カタン、と立ち上がる時と同じように椅子を引いてその場に腰を下ろす美都。彼女はもう、善樹の方を見ていなかった。何もない虚空に視線を彷徨わせ、恍惚感に浸っているような気さえした。
「ありがとうございます。これで全員の発表が終了しましたね。お疲れ様でした」
残り「十秒」を示していたタイマーを止めた今田が、労いの言葉をかけてくる。善樹はふうと大きく息を吐き、乱れた呼吸を整えた。美都はいまだに、誰とも目を合わせようとしない。
「発表が終わりましたので、最後にフィードバックをします。まずは昨日の議論から。みなさん、最初に論点を整理して自分史から何かヒントを見つけようとしていたところはさすがです。メンバーの人となりが分かっていないと、犯罪者だと指摘するのは難しいですからね。まあ、他のグループでも同じようなことをしていたと思いますが、根拠を探すのは重要なことです。そして実際の議論では、自分史に書かれていたことを土台にしながらも、もともと知り合いだった方たちがぶつかって議論を展開していましたね。特に林田くん、きみの変容には驚きましたが、他人の本性を暴いていくあの感じ、私は嫌いじゃないですよ」
「はあ。ありがとうございます」
宗太郎が間の抜けたような声を上げる。
私は嫌いじゃない。
今田が私情を挟んでいるのを聞いて、善樹は驚いた。フィードバックで彼自身の気持ちを聞くことになるとは思っていなかったからだ。
「坂梨さんは、最後まで淡々と論理的に考えようとしていましたね。その姿勢はお見事です。発表もすっきりまとまっていました。欲を言えば、議論中ももっと誰かの言動につっこんだり、暴いたりしてみても良かったかもしれません。天海くんはグループのまとめ役として、大変重要な役割を担ってくれました。高学歴の皆さんの中でやりにくかったと思いますが、立派ですよ」
「……」
少しばかり嫌味を含んだような今田の物言いに、開はムッとした様子で口を閉じていた。「それから一条くん。この中で最も知り合いが多かったきみは、自分史以外のところで相当いろんなことが明るみにされましたね。……いかがでしたか、自分の本性を暴かれていくのは。きみは丁寧に自分史を書いていたし、誰かを不快にさせるような言動はしませんでした。その代わり、叩かれる側に回ることも多く苦しかったと思いますが、きっとその経験が、今後の人生に活きてきます。特に、我々のような会社ではね」
「そうですか」
最後の台詞のところで今田がニヤリと口の端を持ち上げたのが気になった。今田が何を考えているのか、善樹には分からない。気味の悪ささえ感じていた。
「最後に長良さん。素晴らしい発表でした。まさか、きみのような大人しい性格の人が、最後の最後でちゃぶ台をひっくり返すような発表をしたんですから。誰も、きみが一条くんのことを指摘するとは思っていなかったでしょう。いやいや、聞き応えのある発表でした。一条くんのことを疑っているきみの話を聞きながら、背筋がゾクゾクしましたよ。お疲れ様です」
「ありがとう、ございます」
美都に対して何も言うことはないというふうにベタ褒めした今田はパチパチ、と二度ほど大きな拍手を送った。美都はやっぱり感情のこもらない瞳で彼の話を受け止めている様子だった。一体どうしたんだろう。本人に聞いてみたいけれど、さっきの美都の発表を聞いた後に、彼女に真意を尋ねる勇気はなかった。
「以上でフィードバックを終わります。これにて、当社RESTARTのインターンシップ全課程を終了します。皆さん、お疲れ様でした。結果については、後日優勝者にメールをお送りします。メールが来た方は、特別選考に進むことができます。結果を楽しみにしていてください。それではここで解散となります」
普段の事務的な口調に戻った今田が、淡々と終了の合図をした。
彼が部屋から出ていくと同時に、善樹たちは一斉に「ふーっ」と息を吐いた。
「お疲れ、みんな」
「お疲れ様です」
犯罪者だと指摘し合った仲なので、インターンの終わりにワッと盛り上がることはできなかった。それぞれに思うところがあるのだろう。善樹たちは互いに「お疲れ様」以外の言葉をかけることができないまま、その場を後にした。
「はあ〜やっと終わったな。疲れまくったぜ」
『温泉旅館はまや』の門をくぐり、二日前に歩いた道を辿って駅まで進んでいる最中、ずっとなりを潜めていた風磨がようやく声をかけてきた。
「疲れまくったって、風磨は何もしてないだろ」
「いやいや、頑張る兄貴を見守るのも立派な仕事なんだぜ。途中ずっとヒヤヒヤさせられたし」
「ヒヤヒヤってなんだよ。そんなに失言したかなあ」
「失言とかじゃなくてほら、偽善者だって宗太郎に詰められたところとか、最後に美都から犯罪者だって指摘された時とか」
「ああ……まあ、あれはね」
