岩崎は美都の主張に、何も返すことはなかった。企業の面接ではよくあることだ。面接官はこちらの話に何も反応を見せないことが多い。手元の評価シートにはしっかりと評価を書き込んでいるだろう。だから、反応が得られないからと言って臆することはなかった。
ただ一人、善樹だけは終始心ここにあらず、という表情で美都を見ていた。
美都が大学を辞めていたことに、相当衝撃を受けたのだろう。だが、美都にとっても、今善樹が面接官としてあちら側の席に座っていることが不可解でたまらないからおあいこだ。
「ありがとうございます。では次に、学生時代に頑張ったことを教えてください」
「はい」
それからの質問も、美都は用意してきた回答を事前に答え続けた。特に目立ったミスはなかったように思う。どの質問も採用面接では必ず聞かれることばかりだったので、動揺せずにいられた。
そしていよいよ最後の質問。最後は岩崎自身がこう問いかけてきた。
「長良さん、きみにとって、本当の正義とはなんだと思いますか」
本当の正義。
彼の口から出てきた質問に、美都は初めて身構えた。
私がインターンの時に聞いた質問だ……。
先月のインターンの会社説明の際に、美都自身が手を挙げて岩崎に同じ問いを投げかけたのだ。今度は岩崎の方から美都に質問が飛んでくるとは。予想外の展開に、思わず心臓が大きく跳ねる。
大丈夫、落ち着け。
ここは、一企業の特別選考の場であって、警察署ではない。萎縮する必要だってないのだから、自分が思う通りに話をしよう。
美都は肺いっぱいに、空気を取り込んだ。
「私にとって本当の正義は……毎日、当たり前にご飯が食べられること。好きなことをして、誰からも咎められないこと。他人に優しくして、その人から感謝されること。誰かを助けようとしたことが、世間から正しく認められること。自分の身の回りで起きた現実を、受け入れられること。そんなふうに、考えます」
美都は、自分と、自分の家族がつつましく暮らしてきた時間を思いながら、言葉を紡いだ。何一つ、悪いことはしなかった。他人に迷惑をかけることもなかった。自分たち家族は、ごく一般的な幸せな家庭だった。
それなのに自分の家族は今、どうしてこんなことに——。
思考が面接の場から家族の現状へと移り変わる。目の前の面接官たちの顔がのっぺらぼうに見えてしまう。こんなことが、前にもあった。確か、インターンの最終日、発表を終えた直後のことだ。周りの声が何も入ってこなくなり、宙を見つめていた。そんな自分を、周囲のメンバーは——善樹は、どう思ったのだろう。
「ありがとうございました。なかなか、興味深い答えでしたね」
「そう……ですか」
もはや、岩崎からどう評価を受けたかなど、どうでも良くなっていた。
自分が声に出して言いたいことはこの場ですべてぶつけることができた。あとは、会社の判断を待つだけだ。
「これで面接を終わります。長良さん、お疲れ様でした」
今田にそう言われて、美都の身体は弛緩した。「ありがとうございました」と一礼して部屋の扉を開ける。最後に目にした善樹の表情は、切なく滲んでいるような気がした。
「皆さん、本日はお疲れ様でした。これにて弊社の特別選考を終了いたします。結果は一週間以内に全員に通知します。では、解散してください」
米川の言葉に全員が頷いて、特別選考の場はお開きとなった。
元来た道を戻り、エレベーターに乗り込む。みんな面接で力尽きたのか、げっそりとした表情をしていた。
ビルを出て、美都は駅までの道を歩く。リクルートスーツのジャケットを脱ぐと、汗が少しだけ乾いて、心地よかった。
『【株式会社RESTART:内定のお知らせ】
長良美都様
先日はお忙しい中、弊社の特別選考にお越しいただき誠にありがとうございました。
人事部長の岩崎優希です。
厳選なる審査の結果、長良様の採用内定が決定いたしましたのでここに通知いたします。
つきましては、再度弊社にお越しいただき、内定受諾書のご記入をお願いしたく存じます。日程につきましては長良様のご都合の良いお日にちでお約束させていただきます。
十月十五日まで、平日九時〜十八時の間でご都合の良い日時を三つほどご返信願えますでしょうか。
よろしくお願い申し上げます』
RESTARTから内定通知のメールが届いたのは、特別選考からちょうど一週間が経った、十月四日のことだった。いよいよ夏の暑さも過ぎ去り、澄んだ秋の空が広がる日が増えた。夏が苦手な美都にとって、心地の良い季節だ。
内定をもらえたことは正直予想外だった。
でも、前回特別選考に選ばれた時も同じように驚かされたので、どこかで覚悟はしていた。ただ、実際にこうしてメールを見ると、やっぱり心臓がドキドキと乱れた。
