『弟はその後もずっと、RESTARTへの不信感が拭えずに、四ヶ月そこらで退職をしました。納得がいかなかったのか、SNSに本音を吐露していたこともあったようです。会社名こそ伏せられていましたが、読む人が読めばRESTARTのことだと分かるような内容でした。彼が車に轢かれて亡くなったのは、RESTARTを退職して三ヶ月後の春のことです。その場の状況から、警察はMさんの父親を犯人だと判定しました。Mさんの父親が普段乗っていた会社の営業車が弟を轢いたそうです。Mさんの父親には他にアリバイもなく、ドライブレコーダーは壊れていました。他にも理由はあったかと思いますが、とにかく弟の事件で捕まったのは、Mさんの父親です』

 でも、と間髪を容れずにブログの文章は続く。

『僕もMさんも、真犯人は別にいると思っています。真犯人はRESTARTの人間なんじゃないか——そう予想して、このブログを書きました。証拠として、さる方から入手した情報を載せておきます』

「!?」

 証拠、と称してブログに添付されていた画像を見て、優希は絶句した。

『株式会社RESTART、社会福祉助成金に関する立入検査拒否履歴』

『老人介護施設で生活している高齢者たちの個人情報、財産を奪取』

『ホームレスたちが受け取った生活保護の行方調査』


 そこには、優希をはじめRESTARTの人間が隠したいと思っていた会社の「裏」の顔が暴かれるタイトルと共に、証拠となる記述がずらりと並んでいた。どれも、公的機関や警察によるものとしか思えない。ニュースなどでは一般には公開されていない、会社の秘密がつらつらと並んでいた。

「なんだ、これは……」

 あまりの衝撃に、優希の目が眩む。その場で卒倒してしまいそうな感覚がした。

『これらの資料は、僕が協力者から極秘に手に入れたものです。どれも公的機関に勤める人間の調査によります。この資料を公開することが何かの犯罪に繋がるのだとしても——僕は、後悔はしません。弟の無念を晴らしたい——その一心で、ブログを書きました。弟は、ここに書かれているようなRESTARTの秘密を知り、社員に意見した。だから口封じとして轢き殺されてしまった。もちろん、すべて僕の妄想である可能性は十分にあります。だからこそ、こうして筆を取りました。
 どうか、この文章を読んで少しでも違和感を覚えた方がいれば、彼らの悪事を暴いてください。弟とMさんの父親を襲った悲劇について、考えてほしいです。
 RESTARTでお世話になった皆さん、申し訳ありません。
 それでも僕は、自分の「正義」をもって、この文章を書き残します。真実を、教えてください』

 そこで締めくくられた文章には、すでに五百件以上もの「いいね」がついていた。元のSNSの投稿に戻ると、この投稿が幾人もの著名人によって拡散されていることが分かる。波及力はすさまじく、炎上したのも当然のことだった。


『RESTARTってあの社会福祉企業だよな? まじ?』

『会社、終わったな。乙』

『これが本当なら相当ヤバイ』

『待って、でもこの証拠自体怪しくない?(笑)信じていいの?』

『警察に任せるしかないだろ』

『どうなるか見ものだな』


 投稿に寄せられたコメントには、善悪さまざまな内容があった。だが、誰もがブログを読んで少なからず心を動かされていることは事実だ。面白がっている連中が大半だろうが、ここまで拡散されてしまっている以上、マスコミが動かないはずがない。
「部長、早く対策を考えないと——」
 部下が優希に迫る。他の部署でも同じように、上の連中が判断を迫られているのだろう。 ……くそ、こんなところで終わるわけには——。
 全身の毛穴から嫌な汗が滲み出ていた。
 社内アナウンスが入り、今日は緊急会議を行う旨が通達される。営業もすべて停止。営業部隊は得意先にすぐさま連絡を入れた。もちろん、インターン生は全員出勤停止だ。

「然るべき措置ですね……。あと部長、こんなときに何ですが、長良さんからメールが来ています」

「長良……今、それどころじゃ」

「内定受諾の件と、ブログの件でお話があるそうです。明日、十三時に来るという内容ですがどうしますか?」

 優希の頭の中は混沌としていた。正直今この状況で一介の学生もどきと会う余裕などない。全社を上げて対策を練らなければならない。そんな中、彼女と会うメリットはどこにー—。
 そこまで考えて、やっぱり、と優希は思い直す。
 今、長良美都——「M」から目を逸らすべきではない。
 彼女を放置しておけば、我々に必ず破滅が訪れる。その前に、彼女の処遇(・・・・・)から、なんとかするべきだ。

