「僕からは、なんともね。開には明日連絡先を教えるの?」

「うーん、どうしよう。正直あんまりいい気はしなくて……。昨日の夜、ちょっと強引に迫られたから引いてしまったというか」

「強引? 開が?」

「ええ。部屋に無理やり入ってこようとしたから、なんとか止めたんだけど。怖くて」

「そんなことが」

 意外だ。子犬のような子どもらしい笑顔を浮かべる開のイメージが、強欲なオオカミの鋭い爪に変わる。
 思えば、Dグループのメンバーの中で一番本性が見えないのは開だったかもしれない。最初は宗太郎の変わりように驚いていたが、開は一貫して明るく、あっけらかんとした物言いだった。途中宗太郎に詰め寄られた場面で、初めて悔しそうに顔を歪めていた。あの瞬間こそが、開の本当の心を垣間見た時だった。けれどそれも一瞬の揺らぎだったので、あの場ではそれ以上開の性格や人生について、深掘りすることはできなかった。

 そんな開が、美都の部屋に強引に押し入ろうとしていたなんて。
 善樹の中で抱いていた開への印象が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
 彼は何かを隠しているのではないか。
 一気に開への疑念が高まっていた。

「善樹くん、大丈夫?」

 善樹が思い詰めた表情をしていたからか、美都が心配そうに善樹の顔を覗き込んできた。

「あ、ああ、ごめん。それにしても開、最低なやつだな」

 自分の口から他人に対して「最低なやつ」なんて言葉が飛び出して来たこと自体、衝撃的だった。相手は今まで善人だと思っていた開だ。けれど、善樹がこのインターンで自分の善人ぶりに疑いの目を向けられたように、善樹もいつしか他人に対し、懐疑心を抱くようになっていた。

「こんな話、急にしてごめんね。誰かに話さないと、押しつぶされそうな気がして」

 美都が申し訳なさそうに頭を下げる。善樹は静かに首を横に振った。

「いや、そりゃ誰かに相談したくもなるよ。もし今日また同じようなことがあったら教えて。何か力になれることがあるかもしれないから」

「ありがとう。やっぱり善樹くんは優しいね」

 目元を細め、口を綻ばせる美都。「優しい」と誰かから評価を受けたのは久しぶりで、善樹の心に染み渡った。

「それで、長良さんは結局このインターン、辞退するの? 明日の発表はどうする?」

「うん……やっぱり、最後まで続けようかなって思う。ダメで元々だし、ここまで頑張ったから。天海くんのことは、善樹くんに話して
気持ちが少しすっきりしたし、大丈夫、かも」

「そうか。それなら良かった。こんなチャンス滅多にないからね。優勝したらラッキーぐらいの気持ちでいれば、気も楽になるよ」

「そうだね……本当にありがとう」

 美都は心底ほっとした様子で、椅子から立ち上がる。善樹もつられて席を立ち、部屋に戻ろうかと一息ついた。

「あ、そういえば義樹くん」

 今まさに歩き出そうとしていたところで、再び美都が口を開く。まだ何か相談事が残っていたのかと気になって、「何?」と聞き返す。

「風磨くんのことなんだけど……」

「風磨? 風磨がどうかした? もしかしてあいつ、開みたいに、長良さんに迷惑かけた?」

「う、ううん。大丈夫。ごめん、やっぱりなんでもない」

 と、彼女は首を振って「今のはなかったことにして」と付け加えた。それから、「また明日。おやすみなさい」と言われたので、善樹は強制的に彼女と別れることになった。
 もしかして、本当に風磨が美都にちょっかいをかけたのかもしれない。
 そうだとすれば美都は風磨を警戒しているだろう。帰ったら風磨に問いたださなければいけないな——そう思っていたのだが、部屋に戻った途端、善樹は今日一日分の疲れに身を任せて、すぐに布団の上で眠りに落ちてしまった。

