「だけど私は……本当はお父さんが風磨くんを殺しんたんじゃないって、思ってるんだ」

 もしこの言葉を、まったく知らない人の口から聞いたら、善樹はきっとただの思い込みだと疑っただろう。家族が犯罪者になって、信じられない気持ちはよく分かる。でも美都の言葉には、耳を傾けてしまう。だってあのインターンで、彼女は本当に苦しそうに最後の発表をしていた。それから、先日善樹に喫茶店で話をしてきたときも。彼女の中に巣食っている心の枷は、きっと想像できないほど大きい。

「お父さんが犯人じゃないとして、誰が犯人だと思うの?」 

 宗太郎が切り込んだ質問をした。彼の目はまだ懐疑に満ちている。それでも美都の主張を聞こうという姿勢は窺えた。

「私は……犯人は、RESTARTの人間じゃないかと、思う」

「……は?」

 気の抜けた声を上げたのは、他でもない善樹だった。
 RESTARTの人間が犯人……? 一体どうして——。

「善樹くん。風磨くんは、一時的にRESTARTで働いていたんだよね?」

「……ああ」

 美都の一言で、善樹の止まっていた思考が動き出す。
 風磨は高校を卒業した後、あらゆる職場を転々としていた。心を許した人間には優しいところもあるが、初対面の人と人間関係を築くのが苦手な風磨は、新しい環境に飛び込むのが苦手だった。だから、職場でもトラブルを起こすことが多く、そのうち本人が疲れて辞めてしまう——そんなことを繰り返していた。

 その中で、確かに風磨がRESTARTで働いていた時期があった。
 美都にも先日伝えたが、あれはちょうど二年前の今、十月から一月のこと。
 風磨が今をときめくRESTARTで働くことになったと言ってきたときにはとても驚いた。いつも、一ヶ月そこらで会社を辞めてしまう風磨が、思ったよりもRESTARTでの仕事を長く続けていて、善樹も安心していた。でも彼は、ある日突然RESTARTを辞めたのだ。
 風磨はRESTARTを辞める直前、「あんなトラップはねえよ」と吐き捨てていた。
 その台詞が、なぜだが善樹の頭にすとんと蘇ってくる。ずっと忘れていた。彼がいなくなったという事実と共に、善樹の心から自分にとって不都合な現実が消え去っていたのだ。

「風磨くんがRESTARTで働いていたこと、実はこの前善樹くんから聞く前に知ってたの。風磨くんがRESTARTで働く前に働いていた職場が、私のお父さんの勤め先だったから」

「え、そうだったの?」

 これには善樹も驚いた。風磨とは彼が働いている会社の詳しい話はほとんどしなかった。風磨はいつも人間関係に愚痴をこぼしていて、職場について聞かれるのは嫌だと思っていたから。

「うん。風磨くん、やっぱり職場に馴染めなかったんだって。でもうちのお父さんとは奇跡的に気が合って、お昼休憩の時なんかに、時々話をしてたみたい。その会話の中で、転職の話をしていたらしい。RESTARTっていう会社に興味があるんだって。それを今働いている職場の人間に話してしまうぐらいには、かなり転職の希望が強かったみたいだね」

 少しずつ……少しずつだが、バラバラだったパズルのピースが一枚の絵の中にはまっていく。美都が何を話そうとしているのか、この話の終着点はどこなのか、善樹の中で、段々と輪郭を帯びはじめていた。

「その後、風磨くんは無事にRESTARTに転職をした。お父さんには『お世話になりました』ってちゃんと挨拶をしてくれたんだって、言ってた。お父さんも、『勤務態度は少々悪いけど、人情があるいい子だ』って風磨くんのこと話してくれた。私は、風磨くんが善樹くんの双子の弟だって知ってたから、お父さんの話はすごく印象に残ってる」

「そんなことが……。全然、知らなかったよ」

 初めて聞いた話ばかりで、善樹は頭の中でぐるぐると思考が駆け巡っていた。
 風磨が、美都の父親と知り合いだったこと。
 拗れてばかりの人間関係だったが、美都の父親とは上手くやれていたこと。
 自ら希望してRESTARTに転職をしたこと。
 美都の父親が風磨を轢き逃げした犯人にされていること。
 真犯人はRESTARTの人間なんじゃないかと美都が疑っていること。
 何が正しくて、何が違っているのか。混沌とした思考の中でただ一つ言えることは、美都が嘘をついているとは思えないということだった。

「風磨くんがRESTARTに転職したあと、お父さん、風磨くんから何度か相談を受けてたみたいなの。実際に会って話すこともあったんだって。そこで、RESTARTの内情を、風磨くんから聞いたって。風磨くんはRESTARTのことを——あまりよく思っていないようだった。ううん、かなり、会社に対して不信感を抱いていたみたい。その内容の詳しいところまでは教えてもらえなかったんだけど……。RESTARTの仕事内容でおかしいなって思うことがあって社員に相談したら、『そのことは誰にも言うな』って脅されたんだって。さすがに変だと思って、お父さんに相談してたみたい。職場の人とその件で対立することもあったって。やっぱりRESTARTのことが信用できなくなって辞めようかと思ってる——お父さんに、そんなふうに言ったらしい。それから風磨くんは本当にRESTARTを辞めてしまった。しばらく経って、彼は轢き殺された。お父さんが普段使っていた会社の営業車で。でも、お父さんはその車に乗っていなかった。……だけど、アリバイがなくて。お父さんはその日、風邪を引いていて午後から自宅でゆっくりしていたんだけど、私たち家族はちょうど家にいなかったの。ドライブレコーダーが壊れていて、事故の瞬間も映っていなかった。人気のない道で、周りには店もなく、防犯カメラもない。警察はお父さんを疑って逮捕した。でも私は、RESTARTが風磨くんの口封じをするために彼を轢き殺したんじゃないかって疑ってる。風磨くん、RESATRTを退職してからSNSで度々RESTARTについて呟いてたみたいだから、会社側が秘密を暴露されそうだと感じて怖くなったんじゃないかって、思って」