「……分かった。承諾する」

 低い声で頷くと、部下が「承知しました。返事はこちらから送っておきます」と返答が来た。
 長良美都。
 きみは一体、この状況の中、我々に何を言うつもりだ?
 混沌としたオフィスの中で、優希はどうしてか、薄ら笑いが止まらなかった。

 十月十五日、火曜日。
 本当なら今日はRESTARTに出勤をする日だった。だが、今朝会社からメールが届き、『インターン生は全員出勤を停止、自宅待機とする』という通達がきた。何事かと、善樹は疑問に思うこともなかった。なぜなら、一昨日の夜、爆弾を投下したのは善樹自身だからだ。

「RESTARTが風磨を轢いた犯人だと思わせられるようなブログを書いてほしい」——。

 美都に作戦を打ち明けられた時、善樹はそんなことで大丈夫かと半信半疑だった。だが、Dグループのみんなの親たちに協力してもらい資料を添えてブログを公開すると、著名人から目を付けられたおかげか、記事は瞬く間に広がっていった。善樹自身、ブログを書いているうちに、風磨に対する無念が頭の中を支配し、驚くほど速く筆が進んでいた。
 記事の拡散具合を見て、RESTARTがどれほど社会に影響を与えていたか、身に沁みて感じている。

「お待たせ」

 白いブラウスに黒い綿パンツを履いた美都が、待ち合わせ場所の駅前に現れた。時刻は午後十二時半、早めのお昼を済ませた善樹も、美都と同じようにオフィスカジュアルな服装で外に出ていた。

「早速行こうか」

「ええ」

 余計な会話は一言もせず、善樹たちは電車に乗り込む。昨日のうちに、二人で今日のことを打ち合わせしていた。目論見通り——いや、予想よりも遥かに話題となった記事。それに対しRESTARTが全社を上げて会議を開始したことを善樹は知っていた。美都は昨日、
「明日の一時に会社を訪問できることになった」と善樹に告げた。驚いた善樹だったが、RESTARTが以前から美都と美都の父親のことを知っており、彼女から情報を引き出そうとしていると察していた。
 六本木のオフィスに辿り着く。ビルの外は恐ろしいくらいの静寂に包まれている。ちらほらと、外で待機している人はマスコミの人間だろうか。あの記事の真相について、テレビ局がRESTARTに突撃をしているのだとしても、不思議ではなかった。
 善樹たちは彼らの目を掻い潜り、ビルの中へ向かう。受付で約束があると名乗ると、すぐに人事部のフロアまで通された。

「失礼します」

 案内された部屋の扉をノックして、美都が扉を開ける。善樹はそっと後ろからついて入った。

「岩崎部長、こんにちは」

 朗らかな中に、何かを訴えかけるような不穏な空気を漂わせ、美都は椅子に腰掛けていた岩崎に挨拶をした。善樹も、「お疲れ様です」と頭を下げる。岩崎がすぐに善樹の方をぎろりと睨んだ。

「……一条くん、なぜきみがここに?」

 敵を睨むような鋭い視線が、善樹をその場から押し出そうとしているかのように感じ、一歩、たじろぐ。だめだ。ここで引いてはいけない。強い決意と共に、善樹はぐっと唇を噛んでから答えた。

「長良さんと一緒に、部長に話をしたくて来ました。事前に伝えたら、断られると思ったので。すみません」

「きみは……賢い人間だろう。ビジネスマナーに反するよ。そんなことぐらい分かっているだろう」

「はい、重々承知しています。ですが、僕はもう昨日までの“一条善樹”ではありません。失礼します」 

 同席させてください、という意味で善樹は頭を下げる。しばしの沈黙が流れた後、岩崎がため息をついた。呆れて追い返す言葉も出ないのかもしれない。

 その時、再び部屋の扉が開かれる。「失礼します」と言って入って来たのは、今田だった。

「一条くん」
 岩崎と同様、今田も善樹の存在に動揺しているのが分かった。善樹は気まずくなり、今田から目を逸らす。「すみません」という言葉だけが、反射的に口をついて出た。

