十月十一日、善樹は大学の授業が三コマ目で終了したので、終わり次第RESTARTのオフィスに向かっていた。今日は長期インターンのシフトの日だ。一応、毎月の出勤日は事前に申請していて、その予定に従って出勤している。
だが、今日はいつもと違う心持ちで会社にやってきた。ただやるべき仕事をこなすだけではない。ここ数日の間に芽生えた会社への懐疑心によって、オフィスという空間にいるだけで緊張していた。営業社員や事務社員はいつもどおり仕事に励んでいる。善樹は、インターン生が集まって使っている部屋で、時々パソコンから顔を上げながら、ガラス壁で区切られた社員たちのいる部屋の方を観察していた。
特に、何もないよな……。
当たり前だけど、目の前に広がっているのは日常の風景だった。
善樹は社会的マイノリティの人が利用するマッチングアプリの開発や今後必要な施設について考える、いわゆるマーケティングの部署で働いていた。教育係は特に決まっておらず、同じマーケティング部の社員に意見を求めたり、教えてもらったりしながら仕事を進めている。他のインターン生たちも同じだ。仕事内容について、疑問に思うことは一つもない。今日も、淡々と指示された作業をこなすばかりだ。
時々人事部の人から呼び出されて面談のようなものを受ける機会もあった。インターン生の世話も、かなり手間暇かけてやってくれている——そんなふうに感じていた。
「一条くん、ちょっといいかい」
パソコンの画面と、ガラス越しの向こうの部屋に、ちらちらと視線を行ったり来たりさせていた時だ。不意に後ろから声をかけられた。振り返ると人事部でお世話になっている今田が立っていた。Dグループで審査員を務めていた彼は、インターン生と面談を担当している社員だ。あのインターンではもちろん彼のことは知らないふうを装っていたけれど、本当は最も良くしてくれている社員だった。
「はい、なんでしょう」
今田は「ちょっと向こうの部屋に」と、善樹を仕事部屋から連れ出して、別の部屋へと連れて行った。六階の人事部のフロアにある個室だ。面談を受けるときは大抵この部屋で行われていた。
「呼び出して悪いね。ちょっときみに聞きたいことがあって」
今田はそう前置きをしてから、「長良美都さんのことなんだけど」と切り出す。美都の名前を耳にした善樹は、反射的にぴくりと肩を揺らした。動揺を悟られないように、「長良さんが、どうかしましたか?」と尋ねた。
「実は彼女に内定を出していてね。あの特別選考で、決定したんだ。きみに報告が遅くなって申し訳ない」
「そう……なんですね。いや、僕なんてただのインターン生ですし、大丈夫です」
あくまでも初めて聞いたふうを装う。
「きみは面接官としても協力してもらったからね、伝えておかないといけないと思って。それで、彼女を雇うに当たって、ちょっと聞き
たいことがあって」
「聞きたいこと? なんでしょう?」
美都に対する情報なら、宿泊型インターンや面接で散々分かったのではないのだろうか。他にもまだ、聞きたいことがあるのか。
「いやあね、彼女は内定を受諾するかどうか、って話なんだけど。きみに聞いても分からないよね?」
「内定受諾をするかどうか、ですか。うーん、さすがに僕は何も……。あの選考以来、会ってないですし」
嘘をついた。彼女に関する情報を、今自分の口からは言えない。
「そうだよね。うん、変なこと聞いてごめん。実は私たちは、きみにも大学を卒業後、一緒に働いてもらえないかなって思ってるんだ」
「え?」
これには善樹も驚いた。長期インターンをしているとはいえ、RESTARTに就職するかどうかはまた別の話だ。通常なら自分からアプローチをして、入社させてもらえないかと掛け合うところだろう。
それなのに、RESTART側から誘いを受けるなんて。
光栄なことではあるが、美都やみんなと話した内容が頭の中で鋭い光を放っていた。
「きみは、数年に一度いるかどうか分からないくらい、優秀な人材だ。頭の良さはもちろん、きみの性格もね
。我が社に合ってるんじゃないかと思ってる。岩崎部長も同じ意見なんだよ」
RESTARTに合っている——まさかそんなふうに思われているとは思わず、善樹の身体は固まった。嬉しいという気持ちもあった。でも、みんなから聞いたRESTARTに関するいろんな話が走馬灯のように駆け巡っていた。
「そんなふうに言っていただいて、光栄です。少し、考えさせてください」
「もちろん。今すぐ答えが欲しいわけじゃない。まだ三年生だしね。これから働いてみて、RESTARTに就職するかどうか、考えてくれたらいい。もし入ってくれるのなら、私たちはきみを歓迎するよ」
「……ありがとうございます」
善樹はお礼を伝えて、その場を立ち去ろうとした。だが、今田がふと「そういえば」と再び口を開く。
「一条くん、最近風磨くんの様子はどうだ?」
「え、風磨ですか?」
トクン、トクン、と自分の心臓の音が大袈裟なくらい大きく聞こえる。今田の目は去っていこうとする善樹を捉えて離さない。何かを思案する虎の目のようだった。
「風磨……は、家で就職先を探してます」
咄嗟に口をついて出た嘘を、今田がどう受け取ったかは分からない。ただ彼は「ふうん。そうなんだ」と意味深に頷いた。
「風磨くんとは私も一緒に働いて、楽しかったからね。突然辞めてしまったのが、ちょっと悔しかったんだ」
突然辞めてしまった。
男の口から出た表現に、善樹の脈動がどんどん速くなる。
だが、動揺を悟られないようにして、「本人に伝えておきます」と言い残した。