 善樹は美都と自分の話を聞いている他の三人の様子を見た。みんな、RESTARTの人間が風磨を轢き殺して、その罪を美都の父親になすりつけているかもしれないということを聞いてどう思ったのだろう。「そんなバカな」と誰かが鼻で笑うのを、善樹は待っていたように思う。でも実際は違っていた。誰も、「そんなはずない」と発する者はいなかった。
「風磨を轢き逃げしたのが長良さんのお父さんではなく、本当はRESTARTの人間なのかもしれない——僕も、そう思う」

 冷静な宗太郎の声が個室の中に響き渡る。善樹は驚いて彼の方を向いた。

「ごめん。僕さ、みんなを騙してた」

「騙してた?」

「ああ。騙すって言うは大袈裟かもしれないんだけど。RESTARTの夏のインターンに参加したのは、RESTARTに入社したかったからじゃない」

「え?」

 疑問の声を上げたのは善樹一人だった。美都は突然の告白を始めた宗太郎の言葉の続きを、固唾をのんで見守っているようだった。友里も、開も、特に驚いている様子はない。

「自分史の時に話したかもしれないけど、僕の父親が、警察官でさ。実は風磨を轢き逃げした事件について、担当してる。善樹が風磨のことをインターン中に口走ってたのは、僕もおかしいと思ってた。風磨はもういないことを、知っていたから」

 衝撃的な発言に、今度は美都もみんなも身体を震わせた。

「そう、だったの……?」

「うん。それで、長良さんのお父さんが容疑者として逮捕されたことを、うちの父親は疑ってるんだ。真犯人は別にいる。しかもそれが、RESTARTの人間かもしれないってところまで当たりをつけてる。さすがに、捜査の詳しい内容までは僕に教えてくれないけど。僕は、確かめたいと思った。世間で優良企業としてもてはやされてるRESTARTに、どんな悪が潜んでいるのか……だから、インターンに参加した」

 宗太郎は最初からRESTARTに就活生として興味があって参加したのではなかった。警察官の息子として、RESTARTに疑いをかけていた——。

「長良さんのことは、正直知らなかった。インターンで初めて会っても、何も分からなかったよ。長良さん、お父さんとは今苗字が違うよね」

「うん。長良はお母さんの旧姓。お父さんは『川崎』だから。お父さんが捕まってから、苗字、変えたの。……といっても、戸籍上は変わってないんだけどね」

 なるほど、そういうことかと宗太郎が頷く。善樹にも美都の行動の理由が分かった。犯罪者の娘だと罵られないように苗字を変えたのだろう。

「僕も、今ここに来るまで父親が追っている事件に関係する話が出てくるなんて思ってもみなかったよ。僕は一貫して、あのインターンでRESTARTの善の部分を見ようとしなかった。ずっと、やつらが何かしらの悪を表に出してこないか、淡々と探ってた。だから長良さんのお父さんが風磨を轢き逃げした犯人をRESTARTの人間じゃないかと疑っているっていう話は、すぐに信じられた。隠しててごめん」

 宗太郎はそう言って頭を下げる。高校時代の、にこにこと笑いながら話をする彼とは別人のように、真面目な顔つきをしていた。

「打ち明けてくれて、ありがとう。謝らなくていいよ。むしろちょっとほっとした。自分と同じ考えの人がいたんだって思えたから。実は、今日みんなを呼んだのは、みんながインターンに参加した理由を知りたかったからなの。もし同じように考えている人がいたら、どうか知恵を貸してほしいって思って。私はRESTARTに入るべきなのかどうか。他のみんなは、どうしてインターンに参加したんだっけ」

「私は……私も、RESTARTに入りたいから参加したんじゃ、ないんだ」

 友里が、秘密を打ち明けるようにそっと告げる。その瞳がかすかに揺れて、彼女が勇気を出して告白をしてくれていることが分かった。

「林田くんと似てるんだけど、お父さんが公務員で、社会福祉事業に関わってるって話は、インターンの時にしたと思う。父は社会福祉事業を行う会社に対する助成事業にも携わっていて。RESTARTのことはそれで知ったの。父は……RESTARTが不正受給をしてるんじゃないかって疑ってる」

「不正受給?」

「ええ。みんなも生活保護の不正受給とか、新型コロナの時に企業を救済するために出していた助成金を不正受給した会社が捕まったとか、そういう話題を聞いたことがない? 社会福祉事業における助成金でも、そういった不正受給は後を断たない。今回、父が不正受給をしていると疑っているのがRESTARTなの」

「はあ、なるほど。それで僕と同じように、RESTARTが本当は悪なんじゃないかって疑って、それを確かめるために参加した、と」

 宗太郎の問いに友里は頷いた。

「うん。表では良いことをしている会社に見えるRESTARTの、裏の顔を知りたかった。私は、これから自分が入る会社を探さなくちゃいけない。就活で会社について見えることって、ごく一部じゃない。私が見てるのは、本当にその会社の全容なのか。騙されてるんじゃないか——そんな疑いが消えなくて。RESTARTに限った話じゃないけど、会社に潜む悪があるなら、それを事前に知る術はないのか——そう思って参加したんだ」

 友里の言葉は善樹の胸にもグサリと突き刺さる。
 表の顔と、裏の顔は違う。
 善樹は自分が今までの人生で、常に正義を貫こうとしていたことを思い出す。インターン中に、自分の正義は他者にとって迷惑な行為になっていたと思い知った。宗太郎も、開も、裏の顔があって。善樹は彼らの裏の顔を目の当たりにして思った。人間、誰しも声に出して話していることと、心に秘めていることがある。都合の悪いことはわざわざ表には出さない。それは、会社にしたって同じなのではないか。友里はそういうことを言いたいのだ。