 三日目:午前八時二分

 三日目の朝、朝食会場で目にしたDグループのメンバーは皆一様に寝不足気味にまなこを擦っていた。昨日の夜、今日の発表に備えて夜更かしをして頭を整理していたのだと分かる。善樹は割とたっぷり眠ることができたので、昨夜に比べるとかなり頭はすっきりしていた。

「おはよう」

 美都に挨拶をされて、善樹も「おはよう」と返す。

「昨日はありがとう。おかげで最後まで頑張れそう」

「それは良かった。ラスト一日、一緒に頑張ろう」

 美都が笑って頷く。インターンが始まって美都と会ったのは一年数ヶ月ぶりだったけれど、前みたいに普通に会話ができるようになって良かったと思う。
 朝から豪勢な食事を終えると、午前九時を回っていた。発表は十時から。今からは休憩と、発表前の心の準備の時間だ。皆それぞれの部屋で自分の意見をまとめているだろう。善樹も、昨日まで使っていたパンフレットのメモ欄を眺めながら、発表の際の説明の順序などを頭の中で組み立てていた。

「さすが、真面目くんは偉いね」

 時間ギリギリまでパンフレットと睨めっこをしている善樹に、どこからともなく降ってきた風磨の声。善樹はその声を無視して、鏡の前に立ち、顔にバシャバシャと水をかけた。今は風磨の戯言を聞いている余裕はない。どうせ風磨は発表だって理由をつけてサボるつもりだろう。
 タオルで顔を拭くと、自分の顔が思ったよりも険しく、目の下に皺が寄っていた。ゴシゴシと目を擦って、なんとか表情を明るくしようと努める。すると今度は、逆にニヤニヤと怪しい笑顔が浮かんでしまい、善樹はため息をついた。

「まあ、肩の力を抜けって。俺みたいに」

 鏡の中の風磨の顔を見ると、ひひひ、と乾いた笑みをこぼしている。
 本当に、こいつみたいに何も考えずにのんびりと生きたいところだ。
 そう思ったけれど、風磨は風磨なりに善樹の気が紛れるようにわざと茶化しているのかもしれないと思い至り、善樹は「そうだな」と適当に頷いた。
 洗面所から出て時計を見ると、時刻は九時五十分を指していた。

「さあ、そろそろ行こうか」

 誰にともなく呟く。風磨は「俺、トイレ行ってからにするわ」と予想通りの反応を見せた。そんな風磨を置いて、善樹は一人、ディスカッション部屋へと向かった。
 席には、昨日までと同じ並びでDグループのメンバーが座っている。昨日にも増す緊張感が漂っていて、善樹の心臓も自然に縮んでいた。こんなに緊迫したインターンに参加したのは今回が初めてだ。改めて、RESTARTのインターンの特異さを身に沁みて感じている。

「皆さん、おはようございます。昨日はよく眠れましたか」

 部屋にやって来た社員の今田が、善樹たち一人一人の顔を見回した。みんな、頷くことも首を横に振ることもしない。友里なんか目の下にクマができていて、「察してください」と言わんばかりの目つきで今田をじっと見ていた。

「寝不足の方もいるようですね。最後の発表が終わるまで、頑張ってください。それから長良さん——」

 今度は今田が美都の方に視線を合わせる。

「昨日は辞退するとおっしゃっていましたが、今の考えは?」

「辞退は、しないことにしました。最後までよろしくお願いします」

 毅然とした態度の美都を見て、今田は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにふっと微笑んで「そうですか。良かったです」と返した。昨日もそうだったが、今田は美都にどこか期待を寄せている——そんなふうに見えた。

「それでは全員揃っているようなので、これから最終発表の時間に移ります。発表の順番はくじ引きで決めます。こちらの紙を引いてください」

 今田は風磨がいないことは無視して、箱に入ったくじ引きの紙を善樹たちに見せた。彼の中でも風磨はとっくに見捨てられている。みんな、お互いの顔を見合わせた後、遠慮がちにくじを引いていく。