美都はちょうど買い物をしに繁華街に出かけている最中だった。公園でひと休みしている間にメールを開いたのだ。表示された文面を二度ほど凝視する。内定が来たことは紛れもない事実らしい。
「内定、か」
どこか遠い響きのようにも聞こえるその二文字。来年、年が明ければ就活生たちがその二文字を求めて熾烈な争いを繰り広げるだろう。美都はいち早く、争いから抜けることができたのだ。これはどう考えても喜ばしいことに違いない。
でも。
美都は、ふうと大きく息を吐き出す。公園で、コーヒーを飲みながら楽しげに会話をしているカップルや、休憩をしているサラリーマンたちが視界に映る。街中の公園なので子供はいなかった。
内定、どうしようかな。
普通の人間ならば、この内定をすぐにでも承諾するだろう。実際あのインターンに参加したメンバーなら、誰しもRESTARTへの就職を望んでいたはずだ。
だが美都は違っていた。
美都には、あのインターンに参加した別の理由があった。
だから、先方からの内定通知を、快諾する決心がつかないのだ。
目を閉じて、聞こえてくる周囲の雑音に耳を研ぎ澄ませる。ザ、ザ、と人がアスファルトを踏み締める音、車のエンジン音、どこからともなく聞こえてくるカラオケ店のBGM。そのどの音も一度シャットダウンして、心の一番深いところで、今後のことを考えた。
やがて決意が固まり、美都は再びスマホを開く。メール画面ではなく、LINEだ。どこかに登録している。最近連絡をしていなかったので、トーク画面はずいぶんと下の方へといってしまっている。でもその人の名前は確実に見つけることができた。
「一条善樹」の名前を見つめながら、彼とのトーク画面を開いた。
最後に連絡を取ったのはいつだっただろうか。二〇二九年六月二日。去年、美都がアルバイト先のカフェを辞める直前のことだった。内容はアルバイトのシフトのことで、とりわけ中身があるわけでもない。それもそのはず。美都は一年生の終わり頃に善樹に告白をして失敗して以来、彼とは少し気まずい関係になっていたから。
極めつけは二年生の春に、父親が警察に捕まったことを善樹に相談したことだ。
あれ以来、バイト先にもいられなくなり、善樹との関係を絶った。
だから彼にメッセージを送るのは一年と数ヶ月ぶりだ。
『善樹くん、お久しぶりです。先日は面接でお世話になりました。
善樹くんに話したいことがあります。
二人で会える時間をつくってもらえませんか』
堅苦しい文面では相手も身構えてしまうだろうと思ったのだけれど、善樹のことを気軽に誘えるわけではなかった。彼には一度告白をして、振られている。さらにインターン中は彼のことを犯罪者だと指摘した。天海開のことも相談していて、彼にとって私はどう接したらいいのか分からない人間のはずだ。
このLINEにも、返信が来るか分からない。
美都は半ば諦めつつ、公園の椅子から流れていく人々の姿をぼんやりと見つめる。
果たして善樹は自分の誘いに応じてくれるだろうか。
RESTARTからの内定通知に返信ができない今、彼からのコンタクトが、美都の唯一の支えだった。
美都のスマホにLINEの通知が届いたのは、その日の夜、九時を過ぎた頃だった。
LINEの画面を開くと、ちゃんと彼とのトーク画面のところに通知が届いている。一番上に表示されたそれを見つめて、ゆっくりとメッセージを開いた。
『長良さん、久しぶり。この間の特別選考では驚かせてごめん。
話って何かな? 僕の方は、大学が終わってインターンとバイトが休みの日ならいつでも空いています。長良さんはいつなら会えそう?』
返信の感じだと、好感触だった。善樹は美都の誘いに賛成してくれている。美都は少し考えて、『ありがとう。私の方はいつでも。善樹くんに合わせます』と返事をした。
それじゃあ明後日の日曜日に、という話になり、美都は了解と答えた。
善樹くんと、もう一度会って話ができる。
美都は、恋人に会える時のように気分が高揚していた。でもそれは、善樹のことを好きだからというわけではない。善樹への恋心は今、複雑にかたちを変えている。
それよりも、善樹には確かめたいことがある。
夏のインターンの時からずっと気になっていたこと。
明後日、それを直接聞いてみよう——。
カララン、と涼しげなベルの音が店内に響き渡る。文京区にある喫茶店で、待ち合わせをしていた善樹がやってきた。美都も善樹も自宅が同区にあるので、お互いの家からほど近い場所にある落ち着いたカフェで約束をしたのは良かったと思う。
「こんにちは」
先にコーヒーを飲んでいた美都は、後からやってきた善樹に挨拶をした。
善樹はグレーのシャツに黒い綿パンツという出たちで、学生らしい格好をしている。二人が向かい合って椅子に座ると、カップルと間違えられそうだ。
「長良さん、お久しぶり」