風磨に心を見透かされたようで、善樹は返す言葉がなかった。実際、善樹自身、このインターンで自分の本性を暴かれて、人生を見直すきっかけになった。だがそれにしても、最後に美都に犯罪者だと指摘されたのは本当に堪えた。彼女は自分のことを、まだ好きなんじゃないかって自惚れていたんだ。発表前夜、彼女は善樹に「まだチャンスはあるってことかな」と言っていた。あの発言が本心だったのか、自分のことを惑わすためだったのか分からない。
どちらにせよ、善樹はもう、美都と関わることはない。
心のどこかでほっとしながらも、少し後味の悪さを覚えていた。
「俺はもう、二度とあの会社のインターンには関わらないよ。兄貴もそうしな」
「いや……そういうわけにはいかないって」
まだ今回のインターンの結果は出ていないんだし、善樹は最終的にRESTARTに就職することを目標としている。それに——。
思考を続けていたところで、今日乗る予定の電車の出発時刻が近づいていることに気がついた。善樹はダッシュで改札まで向かう。風磨に「ちょっと待てって〜」と怒られながら、頭の中は電車に乗ることでいっぱいになっていた。
こうして善樹の夏は、車窓の外を流れゆく田舎の風景と共に、過ぎ去っていった。
『【株式会社RESTART:特別選考のご案内】
長良美都様
先日は、弊社の宿泊型インターンシップにお越しいただきまして、誠にありがとうございます。
おめでとうございます。
貴殿はDグループで最も優秀な成績を収められましたので、特別選考にご招待いたします。
この選考で、弊社の社員としてふさわしいと判断された場合、即採用の内定を通知いたします。もちろん、選考前に選考を辞退されるのであればそれはそれで問題ありません。もし貴殿が弊社に入社したいという希望があれば、ぜひ特別選考にご参加ください。
選考の概要は以下の通りです。
【株式会社RESTART特別選考 概要】
日時:二〇三〇年九月二十七日(金)十三時〜十四時
場所:株式会社RESTART本社二階選考会場
選考方法:面接
服装:特に指定はなし
概要をご確認の上、参加、不参加の旨を三日以内にこのメールにてご返信くださいますよう、よろしくお願いいたします。
長良様からのお返事をお待ちしております。
株式会社RESTART
人事部長 岩崎優希』
肌にまとわりつくような夏の暑さがいつのまにか消え去り、あれだけ高かった気温も、ようやく落ち着いてきた。九月、喫茶店でイラストの仕事をしながらお気に入りのアールグレイティーを飲んでいた。店内は程よい音量でBGMのジャズミュージックが流れていて、手作業をするのにはもってこいの環境だった。
スマホに新着メールが届いたのは、そんな心地の良い昼下がり、今月五件目に受注したイラストを仕上げていた時だ。描いていたのはSNS用のアイコン。女性からの注文で、柔らかい雰囲気で可愛らしい絵を求めているようだった。ピンクや黄色といった暖色を使いながらタブレットで色を塗っていた。
スマホのメールフォルダに表示された「特別選考のご案内」という文字を見て、一瞬心臓が跳ねた。タブレットの上で動かしていた手が止まる。タッチペンを置いて、新着メールを開いた。
「うそ、私が選ばれた……?」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。
株式会社RESTARTの宿泊型インターンシップに参加したのは、一ヶ月前のことだ。あれからまったく音沙汰がないので、選ばれた人にはすでに連絡がいっているのだと思っていた。それが、一ヶ月も経ってようやく自分にメールが送られてくるなんて。
何かのドッキリかと思った。
だって、あのインターン中、Dグループの中で一番発言の量が少なかったのは自分であるはずだ。発言していないのだから、自分のことをどうジャッジすればいいのか、審査員だって分からないはずだった。自分なんかより、善樹くんの方が——と考えたところで思考を止める。
彼には、もう関わらないと決めた。
最終発表で彼を犯罪者だと指摘した時に、彼との関係はもう終わってしまったと思った。彼だって、自分のことを疑ってかかってきた女のことを、これ以上気にしようとは思わないだろう。
RESTARTから送られてきた特別選考についてのメールにざっと目を通す。書かれていることは何の変哲もない選考の案内メールなのに、心臓が早鐘のように鳴っている。BGMの音楽がアップテンポの曲に切り替わった。美都は、メールの画面を凝視しながら、どう返信するべきかどうか、しばらく迷っていた。
選考に参加するかどうかは、私の自由。
どこからともなく吹き出してきた汗が、首筋を伝う。店内は冷房が効いているはずなのに、おかしい。自分が思っているよりも、先方からのメールに動揺していることが分かった。
