「一条くんが、死んだはずの弟くんのことを生きていると思い込んでいるということは、私も知っていた。時々、きみの口から風磨くんの話を聞いていたからね。きみが弟くんの死を受け入れられずに心を壊していると知って、同情はしたよ。でも、同時にこれはちょうどいい(・・・・・・・・・)、とも思った」

「ちょうどいい……? 一体、何が」

「きみがあのインターンで自らの信条について疑い、さらに他人に対しても疑いをかけて、悪に染まっていくのを辞さない人間になれるんじゃないかって、思ったんだよ。きみはとても正義感が強い人間だった。だが、風磨くんの死を受け入れられないきみは、本当は心が弱い人間だ(・・・・・)。そんな人間こそ、我が社にふさわしい。悪を悪だと知りながら、利益のために努力することを厭わない人間を、我々は探しているんだよ」

 きみは、本当は心が弱い人間だ。
 岩崎の言葉が、呪いのように降ってくる。何度も何度も、善樹の心を抉っていく。
 自分は……そうだ。弱い人間だった。
 正義感に囚われて、他人の気持ちを思いやれなかった。そのくせ、自分では良いことをしたのだと思い込んで、いろんな人を傷つけてきた。
 風磨のことだって。辛いことから逃げようと、心に蓋をしていた。
 自分は弱い。
 そんなこと、誰かに言われなくてもとっくに気づいていたのに。
 岩崎の荒い呼吸音、今田の沈着した気配がその場の空気をぐちゃぐちゃにかき混ぜていた。子供の頃、絵の具の赤、緑、青、黄色、オレンジ——いろんな色を混ぜて黒色が出来上がった記憶がフラッシュバックする。

 何もかも、最初から間違いだった。
 小さい頃から人助けをしたり、人から褒めてもらえることをしたりするのが好きだった。
 勉強もスポーツも抜かりなくやってきた。困っている人には手を差し伸べてきた。
 誰からも理解されない弟を一心に庇って、彼とは気持ちを通じ合ってきたつもりだった。
 RESTARTでインターン生として働き始めてからも、岩崎をはじめ、今田や他の社員たちから、腕を認められていると思っていた。
 だけど、そのすべてが幻想だった。
 そのことに気づけなかった。
 無自覚の罠だった。

「……違う」

 息を吸うのも忘れて目の前の景色がぐにゃりと歪んでいく寸前、隣から小さな声が聞こえた。
 途端、美都の息遣いが大きく響く。やがて深呼吸をした彼女が、これまでで一番大きな声で言い放った。

「善樹くんは、弱い人間じゃない!」

 ビジネスにおいて何かを主張するには、いささか感情的で聞き苦しい叫び声だった。岩崎と今田が大きく目を見開く。善樹の心臓が、ドクンと大きく脈打った。

「弱くなんかない。本当に弱いのは、自分たちの罪を認めずに誰かに罪をなすりつけたあなたたちのほう。何かを見失ったり、辛いことから一時的に目を背けたくなったり——それぐらい、誰もが持っている弱さよ。私にだってある。だけど善樹くんは、自分の失敗に向き合って、今日まで前を向いてきたの。誰にだってできることじゃないわ。
それを、あなたたちと同じ弱さ(・・・・・・・・・・)だと決めつけないで!」

 今にも泣き出すんじゃないかという勢いで叫ぶ美都の姿が、善樹の視界の中でくっきりと鮮明に映っていた。知らぬ間に溜まっていた涙が、ほろりとこぼれ落ちる。シャツで顔を拭うと、目の前の景色が途端に色を帯びはじめた。

 善樹くんは、弱い人間じゃない。
 たった一言。それだけの言葉が、善樹の気持ちを波に乗せた。彼女がそんなふうに自分のことを評価してくれていたことが、胸にまばゆい灯りをともしてくれた。
 他人が信じてくれているのに、自分が信じないでどうする。

 自分は確かに弱い人間だ。でも、弱さを言い訳にして悪に手を染めるようなことは絶対にしない。
 お前たちの仲間にはならないっ(・・・・・・・・・・・・・・)

「ありがとう一条さん。おかげで目が覚めた」

「……善樹くん」

 彼女の瞳が揺れている。善樹は胸いっぱいに息を吸い込むと、すべての感情をぶつけるつもりで口を開いた。

「岩崎部長、僕は確かに弱い人間です。でも、僕が犯罪に手を染めることは絶対にありません。弱さにかこつけて、悪を悪だと分からない人間に、なりたくないんです。だから、あなたたちの仲間にはなれません。そして、あなたたちの悪は必ず暴かれます。覚悟しておい
てください」

 言い切った後、会議室全体の空気が凍りついたかのように固まった。だがそんな中で、隣にいる美都からは、ほのかな熱を感じられた。
 目の前に座っている今田は無表情のままだったが、岩崎は不敵な笑みを浮かべていた。その不気味さに、善樹は思わず顔を歪める。

「……そうか。覚悟、ね。分かった。きみが、きみたちが言うように、覚悟をして待っているよ。でも勘違いしないでほしい。真実が暴かれることは絶対にない。私たちがこれまで築いてきた信用が覆されることはないよ。残念だったね」

 小さな子供に言い聞かせるような口ぶりで、岩崎は最後にそう言った後、口を閉じた。これ以上、何を言われても聞かないという意思がはっきりと感じられた。

「お二人とも、今日はありがとうございました。お引き取りください」

 岩崎の代わりに今田が指示をした。善樹も美都も、何も言い返せない。暗く澱んだ空気から逃れるように、二人して部屋の扉の方へと歩いていく。