善樹にとって、美都に会うのは気まずいだろうと思っていたのだが、そんな素ぶりはまったく見せずに笑顔を向けてくれてほっとする。実のところ、美都自身、かなり緊張していた。善樹からどう思われているのか、不安で仕方がなかったのだ。
「元気そうでよかった。何か飲む?」
「ああ、じゃあアイスティーで」
善樹が店員に飲み物を注文すると、程なくしてアイスティーが運ばれてきた。日曜日の午後ということもあり店内はそれなりに混んでいる。話をするなら手短にした方が良いだろう。
「今日は、突然呼び出してごめんね。びっくりしたでしょ」
「まあ、それなりに。でも僕も、あのインターン以来、長良さんと気まずいままだったのがちょっと嫌だったというか。また話せる機
会ができて良かったよ」
「そっか。それなら嬉しい。あのさ、単刀直入に聞くけど、この間の選考で私が内定をもらったの、知ってる?」
「いや、今知った。そうなんだ。おめでとう」
善樹は目を丸くした後、素直に祝福をしてくれた。こういう彼の優しいところが美都は好きだった。
「ありがとう。インターン生には知らされてないんだね」
「うん。面接官として審査はしたんだけど——実際に誰を選んだのかは、社員たちしか知らなくて。まああの面接自体も、岩崎部長が将来の練習にって、僕を入れてくれただけでさ。僕には何も決定権はなかった。評価シートは記入したけれど、自分には人を見定める能力なんて、ないよ」
彼の瞳が切なげに揺れる。アイスティーの氷が溶けて、カランと音を立てた。
「……そんなことないと思うけど。でもあの夏のインターンで善樹くんは、新しい自分を見つけたんだよね。それだけでも、すごく成長したと思う」
「……ありがとう」
本当は自分が、誰かのことを「成長した」だなんて言える立場ではない。まして善樹には、最後の発表の場で犯罪者だと指摘して、ある意味彼を裏切ってしまった。彼に恨まれていても仕方がない。
それなのに彼を労おうと思ったのは、あのインターンで一番自分自身について省みていたのが、善樹だと感じていたからだ。
「正直僕も、あのインターンで思うところはたくさんあって。あれからはもう、自分の正義感を他人に押しつけるのはやめようって思った。その方が人間関係はうまくいく。僕が知らない間に傷つけていた人たちにも謝りたいと思った。長良さん——僕はきみに、一番に謝りたかった。バイト先の一件で、傷つけてしまって本当に申し訳ない」
善樹が美都に向かって深々と頭を下げる。まさかこの場で一年前の出来事の謝罪を受けるとは思っておらず、美都は多少面食らった。だが、インターンの発表の場で善樹を糾弾したのは事実だ。彼に謝らせるようなかたちになり、美都自身、申し訳ないと思う。
「ううん、こちらこそ、発表の場でひどいこと言ってごめんなさい。傷つけちゃったよね……。あの時話した気持ちは本音なんだけど、今はもう、善樹くんのことを恨んでるとかじゃないの。それよりももっと、聞いてほしいことがあって」
そうだ。アルバイト先を辞めざるを得なくなった時、美都は最初に善樹のことを憎らしいと思った。けれど今は、その矛先は別の者へと向かっている——。
「聞いてほしいこと? なんだろう」
善樹が純粋な疑問を美都にぶつけてきた。その目が先を話すようにと訴えている。美都はじっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「……善樹くんはさ、RESTARTに四月から長期インターン生として働いてるんだよね。きっかけは何だったのかな」
「きっかけか。確か、弟の風磨に影響されたんだっけ。風磨はさ、高卒で働いてるんだけど、いろんな職場を転々としていてね。やつが
一年生の秋頃から働き始めたのが、RESTARTだったんだ。年明けには、風磨はRESTARTを辞めたんだけど。それで、僕もRESTARTのことを調べていくうちに、そこで働きたいって思うようになって——履歴書を、書いたんだ」
「そう……風磨くんが。夏のインターンでも風磨くんの話をしてたね」
「あ、うん。双子でずっと一心同体で生きてきたから。どうしても風磨のことを考えてしまうというか」
「そっか」
美都は、カップの中で揺れるコーヒーの水面をじっと見つめていた。自分の目が、懐疑に満ちていることが分かり背筋が震える。
「夏のインターンはさ、岩崎部長も言っていた通り、業務命令だったんだ。RESTARTの一員として、一条くんも参加してきなさいって、言われて。実際興味はあったからよかったんだけど。Dグループで長良さんと会えたのも、宗太郎と一緒だったのも結果的には良かったと思ってる。おかげで目が覚めたというか。自分自身、もっと考えるべきことがあるんじゃないかって分かったから。あの六人でディスカッションしたことは、僕にとって必要な時間だったよ」