美都は、ひとしきり考えた上で、ようやく決断を下した。
恐る恐る、「返信」ボタンをタップする。
「株式会社RESTART
人事部長 岩崎優希様」
一つずつ文字を打つたびに、本当にいいのだろうかという不安に駆られていた。確かに選ばれたのは自分だとこのメールには書いてあるけれど、何かの罠なのではないか。そんな疑いすら浮かんでしまう。
『お世話になっております。先日は、貴社の宿泊型インターンシップに参加させていただき、ありがとうございました。
私がDグループの中で特別選考に選ばれたということで、正直驚きましたが、大変嬉しく存じます。
ぜひ、特別選考に参加させていただきたいです。
日時や場所についても確認いたしました。
当日はどうぞよろしくお願い申し上げます。
長良美都』
返信の文章を打ち終わった美都は、躊躇いがちに送信ボタンを押した。メールが無事に岩崎の元へ送られていく。これで、後には引けなくなった。
「一週間後か……」
今日は九月二十日なので、選考はちょうど一週間後の金曜日だ。時間的には問題ない。それまでにRESTARTについてより理解を深めなければ。やるべきことがどんどん頭に降ってくる。
美都にとって、あの夏の宿泊型インターンシップは遠い日の幻のようだった。再びRESTARTと関わりを持つことになるとは。
スマホのメール画面を閉じて、タッチペンを握り直す。
一週間後の特別選考に備えてそれなりに対策をしなければならない。そのために、今は溜まっている仕事を早く片付けなければ。
美都はイラストの続きを描くと同時に、仕事用に使っていたSNSに、「※ただいま新規ご依頼停止中」と書き足した。これでひとまず一週間は新しい依頼は来ない。RESTARTの特別選考に向けて、準備をしよう。
それから無事にイラストの仕事を仕上げて、九月二十七日、選考当日をすっきりとした気分で迎えることができた。RESTARTの本社は六本木にある。
美都が暮らしている一人暮らしの家から六本木まで、乗り換えを含め、十駅ほどだった。
少しばかり涼しくなったとはいえ、まだまだ暑さの残る日にリクルートスーツを着るのはかなり身に堪えた。服装自由とはいえ、さすがに面接の場で私服を着ていく勇気はない。六本木に降り立つと、スマホでマップを見ながら目的地まで歩いた。美都は方向音痴だ。大きなビルが立ち並ぶ街の真ん中で、たった一つの会社のビルを見つけるのには相当苦労した。
「ここかあ……」
何階ぐらいあるんだろう。見たところ、十五階ぐらいあるように思える。ビルには株式会社RESTARTしか社名が刻まれていないので、自社ビルの可能性が高い。一社でこれだけ高いビルを持っているなんて、やっぱりこの会社がかなり儲かっている証拠だ。
緊張しながら一階の受付で「特別選考に来た長良美都です」と名乗ると、女性のスタッフがエレベーターに案内してくれた。
選考会場は二階だと書いてあった。すぐにエレベーターが到着して、扉が開かれる。どの部屋だろうか、と左右に伸びた廊下をきょろきょろ見回していると、右の通路の壁に「特別選考会場はこちら」と張り紙がされてあった。ほっとしながら案内に沿って歩く。ようやく現れた「特別選考会場」と記された部屋の前で、若い男性スタッフが待っていた。
「こんにちは」
爽やかな笑顔を浮かべる男性社員に見覚えがあった。
この人、先月のインターンに来ていた人だ。
確か、Bグループの審査員をしていた。ちらっとしか見ていないが、あのインターンでの記憶が鮮明に蘇ってくる。
「初めまして。長良美都と申します」
「長良さん、お待ちしておりました。人事部の米川と申します。こちらへどうぞ」
「はい」
米川に案内され、通路に並べられた椅子に座る。椅子は全部で六脚。インターンのA〜Fグループで優勝した人たちのものだ。どうやら誰も選考辞退はしていないらしい。
それもそうか。
だって普通、宿泊型インターンなんて、入社したいと思う企業じゃなければ行かないものよね……。
美都はふう、と息を吐いた。自分がここに来た理由。それはたぶん、他のメンバーとは違っているだろう。でも面接ではあくまでRESTARTへの入社を志望している者として振る舞う。必要最低限の礼儀というものだ。
やがて他のメンバーが一人、また一人と集まってきた。みなリクルートスーツを身に纏っている。先に席に着いていた美都に軽く会釈をして、やってきた学生たちが隣に座っていった。もしかして面接もこの順番でするのかな? と若干緊張し始めた美都だったが、全員がそろったところで、米川は他の人の名前を呼んだ。
「こちらで順番は決めてありますので、まずは柳瀬くん、どうぞ」
「はい」