「RESTARTが助成金の不正受給をしてるってお父さんが考えてるのは、何か理由があるからだよね?」

 美都が友里に尋ねた。善樹も気になったことだ。何か、根拠があるはずだと。

「ええ。私の方もあまり詳しくは教えてもらえないんだけど——一つ聞いたのは、職員の立ち入り検査を、定期的にそれらしい理由をつけて断っているって話」

「立入検査?」

「あれだね、助成金なんて大切な国のお金を支払うんだから、ちゃんとその事業をやっているか、国の方も確かめる必要がある。そうだろ?」

 開が友里に確かめるように問うた。

「そう。元を辿れば国民が納めた税金や保険料を使ってるからね。そこはきちんと取り締まる必要がある。その検査を、何かと正当らしい理由をつけて先延ばしにしたり、断ったり、するみたいなの。毎回じゃなくて、時々みたいだけど。今、父の働く課では、不正受給の取り締まりを強化していて。その中にRESTARTの名前も上がってるんだって」

「なるほど……。RESTARTは、もしかしたらメイン事業である社会福祉事業について、何か後ろめたいことをしている可能性がある……そういうことだね」

 美都は顎に手を当てて深く考え始めたようだ。善樹の頭は混乱していた。不正受給? 後ろめたいこと? そんなバカな。RESTARTでインターン生として働き始めて半年が経ったが、そんなこと、誰も——。
 そこまで考えて、善樹は自分自身、馬鹿だなと思い返す。
 もし本当にRESTARTが不正を働いているとして、それを一介のインターン生である自分に、悟られるようなことをするはずないじゃないか。相手は大企業だぞ。そんなヘマ、犯すはずがない。
 話をしていた友里が、静かにお酒を一口口に含んだ。沈黙の中で、シャキッという小気味良い咀嚼音がした。開がサラダを食べていた。

「友里さん、教えてくれてありがとう。少しずつ、見えてきました」

 美都にとって、友里の話は重要な情報なのだ。ゆっくりと彼女の話を咀嚼しながら、思案する瞳で宙を見据えていた。そして、その目が今度は開の方に向けられる。シャリ、とレタスを噛んだ音がそこで途切れた。

「天海くんは、どうして参加したのか、教えてもらえる?」

 美都が、インターンの発表前夜に開から強引に部屋に押し入られそうになったと相談してきたことが、頭を過った。今、二人の間に流れる空気は、他のみんなとは少し違っている。気まずい——けれど、同じ時間、インターンの課題に向き合った仲間でもある。開が美都の質問に答えない道理はない。

「俺は、そうだな。特に明確な理由はない。有名企業だったから参加しようと思ったんだ。事前選考があっただろ? 記念受験みたいなもので、普通に落ちると思ってたんだ。そしたらなぜか受かっちゃって。俺よりもっとすごい人もたくさんいたに違いないんだけど。まあ、参加資格をもらえるなら行ってみてもいいかなって。それに、インターンで出会いがあるって聞いて。いや、そっちの方が理由としては大きいかな。不快な気分になったらごめん」

「出会い……か」

 友里の懐疑的な視線が、開を突き刺すようにして捉えていた。美都は表情を変えずに開の言葉を聞いているが、本当は聞きたくなかったのだろう。わずかに眉を顰めたのが分かった。

「そう。不純な動機で悪かったね。でもみんなも、純粋にRESTARTに入りたいと思っていたわけじゃないみたいだから、一緒でしょ? 違う?」

 挑発するような台詞を聞いて、善樹は自分がまだインターンのディスカッションの部屋にいる気分にさせられた。

「一緒じゃないよ。僕たちはあくまで、RESTARTの悪事を暴きたいと思って参加したんだ。きみの不純な動機とは質が違う」

「ふん、そうか。まあもうどっちでもいいけど、俺が責められるいわれはないね」

 宗太郎と開の間に緊張感が走る。友里が慌てて「やめて」と止めに入った。

「もうインターンは終わったんだし、そんなに敵対しなくても」

「……ああ、申し訳ない」

 友里の一言に、宗太郎の頭から熱が引いたようだ。善樹は内心ほっとしていた。久しぶりに再会した場で、いがみ合いたくはない。

「天海くんの参加理由は分かった。その話を聞いて一つ確認したいことがあるの。インターンのディスカッションの課題のこと。あの課題における『犯罪者』は、天海くんだったんじゃないかな?」

 善樹と、宗太郎と、友里が大きく目を見開く。あのインターンでの課題で、結局犯罪者が誰だったのかということは、誰にも公表されることはなかった。長期インターン生としてRESTARTで働く善樹でさえ、知らされなかったのだ。答えを知ることに、何ら意味はない。だからRESTART側もあえて正解を言わなかったし、仲間内で真実の答え合わせをすることも暗黙の了解でなしになっていた。
 そんな不文律を、美都が破った。
 しかも、犯罪者は開ではないかとはっきりと指定して。善樹は混乱するばかりだ。だが、開は少しも動じることもなく不適な笑みを浮かべた。その顔が美都の主張を正解だと裏付けていた。

「よく分かったね。そう、俺が犯罪者。ちなみにどの辺で分かった?」

「……もともと、怪しいなと思ってた。でも発表のときは、どうしても善樹くんに気づいてほしいことがあったから、善樹くんのことを
犯罪者だと指摘したんだ。天海くんはさっき、インターンに参加した理由は特になくて、事前選考でなぜか受かってしまったって言ってたよね。もちろん謙遜してる可能性もあるけど、その言葉を素直に受け取るなら、天海くんが事前選考に受かった理由は一つ。あなた
が、“犯罪者”だからじゃないからかな、と」