善樹は過ぎ去った時間を懐かしむような視線で、美都を見つめて言った。混み合う店内に、さらにお客さんがやってきて、入り口で何組か待たされているのが美都の視界に入ってきた。それでも、まだ彼とは話し足りない。心臓の音が、ずっとうるさく音を立てている。
「あのさ、善樹くん」
コーヒーが、残り二分目まで減っていた。美都はおかわりを頼もうか迷う。早いところ席を空けるべきだということは分かっているものの、善樹と腹を割った話は、まだ終わっていない。
「どうしたの」
もったいぶって次の一言を放てない美都に、善樹が聞いた。美都はようやく決心がついて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「Dグループが六人って、誰のこと? 私たち、ずっと五人のグループだったよね」
***
「部長、結局内定を出すのは長良さん一人なんですね」
六本木のオフィスビル、六階の人事部の部屋で、今田が優希に向かって聞いた。特別選考が行われたのはちょうど一週間前のこと。今田も面接の場に居合わせたので、今回の選考の結果については多少なりとも意見をしている。が、まさか内定が一人に絞られるとは思っていなかった。すべて部長である岩崎優希が決めたのだ。
「まあ、そうだな。他のメンバーはどうも利口すぎる。その点、彼女は一番活きがいい」
活き、と表現する優希の瞳は自分でも分かるくらいにギラついている。あまり過激な表現をすると部下から引かれることも多い。だが今田はとうに慣れているのか、「そうですね」と優希の求める反応を示してくれる。彼をDグループの審査員にしたのは正解だった。部下の中で、一番信頼できる存在だ。
「彼女、内定を受諾しますかね」
「さあてね。志望動機は聞いたが、あくまで表向きの動機だってことは分かったよ。どうも彼女は、我々がしたことに気づいている気がしてならない」
「……彼女の、お父さんに対してですか?」
「そうだ。あの目は真実を知っているぞと訴えているようだった」
「それは、まずいですね……。世間に公表でもされたらたまったもんじゃないですよ」
「なあに、その時はその時。我々は株式会社RESTART。今、世間から圧倒的な支持を得ている。若い娘の言うことなんて、どうとでもねじ伏せられるさ」
「はあ」
今田は腑に落ちていないようだが、まあいい。
「どちらにせよ、彼女が内定を受諾するかどうか、まずは見ものといったところだね」
「……部長、随分楽しそうですね?」
「こんなふうに肌がひりつくような感覚は久しぶりなんでね。悪趣味で悪いね」
優希はそう言いながら、デスクの上に置いていたコーヒーを飲み干した。余分な糖分が入っていないコーヒーは苦かったが、今の優希の胸のうちを表しているようで、余計にワクワクして鳥肌が立った。
長良美都。
きみはどんな選択をする?
「Dグループが六人って、誰のこと? 私たち、ずっと五人のグループだったよね」
ガヤガヤとしたお客さんの話し声が、一瞬聞こえなくなったような気がした。
善樹が大きく目を見開くのと、美都がコーヒーを飲み干したのが同時だった。
「五人グループ……? いや、風磨も合わせて六人だったじゃないか」
そう主張しながら、善樹は自分自身、「本当にそうだったか?」という疑問が頭の中で渦を巻いた。ズキン、という頭痛すら感じてこめかみを抑える。美都が「大丈夫?」と眉根を寄せた。
「あ、ああ……ごめん。ちょっと、動揺して。えっと、長良さんは何が言いたいの?」
もう一度、彼女の発言の真意を確かめるために、善樹は疑問を投げかけた。美都はまだ分からないの、とでも言うように、「だから」と話を続けた。
「私たちDグループは、私と善樹くん、林田くん、天海くん、坂梨さんの五人。風磨くんは含まれていない。他のグループだってそうだったでしょ? 全グループ、五人のグループだったよ」
「嘘……五人? 僕たちが五人だった? じゃ、じゃあ風磨はどうなんだよ……? 長良さんだって、会っていただろ。確かにあいつはたまにしか姿を現さなかったけど、それでもみんなと会話をして——」
もはや、美都の発言を咀嚼する前に、喉元でぐちゃっと潰れてしまって、飲み込むことを拒んでいるような感覚がした。美都はふう、と息を吐いて「あのね」と再び口を開く。
「私たちは、一度も風磨くんに会ってないし、会話もしていない。全部あなたが独り言で、風磨くんの口調で話してたんじゃない。善樹くん、時々乱暴な口調で話してる時あったよね。まるで本当にそばに風磨くんがいるみたいに」
「え——」
善樹と美都の間を流れる時が止まった。善樹には少なくともそう感じられた。
長良さんは、風磨と会っていない?