最初に呼ばれたのは、最後から二番目にやってきた男の子だった。一息つく間もなく選考が始まって大変そうだ。特別選考にあたり、米川から特に具体的な説明はなかった。面接試験なので、ルールについては暗黙の了解といったところだろう。
一番最初に指名された柳瀬くんが、扉の前でノックをしてから「失礼します」と張りのある声で言った。呼吸は整っていないようだが、臨機応変に態度を切り替えられるところはすごい。自分だったら緊張したままで上手く声が出ないかもしれない、なんてぼんやり考えていた。
柳瀬くんの面接は、十分程度で終わった。待っているだけの十分はひどく長く感じられる。隣に並んでいる他の学生たちも、そわそわとハンカチで顔を拭いたり、膝の上で両手を握ったり開いたりしていた。美都はただ、面接部屋の扉の取手をじっと見つめていた。
一人、また一人と面接に呼ばれ、美都は最後に残された。
「長良さん、一番最初に来ていただいたのに、お待たせして申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です」
「そろそろ前の方が終わりますので、ご準備お願いします」
米川が美都のことを気遣ってくれて、幾分か気分が和らいだ。
それから間もなく、一つ前に入って行った女の子が、扉の向こうから出てきた。カチャリ、とドアを閉める音がしたと同時に、美都が立ち上がる。
「それではどうぞ」
米川さんの合図に合わせて、美都は立ち上がる。部屋の前で大きく息を吐いて、新鮮な空気を取り込んだ。
「失礼します」
思ったよりも大きな声が出て自分でも驚く。部屋の中に一歩足を踏み入れると、かなり広い部屋だった。無機質な会議室といったところだが、余分な机や椅子が隅の方に置かれているので、余計に広く感じた。
手前に椅子が一つ、正面には長方形の机と、その後ろの椅子に座る、四人の面接官。
一人ずつ顔を見ていく。インターンでその場を取り仕切っていた人事部長の岩崎、Dグループの審査員をしていた今田、どのグループか忘れたものの、これまた別のグループで審査員をしていた女性社員、それからあと一人は——。
「……え?」
順番に面接官を見ていた美都の視線が、一番端に座っている人物に、釘付けになった。
「善樹くん……?」
美都は自分が目にしている光景が、現実なのかどうか区別がつかなかった。
女性スタッフの横に座っているのは、紛れもなくDグループで一緒にディスカッションをした一条善樹だ。東帝大学の三年生。一体なぜ、彼が面接官側の席に座っているの? リクルートスーツではなく、他の社員と同じようにオフィスカジュアルでラフな格好をしている。そもそもDグループから選ばれたのは自分一人のはずだ。彼がこの場にいるのはおかしい。
「長良さん、動揺させてしまったようですね。彼——一条くんとは、インターンで同じグループだったので、そのせいでしょう」
「は、はい」
岩崎が美都にフォローを入れる。その間も、善樹は美都から少し視線を逸らしたまま、目を合わせようとはしなかった。
美都は立ったまま、岩崎に説明してくださいと目で訴えた。その気持ちが伝わったのか、岩崎は「彼は」と続けた。
「実は弊社の長期インターン生として、この四月から働いてくれていてね。毎日ではないけれど、週に四日ほど、うちの人事部に来ている。先月の宿泊型インターンでは、私が彼に参加をするように申し伝えた。まあ、その辺の話はいまここで具体的にする必要はないかな。とにかく彼、一条くんは今日面接官としてここにいる。だから長良さんも、一条くんのことを友人ではなく、弊社社員として考えてほしい」
「はあ」
あまりにも突然の告白に、美都は分かりやすく面食らった。
今田に「着席してください」と言われ、ロボットのようなたどたどしい動作で準備された椅子に腰掛ける。キイイ、と椅子が軋む音さえ、耳に入らないほどだった。
震える心をなんとか宥めながら、自己紹介を開始する。
「長良美都と申します。東帝大学文学部——を、昨年中退して、現在はフリーランスでイラストの仕事をしております。本日はよろしくお願いいたします」
今度は善樹の目が大きく見開かれた。
「中退……?」
ぼそっと、彼が遠くで呟くのが聞こえてくる。慌ててテーブルの上に視線を落としたのが分かった。おそらく、美都が提出した履歴書を見ているのだろう。
「はい。昨年の夏に諸事情で大学を中退しております。先月のインターンの際には……グループの皆さんには在学中だと嘘をついておりました。申し訳ございませんでした」
美都は主に、善樹に向かって頭を下げる。