「もういい。とにかく話を聞こう。長良さん、きみは内定受諾の件で来たんだね?」

 話を進める岩崎の隣に、今田が腰を下ろす。善樹と美都は正面に立ったまま、椅子に座ろうとはしなかった。

「はい、そうです。単刀直入にお伝えします。内定を、辞退します。せっかくお声掛けいただいたのに、申し訳ありません」

 きっぱりとした口調で断る美都。その決意に揺らいでいる様子は一切見られない。ここに来るまでに、彼女は散々悩んで考えたのだ。今更気持ちがぶれることはないのだろう。

「理由は……聞くまでもないな。一条くん」

「はい」

 岩崎は美都から善樹の方へと視線を移す。罪人から言い訳を聞く警察官のような目つきだった。

「あのブログを投稿したのは、きみだね」

 予想していた質問が飛んできたはずなのに、善樹の心臓が大きく跳ねた。岩崎と、一対一の空間に放り込まれたような気がして、つい足元を見る。隣からは美都の息遣いが、規則正しく聞こえていた。
 落ち着け、大丈夫だ。
 善樹は自分にそう言い聞かせると、「そうです」と頷いた。

「ほう、認めるんだね。どうしてあんなブログを書いた?」

 とても三十代とは思えない貫禄に、気圧されそうになる。心配そうな美都の視線を、横目で感じた善樹は気を強く持て、と意識した。

「……風磨を殺された無念を晴らしたかったからです」

 本音だった。風磨が死んでしまったことから目を逸らしていた自分を恥じ、RESTARTによって始末されたかもしれないという疑念に囚われていた。もし彼らが真犯人なのであれば、このままでは風磨が浮かばれない。それだけは絶対に嫌だった。

「風磨くんを轢いたのは、別人だろう。ああ、その人は長良さん——きみの父親だったね」

 美都がぴくりと肩を揺らすのが分かった。
 やはり……やつらは最初から、美都とお父さんのことを知っていたのだ。知っていて、あえて彼女を宿泊型インターンに招待した。そう思うと、腹の底で熱い塊が煮えたぎるような心地がした。

「違う……長良さんのお父さんがやったんじゃ、ない」

 絞り出した声が思ったよりも震えていることに気がつく。足元がぐらつかないように、強い精神力でなんとか立っていられていた。

「昨日のブログにも書いていたね。あんな証拠とも言えない証拠を並べ立てて、我が社を追い詰めたつもりかい」

 岩崎の声は至極冷静だった。
 昨日、善樹が投稿したブログの記事が炎上したことで、RESTARTは今、対応に追われているのではいのか? 全社会議に一日を費やし、インターン生も出勤停止にしてまで、大事になったのではないのか。それなのに、なぜ。岩崎はこんなにも落ち着き払っている?

「追い詰めたとは思っていません。ただ僕は、風磨の事件の真相が別にあるのだとしたら、それを暴きたいんです。僕一人の力では無理だから、世間に公表して、助けがほしかった」

 そう。
 何も初めから、RESTARTが真犯人であると決めつけていたわけではない。善樹も美都も、美都の父親が冤罪であるならば、真実を教えてほしい。自分たちの力ではそれができない。だからこそ、世間の注目を集めて、RESTARTに捜査の目が向くように仕向けた。それが一番の目的だった。
 岩崎の挑戦的な視線が善樹の胸に突き刺さる。背中でツーッと一筋の汗が流れ落ちた。

「真相を暴く、か。残念ながらそんなことはできない。我が社を舐めてもらっては困る。一介の大学生であるきみたちに、大企業を潰すことなんてできないんだよ。私がきみを夏の宿泊型インターンに参加させた理由を、教えてやろうか」

 もはや、岩崎の中で善樹のブログの件など、些末な問題に過ぎないようだ。美都と一緒に心血を注いで実行した作戦が見事に失敗したことを悟り、泥沼に沈んでいくような心地がした。
「一条くんが、死んだはずの弟くんのことを生きていると思い込んでいるということは、私も知っていた。時々、きみの口から風磨くんの話を聞いていたからね。きみが弟くんの死を受け入れられずに心を壊していると知って、同情はしたよ。でも、同時にこれはちょうどいい(・・・・・・・・・)、とも思った」

「ちょうどいい……? 一体、何が」

「きみがあのインターンで自らの信条について疑い、さらに他人に対しても疑いをかけて、悪に染まっていくのを辞さない人間になれるんじゃないかって、思ったんだよ。きみはとても正義感が強い人間だった。だが、風磨くんの死を受け入れられないきみは、本当は心が弱い人間だ(・・・・・)。そんな人間こそ、我が社にふさわしい。悪を悪だと知りながら、利益のために努力することを厭わない人間を、我々は探しているんだよ」