 開はまっすぐな瞳を美都に向けたまま、真顔で頷くことも、首を横に振ることもしない。「失礼します」と個室に焼き鳥を運んできた店員さんが、料理を置いてさっと身を引いた。

「さあ、それは分からない。でもそうだな。RESTARTはあのインターンでグループに一人、犯罪者を用意する必要があった。それで俺が選ばれたのだとしても不思議ではない。それに、みんなの話を聞く限り、やつらは悪さをするには慣れていそうだし? 俺の個人情報を抜いて犯罪歴を調べることくらい、簡単だったかもしれないなあ」

 開はそう言いながら運ばれてきたばかりの鶏もも肉を口に入れた。「美味い。温かいうちに、みんなも食べたら?」と飄々と勧めてくる。宗太郎だけが、開の勧めにしたがって焼き鳥を手に取った。

 開の解釈に、善樹も自然と納得してしまっていた。
 もしみんなの言うようなことを本当にRESTARTがしているのなら……インターン応募者の犯罪歴を調べることぐらい容易いことではないかと思ってしまう。それくらい、自分の中でも会社に対する疑念が湧いていた。
「聞いてもいい? 開がやった犯罪」

 焼き鳥を頬張りながら、宗太郎が据えた目で尋ねる。

「ああ、もう時効だしね。俺がYouTubeで配信をしているのはインターンの時に話しただろ? なかなか伸び悩んでね。他の動画配信者の真似をして試行錯誤してみたんだけど、上手くいかないことが多くて。それで……他人のゲーム実況動画をまるパクりしたり、許可の取れていない音楽や動画をそのまま配信したり。つまり、違法アップロードをしてた。あとは、そうだな……在宅アルバイトで、発注者から頼まれて、それこそ他人の個人情報を売買する協力をしたり。それは騙されてやってたんだけど、途中から、犯罪と分かってて続けてた。割が良かったんだよ。この先YouTube一本で生きていこうと思ってた俺にとっては、稼ぐことも大事だったからさ。馬鹿だなって笑っていいぞ」

 違法アップロード。
 個人情報売買。 

 どちらも自分たちの日常に潜む犯罪だ。人を殺したとか、暴行を加えたとか、そういう類の犯罪ではない。ただ、誰もがやってしまってもおかしくないような悪。開は誰かの悪意の罠にハマって犯罪をしてしまったのかもしれない。違法アップロードはともかく、個人情報売買に関しては——善樹も、彼のように騙されて仕事をしてしまってもおかしくないと思った。

「なるほどね。あの時の課題の答え合わせができてすっきりしたよ」 

 宗太郎は、開の犯罪の内容について特につっこみはしなかった。善樹もそうだ。あの課題では犯罪者を指摘するのが目的で、その人
がどんな犯罪をしたのか——そこまでぴったり答えを当てることが目的ではなかった。だからこそ、今こうして開が教えてくれた彼の犯罪のことも、今の善樹たちにとっては固執すべき問題ではない。
 美都は、何か思うところがあるのか、瞳を伏せていた。長いまつ毛が湿っているように感じてどきりとする。彼女の艶やかな黒髪が、妙に綺麗だと感じてしまった。

「善樹はどうなんだ? 何で、インターンに参加したのか」

 最後に宗太郎が善樹の方を向いた。
 みんな、それぞれにインターンに参加をした理由があった。決して純粋ではない理由だ。善樹にも何か裏の理由があるはず——その目がそう疑っていた。
 善樹はどうしようかとひとしきり迷ったあと、ビールを二口ほど飲んで、話し出す。

「僕も、みんなに嘘をついてた。僕はもともと、RESTARTで長期インターン生として働いていたんだ。夏のインターンに参加したのは、岩崎部長に言われたからだ。『RESTARTの一員として、インターンに参加して、他の学生と一緒に課題について考えてきなさい』って。これも業務の一環だから、とことん勉強してくるようにと。課題についてはもちろんなにも聞かされてなかった。みんなと同じ気持ちでインターンに臨んだのは本当なんだ」

「まじか」 

 これには開が一番驚いているようだった。
 友里も宗太郎も、「知らなかった」というふうに目を丸く見開いた。

「騙すつもりはなかったんだけど、どうしても普通の参加者として振る舞わなくちゃいけなくてね。今更だけど、ごめん」

「いや、それはしょうがないというか。でもそれなら、RESTART側は一条くんがインターン中に風磨くんのことを時々話題に出していたこと、どう思っていたんだろう」

 友里の疑問が、善樹の中にもすとんと落ちてくる。
 そうだ。善樹はインターン中、RESTARTの人間にも風磨がいるように振る舞っていることがバレている。そもそもインターンに参加する際に「風磨も参加していいか」と実際に社内の人間に尋ねたのも善樹だ。それに対して、RESTARTの社員は「一条くんの申し出なら特別に許可する」と答えていた。まるで、風磨が亡くなったことを知らない様子だった。でも実際風磨は亡くなっている。それに彼ら
は、風磨が以前RESTARTで働いていたことを知っているはずだから、そんな風磨をインターンに参加させるのはおかしい気もした。

「私、思うんだけど。RESTARTが風磨くんを轢き逃げした犯人なんだとしたら、善樹くんが風磨くんが生きていると思い込んでおかしな発言をしていたのを、RESTART側は見抜いてたんじゃないかな。それで、あえて善樹くんが風磨くんを夏のインターンに誘ったことも、許可した。要するに、善樹くんを試したんだと思う。理由は分からないけれど、善樹くんに、あのインターンで自由に泳がせておこう(・・・・・・・・・・)っていう算段だったんじゃない?」