「紙を開いてください。書かれている番号が、発表の順番になります」

 善樹はそっとくじ引きの紙を開いた。番号は「三」。ちょうど真ん中だった。一番目はなんとなくプレッシャーを感じるので最初でなくて良かった——とほっとしていた。
 それぞれの番号を確認すると、一番目は友里、二番目は開、三番目は善樹、四番目は宗太郎、五番目が美都だった。

「順番が決まりましたね。坂梨さん、天海くん、一条くん、林田くん、長良さんの順に発表を行います。持ち時間は一人五分です。意外と短いので注意してください。それでは坂梨さんから、よろしくお願いします」

「はい」

 今田がタイマーを五分にセットする。友里がその場に立ち上がり、話し始めた。

「私がこの中で犯罪を犯したことがあると思ったのは……林田くんです」

 友里の口から出てきたまさかの名前に、宗太郎本人の眉がぴくりと動く。昨日の朝の議論では、どちらかと言えば友里は宗太郎側についていたように思えた。だが午後の議論で彼に詰められたことを、根に持っているのかもしれない。

「林田くんは最初、ニコニコしていて誰からも好かれそうだなっていう印象でした。でも、議論の途中で、みんなの自分史や性格について、何かにつけて難癖をつけていった。最初の優しかった印象はどこかにいってしまって、私は、彼の本質が優しさではないことが分かりました。彼の裏の顔は、何を考えているのかよく分からない。人の本性を見破ることに快感を覚えている。同時に、強い者として自分よりも弱い者をいたぶりたいという欲求があるんじゃないかって思いました。そんな彼だから、弱い者いじめをして、犯罪に繋がった——そんなふうに考えました」

 友里は最初、宗太郎からの蛇のような鋭い視線を感じ取ったからか、周りの様子を窺うようにして話していたが、途中からは彼女らしく堂々と意見を言っていた。その後も、宗太郎の自分史が出来事中心で気持ちの部分が欠けていることなどを指摘して、「他人に対して常に後ろ暗い気持ちがあるから、気持ちの部分を省略した」というようなことを発言した。確たる根拠があるわけではないが、このインターンの課題としては正当な理由をつけて犯罪者を指摘すれば良いのだから、絶対的な根拠は必要ないのだろう。いかに審査員を納得させるか。肝はそれだけだ。

 やがて友里の演説が終わり、同時にタイマーが鳴る。時間配分は完璧で、彼女が部屋でいかに発表の練習を重ねてきたかがよく分かった。
「坂梨さん、ありがとうございました。フィードバックは後ほど行いますので、ここではノーコメントで。さっそく次に進みましょう。天海くん、よろしくお願いします」

 今田が着実にその場を回していく。再びタイマーを五分にセットして、開が立ち上がった。

「俺も坂梨さんと同じで、林田くんが犯罪者だと思います」

 これは予想していた通りだった。昨日、宗太郎と開は互いに因縁をつけて喧嘩のような議論をしていたから、開の気持ち的に宗太郎を犯罪者だと言いたいのだろう。

「まあ、理由はさっき坂梨さんが言ってくれたのとほぼ同じだから、パクリと思われても仕方ないんだけど。林田くんは、表面上ではいい人のふりをして生きてきて、それなりに成功してきた側の人間だ。名門校に入って、大学だって一流私立大学で。自分史を見ると難関大学に合格したというところや大手企業へのインターンに参加したところに『◎』が付けられている。彼がどれほど自分の成功に誇りを持っているのかが、よく分かる。その一方で、昨日の議論。昨日は自分も熱くなった部分もあって、反省しているとところもあるけれど、それにしても彼の他人に対するものの見方は捻くれていた。ずっと友達として仲良くしてきた一条くんのこと、裏では偽善者だと思っていたと指摘した。本当は尊敬していなかった。でも、表面上では一条くんのことをすごい人だと思っているように装っていた。……その時点で、もう俺にとっては立派な詐欺師だった。インターンで偶然こういう課題が出て、偶然一条くんと同じ班だったから、心の中ではラッキーだって思ってたんだろうなって分かった。このインターンの課題を利用して、一条くんをとことん追い詰めてやろうっていう魂胆が見え見えだった。……俺は知ってる。林田くんが、一条くんや他のみんなを追い詰めている時の目は、教室で気に入らないやつをいじめるやつのそれだ。見たことがあるんだ。経験したことがある……だから俺は、さっき坂梨さんが言ったのと同じで、林田くんが弱い者を陰でいじめて、それが犯罪になったんじゃないかって思う」