大学を中退していることは、岩崎を始め、他の社員は知っているはずだ。宿泊型インターンで提出した履歴書にはきちんと記載している。善樹が今見ている履歴書も、その時のものだろう。嘘をついたのはグループの中だけだ。自分がフリーターであることをつっこまれるのが面倒だったので、在学中ということにした。おかげで変な疑いをかけられることはなかった。多少の罪悪感はあったものの、それほど気にしてはいない。
「続けてください。まず、志望動機をお聞かせ願えますか」
今田に促されて、美都は頷く。善樹が動揺してくれたおかげで、美都の方は逆に少し冷静になっていた。
「御社を志望する理由は、大学の文学部で社会学を学ぶうちに、身近に暮らしている生きづらい人たちに希望を与える仕事をしたいと思ったからです」
大丈夫。志望動機はこの一週間でじっくり考えてきた。インターンで受けた会社説明も踏まえて、会社に対する解像度はかなり上がっている。澱みなく、自分が本当にRESTARTで働くことを志望しているように、伝えるだけ。
「今、日本社会では高齢化や生活保護、少子化、LGBTQなどの問題について声高に叫ばれていますが、そのどれも、いずれ自分や自分の大切な人が直面するかもしれない問題です。SNS上では立場の違う人たちが醜い言い争いをしているところをよく見かけますが、そんな争いを見るたびに、常々思うんです。文句を言うだけでなく、みんなで支え合える社会を、どうして自分の手で実現しようと思わないのか、と」
美都が育ってきた家は、ごく普通のサラリーマン家庭だった。
それなのに、家には常にお金がない。
どうしてなんだろうと、子供ながらに疑問を抱かずにはいられなかった。社会の仕組みが間違っているのではないか。そんな疑問がずっと胸を巣食っていた。それだけは間違いない。
「私は、御社にもし入社できるのではあれば、今、高齢者や障害者などといった名前のついていない“生きづらい人”にも焦点を当てて、その人たちが心地よく生活できるような支援サービスを提供したいです。以上です」
岩崎は美都の主張に、何も返すことはなかった。企業の面接ではよくあることだ。面接官はこちらの話に何も反応を見せないことが多い。手元の評価シートにはしっかりと評価を書き込んでいるだろう。だから、反応が得られないからと言って臆することはなかった。
ただ一人、善樹だけは終始心ここにあらず、という表情で美都を見ていた。
美都が大学を辞めていたことに、相当衝撃を受けたのだろう。だが、美都にとっても、今善樹が面接官としてあちら側の席に座っていることが不可解でたまらないからおあいこだ。
「ありがとうございます。では次に、学生時代に頑張ったことを教えてください」
「はい」
それからの質問も、美都は用意してきた回答を事前に答え続けた。特に目立ったミスはなかったように思う。どの質問も採用面接では必ず聞かれることばかりだったので、動揺せずにいられた。
そしていよいよ最後の質問。最後は岩崎自身がこう問いかけてきた。
「長良さん、きみにとって、本当の正義とはなんだと思いますか」
本当の正義。
彼の口から出てきた質問に、美都は初めて身構えた。
私がインターンの時に聞いた質問だ……。
先月のインターンの会社説明の際に、美都自身が手を挙げて岩崎に同じ問いを投げかけたのだ。今度は岩崎の方から美都に質問が飛んでくるとは。予想外の展開に、思わず心臓が大きく跳ねる。
大丈夫、落ち着け。
ここは、一企業の特別選考の場であって、警察署ではない。萎縮する必要だってないのだから、自分が思う通りに話をしよう。
美都は肺いっぱいに、空気を取り込んだ。
「私にとって本当の正義は……毎日、当たり前にご飯が食べられること。好きなことをして、誰からも咎められないこと。他人に優しくして、その人から感謝されること。誰かを助けようとしたことが、世間から正しく認められること。自分の身の回りで起きた現実を、受け入れられること。そんなふうに、考えます」
美都は、自分と、自分の家族がつつましく暮らしてきた時間を思いながら、言葉を紡いだ。何一つ、悪いことはしなかった。他人に迷惑をかけることもなかった。自分たち家族は、ごく一般的な幸せな家庭だった。
それなのに自分の家族は今、どうしてこんなことに——。
思考が面接の場から家族の現状へと移り変わる。目の前の面接官たちの顔がのっぺらぼうに見えてしまう。こんなことが、前にもあった。確か、インターンの最終日、発表を終えた直後のことだ。周りの声が何も入ってこなくなり、宙を見つめていた。そんな自分を、周囲のメンバーは——善樹は、どう思ったのだろう。
「ありがとうございました。なかなか、興味深い答えでしたね」
「そう……ですか」
もはや、岩崎からどう評価を受けたかなど、どうでも良くなっていた。
自分が声に出して言いたいことはこの場ですべてぶつけることができた。あとは、会社の判断を待つだけだ。
「これで面接を終わります。長良さん、お疲れ様でした」