「自由に泳がせる……」
 ガツン、と頭を鈍器で殴られるような衝撃を覚えた。
 美都の言うことが真実であるならば、善樹は長期インターン生として成長をさせてもらえる機会を与えてもらったのではない。RESTARTに、本当の自分を暴かれてこいと、弄ばれているような気持ちになった。
 一体どうして。
 善樹は、RESTARTの社員たちに敬意を抱いていた。特に人事部の人には、入社してから手厚い教育をしてもらい、そのおかげで社会で働くことの意味を実感することもできた。尊敬していたのだ。岩崎のことも、今田のことも。同時に彼らは善樹の働きぶりを、認めてくれていると思っていた。

 それなのに本当は、善樹のことを試していた?
 お前は、真実に気づくことができるのか、と。
 悪に立ち向かうことができるのか、と。
 そう考えると、背筋に冷や汗が流れた。
 自分は何も見えてないなかった。
 美都に指摘されるまで、RESTARTが本当は悪だなんて、考えもせず生きてきた。風磨のことだって、辛い事実から逃げて。
 ……このままでは、RESTARTどころか、社会に出て活躍することなんてできない。

「僕は……やつらの裏の顔を、暴きたい」

 気がつけば口から本心が漏れていた。その言葉に、全員の気持ちが一つになったのが分かる。店員が再び料理を運んできた。開かれた扉から新しい風が吹き込んでくる。停滞していたその場の空気が、扉の向こうへと押し流された。

「そうだね。私も、みんなの話を聞いて、決めた。RESTARTの内定を受諾するかどうか。ただ、自分の決意をどうぶつけるかは——もう少しだけ考えて、自分にとって一番最適な答えを出したい。そのときはまた、みんなに協力をお願いしてもいいかな?」

「もちろん。僕たちだって、あいつらの悪事を暴きたいんだ」

「協力するよ」

「俺たちはもう、一緒に闘った同志だからね」

「僕も……もちろん。協力する、というか、むしろ助けてほしい。RESTARTと風磨のこと。まだ分からないことが多いから。もし本当にRESTARTが風磨を手にかけたなら、僕は絶対に許せない」

 善樹の中で、腹の底から湧き上がる熱い鉄のような塊がぐつぐつと煮えているような心地がしていた。自分はRESTARTに騙されていたのかもしれない。だとしたら、本気で彼らを軽蔑するし、本気で闘いたいと思う。

「ありがとう。今日、みんなと話ができて本当に良かった」

 美都がにっこりと、花のような笑みを浮かべた。その笑顔に、善樹は初めて胸がきゅっと鳴ったような気がする。けれど顔には出さない。開が美都の方を見て顔を綻ばせるのも、見てしまった。
 それから善樹たちは運ばれてきた料理をガツガツと食べた。話し合いに没頭していたから、みんなお腹が空いていた。「ここの料理美味いね!」と一番興奮していたのはもちろん開だ。だが、宗太郎も負けず劣らずたくさん食べていたし、友里も、美都も、みんなで舌鼓を打った。

「それじゃ、そろそろ解散しますか。また集まれたらいいね」

「ええ。また何かあったら、連絡を取り合おう」

「東京ならいつ来てもいいしね」

 各々挨拶をして、善樹たちはお店を後にする。
 午後九時、外はもちろん暗くなっているのだが、眠らない東京の街はそこかしこが明かりに溢れていて、仲間と解散をするには惜しい心地もした。

「善樹くん、一緒に帰らない?」

 他のメンバーを見送った後、美都に声をかけられた。下宿先が同じ方向なので、善樹はもちろん頷いた。

「今日、みんなのこと集めてくれて本当にありがとう。おかげで今後の方針が見えたよ」

「いや、お礼を言わないといけないのは僕の方だ。おかげで、目が覚めたというか。……自分が信じてきたものが、必ずしも正義とは限らない。インターンの時にも学んだはずだったのに、僕はまだ真実が見えていなかった」

「……仕方ないよ。まさかあの優良企業が悪だなんて、誰も思わないもの」

 美都の声はどこか寂しそうに思えた。きっと、父親のことを考えているのだろう。美都の父親は今もなお牢屋の中にいるのだろうか。もし彼女のお父さんが本当に無実なら、早く解放してあげたいと思うのが家族の気持ちだろう。

「私さ、お父さんを助けたいと思いつつも、お父さんと苗字を変えて逃げたんだ。世間から、白い目で見られるのが怖かった……。ふふ、最低だよね。守りたいと思うものから遠ざかって、自分だけ逃げて」

「……最低なんかじゃないよ。きみがアルバイト先を追われた話を聞いて、本当に申し訳ないことをしたと思った。その後も、大変だったんだね。僕には想像できないくらい、辛かったと思う。そんな中でも、お父さんの無実を信じて行動してるきみは、きっとすごい」

 本音だった。美都は本当に強いと思う。自分は辛いことから目を逸らしていたのに、美都は自分の身を守りつつも、目を逸らすことはしなかった。自分と美都は違う。彼女は、尊敬に値する人だ。

「ありがとう。そう言ってくれるだけで救われたよ。私、やっぱり善樹くんのこと好きかも——なんてね。困らせちゃうね、ごめん。だけと善樹くんのこと、本当に大切な友達だったと思うし、これからも友達でいたい。だめかな?」

 冷たい夜風が頬を撫でるのに、善樹の心臓は熱を帯びているかのように熱い。気がつけば無意識のうちに頷いていた。

「僕も、きみとは友達でいたいよ」

「そっか。良かった。あのね、私、善樹くんと協力して、RESTARTの悪事を暴きたいって本気で思ってるから、一緒に闘ってくれ
る?」

「ああ、もちろん。僕も闘う。人生をかけた勝負の始まりだ」

「ふふ、ありがとう。それじゃあ、また作戦会議しよう」

「うん」

 美都と二人だけの約束をした善樹は、飲み会終わりのサラリーマンたちと一緒に、電車に乗り込んだ。電車の中は座れないほどに混んでいるのに、世界に美都とたった二人きり、取り残されたような錯覚に陥る。でも、不思議と淋しいとは思わなかった。彼女の息遣いを隣で感じながら、流れゆくネオンの街の風景をしっかりと頭に刻みつける。