そんな、嘘だ。
だって風磨は、時々だがディスカッション部屋にいた。発言は少なかったものの、ずっと自分のそばに——。
そこまで考えた時、善樹の頭の中でインターンの時の記憶の映像がぐにゃりと歪んでいくのを感じた。
ディスカッションの席は、確かに五人分しか用意されていなかった。
食事は? そうだ。食事の席も五人分だった。風磨の分は用意されていなかった。
部屋だって、風磨は善樹と同じ部屋だ。双子だから、と割り切って考えていたけど、そうじゃない。そんな特例、いくら自分が会社側の人間だからといって、認められないだろう。布団も一枚しか敷かれておらず、自分で二枚目を敷いたのを思い出す。
それから、みんな……誰一人、風磨と会話をしようとしなかったし、彼に何かを尋ねることもなかった。風磨の自由奔放ぶりに呆れて誰も相手をしないだけだと思っていたが、インターンの課題からして、風磨について誰も何も聞かないというのはおかしい。
「ねえ、考えたらおかしなことばかりでしょ? 善樹くん、いい加減目を覚まして。風磨くんはインターンに来ていない。……いや、もっと言うと、風磨くんはあなたのそばにはいないんだよ」
ドクン、ドクン、と心臓の音がいやに大きく聞こえる。善樹は目の前がくらくらとして、はっと両目を抑えた。
そうだ……僕は一度も、風磨と一緒に暮らしてなんかいない。
部屋で彼と会話をしているつもりになって、自分の中にいる風磨と対話をしていた。
やつは時々、自分の中に現れる。風磨が話していることは、全部自分が考えていたことだ。鏡を見ながら、窓に映った自分の顔を見ながら、風磨の気配を感じていた。風磨とそっくりな自分の顔を見つめて、まるでそこに彼がいるかのように錯覚していた……。
「思い出して、善樹くん。風磨くんは一年前の春に、車に轢かれて亡くなってる——」
嫌だ、思い出したくない。
善樹の意思とは関係なく、脳が思い出すことを拒絶する。
風磨は死んだ。
一年前、善樹が大学二年生だった春に、乗用車に轢かれて死んでしまった。
ふらふらと、魂が抜けたような心地で参列した風磨の葬式の映像が頭の中でフラッシュバックする。不思議なほど涙が出なくて、心にぽっかりと穴が空いていた。両親以上に、抜け殻のようになっている善樹を見て、親戚たちは皆一様に「かわいそうに」と上辺だけの言葉を投げかけた。みんな、かわいそうだなんて思っていないくせに。横柄なところがあった風磨は親戚たちからも疎ましがられていた。だから、風磨がいなくなったことを、本気で悲しんでくれている人が何人いたか、分からない。その時の善樹は大切な自分の片割れを失って、茫然自失状態だった。
……風磨の葬儀には、美都も参加していた。
礼服を着た美都が、前列で項垂れる善樹に、「善樹くん」と悲しげな声をかけてくれた記憶が蘇る。どうして忘れていたんだろう。全部、善樹が経験したことなのに。記憶からすっぽりと抜け落ちて、風磨が死んでしまった事実を、なかったことにしようとした。
それぐらい、善樹にとって風磨が亡くなってしまったことが、心に大きなダメージを与えるものだった。
「風磨は……死んだ、んだ。どうして忘れて……。風磨は一体誰に、殺された……?」
譫言のように呟く善樹のことを、美都は悲痛な表情で見つめていた。
誰も善樹たちの会話を聞いてなんかいないと分かっていても、周囲の目線が気になった。でもそれ以上に、胸に襲いくる壮絶な喪失感が、善樹の心を深く抉っていた。
「私のお父さん」
「……え?」
美都が泣きそうな声で、真相に触れる。そんな馬鹿な、と善樹の中でチカチカと赤い光が明滅するような感覚があった。
「私のお父さんが善樹くんを轢き殺した……って、世間にはそう思われてる」
どういうことだ? と善樹は美都に解説を求めるように目を瞬かせた。美都は苦痛に顔を歪めながら「私のお父さんが」と胸のうちを吐露し始めた。
「二年生の春に、警察に捕まったって、善樹くんに相談したじゃない……? お父さんが、風磨くんを轢き殺した——警察がそう疑って、お父さんは逮捕された。インターンの発表の時に話したことね。そのことを善樹くんに相談したんだけど、捕まった内容までは教えてなかったね……。なにせ、風磨くんのことだもん、そこまでは言えなかった。善樹くん、あの時壊れちゃって、お父さんのこと知ってるはずなのに、知らない感じだったから……」
そうだ。善樹は確かに、二年生の春に美都から相談を受けていた。それが原因で、彼女が
バイト先を辞めざるを得なくなったこと。善樹が店長に余計な相談をしたせいで、美都を苦しめてしまったこと。
まさか、美都の父親が風磨を轢き殺した犯人に……?