今田にそう言われて、美都の身体は弛緩した。「ありがとうございました」と一礼して部屋の扉を開ける。最後に目にした善樹の表情は、切なく滲んでいるような気がした。
「皆さん、本日はお疲れ様でした。これにて弊社の特別選考を終了いたします。結果は一週間以内に全員に通知します。では、解散してください」
米川の言葉に全員が頷いて、特別選考の場はお開きとなった。
元来た道を戻り、エレベーターに乗り込む。みんな面接で力尽きたのか、げっそりとした表情をしていた。
ビルを出て、美都は駅までの道を歩く。リクルートスーツのジャケットを脱ぐと、汗が少しだけ乾いて、心地よかった。
『【株式会社RESTART:内定のお知らせ】
長良美都様
先日はお忙しい中、弊社の特別選考にお越しいただき誠にありがとうございました。
人事部長の岩崎優希です。
厳選なる審査の結果、長良様の採用内定が決定いたしましたのでここに通知いたします。
つきましては、再度弊社にお越しいただき、内定受諾書のご記入をお願いしたく存じます。日程につきましては長良様のご都合の良いお日にちでお約束させていただきます。
十月十五日まで、平日九時〜十八時の間でご都合の良い日時を三つほどご返信願えますでしょうか。
よろしくお願い申し上げます』
RESTARTから内定通知のメールが届いたのは、特別選考からちょうど一週間が経った、十月四日のことだった。いよいよ夏の暑さも過ぎ去り、澄んだ秋の空が広がる日が増えた。夏が苦手な美都にとって、心地の良い季節だ。
内定をもらえたことは正直予想外だった。
でも、前回特別選考に選ばれた時も同じように驚かされたので、どこかで覚悟はしていた。ただ、実際にこうしてメールを見ると、やっぱり心臓がドキドキと乱れた。
美都はちょうど買い物をしに繁華街に出かけている最中だった。公園でひと休みしている間にメールを開いたのだ。表示された文面を二度ほど凝視する。内定が来たことは紛れもない事実らしい。
「内定、か」
どこか遠い響きのようにも聞こえるその二文字。来年、年が明ければ就活生たちがその二文字を求めて熾烈な争いを繰り広げるだろう。美都はいち早く、争いから抜けることができたのだ。これはどう考えても喜ばしいことに違いない。
でも。
美都は、ふうと大きく息を吐き出す。公園で、コーヒーを飲みながら楽しげに会話をしているカップルや、休憩をしているサラリーマンたちが視界に映る。街中の公園なので子供はいなかった。
内定、どうしようかな。
普通の人間ならば、この内定をすぐにでも承諾するだろう。実際あのインターンに参加したメンバーなら、誰しもRESTARTへの就職を望んでいたはずだ。
だが美都は違っていた。
美都には、あのインターンに参加した別の理由があった。
だから、先方からの内定通知を、快諾する決心がつかないのだ。
目を閉じて、聞こえてくる周囲の雑音に耳を研ぎ澄ませる。ザ、ザ、と人がアスファルトを踏み締める音、車のエンジン音、どこからともなく聞こえてくるカラオケ店のBGM。そのどの音も一度シャットダウンして、心の一番深いところで、今後のことを考えた。
やがて決意が固まり、美都は再びスマホを開く。メール画面ではなく、LINEだ。どこかに登録している。最近連絡をしていなかったので、トーク画面はずいぶんと下の方へといってしまっている。でもその人の名前は確実に見つけることができた。
「一条善樹」の名前を見つめながら、彼とのトーク画面を開いた。
最後に連絡を取ったのはいつだっただろうか。二〇二九年六月二日。去年、美都がアルバイト先のカフェを辞める直前のことだった。内容はアルバイトのシフトのことで、とりわけ中身があるわけでもない。それもそのはず。美都は一年生の終わり頃に善樹に告白をして失敗して以来、彼とは少し気まずい関係になっていたから。
極めつけは二年生の春に、父親が警察に捕まったことを善樹に相談したことだ。
あれ以来、バイト先にもいられなくなり、善樹との関係を絶った。
だから彼にメッセージを送るのは一年と数ヶ月ぶりだ。
『善樹くん、お久しぶりです。先日は面接でお世話になりました。
善樹くんに話したいことがあります。
二人で会える時間をつくってもらえませんか』
堅苦しい文面では相手も身構えてしまうだろうと思ったのだけれど、善樹のことを気軽に誘えるわけではなかった。彼には一度告白をして、振られている。さらにインターン中は彼のことを犯罪者だと指摘した。天海開のことも相談していて、彼にとって私はどう接したらいいのか分からない人間のはずだ。
このLINEにも、返信が来るか分からない。
美都は半ば諦めつつ、公園の椅子から流れていく人々の姿をぼんやりと見つめる。
果たして善樹は自分の誘いに応じてくれるだろうか。