 これから自分が闘おうとしている相手は、茫漠と広がるこの街に似ている。
 美都と、それから仲間と一緒ならば、怖くはないと思った。
 誰もいない殺風景な下宿先の部屋に帰り、玄関の扉を開く。ひゅっと風が吹き抜けて、善樹は目を瞠る。

「ただいま」

 ……。
 誰からも返事はない。当たり前だ。善樹は大学生になってからずっと一人暮らしだ。風磨と共に生活をしていたと思い込んでいただけで、自分はずっと一人だった。
 洗面所へ向かい、石鹸で手を洗う。鏡に映った自分は紛れもなく自分でしかない。風磨が亡くなってから、鏡や窓に映った自分の顔を見るたびに、彼がそばにいる気がしていた。それくらい、善樹と風磨は顔がそっくりで、両親に間違えられることも多かった。

「まさか自分が、間違えるなんてな」

 滑稽な過去に苦笑する。
 風磨、お前もおかしいだろ。
 僕のこと、ずっと馬鹿なやつだって思ってただろ。そっちで笑ってるんだろ。
 お前はさ、なんでRESTARTで働きたいって思ったんだろうな。

「なあ、教えてよ」

 鏡にそっと手を伸ばし、映り込んだ頬に触れる。つるりとした感触が生々しく、今彼がここにいない現実を善樹に突きつけた。

「もし本当に風磨がRESTARTの人間にやられたんならさ……兄ちゃん、闘わなくちゃいけない。見守ってくれる?」

 たった数分の出生時刻の差で兄や弟だなんて、馬鹿馬鹿しいと思っていた。
 それでも、風磨から「兄貴」と呼ばれるたびに、自分は兄なんだ、兄として弟を守らなければと使命感を覚えたのは事実だ。風磨が周りの人間から理解されなくったって、自分だけは絶対に見捨てたくない。血を分けた双子のことを、自分だけは理解したいと切に願っていた。だから彼がピンチの時は必ず駆けつけたし、何か悩んでいることがあったら共有してほしいと思った。宗太郎たちに言わせれば、それも偽善なのかもしれない。
 でも、それでも僕は。風磨のことを守りたい。今も昔も変わらず、風磨は大切な弟だから。

「風磨、お前が僕を兄にしてくれたんだ」

 不甲斐ない兄かもしれない。勉強ばかりで、人の気持ちを分かってやれない人間なのかもしれない。
 でもさ、たった一人の弟のことぐらいは、分かりたいと思うんだ。
 鏡の中の自分の顔が、切なく歪むのが分かった。瞼の裏が湿り気を帯びている。成人してから、涙を流すことなどなかった。淡々と、目の前のやるべきことをこなす日々に、心を強く揺さぶられることがなかったのだ。風磨が亡くなった時は、信じられない気持ちでいっぱいで、空っぽになった心が、泣き叫ぶことさえしなかった。

 一緒に闘ってくれる?
 先ほどの美都の言葉が頭の中に強く思い浮かぶ。
 闘おう。美都や、仲間と共に。大切な弟のために、自分は立ち向かうのだ。たとえ相手が大企業だとしても、尻込みなどできない。美都たちと約束したから。

「そばで、見てて」

 絶対に気のせいだと分かっているつもりなのに、風磨が背中をぽんと押してくれているような気がしてはっとする。守られているな。風磨に対して初めてそんなふうに思った。

 シャワーを済ませ、部屋に戻ると余計なことは考えずに電気を消した。マンションの下ではブーンという車のエンジン音が今なお鳴り続いている。眠らない東京の街。今日も忙しなく過ぎていくいつもの一日であったはずなのに、善樹の周りだけが四角く切り取られているような気がした。これから立ち向かうのは孤独であって、孤独ではない。目を閉じて、瞼の裏に浮かぶ美都のまっすぐなまなざしを、記憶に刻みつけるようにして眠りについた。

 翌日、大学でゼミを受け終えた善樹は、図書館で課題を済ませていた。その最中、スマホが数回震える。アプリの通知は最小限に抑えているから、普段から通知が鳴ることはほとんどない。画面を見ると、美都からメッセージが届いていた。

【善樹くん、昨日はありがとう。早速なんだけど、作戦を立てない? 大学が終わったら連絡が欲しいです】

 メッセージの後に、よろしくお願いします、とパンダが頭を下げているスタンプが送られていた。彼女が単刀直入に、こんなふうにメッセージを送ってくるということは、よほど急いでいるのだろう。内定を受諾するかどうかの連絡を、会社側から迫られているのかもしれない。だとすれば、いち早く作戦を立てる必要があった。

【こちらこそ、昨日はありがとう。了解です。ただ今日はこれからバイトがあるから、終わってから電話でもいいかな】

 善樹が返信を打つと、ものの数分もしないうちに返事が返ってきた。

【もちろん、電話で大丈夫です。ありがとう】

 それっきりの短いやり取りだった。善樹は机の上に広げていた参考書やノートを鞄にしまい足早にバイト先に向かう。シフトの時間は決まっているから、早く行ったところで早く切り上げることはできないのだが、逸る気持ちを抑えるためにも、行動するしかなかった。


 夜九時、バイトを終えた善樹は帰宅すると、まるで何かの儀式のように洗面所の鏡の中の自分の顔をじっと見つめる。忘れないためだ。自分が一条善樹であって、風磨ではないことを。風磨が隣にいないことを。ひしひしと感じながら、部屋でスマホを手に取った。
 LINEの画面を開いて、美都に電話をかける。ツーコールもしないうちに、彼女はすぐに電話に出てくれた。

