感謝をされるとモチベーションが上がる。

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〈天海開〉
【自分史】
二〇〇九年十一月二七日 名古屋市に生まれる

二〇一三年四月   桜田幼稚園入園
・同級生たちに比べると身体が小さいことがコンプレックスだった。

二〇一六年四月   赤桐小学校入学
・ゲーム三昧の毎日。地元のゲーム大会で優勝する。

二〇二二年三月   赤桐小学校卒業

二〇二二年四月   田崎中学校入学
・YouTubeでゲーム実況を開始。半年でチャンネル登録者数一万人を突破。学校を休んでYouTubeに没頭する。

二〇二五年三月   田崎中学校卒業

二〇二五年四月   旭高校入学
・勉強があまり得意じゃなかったので、情報科のある高校に入学。偏差値で言うと三流ぐらいだけど、情報科での勉強がYouTubeに活かせたのは良かった

二〇二八年三月   旭高校卒業

二〇二八年四月   私立東山中央大学情報学部入学
・旭高校からはなんなく進学できるレベルの大学に進学。親からはもっと勉強を頑張って上の大学に行くよう勧められていたけれど、冗談じゃないと思った。今が楽しいのでそれでよし。

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〈坂梨友里〉
■略歴
二〇一〇年二月十日 京都府に生まれる
二〇一三年四月   西京幼稚園入園
二〇一六年四月   梅林小学校入学
二〇二二年三月   梅林小学校卒業
二〇二二年四月   鴫浦中学校入学
二〇二五年三月   鴫浦中学校卒業
二〇二五年四月   堀内高校入学
二〇二八年三月   堀内高校卒業
二〇二八年四月   京和大学経済学部入学

■モチベーションがアップした瞬間
・小学生時代、地域のゴミ清掃を率先して行い、表彰されたとき
・中学生時代、バスケ部でキャプテンに選ばれたとき
・高校時代、バスケ部と両立しながら定期テストで一位を獲得したとき

■人生で一番落ち込んだ瞬間
・高校時代、練習に練習を重ねた百人一首大会で惜しくも優勝を逃したとき

■これから挑戦したいと思うこと
・日本で暮らすマイノリティの皆さんに対する支援活動、コミュニティの立ち上げ

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〈一条善樹〉
【自分史】
二〇〇九年六月十日 東京都に生まれる。

二〇一〇年八月   双子の弟・風磨と一緒に花岡保育園に預けられる。
■保育園の記憶はあまりない。唯一覚えていることは、風磨が給食の野菜炒めを残したので代わりに食べたところ、先生にこっぴどく叱られてしまったこと。風磨を助けたつもりだったのでつらかった。

二〇一六年四月   城山小学校入学
■小一からスイミング、そろばん、空手、英語、ピアノを習う。そろばんは段位取得まで毎日一時間練習した。風磨は早々にそろばんをやめた。級があるものは上を目指すのに必死になった。先生に褒められたのが嬉しくて頑張れた。
■小五の時、みんなで近所の公園の清掃に行った。ちょうどタバコの吸い殻をその場で捨てている男の人がいたので、注意した。すると、その男の人から怒鳴られた。僕はなぜ? という疑問しかなかった。

二〇二二年三月   城山小学校卒業

二〇二二年四月   私立開名中高一貫校中等部入学
■両親の勧めで開名に入学した。受験は大変だったが、期待されていると思うと頑張れた。 風磨は公立中学に進学することに。
■中学ではバスケ部に所属した。今までやったことのない競技で実力をつけたいと思ったから。練習しすぎて何度も腱鞘炎になった。大会では個人戦でベスト四まで進出できたが、優勝は叶わなかった。
落ち込んでいたみんなを励ましたが、「呑気なことを言うなよ」と一人のチームメイトから罵声を浴びせられた。努力したのはみんな同じだと思っていたので、彼の意見には賛成できなかった。
■風磨とすれ違うことが多くなった。学校の悪とつるんで、夜に徘徊などをして生徒指導を受けたようだ。両親は激怒したが、風磨の話を聞くと、悪い友人に脅されたらしい。風磨にはその人たちと縁を切るように説得した。両親も学校側も分かってくれなかったが、僕だけは風磨の気持ちを知っている。

二〇二五年四月   私立開名中高一貫校高等部進学
■中高一貫校だったのでそのまま高校部へ進学。高校では勉強を頑張るため、バスケ部を辞め、その後部活動には所属しなかった。その甲斐あってか、成績はみるみるうちに伸びた。両親も先生も喜んだ。部活動の試合は、相手の出方によって結果が変わることも多いが、勉強で努力した時間は決して自分を裏切らない。僕は初めて、自分が一番信じられるものに出会えた。