RESTARTからの内定通知に返信ができない今、彼からのコンタクトが、美都の唯一の支えだった。
美都のスマホにLINEの通知が届いたのは、その日の夜、九時を過ぎた頃だった。
LINEの画面を開くと、ちゃんと彼とのトーク画面のところに通知が届いている。一番上に表示されたそれを見つめて、ゆっくりとメッセージを開いた。
『長良さん、久しぶり。この間の特別選考では驚かせてごめん。
話って何かな? 僕の方は、大学が終わってインターンとバイトが休みの日ならいつでも空いています。長良さんはいつなら会えそう?』
返信の感じだと、好感触だった。善樹は美都の誘いに賛成してくれている。美都は少し考えて、『ありがとう。私の方はいつでも。善樹くんに合わせます』と返事をした。
それじゃあ明後日の日曜日に、という話になり、美都は了解と答えた。
善樹くんと、もう一度会って話ができる。
美都は、恋人に会える時のように気分が高揚していた。でもそれは、善樹のことを好きだからというわけではない。善樹への恋心は今、複雑にかたちを変えている。
それよりも、善樹には確かめたいことがある。
夏のインターンの時からずっと気になっていたこと。
明後日、それを直接聞いてみよう——。
カララン、と涼しげなベルの音が店内に響き渡る。文京区にある喫茶店で、待ち合わせをしていた善樹がやってきた。美都も善樹も自宅が同区にあるので、お互いの家からほど近い場所にある落ち着いたカフェで約束をしたのは良かったと思う。
「こんにちは」
先にコーヒーを飲んでいた美都は、後からやってきた善樹に挨拶をした。
善樹はグレーのシャツに黒い綿パンツという出たちで、学生らしい格好をしている。二人が向かい合って椅子に座ると、カップルと間違えられそうだ。
「長良さん、お久しぶり」
善樹にとって、美都に会うのは気まずいだろうと思っていたのだが、そんな素ぶりはまったく見せずに笑顔を向けてくれてほっとする。実のところ、美都自身、かなり緊張していた。善樹からどう思われているのか、不安で仕方がなかったのだ。
「元気そうでよかった。何か飲む?」
「ああ、じゃあアイスティーで」
善樹が店員に飲み物を注文すると、程なくしてアイスティーが運ばれてきた。日曜日の午後ということもあり店内はそれなりに混んでいる。話をするなら手短にした方が良いだろう。
「今日は、突然呼び出してごめんね。びっくりしたでしょ」
「まあ、それなりに。でも僕も、あのインターン以来、長良さんと気まずいままだったのがちょっと嫌だったというか。また話せる機
会ができて良かったよ」
「そっか。それなら嬉しい。あのさ、単刀直入に聞くけど、この間の選考で私が内定をもらったの、知ってる?」
「いや、今知った。そうなんだ。おめでとう」
善樹は目を丸くした後、素直に祝福をしてくれた。こういう彼の優しいところが美都は好きだった。
「ありがとう。インターン生には知らされてないんだね」
「うん。面接官として審査はしたんだけど——実際に誰を選んだのかは、社員たちしか知らなくて。まああの面接自体も、岩崎部長が将来の練習にって、僕を入れてくれただけでさ。僕には何も決定権はなかった。評価シートは記入したけれど、自分には人を見定める能力なんて、ないよ」
彼の瞳が切なげに揺れる。アイスティーの氷が溶けて、カランと音を立てた。
「……そんなことないと思うけど。でもあの夏のインターンで善樹くんは、新しい自分を見つけたんだよね。それだけでも、すごく成長したと思う」
「……ありがとう」
本当は自分が、誰かのことを「成長した」だなんて言える立場ではない。まして善樹には、最後の発表の場で犯罪者だと指摘して、ある意味彼を裏切ってしまった。彼に恨まれていても仕方がない。
それなのに彼を労おうと思ったのは、あのインターンで一番自分自身について省みていたのが、善樹だと感じていたからだ。
「正直僕も、あのインターンで思うところはたくさんあって。あれからはもう、自分の正義感を他人に押しつけるのはやめようって思った。その方が人間関係はうまくいく。僕が知らない間に傷つけていた人たちにも謝りたいと思った。長良さん——僕はきみに、一番に謝りたかった。バイト先の一件で、傷つけてしまって本当に申し訳ない」
善樹が美都に向かって深々と頭を下げる。まさかこの場で一年前の出来事の謝罪を受けるとは思っておらず、美都は多少面食らった。だが、インターンの発表の場で善樹を糾弾したのは事実だ。彼に謝らせるようなかたちになり、美都自身、申し訳ないと思う。
「ううん、こちらこそ、発表の場でひどいこと言ってごめんなさい。傷つけちゃったよね……。あの時話した気持ちは本音なんだけど、今はもう、善樹くんのことを恨んでるとかじゃないの。それよりももっと、聞いてほしいことがあって」