 きみは、本当は心が弱い人間だ。
 岩崎の言葉が、呪いのように降ってくる。何度も何度も、善樹の心を抉っていく。
 自分は……そうだ。弱い人間だった。
 正義感に囚われて、他人の気持ちを思いやれなかった。そのくせ、自分では良いことをしたのだと思い込んで、いろんな人を傷つけてきた。
 風磨のことだって。辛いことから逃げようと、心に蓋をしていた。
 自分は弱い。
 そんなこと、誰かに言われなくてもとっくに気づいていたのに。
 岩崎の荒い呼吸音、今田の沈着した気配がその場の空気をぐちゃぐちゃにかき混ぜていた。子供の頃、絵の具の赤、緑、青、黄色、オレンジ——いろんな色を混ぜて黒色が出来上がった記憶がフラッシュバックする。

 何もかも、最初から間違いだった。
 小さい頃から人助けをしたり、人から褒めてもらえることをしたりするのが好きだった。
 勉強もスポーツも抜かりなくやってきた。困っている人には手を差し伸べてきた。
 誰からも理解されない弟を一心に庇って、彼とは気持ちを通じ合ってきたつもりだった。
 RESTARTでインターン生として働き始めてからも、岩崎をはじめ、今田や他の社員たちから、腕を認められていると思っていた。
 だけど、そのすべてが幻想だった。
 そのことに気づけなかった。
 無自覚の罠だった。

「……違う」

 息を吸うのも忘れて目の前の景色がぐにゃりと歪んでいく寸前、隣から小さな声が聞こえた。
 途端、美都の息遣いが大きく響く。やがて深呼吸をした彼女が、これまでで一番大きな声で言い放った。

「善樹くんは、弱い人間じゃない!」

 ビジネスにおいて何かを主張するには、いささか感情的で聞き苦しい叫び声だった。岩崎と今田が大きく目を見開く。善樹の心臓が、ドクンと大きく脈打った。

「弱くなんかない。本当に弱いのは、自分たちの罪を認めずに誰かに罪をなすりつけたあなたたちのほう。何かを見失ったり、辛いことから一時的に目を背けたくなったり——それぐらい、誰もが持っている弱さよ。私にだってある。だけど善樹くんは、自分の失敗に向き合って、今日まで前を向いてきたの。誰にだってできることじゃないわ。
それを、あなたたちと同じ弱さ(・・・・・・・・・・)だと決めつけないで!」

 今にも泣き出すんじゃないかという勢いで叫ぶ美都の姿が、善樹の視界の中でくっきりと鮮明に映っていた。知らぬ間に溜まっていた涙が、ほろりとこぼれ落ちる。シャツで顔を拭うと、目の前の景色が途端に色を帯びはじめた。

 善樹くんは、弱い人間じゃない。
 たった一言。それだけの言葉が、善樹の気持ちを波に乗せた。彼女がそんなふうに自分のことを評価してくれていたことが、胸にまばゆい灯りをともしてくれた。
 他人が信じてくれているのに、自分が信じないでどうする。

 自分は確かに弱い人間だ。でも、弱さを言い訳にして悪に手を染めるようなことは絶対にしない。
 お前たちの仲間にはならないっ(・・・・・・・・・・・・・・)

「ありがとう一条さん。おかげで目が覚めた」

「……善樹くん」

 彼女の瞳が揺れている。善樹は胸いっぱいに息を吸い込むと、すべての感情をぶつけるつもりで口を開いた。

「岩崎部長、僕は確かに弱い人間です。でも、僕が犯罪に手を染めることは絶対にありません。弱さにかこつけて、悪を悪だと分からない人間に、なりたくないんです。だから、あなたたちの仲間にはなれません。そして、あなたたちの悪は必ず暴かれます。覚悟しておい
てください」

 言い切った後、会議室全体の空気が凍りついたかのように固まった。だがそんな中で、隣にいる美都からは、ほのかな熱を感じられた。
 目の前に座っている今田は無表情のままだったが、岩崎は不敵な笑みを浮かべていた。その不気味さに、善樹は思わず顔を歪める。

「……そうか。覚悟、ね。分かった。きみが、きみたちが言うように、覚悟をして待っているよ。でも勘違いしないでほしい。真実が暴かれることは絶対にない。私たちがこれまで築いてきた信用が覆されることはないよ。残念だったね」

 小さな子供に言い聞かせるような口ぶりで、岩崎は最後にそう言った後、口を閉じた。これ以上、何を言われても聞かないという意思がはっきりと感じられた。

「お二人とも、今日はありがとうございました。お引き取りください」

 岩崎の代わりに今田が指示をした。善樹も美都も、何も言い返せない。暗く澱んだ空気から逃れるように、二人して部屋の扉の方へと歩いていく。
「……失礼しました」

 美都が部屋から出るのに続いて、善樹も中にいる二人に向かって頭を下げる。もう自分がここに来ることはないだろう。こんな終わりを迎えてしまった後、のこのこと仕事に出向くこともできない。
 岩崎は、終始何を考えているのか分からない表情を貫いていた。最後に今田と目が合う。何かを言いたそうな顔をしていたけれど、ぐっと我慢している様子だった。