 開は発表の場でもディスカッションの時と同じように、砕けた口調で自分の考えをぶつけていた。いくらか感情的だと感じたものの、宗太郎が犯罪者だと思った理由については昨日までの議論から誰もが推測できることだったので、発表として間違ってはいないだろう。同じ課題で、同じ人を犯罪者だと指摘する発表の場でも、こんなふうに発表の仕方に違いがある。善樹は背筋にゾクゾクとした感触が走ったような気がして、はっとする。

 自分はこの発表の場を、誰よりも楽しんでいる——。
 どうしてか、分からない。誰かを犯罪者だと指摘する発表なんて、最初はくそくらえと思っていた。どんな課題だよ、と困惑して、おかしな課題を出してくるRESTARTに対して怒りすら湧いていた。けれど今は違う。早く発表がしたい。早く、誰かを悪に仕立て上げたい(・・・・・・・・・・・・)——。

 宗太郎が苛立たしげに眉根を寄せて、唇を噛んでいるのがチラリと視界に入ってきた。だが、そんなことも気にならない。次は自分の番だ。今田に言われる前に、善樹は席から立ち上がった。
「三番目、一条くんですね。準備はよろしいですか?」

「はい、お願いします」

 食い気味に返事をする善樹に今田は少し驚いたような表情を見せ、先ほどまでと同じようにタイマーを押した。善樹はすうっと深く息を吸って、頭の中でイメージしていた台詞を、ゆっくりと再生し始めた。

「僕がこの中で犯罪者と思うのは——天海くんです」

 宗太郎以外の名前が出たのは、これが初めてだ。全員が善樹と、開の方を順番に見る。開の目は驚きに見開かれ、瞬きすることを忘れたようだった。

「まず、最初に違和感を覚えたのはこのメンバーの顔ぶれです。比較的、いやかなり高学歴が集まっていると思いました。僕と長良さんは東帝大学、坂梨さんは京都の国立大である京和大学、林田くんは東京の一流私立大である松慶大学。その中で唯一、天海くんだけが地元名古屋の私立大学。大変失礼ながら、僕は彼の大学の名前を知りませんでした。あとで部屋でスマホで調べたのですが、情報科が強い大学だそうですね。彼は勉強よりゲームやYouTubeの方に力を入れていたと自分史にも書いてあるので、そっちの方面を目指しているのだと分かりました。だから大学自体に違和感があるわけではなんいです。ただ、このメンバーの中に一人だけ、言ってしまえば無名の大学の人がいる——そこが、ちょっと引っかかりました」

 全員が善樹の意見に真剣に耳を傾けている——なんて、なんて快感なのだろう。善樹の中で知らない自分が生まれるのをひしひしと感じた。

「もしかしたら、彼が犯罪者だから、高学歴の集まりの中に一人だけ違う人種を混ぜたんじゃないか——最初は、そんな単純な理由で彼を疑い始めました。彼の自分史には、学校での出来事がほとんど書かれていません。他のみんなは、小中高校、大学での出来事を中心に自分史が作成されています。学生なのだから、自分について分析をするのに学校での出来事を書くのは当然ですよね。でも彼だけは違った。唯一それらしいことといえば、幼稚園時代に『同級生たちと比べて身体が小さいことがコンプレックスだった』というところだけです。その後はずっとゲームやYouTubeといった趣味のことが書かれている。中学校のところでは、はっきりと『学校を休んでYouTubeに没頭する』とも記載されていました。そこで僕は、小学生から中学生にかけて、彼はすでに不登校になっていたのではなかと予想しました」