「もしもし、長良さん? 今大丈夫?」

『うん、大丈夫。忙しい中電話ありがとう』

 電話の向こうから自分の部屋で聞こえるのと同じような車のエンジン音が聞こえてきた。窓を開けているのかもしれない。お風呂上がりに水が滴る彼女の艶やかな髪の毛を想像して、すぐにかき消した。

「こっちは大丈夫。それで、作戦のことなんだけど——」

『そうだね。作戦を練ろうっていう話。実は私、割ともう考えを固めてるの。あとは実行に移すだけ』

「そうなの? 随分仕事が早いね」

 昨日、みんなで集まってその翌日だというのにもう作戦を立てているのか。仕事が早いのはさすがという他はない。

『そんなことないよ。私は大学にも行ってないしね。それに、RESTARTからは十五日までに内定受諾の回答が欲しいって言われてる。あと五日しかないの』

「なるほど。それは、今すぐにでも行動しないとまずいね」

 やはり、善樹の想像した通りだった。彼女は先方から回答を迫られている。焦る気持ちはとてもよく理解することができた。

『そう。だから単刀直入に伝えるね。私が考えた“作戦”』

「お願いします」

 それから美都は電話の向こうで今日考えたという“作戦”を語り始めた。RESTARTの悪事を暴くため、そして自分がRESTARTに就職すべきかどうかを決めるため。今、自分にできるすべての力を出し切って、実行する。彼女の語り口からして、並々ならぬ決意が伝わってきた。

『……とういうわけなの。大筋は理解してもらえたかな?』

 一通り話し終えると、電話の向こうで彼女がふう、と息をつくのが分かった。

「ああ、分かったよ。でも、本当にそのシナリオ通りにいくかな?」

『それは……やってみないと分からない。でも、何もしないでぼうっとして、彼らの思惑にハマるよりは絶対にまし。だから成功するかどうか分からないけど、やってみたいと思う』

「そうか」

 善樹は頭の中で、彼女から伝えられた作戦を実行するイメージをしてみた。
 できないことはない。ただ、あと五日という期限が迫っている中で実行するならば、自分たちだけではなく、Dグループのみんなにも全面的に協力を仰ぐ必要がある。
 そこまで考えて、善樹は思い切り深呼吸をしてみた。 
 酸素が血液に溶けて、全身を駆けずり回る。血管が大きく開いているイメージが湧き上がり、やってやろうじゃないか、という気概が湧き上がってきた。

「分かったよ。その作戦で頑張ってみよう。みんなにも、協力してもらわないとね」

『ありがとう。ええ、そのつもり。今から順番に声をかけてみる。返事が来たら、善樹くんに報告するね』

 美都はそれだけ言い残すと、「また連絡します」と電話を切った。
 美都が内定受諾を受け入れるかどうか、決めるまであと五日間。
 長いようで短い数日が、今始まった。

 十月十一日、善樹は大学の授業が三コマ目で終了したので、終わり次第RESTARTのオフィスに向かっていた。今日は長期インターンのシフトの日だ。一応、毎月の出勤日は事前に申請していて、その予定に従って出勤している。
 だが、今日はいつもと違う心持ちで会社にやってきた。ただやるべき仕事をこなすだけではない。ここ数日の間に芽生えた会社への懐疑心によって、オフィスという空間にいるだけで緊張していた。営業社員や事務社員はいつもどおり仕事に励んでいる。善樹は、インターン生が集まって使っている部屋で、時々パソコンから顔を上げながら、ガラス壁で区切られた社員たちのいる部屋の方を観察していた。

 特に、何もないよな……。
 当たり前だけど、目の前に広がっているのは日常の風景だった。
 善樹は社会的マイノリティの人が利用するマッチングアプリの開発や今後必要な施設について考える、いわゆるマーケティングの部署で働いていた。教育係は特に決まっておらず、同じマーケティング部の社員に意見を求めたり、教えてもらったりしながら仕事を進めている。他のインターン生たちも同じだ。仕事内容について、疑問に思うことは一つもない。今日も、淡々と指示された作業をこなすばかりだ。

 時々人事部の人から呼び出されて面談のようなものを受ける機会もあった。インターン生の世話も、かなり手間暇かけてやってくれている——そんなふうに感じていた。

「一条くん、ちょっといいかい」

 パソコンの画面と、ガラス越しの向こうの部屋に、ちらちらと視線を行ったり来たりさせていた時だ。不意に後ろから声をかけられた。振り返ると人事部でお世話になっている今田が立っていた。Dグループで審査員を務めていた彼は、インターン生と面談を担当している社員だ。あのインターンではもちろん彼のことは知らないふうを装っていたけれど、本当は最も良くしてくれている社員だった。

「はい、なんでしょう」

 今田は「ちょっと向こうの部屋に」と、善樹を仕事部屋から連れ出して、別の部屋へと連れて行った。六階の人事部のフロアにある個室だ。面談を受けるときは大抵この部屋で行われていた。

「呼び出して悪いね。ちょっときみに聞きたいことがあって」

 今田はそう前置きをしてから、「長良美都さんのことなんだけど」と切り出す。美都の名前を耳にした善樹は、反射的にぴくりと肩を揺らした。動揺を悟られないように、「長良さんが、どうかしましたか?」と尋ねた。