 四日前、今田から「一緒に働きたい」と言われた時のことを思い出す。あの時、自分の実力を認められた気がして素直に嬉しかった。RESTARTについて懐疑心を向けていたとはいえ、一人の上司から発せられた言葉として光栄だと思っていた。でもやっぱり、あの言葉には裏があった。善樹がRESTARTに合っているという彼の発言は、岩崎の言い分と同じ——善樹が悪に染まることのできる人間だという意味だったのだから。
 最後の最後、扉を閉める瞬間まで、ドクドクと鳴っている鼓動を痛く感じていた。ガチャ、という音と共に空気が遮断される。

「……」

 美都は複雑な表情を浮かべつつ、善樹に対し、何も言葉を発しない。どんな言葉をかければいいか分からない——そんな彼女の戸惑いが感じられて、善樹は両手の拳をぎゅっと握りしめた。
 無言のまま、エレベーターに乗り込んで一階へと降りる。エントランスを抜けてオフィスビルから出ると、何人もの人の気配がサッと近づいてきた。

「すみません、RESTARTの社員の方でしょうか?」

 ここへ来た時に目にしたマスコミの人たちだ。岩崎と話した後の興奮から覚めない状態で不意打ちで声をかけられて面食らう。美都も、困ったように眉を下げていた。

「いえ……違います」

 はっきりとそう告げたはずなのに、善樹の声はどことなく震えていて。こういった取材に慣れている記者たちの眼光が鋭くなった。

「本当ですか? では、取引先の方でしょうか?」

「だから、違いますって。僕たちは学生です」

「学生さん? 学生さんがなぜRESTARTに? あ、もしかしてきみ、例のブログを書いた——」

「……っ」

 見事に事実を言い当てられて、善樹はぐぐっと唾を飲み込んだ。咄嗟に嘘をつくこともできない。冷や汗が背中を伝う。涼しいはずの秋風が、身体にまとわりついて熱を帯びているように感じられた。

「善樹くん、行こう」

「え?」

 固まって動けなくなっていた善樹の右腕を、柄にもなく強引に引っ張って駆け出したのは美都だった。

「ちょ、長良さん!」

「いいから走って! 止まったらまた捕まっちゃうよっ」

 彼女の悲痛な声を聞いて、善樹は逆に頭の中がすっと冷静になっていくのが分かった。そうだ。自分たちは何も悪いことなどしていない。あの人たちの質問に答える義務だってない。それなのにどうして自分は、弱気になっていたんだろう。
 オフィス街でぜえぜえと肩で息をしながら駆け抜ける善樹たちは、他人の目からすればかなり異様な人間に映っただろう。やがて噴水のある公園まで辿りつくと、美都の足がぴたりと止まった。

「ここまで来れば……大丈夫なはず」

 彼女の言葉に後ろを振り返ってみると、確かに誰も善樹たちのことを追って来てはいなかった。最初から追いかけられてなどいなかったのかもしれない。マスコミの人間たちは、善樹のような学生よりも、今はRESTARTの社員の方に興味があるのだろうから。
 しばらく二人で呼吸を整えつつ、据え置かれていた椅子に座った。美都が気を利かせてくれて、近くにあった自動販売機でお茶を買ってきてくれた。

「ありがとう。今日は本当に、助けられてばかりだ」

「ううん。むしろ、私の用事に無理やり同行してもらったんだもの。お礼を言うのはこっちのほう」

 冷えたお茶が喉元を通り過ぎて、身体を内部から冷やしてくれる。そこでようやく、善樹は自分が今置かれている状況を冷静に見つめ直すことができた。
「ダメだったな……僕たち。RESTARTの悪事を暴くなんて言って、結局何も、できなかった」

「うん……そうだね。完全に、舐められてるって感じだった。内定は断って正解だったけれど、この先どうなるんだろう」

 美都はきっと、どうにもならないという現実を知っている。
 知っていて、あえて分からないふりをしているのだ。
 岩崎の言ったように、RESTARTは徹底的に悪事の証拠を隠滅するだろう。そして、美都の父親は罪を被ったまま、善樹は世間から戯言で大企業を貶めようとした哀れな学生として世間から強いバッシングを受けるだろう。

「……あいつら、本当に調子に乗りやがって。ちくしょうっ」

 くそ、くそ、と拳を何度も椅子に打ちつける。
 やがて拳が赤く腫れ、血が滲んでいく。それでも、善樹は自分の中で行き場を失っている悔しさを発散させる術が他になかった。