そんなこと、微塵も考えなかった。彼女に打ち明け話をされた当時、善樹の心は風磨を失ったことで、不安定になっていた。風磨の死をなかったことにして、風磨は自分の中で生きていると思い込んでいた。美都からの相談を受けた際も、どこかで上の空になっていたのかもしれない。
善樹はいまだ泣きそうな顔をしている美都の顔をじっと見つめた。
「美都のお父さんが風磨を轢いたっていうのは」
何もかも、頭が混乱していて整理がつかない。美都がはっと息をのむのが分かった。
「違う……絶対に、違う。私のお父さんは風磨くんのこと、轢いてなんかない! 私のお父さんは、冤罪なのっ。風磨くんを轢いた車が、お父さんの会社の営業車だったから、疑われてるだけで……。本当に、違うの。信じて善樹くん」
潤んだ瞳が善樹の方にじっと向けられる。美都が決して嘘や冗談を言っているようには見えない。インターンでは美都のことを信じられなくなったこともある。でも今は彼女の言葉が胸に沁みた。彼女は嘘をついていない。彼女のお父さんは風磨を轢いてない。
「信じるよ。でもそうだとして、真犯人は誰なんだ」
「……私には、心当たりがある」
低い声で美都がそう告げた。風磨がすでにこの世からいなくなっているという事実を思い知ったばかりなのに、風磨を葬った人を彼女は知っているという。
今度は善樹が生唾をのみ込む番だった。全身を流れる脈動が、風磨のそれのように感じられる。彼は生きている。自分の中で生きて、真犯人を捕まえてほしいと願っているのだ。
「心当たりって、一体誰なんだ?」
美都の口から、出てくる次の言葉を、善樹はじっと待った。
けれど彼女は善樹の期待とは裏腹に、「それを話す前に」と切り出した。
「みんなと、もう一度話したい」
「みんな? みんなって、誰?」
「Dグループのみんな。確かめたいことがあるの」
淡々とした声色だったけれど、美都の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「みんなと話さないと、私、RESTARTの内定を受諾するかどうか、決められない」
善樹は悟った。彼女は闘っている。自分の中に確かに存在している懐疑心と、真実の間で。これから先の自分の人生をどう捧げるべきなのか、迷っている。彼女には道標が必要なんだ。
善樹があの夏のインターンで、お前は偽善者だと指摘されたことで、今後の自分を見失わずに済んだように。
彼女にも、真っ直ぐに確実に伸びる道が必要だった。
Dグループのメンバーを集めるのは、それほど難しいことではなかった。
まず、善樹が宗太郎に連絡を入れた。宗太郎は善樹からコンタクトをとってきたことに訝しんでいた様子だったが、美都から相談があるらしい、と伝えると承諾してくれた。
それから、宗太郎は開と連絡先を交換していたようで、開に連絡をとってくれた。開は予想通り、すぐに集まりに参加すると言ってくれたそうだ。残り一人は友里だが、開が友里の連絡先を知っていた。どうやら開はあのインターンで善樹と美都以外と、連絡先を交換していたらしい。まったく開らしいといえばそうだが、インターンの夜に美都に強引に迫ったことを考えると、やはり彼のことは信用しづらい。発表の場で、善樹は開のことを犯罪者だと結論づけたこともあり、今更彼に会ってどんな顔をすればいいのか、分からなかった。
けれど、美都が全員に聞きたいことがあるというのだから、善樹も彼女の気持ちを尊重した。風磨のこともある。みんなと話すことが、風磨の仇を知ることに繋がるなら、善樹だってみんなときちんと向き合いたいという気持ちはあった。
五人が集まったのは、美都と二人で喫茶店で話をしてから三日後の水曜日のことだ。
ちょうど善樹はRESTARTでの仕事終わりで、他のメンバーも大学終わりに集まれるということだった。遠方の開と友里も、すぐに新幹線を使って東京まで来てくれた。今日は泊まって、明日帰るらしい。大学は一日くらい休んでも大丈夫、ということだ。友里に関してはほとんど単位を取り終わっていて、そもそも翌日が終日休みだという。タイミングよくみんなで集まれてほっとしていた。
「みんな久しぶり〜」