「実は彼女に内定を出していてね。あの特別選考で、決定したんだ。きみに報告が遅くなって申し訳ない」

「そう……なんですね。いや、僕なんてただのインターン生ですし、大丈夫です」 

 あくまでも初めて聞いたふうを装う。

「きみは面接官としても協力してもらったからね、伝えておかないといけないと思って。それで、彼女を雇うに当たって、ちょっと聞き
たいことがあって」

「聞きたいこと? なんでしょう?」

 美都に対する情報なら、宿泊型インターンや面接で散々分かったのではないのだろうか。他にもまだ、聞きたいことがあるのか。

「いやあね、彼女は内定を受諾するかどうか、って話なんだけど。きみに聞いても分からないよね?」

「内定受諾をするかどうか、ですか。うーん、さすがに僕は何も……。あの選考以来、会ってないですし」

 嘘をついた。彼女に関する情報を、今自分の口からは言えない。

「そうだよね。うん、変なこと聞いてごめん。実は私たちは、きみにも大学を卒業後、一緒に働いてもらえないかなって思ってるんだ」

「え?」

 これには善樹も驚いた。長期インターンをしているとはいえ、RESTARTに就職するかどうかはまた別の話だ。通常なら自分からアプローチをして、入社させてもらえないかと掛け合うところだろう。
 それなのに、RESTART側から誘いを受けるなんて。
 光栄なことではあるが、美都やみんなと話した内容が頭の中で鋭い光を放っていた。

「きみは、数年に一度いるかどうか分からないくらい、優秀な人材だ。頭の良さはもちろん、きみの性格もね(・・・・)
我が社に合ってる(・・・・・・・・)んじゃないかと思ってる。岩崎部長も同じ意見なんだよ」

 RESTARTに合っている——まさかそんなふうに思われているとは思わず、善樹の身体は固まった。嬉しいという気持ちもあった。でも、みんなから聞いたRESTARTに関するいろんな話が走馬灯のように駆け巡っていた。

「そんなふうに言っていただいて、光栄です。少し、考えさせてください」

「もちろん。今すぐ答えが欲しいわけじゃない。まだ三年生だしね。これから働いてみて、RESTARTに就職するかどうか、考えてくれたらいい。もし入ってくれるのなら、私たちはきみを歓迎するよ」

「……ありがとうございます」

 善樹はお礼を伝えて、その場を立ち去ろうとした。だが、今田がふと「そういえば」と再び口を開く。

「一条くん、最近風磨くんの様子はどうだ?」

「え、風磨ですか?」

 トクン、トクン、と自分の心臓の音が大袈裟なくらい大きく聞こえる。今田の目は去っていこうとする善樹を捉えて離さない。何かを思案する虎の目のようだった。

「風磨……は、家で就職先を探してます」

 咄嗟に口をついて出た嘘を、今田がどう受け取ったかは分からない。ただ彼は「ふうん。そうなんだ」と意味深に頷いた。

「風磨くんとは私も一緒に働いて、楽しかったからね。突然辞めてしまったのが、ちょっと悔しかったんだ」

 突然辞めてしまった。
 男の口から出た表現に、善樹の脈動がどんどん速くなる。 
 だが、動揺を悟られないようにして、「本人に伝えておきます」と言い残した。
 部屋の扉から出ていこうとする善樹に対し、今度は今田も何も言わずに黙って見送ってくれた。
 美都から再び連絡があったのは、その翌々日、十月十三日のことだ。今度は電話ではなく直接会いたいと言われ、以前も彼女と話した喫茶店に向かった。日曜日なので今日も店内は混んでいる。美都はコーヒーを頼むと、早速本題に入っていった。

「みんなから、返事が来たの。たった一日しかなかったけど、それぞれ協力してくれた。だから作戦は、今晩決行したいと思ってる」

「今晩か——」

 美都も、Dグループのみんなも仕事が速く、善樹は素直に驚かされた。それぐらい、みんなの気持ちは一緒だったようだ。

「本当に、大丈夫かな」

 直前になって弱気になる善樹。今まで、部活の大会でも勉強でも良い成績を収め続けてきた。本番前に緊張したことはあったが、弱気になったことはない。自信があったのだ。自分はここまで頑張ったのだから、絶対に大丈夫だという自信。でも今回は——相手が相手だけに、どうなるか分からない。未知なるものと対決をする。初めて押し寄せてくる不安が、底なし沼のように感じられて、この作戦に自分自身が溺れてしまわないか怖くなった。

「大丈夫だよ、善樹くん」

 ポンと、誰かに優しく背中を押された気がする。実際には触れられていないのだけれど、美都の柔らかな言葉が自分にとって大切な道標だと感じた。

「善樹くんが失うものは何もない。善樹くんはもう十分傷ついたんだから、これ以上傷つかなくていい。あと少し、一緒に頑張ろう?」

 失うものは何もない。
 そうだ。たとえこの作戦が失敗したとしても、せいぜいRESTARTから糾弾されるだけだ。退職させられるかもしれないが、何かを失ったことにはならない。美都の力強い言葉が、善樹の気持ちを前へと動かした。

「ありがとう、長良さん。僕はあのインターンできみに再会できて良かった」

「こちらこそ。じゃあ善樹くん、今晩九時に作戦決行ね。よろしくお願いします」

 テーブルに額がついてしまうんじゃないかってくらい、深く頭を下げる美都。善樹はそんな彼女を細目で見つめながら、今夜の自分の行動を注意深くシュミレーションしていた。


「こんなもんか……」

 午後八時半、自宅の机でパソコンに向かっていた善樹は、大切な作業を終えてほっと一息吐いた。机の上には美都から送ってもらったさまざまな資料をプリントアウトした紙がずらりと並んでいる。
 椅子に座ったまま、新鮮な空気を求めるようにして天井を仰ぐ。 

「風磨……もうすぐだぞ」

 長い間、善樹が風磨の不在に気づかないことで、風磨の魂は浮かばれなかっただろう。
 本当に、ごめんな。
 心の中で祈るように呟く。時計の針が時間を刻む音だけが、室内に響いていた。
 それから三十分後、午後九時になると心臓が張り裂けそうなくらい緊張しながら、善樹はスマホを開く。
 これですべてが終わるかもしれないし、終わらないかもしれない。
 終わらなくても、失うものは何もない。
 何度も自分に言い聞かせながら、善樹はスマホの画面をタップした——。