「やめて、善樹くん!」

 美都が小さな悲鳴と共に、善樹の手を掴む。本気を出せば彼女の手を振り払うこともできたけれど、潤んだ瞳に涙が浮かんでいるのが見えて、善樹は腕全体から力を抜いた。

「ごめん……」

 みっともないところを見せてしまった。彼女には、散々助けられたというのに。

「ううん、そうだよね、悔しいよね。善樹くんの気持ちはすごくよく分かる。私もすごく悔しい……。悔しいなんて言葉では言い表せないくらい。ぼうっとしてたら、自分を見失いそうになる」

「長良さん……」

 そうだ。彼女だって、父親の無実を証明したいと思っていたはずだ。
 それなのに、あんなふうに軽くあしらわれて、やるせない気持ちは彼女の方が何倍も大きいに違いない。

「でも、すべてが無駄だったとは思えない。少なくとも、私や善樹くんは、悪に染まらなくて済んだじゃない。RESTARTに、自分の意思をはっきりと伝えられたじゃない。それだけでもう、私たちは前に進んでるんだよ」

「前に……そうだね。長良さんの言う通りだ」

「うん。だから行こう? 善樹くんはもうRESTARTの人間じゃない。これからは一条善樹として、堂々と歩いていけばいいんだよ。善樹くんが正義だと思うことを、貫いていけばいい」

 確かに輪郭を帯びた言葉が、善樹の胸に深く浸透していく。
 自分のこれまでの人生での選択を、初めて誰かに肯定してもらえた気がした。

「ありがとう。本当に、きみには助けられてばかりだ」

「そんなことない。私のほうこそ、善樹くんやみんなに助けられてここまで来られた。だからありがとう。あのね、善樹くん。実はちょっとお願いがあって」

「お願い?」

 神妙な顔つきでこちらを見つめる美都。何事かと、彼女の次の言葉を待った。

「私のお父さんに、会ってほしいの」

 彼女に連れられて都内の刑務所にやって来たのは、それから十日程過ぎた金曜日のことだ。
 その間、世間では信じられないことが起きていた。

“株式会社RESTARTの社長、および人事部長の岩崎優希が検挙された“

 善樹が美都と共にRESTARTに乗り込んだ二日後、朝起きてテレビをつけると、真っ先に飛び込んできたニュースがそれだった。寝ぼけているのではないかと思い、顔を洗って再びテレビ画面を凝視する。だがやはり、ニュースはRESTARTの上層部がひた隠しにしていた悪事について、これでもかと言わんばかりに強調していた。

“RESTARTは社会福祉事業サービスと称して自社の介護施設、老人施設で生活している身寄りのない人間から個人情報及び財産を奪取”

“ホームレスの人たちを施設に送り込み、彼らの生活保護を中抜きしていた”

“国から助成金を騙し取る”

“RESTARTは社会福祉事業会社ではない。人間の弱みに漬け込んだ悪魔のような会社だ”

“RESTARTの真の姿を知っていたのは会社でも限られた人間のみ。上層部と、一部の人間だけが不正を働いて得たお金で高い利益を得ていた”

“人事部長の岩崎優希は、昨年春に起きた「RESTART元従業員轢き逃げ事件」の容疑者として、現在取り調べ中”

 テレビ画面に映し出される数々の恐ろしい文句に、善樹は我が目を疑った。

「どうして」

 RESTARTが働いた悪事について、およそそんなところだろうと予想していたものと、そこまでしていたのかと度肝を抜かされたものは半分ずつだった。それ以上に、あれだけ不正がバレることはないと豪語していた岩崎たちの秘め事がこうして二日と経たずに暴かれてしまったことが、不思議でたまらなかった。
 善樹のブログを見て警察が動いたのだとしても、あまりにも早すぎる。
 それに、一介の大学生のブログを見て、警察が真面目に調査をしてくれるとは到底思えなかった。