新幹線組に合わせて、東京駅近くの居酒屋の個室で、善樹たちは五人で酒を酌み交わす。相変わらずゆるいノリで一番に声を上げたのは開だった。変わっていない。夏のインターンから誰一人印象は変わらなくて、幻のように感じていたインターンでの三日間が現実だったのだと思い知った。
「開、身長伸びた?」
「そんなわけないだろ。揶揄うなよ」
宗太郎のボケに、開がすかさずつっこむ。インターンの時とは違う、愛のあるいじり方だった。長身の宗太郎からいじられて、開はむすっと唇を尖らせた。でも、本気で怒っているわけではないらしい。
「長良さんと一条くんも、久しぶり」
友里が善樹たちを見て微笑む。インターンではキリッとしたまなざしで、終始緊張しているような彼女だったが、今こうして違う場所で顔を合わせると、イメージよりもずっと柔らかい表情を浮かべていた。
「久しぶり。遠いところからわざわざありがとう」
「ううん。私も、久しぶりにみんなに会いたいと思ってたから。それに明日、推しのライブがあるの」
「え、そうなの? めっちゃいいじゃん。ちなみに誰?」
「『RED SCALE』っていうバンド。マイナーだし知らないでしょ?」
「えー知ってるよ! 俺も好きなんだ」
まさか開が自分の推しバンドを知っていると思わなかったのか、友里が目を丸くした。
「天海くんも? 偶然だね」
「びっくりしたー。でもいいな〜俺も、明日は東京楽しんでから帰ることにするわ」
インターン中とは打って変わって和やかな話題で盛り上がる二人。善樹は、五人でこんな他愛もない時間を過ごせるとは思っておらず、気が抜けそうになった。
「今日は、善樹からの呼びかけだっけ?」
「うん。でも最初にみんなで集まりたいって言ったのは、長良さん」
三人が、美都の方を一斉に見る。インターンの時も、発言が少ない美都のことをこんなふうにみんなが見つめるシーンが何度もあった。言葉数は少ないけれど、彼女の発言には人の心を動かす大きな力がある。
「私が声をかけました。みなさん、集まってくれてありがとうございます」
美都が小さく頭を下げた。「もう敬語じゃなくていいのに」という宗太郎の言葉に、彼女は頬をほんのり赤くする。
「うん、そうだね。普通に同級生として話すね。今日みんなに集まってもらったのは、私から聞きたいことがあるから、なの。でもその前に話しておきたいことがあって」
美都はそう前置きをしてから、ビールを一杯口に含んだ。
「私がこのグループで特別選考に選ばれて、先日面接を受けて——先方から内定をいただきました」
美都の言葉に、「おお」と誰かが声を漏らした。あのインターンでみんなが欲しかったもの——それは、少なからずRESTARTの特別選考への参加権であり、もっとつっこんだ言い方をすれば内定に他ならない。
善樹はともかく、他のみんなは美都のことを羨ましいと思うかもしれない。
「それは……おめでとう。やったじゃん」
「うん。俺も長良さんが選ばれたんだと思ってたし、素直にすごいよ」
「おめでとう」
三者三様で、美都に祝福の言葉を贈る。
「ありがとう。それでね、内定を受諾するか迷ってるんだけど……その前に、みんなに聞いてほしいことがある」
美都の視線が、今度は善樹の方に向けられた。どうしたのだろうか、と疑問に思っていると、美都が小声で「風磨くんのこと、話せる?」と聞いた。善樹は驚いたものの、ゆっくりと頷いた。
「ここからは、僕の話を少し聞いてほしい。あのインターンの中で、僕が何度も風磨の話をしていたのを覚えてる?」
宗太郎たちが互いの顔を見合わせて、神妙に頷いた。
善樹は彼らの反応を確かめてから、自分と風磨について語り始めた。
風磨とは双子で、小さい頃から比べられて育ってきたこと。
両親の教育を熱心に聞いて真面目に生きようとする善樹とは違い、風磨は両親からのプレッシャーに耐えられず、ぐれてしまったこと。
両親は風磨に期待するのをやめ、善樹にばかり構うようになったこと。
そのせいで風磨の態度は硬化して、余計に心を閉ざすようになってしまったこと。
暴力的な口調になったり、横柄な振る舞いをしたりして周囲に心配をかけてきたこと。