 そう。開の自分史を見て違和感を抱いたのは、そこだった。
 開は学校に行っていない。だからこそ、ゲームやYouTubeに邁進していった。それは他のみんなも気づいていたことかもしれない。

「では、どうして開は不登校になってしまったのか——色々考えました。開はこのインターンに来てからずっと明るくていいやつです。林田くんに詰め寄られている自分を庇ってくれるような発言もしてくれました。だから最初は単に勉強が嫌いで学校に行きたくなかったのだと思っていたのですが、それは違うなと思うことがありました。昨日までのディスカッションです」

 頭の中で、昨晩美都から聞いた開の話を思い出す。
 本当はあのことも根拠に入れてやりたい。
 でもさすがにこの場での発言としては相応しくないことくらい、善樹は心得ていた。

「先ほども言いましたが、彼は自分史で幼稚園時代のところに、唯一コンプレックスについて書いています。僕はそこで、このコンプレックスが原因で学校でいじめられた経験があるのではないかと予想しました。それから、昨日の午後の議論における林田くんの発言です。開は林田くんのことを『弱い者をいじめる卑怯なやつ』だと揶揄しました。それから『自分はそんなやつが一番嫌い』だとも言っていましたね。その後林田くんは『開って学校でいじめられてたの』と返しました。僕はその時再び、頭の中に『いじめ』という単語がくっきりと浮かんだんです。人が不登校になるきっかけで最も多いと思われるのがいじめですが、開が明るい性格だったから最初はそうかなと思いつつ、彼といじめが結びつかなかったんです。でも、言われてみれば『いじめ』以外に不登校になる理由はないんじゃないかと、どんどん想像が膨らんでいきました」

 高校時代にクラスで不登校になっていた相模くんは、どちらかといえば目立たないタイプで、女子から陰気なやつだと疎ましがられていた。彼女たちに実害を加えられたこともあったのだろう。善樹はそのことを知っていたからこそ、先生に解決策はないかと相談しに行
ったのだ。

 開のようにどんなに明るい人間でも、他人からの明確な悪意に心が折れてしまうことだってある。善樹だって、自分はずっと正義だと思っていたのに、宗太郎に偽善者だと指摘されて、自分の過ちに気づいた。正義感は折れてしまったのだ。

「開がいじめられているとしたら、犯罪を犯していても不思議ではありません。単純に、いじめっ子に仕返しして暴力沙汰になってしまったとも考えられるし、他には例えば、いじめっ子から万引きを要求されて仕方なくやってしまった——なんてことも、あるでしょう。本人の意思ではなく犯罪を犯してしまった……開はそんな犯罪者だと考えました。以上で僕の発表は終わります」

 開が実際にどんな犯罪を犯してしまったかは正直分からない。
 でも、いじめという暗い闇に突き落とされた人間が犯罪を犯してしまうことは十分に考えられる。善樹はそこを突いたのだ。
 自分の主張は、みんなの心に——いや、今田の心にどう響いたのだろう。 
 恐る恐る審査員の視線を辿る。彼は基本、前二人の発表も無表情で聞いていたが、その時だけは口の端をわずかに持ち上げた。意味深な笑みに、善樹はごくりと息を飲み込む。
「一条くん、ありがとうございました。それでは次の方——林田くん、お願いします」

 間髪を容れず順番を回していく今田。フィードバックは後なので今は何も言われないのが普通なのだが、先ほどの今田の笑みが気になって、正直宗太郎の発表は半分ほども聞けなかった。