「岩崎部長が、風磨を——」

 もう一つ分かった衝撃的な事実を、善樹は口にする。誰もいない部屋にこだまするニュースの音声と、善樹の声が混ざり合って、ぐわんと頭の奥に響いた。

「長良さんに……連絡しないと」

 咄嗟に思いついたのがそれだった。だが、善樹が彼女に連絡をするよりも前に、彼女の方から大量のメッセージが届いていた。

【会って話がしたい】

 それだけの言葉が、善樹を突き動かす。朝食もまともに摂らないまま、彼女と約束をして家を飛び出した。


「本当にびっくりした……朝起きたら、ニュースでRESTARTのことが流れてるんだもん」

「僕も、驚いた。にしてもどうしてこんなに早く……」

「なんでだろうね。善樹くんのブログが効いたのかもしれない。かなり拡散されてたし。今もリポストされてるでしょ?」

「うん、それはそうだけど。ニュースの効果だろうね」

 いつもの喫茶店で、モーニングメニューを食べながら、いまだ冷めやらない興奮をなんとか鎮めるのに必死だった。
 美都の言う通り、善樹のSNSアカウントは朝からひっきりなしに通知が届いていた。鬱陶しくなったので通知はオフにしていたが、今も画面を開けばどんどん拡散されているのが分かるはずだ。

「なんか納得いかないけど、でも、明るみに出て良かった」

 彼女の顔に一気に安堵が広がる。善樹と会うまで、抱えきれない不安を溜め込んでいたのだろう。善樹も同じ気持ちだった。

「それでね、お父さんのことなんだけど」

 彼女の薄い唇が開く。

「善樹くん、十月二十五日の金曜日って空いてる? お父さんに、一緒に会いに行ってほしいの」

「この前、RESTARTからの帰りに言ってた話だよね。うん、大丈夫。その日は予定がないはず」

 頭の中でアルバイトのスケジュールを確認しながら答えた。

「ありがとう。じゃあ時間と待ち合わせ場所はまた伝えるね。お父さん、喜ぶと思う」

 美都の父親が善樹に会って喜ぶというのはあまり考えられないことだったが、純粋な笑顔を浮かべる彼女を見ていると、彼女の父親に会いたいという気持ちが不思議と湧き上がってきた。
 そして、来たる十月二十五日、約束の日に善樹は指定された刑務所の最寄駅で美都と待ち合わせをしていた。

「今日は来てくれてありがとう。本当なら親族以外は面会は難しいんだけど、事前に申請して許可をもらったから大丈夫。それじゃあ、行こうか」

 美都について、刑務所までの道を歩き出す。駅からほど近く、十分程度で目的地に到着した。外観だけは何度か見たことがあるものの、中に入るのはもちろん初めてだ。緊張しながら門を潜り、窓口で手続きを済ませて面会室へと案内される。
 刑事ドラマなんかでよく見るようなガラスで区切られた部屋に、椅子が二つ置かれていた。美都に促されて、善樹は彼女の隣に座る。企業の採用面接とは違う、独特の緊張感に包まれていた。
 しばらくすると、四十代後半ぐらいの男性が職員と共に現れた。歳の割には白髪の多い髪、長く伸びた髭、痩せこけた頬が視界に映る。彼が、刑務所の中でどれほど心身を憔悴させているかがよく分かった。それでも、美都と善樹の姿を認めた彼は、子供を見守る近所のおじさんのように優しい笑みを浮かべて「こんにちは」と挨拶をしてくれた。

「お父さん、久しぶり。こちら、一条善樹くん。東帝大学で一緒だったの。一条風磨くんの双子のお兄さん」

「こんにちは、初めまして。一条善樹と申します。娘さんにはいつもお世話になっています」

 こそばゆい挨拶をして美都の父親の顔を見つめる。彼は善樹のことをまじまじと見つめて、「すごいなあ」と声を上げた。

「風磨くんと、そっくりだ。最初、彼がそこに座っているのかと思ったよ」

「よく言われるんです。一卵性で、親でも外見だけでは区別がつかないくらいでした」

「そうかい。ああ、申し遅れました。私は川崎健治(かわさきけんじ)と申します。娘の苗字は妻のものなので、娘とは苗字が違ってるんですが」

「はい、存じております。その……今日は押しかけてすみません」

 美都に誘われたからとはいえ、本当に赤の他人である自分が面会に訪れたことを、彼が快く思っているかどうか分からなくて不安だった。けれど、善樹の言葉を聞いた健治は、「めっそうもない」と全力で否定してくれた。

「今日、きみに会いたいと言ったのは私の方なんだよ。善樹くん、私は、風磨くんのことできみに伝えなきゃいけないことがあるんだ」

「風磨のことで?」

 世間では風磨の轢き逃げ事件が川崎健治の仕業ではなく、RESTARTの岩崎の所業なのではないかという疑いがかけられている。まだ捜査中であり、健治に対する処分が今後どうなるかに関しては分からないけれど、彼の中では自分が罪を犯していないことは歴とした事実だ。この一年半の間とても生きた心地がしなかっただろう。健治や美都の心中を思うと、いたたまれない気持ちになる。健治の言葉は一つも聞き漏らさないように耳を傾けよう——そう感じていた。