そんな風磨だが、クラスでいじめられている子がいたらいじめっ子に対抗して助けたり、両親からの期待を一心に背負う善樹のことを心配したりしてくれる、優しい一面があったこと。
善樹は風磨のことをずっと気にかけて、大切にしていたこと。
風磨が高校卒業後、職を転々としていたこと。
善樹が大学二年生の春に、車に轢かれて亡くなったこと——。
「それで僕はその時から風磨を失った心の傷から自分を守るために、彼の死をなかったことにしたんだ……。風磨は自分の中で生きていると思い込んでいて、あのインターンでも一緒に参加しているつもりだった。信じてもらえないかもしれないけど、僕の中に彼がいた。でも僕の中の風磨は、僕が作り出した幻想で……だから風磨として喋っていた言葉は、全部僕の頭が作り出した虚言だった。あの時はみんなのこと、混乱させてしまってごめん」
きっと、みんなも善樹がおかしなことを言っていることに気づいていただろう。でも、知らないふりをしてくれていたのだ。そうと分かったからこそ、善樹はみんなに申し訳ないという気持ちが芽生えていた。
「そうだったんだ……。一条くんが謝ることじゃないよ。大変だったね」
「うん……ありがとう。まだ真実を受け入れられないところはあるけど、だいぶ落ち着いた」
友里をはじめ、他の二人も善樹が風磨のことを、そばで生きていると思い込み、一人パントマイムのようなことを繰り広げていたことについては、特に怒ってはいないらしい。ほっとすると同時に、やはり申し訳ない気持ちは消えなかった。風磨がもうこの世にいない現実を、まだ半分ほどしか受け入れられていない自分にも辟易としている。
「善樹の弟のことについては分かった。でもそれと、長良さんが内定を受諾するか迷ってる話に、なんの関係があるんだい?」
宗太郎がもっともなことを聞いた。実のところ、善樹にも美都の真意が分からなかった。美都の内定受諾の話と、風磨が亡くなったことに、どんな関係があるのか。善樹を含め、四人のお酒を飲む手はすっかり止まっていた。
「今から話そうと思ってた。実は今回、みんなを呼んだ理由にも関わってくることなんだけど。あのね、インターンの発表の時に、私が善樹くんに、絶対に人に知られたくない相談をしたって話はしたよね? それは、私のお父さんが捕まったっていう相談だったの。捕まった理由っていうのが……善樹くんの弟の風磨くんを、轢き逃げした罪が原因なの」
「轢き逃げ? 風磨を?」
真っ先に声を上げたのは開だった。その目は純粋に彼女の父親を疑っているように見える。
「ええ。突然こんなこと話してもピンとこないよね……。私のお父さんは去年の春に、轢き逃げの犯人として警察に捕まった。善樹くんにお父さんが捕まったことを相談したあと、アルバイト先の店長に『アルバイトを辞めてほしい』って言われたの。店長はニュースで私のお父さんが殺人犯だって知って、その娘が自分の店で働いていることが不利益になるって思ったんだと思う……。それ自体、仕方ないなって諦めた。でも」
そこで一旦、美都は言葉を切る。みんなの表情を窺いながら、慎重に言葉を選んでいる様子だった。
「バイトを辞めてから、大学の同じ学部のみんなの間で噂になってしまっていて……。どうやら風磨くんの事件が、SNSで取り上げられて、炎上してしまったようだった。轢き逃げなんて絶対捕まるのに、ありえないっていうコメントに溢れて。SNSを見た友達が私から距離を置くようになって……気づいたら大学で、孤立してたんだ」
思い出すと今でも辛いのだろう。テーブルの上に添えられていた両手をぎゅっと握りしめた美都は、悔しそうに顔を歪めていた。
「それで私も大学にはいられなくなって、二年生の夏に退学したの。だから今私は、フリーターです。インターンの間、大学三年生だって嘘ついてごめんなさい」
美都がみんなに向かって頭を下げる。大学を辞めていたことについて善樹は事前に聞いていたので、胸が痛くなるだけでなんとも思わなかった。
「そう、なんだ。そりゃ、長良さんの方も大変だったね」
開が、美都と善樹を交互に見つめながら、見たことのないような真面目な表情で告げた。美都はふるふると肩を震わせている。話はまだ終わっていない。彼女の全身がそう叫んでいた。