「僕は、一条くんが犯罪者だと思います」

 宗太郎の指摘は予想した通りで、もはや善樹の心は揺らがない。

「理由はもうほとんど、昨日のディスカッションの時に話した通りです。僕はそもそも、善樹のことを善人の皮を被った偽善者だと思っていました。高校時代から彼は何かにつけ教室の中でみんなが嫌がるようなことを率先してやり、場に馴染んでいない人間を助けようとする。その性質は幼少期からずっと変わっていないようでした。自分史を見たら一目瞭然です。小学生の少年が、タバコをポイ捨てする大人を注意する——よっぽどの正義感がないとできない行為です。僕だったら見て見ぬふりをしていたでしょう。でも一条くんはちゃんと注意をする。自分の正義を信じて疑わない。その揺るぎのない正義感が、誰かを傷つけることになろうとも思わずに、彼は自分の中で正義を貫き通してきました」

 宗太郎の言葉が、善樹の胸の表面をざらざらと撫でるようにして通り過ぎていく。でも、彼の言葉が善樹の心を傷つけることはもうない。昨日までの議論で、散々思い知らされたからだ。
 自分の正義感が、誰かを傷つけていた。
 全部が全部そうではないと思うけれど、傷ついた人が何人もいた。
 その事実を認めてしまったから、善樹は逆に、彼の主張を他人事のように聞き流すことができていた。

「その彼の正義感に振り回された僕たちは、深く傷つけられました。これも犯罪と言えば犯罪じゃないですか? 今の時代、セクハラやらパワハラやら、いろんなハラスメントが存在していますし、受け取った側がどう感じたかで罪の重さが決まっていきます。少なくとも僕は、高校時代に彼に自分の尊厳を傷つけられました。体育のペア決めの際、彼の偽善によって心が打ち砕かれたんです。その他にももちろんあります。僕は被害者です。被害者自身が犯罪者を指摘するのは、何もおかしいことではないでしょう」

 宗太郎は、何かに取り憑かれたかのように善樹の方をじっと睨みつけながら流れるように話していた。目は充血していて、彼の本性が今この場で曝け出されている。
 善樹は淡々と、彼の劇場を見守っていた。

「昨日も言った通り、弟の風磨が可愛いと思うあまりに、風磨を守るために正義感を振りかざして誰かに暴力を振るってしまったということも考えられますが——僕はやっぱり、人の心を無自覚に傷つけることが、最も人として最低な行為だと考えます。だから僕は、多くの人を傷つけてきた彼のことを犯罪者だと指摘しました。以上です」

 話し終えたあと、操り人形の糸が切れたみたいにすとんと椅子に座る宗太郎。今田の口は固く閉じられている。——勝った。善樹は、心の中でガッツポーズをとる。宗太郎の主張など、もはやどうでも良かった。自分が彼に犯罪者だと指摘されたことはノーダメージ。昨日、散々自分の行いを顧みて反省したのだから、これ以上彼の言葉に傷つく必要はない。ある意味、この滅茶苦茶な課題が、善樹の心を強くしていた。

「林田くん、発表ありがとうございました。みなさん、なかなか熱弁されますね。審査員としては、とても聞き応えがあります。では、次が最後です。長良さん、よろしくお願いします」

「はい」

 カタっという軽い椅子の音と共に、美都が立ち上がる。みんな、すでに発表を終えているからか、発表が始まる前とは違って、冷静な面持ちで美都の方を見ていた。
 彼女がすっと息を吸う。
 昨日の夜、美都は善樹に開のことで相談をしにきた。そのことを考慮すれば、彼女は開を犯罪者だと指摘する可能性が高い。だが、もしかしたら最初の二人と同じように、宗太郎への敵意を顕わにするかもしれない。彼女は宗太郎から強い批判を浴びなかったが、他のメンバーのことに詰め寄る宗太郎を見て不快に思ったのは間違いないだろう。