部屋の扉から出ていこうとする善樹に対し、今度は今田も何も言わずに黙って見送ってくれた。
だが、今日はいつもと違う心持ちで会社にやってきた。ただやるべき仕事をこなすだけではない。ここ数日の間に芽生えた会社への懐疑心によって、オフィスという空間にいるだけで緊張していた。営業社員や事務社員はいつもどおり仕事に励んでいる。善樹は、インターン生が集まって使っている部屋で、時々パソコンから顔を上げながら、ガラス壁で区切られた社員たちのいる部屋の方を観察していた。
特に、何もないよな……。
当たり前だけど、目の前に広がっているのは日常の風景だった。
善樹は社会的マイノリティの人が利用するマッチングアプリの開発や今後必要な施設について考える、いわゆるマーケティングの部署で働いていた。教育係は特に決まっておらず、同じマーケティング部の社員に意見を求めたり、教えてもらったりしながら仕事を進めている。他のインターン生たちも同じだ。仕事内容について、疑問に思うことは一つもない。今日も、淡々と指示された作業をこなすばかりだ。
時々人事部の人から呼び出されて面談のようなものを受ける機会もあった。インターン生の世話も、かなり手間暇かけてやってくれている——そんなふうに感じていた。
「一条くん、ちょっといいかい」
パソコンの画面と、ガラス越しの向こうの部屋に、ちらちらと視線を行ったり来たりさせていた時だ。不意に後ろから声をかけられた。振り返ると人事部でお世話になっている今田が立っていた。Dグループで審査員を務めていた彼は、インターン生と面談を担当している社員だ。あのインターンではもちろん彼のことは知らないふうを装っていたけれど、本当は最も良くしてくれている社員だった。
「はい、なんでしょう」
今田は「ちょっと向こうの部屋に」と、善樹を仕事部屋から連れ出して、別の部屋へと連れて行った。六階の人事部のフロアにある個室だ。面談を受けるときは大抵この部屋で行われていた。
「呼び出して悪いね。ちょっときみに聞きたいことがあって」
今田はそう前置きをしてから、「長良美都さんのことなんだけど」と切り出す。美都の名前を耳にした善樹は、反射的にぴくりと肩を揺らした。動揺を悟られないように、「長良さんが、どうかしましたか?」と尋ねた。
「実は彼女に内定を出していてね。あの特別選考で、決定したんだ。きみに報告が遅くなって申し訳ない」
「そう……なんですね。いや、僕なんてただのインターン生ですし、大丈夫です」
あくまでも初めて聞いたふうを装う。
「きみは面接官としても協力してもらったからね、伝えておかないといけないと思って。それで、彼女を雇うに当たって、ちょっと聞き
たいことがあって」
「聞きたいこと? なんでしょう?」
美都に対する情報なら、宿泊型インターンや面接で散々分かったのではないのだろうか。他にもまだ、聞きたいことがあるのか。
「いやあね、彼女は内定を受諾するかどうか、って話なんだけど。きみに聞いても分からないよね?」
「内定受諾をするかどうか、ですか。うーん、さすがに僕は何も……。あの選考以来、会ってないですし」
嘘をついた。彼女に関する情報を、今自分の口からは言えない。
「そうだよね。うん、変なこと聞いてごめん。実は私たちは、きみにも大学を卒業後、一緒に働いてもらえないかなって思ってるんだ」
「え?」
これには善樹も驚いた。長期インターンをしているとはいえ、RESTARTに就職するかどうかはまた別の話だ。通常なら自分からアプローチをして、入社させてもらえないかと掛け合うところだろう。
それなのに、RESTART側から誘いを受けるなんて。
光栄なことではあるが、美都やみんなと話した内容が頭の中で鋭い光を放っていた。
「きみは、数年に一度いるかどうか分からないくらい、優秀な人材だ。頭の良さはもちろん、きみの性格もね
。我が社に合ってるんじゃないかと思ってる。岩崎部長も同じ意見なんだよ」
RESTARTに合っている——まさかそんなふうに思われているとは思わず、善樹の身体は固まった。嬉しいという気持ちもあった。でも、みんなから聞いたRESTARTに関するいろんな話が走馬灯のように駆け巡っていた。
「そんなふうに言っていただいて、光栄です。少し、考えさせてください」
「もちろん。今すぐ答えが欲しいわけじゃない。まだ三年生だしね。これから働いてみて、RESTARTに就職するかどうか、考えてくれたらいい。もし入ってくれるのなら、私たちはきみを歓迎するよ」
「……ありがとうございます」
善樹はお礼を伝えて、その場を立ち去ろうとした。だが、今田がふと「そういえば」と再び口を開く。
「一条くん、最近風磨くんの様子はどうだ?」
「え、風磨ですか?」
トクン、トクン、と自分の心臓の音が大袈裟なくらい大きく聞こえる。今田の目は去っていこうとする善樹を捉えて離さない。何かを思案する虎の目のようだった。
「風磨……は、家で就職先を探してます」
咄嗟に口をついて出た嘘を、今田がどう受け取ったかは分からない。ただ彼は「ふうん。そうなんだ」と意味深に頷いた。
「風磨くんとは私も一緒に働いて、楽しかったからね。突然辞めてしまったのが、ちょっと悔しかったんだ」
突然辞めてしまった。
男の口から出た表現に、善樹の脈動がどんどん速くなる。
だが、動揺を悟られないようにして、「本人に伝えておきます」と言い残した。
部屋の扉から出ていこうとする善樹に対し、今度は今田も何も言わずに黙って見送ってくれた。