「ああ。風磨くんは短い間だったけど、私の同僚でね。……RESTARTに転職する前からいろいろと相談を受けていたんだ。そのことは知ってるかい?」

「はい。娘さんから聞いております」

「そうか。風磨くんはがどうしてRESTARTに転職したいのか、私に話してくれたことがあった。それを善樹くん——きみに伝えたく
て、今日ここに来てもらったんだ」

「風磨がどうしてRESTARTに入ったのか、ですか」

 考えたこともなかった。
 風磨は高校を卒業してから短いスパンで職を転々としていたけれど、いつも転職する先は適当に決めているようだった。

『兄貴みたいに才能ないからさ、自分を拾ってくれる会社ならもうどこでもいいっていうか』

 ぞんざいな物言いで転職についての心意気を教えてくれた時、風磨らしいと思った。もっとも、風磨にだって他人を思いやれる素敵なところがある。風磨を一人の人間として対等に見てくれる会社があるなら、彼にだって会社を選ぶ権利はあるはずだとは思っていたのだが。

「そうだよ。風磨くんはね、きみのことを——善樹くんのことを想って、RESTARTに入りたいんだって言っていた」
「僕のことを想って……?」

 一体どういう意味だろう。理由を知りたくて、善樹は健治のまっすぐなまなざしをじっと見つめる。

「風磨くんが話してくれたんだ。『自分はすぐに頭に血が昇るタイプで、そのせいで親からも友人からも白い目で見られてきた。でも兄貴だけは違った。兄貴だけは、自分のことを外面的な性質ではなくて、本質的な性格を見抜いてくれた。本当は他人に優しくしたい。だけど、感情表現が上手くいかなくて空回りしてしまう——そんな自分の気持ちを知ってくれて、いつも守ってくれる。だから、今度は自分が兄貴の役に立ちたい。正義感が強い兄貴にはRESTARTっていう会社が似合うんじゃないかって思って、潜入調査に行きたいんです』と」

 兄貴の役に立ちたい。
 RESTARTが似合うんじゃないかって。
 潜入調査に行きたいんです。
 初めて耳にした、風磨の本当の想い。
 知らなかった。風磨は今まで、適当な会社を選んで働きに行っているのだと思っていた。RESTARTを選んだことが、すべて自分のためだったなんて……。

「風磨くんは結局RESTARTでも上手くやれなかったみたいで、転職した後もちょくちょく相談を受けていたんだ。『業務内容で納得がいかないところがある。でもそれを上司に伝えても、軽くあしらわれる』と嘆いていたよ。『あの会社は絶対におかしい。俺が悪を暴いてやる。それまで、兄貴にRESTARTは勧められない』ってひたすら嘆いていた。その時私には、彼がRESTARTに抱いていた違和感が分からなかった。でも、まさかその数ヶ月後に風磨くんがあんなことになるなんて……」

 健治が、眉根を寄せて唇を噛み締めた。
 自分が冤罪で捕まったことより何よりも、風磨の死を悼んでいるその姿に、善樹は胸を打たれた。

「善樹くん、今、世間ではRESTARTのことが明るみになっているようだね。私は……私は、いつか自分の冤罪が晴れると信じていたけれど、心の片隅では、自分は断罪されるべきではないかと思っていたんだ。私が、風磨くんの相談をもっと真剣に聞いて、RESTARTのことを調べていれば——せめて警察に相談するとか、なんらかのアクションを起こしていれば、風磨くんを守れたかもしれない。風磨くんは私を恨んでいると思う。だから、本当にすまなかった」

 ガラスの向こうで深々と頭を下げる健治を見て、善樹の胸がツンと痛くなった。
 彼が謝る必要など微塵もない。
 隣に座っている美都が、潤んだ瞳から一筋の涙をこぼしていた。

「顔を上げてください。お父さんは何も悪くありません。悪いのはあいつらです。僕は、風磨が僕のためにRESTARTに入ってくれたことを知って、嬉しかったです。その話が聞けて、風磨を守って生きてきた自分の人生を、肯定されたような気がしました。風磨は……お父さんのことを、絶対に恨んでいません。むしろ感謝していると思います。だから本当に、ありがとうございました」

 今度は善樹が頭を下げる番だった。
 健治が切なげな表情を浮かべて、小さく「ありがとう」と呟いた。
 美都の瞳から流れる涙が、一筋、また一筋と勢いづいて落ちていく。それでも彼女は顔を覆うことなく、善樹と父親の話に最後まで耳を傾けていた。