二〇二八年三月   私立開名中高一貫校高等部卒業

二〇二八年四月   東帝大学法学部入学
■第一志望だった東帝大学に合格した。それ自体嬉しかったが、大学では法律を学ぶべく、法律討論サークルに入った。このサークルでは、実際に日本で起きた事例をもとに、討論を行う。勉強中の身で討論をするのはかなり難しいが、やりがいを感じている。
■アルバイト先のカフェでバイトリーダーを任された。ありがたいことに、僕のことを慕ってくれる人が多く、仕事や人間関係の相談をよく受ける。一つ一つの相談に、親身になって答えることが、自分の信念である。
■風磨は高校を卒業して、工場で働き始めた。だが長続きはせず、別の会社へと転職した。僕たちはまったく別の道を歩んでいるが、お互いの近況報告は欠かせない日課だ。

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 ざっと全員分の自分史を読み終えた善樹は、なるほど、と顎に手を当てる。「自分史」という一つの課題でも、細かい書き方に違いがあって面白い。善樹以外のみんなはまだじっとそれぞれの紙を見つめていて、読むのに時間がかかっている様子だった。

「……みんな、読み終わった?」
 開が目を点にしながら問う。どうやら文字を追うことに疲れたらしい。気持ちは分からなくもないと思う。

「はい、終わりました」

「僕も」

「私もです」

「もちろん僕も」

 全員が返事をしたところで「えっと」と、開が続ける。

「何か、特徴とか分かった?」

「はい。天海くんって、YouTuberなんですね。今知りました」

「ああ、俺? うん、そう。ゲーム実況だから女子は知らなくても当然だと思うし、まだまだチャンネル登録者数は少ないから、自慢できることでもないけど」

「いや、すごいです。私なんて、勉強しか取り柄がないですから」

 ハキハキとした口調の中に、どこか切なさが滲む友里の声。開は「そんなことないよ」とフォローしている。

「あと気になったんですけど。林田くんと一条くんは同じ高校ですよね? それから、一条くんと長良さんは同じ大学ですが、二人は知り合いですか?」

 友里の観察眼は鋭かった。それぞれの略歴を見れば明らかだが、こうしてたくさんの情報を並べられて瞬時に善樹たちが知り合いかもしれないと見抜くのはさすがだ。

「うん、そう。だよね、善樹」

「あ、ああ。僕と宗太郎は元同級生で、友達。長良さんとは——普通に、知り合い」

 美都が弾かれたような表情を浮かべて俯く。気に障るようなことを言ってしまったか……と善樹はドキリとした。

「そうなんですね。ちなみに一条くんはすごく丹念に自分史を書いてますね。弟さんのことまで。あと、文章を見てると、正義感が強い人だって伝わってきました」

 友里の口から出てきた「正義感」という言葉に、善樹の心臓が跳ねる。よく風磨に言われることだ。風磨が耳元で「ほうらね」とせせら笑う。

「……自分では分からないんだけど。確かに、間違ったことをしている人を見たら、注意せずにはいられなくなるな。昔からそうだった」

「善樹は本当に正義感が強いよ。高校の時だって、不登校になったクラスメイトを救うために、担任になんとかしてほしいって訴えに行ってたよね? 確か、不登校になった子は軽いいじめを受けていて。担任が『証拠がないから』って面倒くさそうにして取り合ってくれなかったから、校長先生にまで相談しに行ってさ。結局その子は転校しちゃったんだけど、あのエピソードは印象的だよ」

「そうなんですか。それはかなり、正義感が強いと言えますね」

 フムフム、と探偵が容疑者から証言を聞いているかのような素ぶりで友里が頷いていた。自分の高校時代のエピソードを語られて、善樹は小っ恥ずかしくなる。

「正義感で言ったら僕はさ、父親が警察官だけど、そこまで正義感は強くないかな。人間の暗い部分とか色々聞いちゃって、正義感が育たなかったというか。だから余計に、高二の時、体育で二人組になれって指示が出た時、僕が余って善樹が『三人で組んでもいいですか』って手を差し伸べてくれたのは、本当にすごいと思ったよ。ああいうタイミングで手を挙げてくれるのって、善樹だけだったから。善樹は運動会も文化祭も、みんなが嫌がる実行委員会に立候補してくれるしさ。善樹のこと、僕は尊敬してる」