そうだ。アルバイト先を辞めざるを得なくなった時、美都は最初に善樹のことを憎らしいと思った。けれど今は、その矛先は別の者へと向かっている——。
「聞いてほしいこと? なんだろう」
善樹が純粋な疑問を美都にぶつけてきた。その目が先を話すようにと訴えている。美都はじっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「……善樹くんはさ、RESTARTに四月から長期インターン生として働いてるんだよね。きっかけは何だったのかな」
「きっかけか。確か、弟の風磨に影響されたんだっけ。風磨はさ、高卒で働いてるんだけど、いろんな職場を転々としていてね。やつが
一年生の秋頃から働き始めたのが、RESTARTだったんだ。年明けには、風磨はRESTARTを辞めたんだけど。それで、僕もRESTARTのことを調べていくうちに、そこで働きたいって思うようになって——履歴書を、書いたんだ」
「そう……風磨くんが。夏のインターンでも風磨くんの話をしてたね」
「あ、うん。双子でずっと一心同体で生きてきたから。どうしても風磨のことを考えてしまうというか」
「そっか」
美都は、カップの中で揺れるコーヒーの水面をじっと見つめていた。自分の目が、懐疑に満ちていることが分かり背筋が震える。
「夏のインターンはさ、岩崎部長も言っていた通り、業務命令だったんだ。RESTARTの一員として、一条くんも参加してきなさいって、言われて。実際興味はあったからよかったんだけど。Dグループで長良さんと会えたのも、宗太郎と一緒だったのも結果的には良かったと思ってる。おかげで目が覚めたというか。自分自身、もっと考えるべきことがあるんじゃないかって分かったから。あの六人でディスカッションしたことは、僕にとって必要な時間だったよ」
善樹は過ぎ去った時間を懐かしむような視線で、美都を見つめて言った。混み合う店内に、さらにお客さんがやってきて、入り口で何組か待たされているのが美都の視界に入ってきた。それでも、まだ彼とは話し足りない。心臓の音が、ずっとうるさく音を立てている。
「あのさ、善樹くん」
コーヒーが、残り二分目まで減っていた。美都はおかわりを頼もうか迷う。早いところ席を空けるべきだということは分かっているものの、善樹と腹を割った話は、まだ終わっていない。
「どうしたの」
もったいぶって次の一言を放てない美都に、善樹が聞いた。美都はようやく決心がついて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「Dグループが六人って、誰のこと? 私たち、ずっと五人のグループだったよね」
***
「部長、結局内定を出すのは長良さん一人なんですね」
六本木のオフィスビル、六階の人事部の部屋で、今田が優希に向かって聞いた。特別選考が行われたのはちょうど一週間前のこと。今田も面接の場に居合わせたので、今回の選考の結果については多少なりとも意見をしている。が、まさか内定が一人に絞られるとは思っていなかった。すべて部長である岩崎優希が決めたのだ。
「まあ、そうだな。他のメンバーはどうも利口すぎる。その点、彼女は一番活きがいい」
活き、と表現する優希の瞳は自分でも分かるくらいにギラついている。あまり過激な表現をすると部下から引かれることも多い。だが今田はとうに慣れているのか、「そうですね」と優希の求める反応を示してくれる。彼をDグループの審査員にしたのは正解だった。部下の中で、一番信頼できる存在だ。
「彼女、内定を受諾しますかね」
「さあてね。志望動機は聞いたが、あくまで表向きの動機だってことは分かったよ。どうも彼女は、我々がしたことに気づいている気がしてならない」
「……彼女の、お父さんに対してですか?」
「そうだ。あの目は真実を知っているぞと訴えているようだった」
「それは、まずいですね……。世間に公表でもされたらたまったもんじゃないですよ」
「なあに、その時はその時。我々は株式会社RESTART。今、世間から圧倒的な支持を得ている。若い娘の言うことなんて、どうとでもねじ伏せられるさ」
「はあ」
今田は腑に落ちていないようだが、まあいい。
「どちらにせよ、彼女が内定を受諾するかどうか、まずは見ものといったところだね」
「……部長、随分楽しそうですね?」
「こんなふうに肌がひりつくような感覚は久しぶりなんでね。悪趣味で悪いね」
優希はそう言いながら、デスクの上に置いていたコーヒーを飲み干した。余分な糖分が入っていないコーヒーは苦かったが、今の優希の胸のうちを表しているようで、余計にワクワクして鳥肌が立った。
長良美都。
きみはどんな選択をする?