 にこやかに笑って自分のことを褒めてくれる宗太郎を、善樹は唖然とした表情で見てしまった。宗太郎が、まさかそんなふうに自分のことを思ってくれていたなんて。褒められすぎてまるで女の子から告白でもされたかのような気分になった。

「あの、一条くんのことなら私も、正義感が強い人だなって思ってました」

 これまでほとんど口を開かなかった美都がぱっと手を挙げる。全員驚いた顔で彼女を見つめた。
「あ、急にごめんなさい。前からの知り合いだったから、彼について知ってることは話した方がフェアかなって思って……」

「大丈夫だよ。話して」

 開が続きを促す。

「ありがとう。一条くんとは大学の一般教養の授業で一緒になって知り合ったんですけど、一時期同じカフェで働いてて。その時も、私が無事にアルバイトに採用されるようにアシストしてくれたんです。入ってからも、後輩の面倒をよく見る先輩って感じで、新人の子にはつきっきりで仕事を教えていました。私も……たくさん、教えてもらいました」

「へえ〜二人の話を聞く限り、一条くんってやっぱりすごく正義感と責任感が強いんだね」

「そんなことは……でも、二人ともありがとう」 

 善樹は正直ほっとしていた。知り合い二人がこれだけ善樹のことを「正義感のある人」と推してくれているので、犯罪者として指摘される可能性は低そうだ。
 風磨が面白くなさそうに「ふん」と不貞腐れているような気がして、善樹は笑ってしまう。風磨は善樹が窮地に立たされることを願っているのだろうか。単に面白がっているようにも思えた。

「ところで長良さんは、イラストが好きなんだね。美大を目指してたって書いてあるけど、イラストレーターになるのが夢? このインターンにはなんで参加したの?」

 宗太郎が美都の方に話題を切り替える。イラストレーターになりたいという彼女の夢は、一度だけ聞いたことがあるような気がする。でも、このインターンの自分史に書いてくるとは思っていなかった。宗太郎も疑問に思ったのか、鋭いツッコミだと思う。

「えっと、イラストレーターって言っても、たぶんそれだけじゃ食べていけないから……。普通に会社員としても働きたいんです。そう考えた時に、自分の性格的に人助けをするような会社に入るのが、性に合ってるのかなって思いました」

 最初はしどろもどろしていた様子の美都だったが、話しているうちに緊張が解けたのか、淡々と自分の気持ちを主張していた。

「なるほどね。確かに、“手に職”系は、収入面で不安があるのは分かるよ」

 美都の主張に最も深く頷いたのは開だった。彼も、YouTubeで活動していると言っているから、共感できるところが多いのだろう。
 その後も善樹たちは、全員の書いた自分史について、気になったところを一つずつ本人に質問していった。
 宗太郎の自分史は、出来事を淡々と書いているが、自分の気持ちについては詳細に記していない。その代わり、◎や△といった記号を駆使して気持ちの変化をまとめているようだった。

「この、◎の部分は嬉しかったことで、×の部分は後悔したこと?」

「まあ、そんな感じ。主にその出来事がどれだけ自分にとってプラスになったか、マイナスだったかを記号で示してみたんだ」

「パッとみて分かりやすいですね」

 理知的な彼の特徴がよく表れていて、善樹は唸らされた。
 開の自分史は、シンプルで文量自体少なかった。小中高校での出来事もあまり書かれていない。でも、ゲームが好きでYouTubeのゲーム実況に力を入れているということはよく伝わってきた。一方、幼稚園時代に身体が小さかったことがコンプレックスだと書いてあるところは少し気になった。

「答えたくなかったらいいんけど、このコンプレックスの部分は今はもう解消された……?」

「あ、うん。まあ今はなんとも思ってないかな。一時期友達に揶揄われたこともあったけど、もうどうでもいいやって思ってる」

「そうか」

 開の表情が、いつになく固くなったのを善樹は見逃さなかった。
 学校での出来事に関してほとんど何も書いていないのには、やっぱりコンプレックスが関係しているのではないか。友達にいじめられて不登校になってしまったとか——そこまで考えたが、さすがに本人には聞きづらかった。

 友里の自分史は、この中で最も単純明快で分かりやすかった。
 モチベーションがアップした瞬間と落ち込んだ瞬間をまとめているが、どれも勉強や部活で一番になった時、一番を逃した時、というものだ。彼女の原動力は競争に勝つことなのだろう。善樹も同じ穴の(むじな)なので、気持ちはよく分かった。