 さて、きみは誰を指摘する——。
「私がこの中で犯罪者だと思うのは……一条くんです」

 一瞬、時が止まったような静寂に、その場が包まれた。
 ……いや、違う。止まっているのは善樹の周りの空気だけ。開や友里、宗太郎は平然と彼女の主張を受け止めている様子だ。
 美都が自分のことを犯罪者だと指摘した——信じられない事実に、善樹の心臓が暴れ出す。

「根拠は、そうですね……私も、林田くんと同じように、実体験に基づくところが大きいです。この場を借りて、彼と私自身について少し話させてください。

 私の家庭は、私が物心ついた時からいわゆる貧乏でした。父親はいたって普通の会社員で、母親はパートで働いていました。家にお金がないので、私は習い事も塾も行ったことがありません。でも、それ自体はあまり残念に思ってはいなくて、逆に自分の力で自分の道を切り拓こうと必死に生きてきました。絵を描くのが好きで美大を目指そうと思ったことは自分史にも記載している通りです。でも辞めました。絵を仕事にして生きられる人はほんのごく僅かですし、それなら勉強を頑張って少しでも良い大学に入ろう——すごくありふれた考えですけれど、家が貧困なこともあり、私にはそれが一番合っているような気がしました。

 なんとか独学で勉強を頑張って、東帝大学に入れたんです。合格した時は本当に夢のようでした。大学でもたくさん勉強をして、名の知れた会社に入ろう——そして、家族が生活に困らないようにしたいというのが、私の夢でした。同時にイラストを仕事にしたいという気持ちも捨て切れず、ちょこちょこと仕事も受けています。将来は両立しようと思っているのですが、すみません、話が脱線してしまいました。

 それで、無事に志望校に合格した私が一般教養の授業の際に出会ったのが、一条くんでした。
 一条くんは、どの授業でもとても真面目に教授の話を聞いてノートをとっていました。私が授業中に聞き漏らした箇所は、後で丁寧に教えてくれたりもして。すごく優しい人だなと思いました。

 一年生の夏、ようやく大学生活にも慣れてきた頃、私は一条くんにアルバイトの相談をしました。仕送りはほとんどなかったので、なんとか自分で稼がないといけないと思っていたんです。私にはどんな職業が合っているのか……相談するうちに、一条くんは『僕に任せて』と言って、勝手に彼自身が働いているカフェに、私の履歴書を送ってしまったんです。私は焦りました。まだ私はカフェで働くことに同意していなくて、正直接客業は向いていないと思っていたので。でも彼は私がお金に困っていることを知っていたので、正義感から、そうしてくれたんだと思います」

 ドクン、ドクン、と心臓の音がやけに大きく響いて聞こえる。
 美都の履歴書を送った時のことを、思い出していた。
 あの時彼女は今すぐにでもアルバイトを始めたいという必死な感じで、善樹に相談をもちかけてきた。確かに「自分にはどんな職業が合うと思うか」を頻りに聞かれた気がする。でも善樹は、そんな彼女の迷いにもお構いなく、自分の働いているところなら彼女も心強いだろうと、勝手に思い込んで履歴書を送ってしまった——。

「……初めての接客は、それはとても大変で、私は日々店長に叱られて凹んでいました。そんな中でも、一条くんは私のことを気にかけてくれて、何度もアドバイスをしてくれました。その点は本当に感謝しています。おかげで苦手な接客にも慣れて、仕事自体はなんなくこなせるようになりました。でも」

 そこで美都は一度言葉を切る。まっすぐな瞳を少しだけ細めて、善樹を見つめた。その目が善樹のことを責めているのだと感じて、思わず身震いした。

「アルバイトを始めて、一年経った頃でしょうか。私はある日、アルバイトが終わる時間帯に店長に呼び出されました。店長から単刀直入に『この仕事を辞めてほしい』と言われたんです。店長は、私に関するある話を聞いてしまったと言うんです。その話の詳細をここでお伝えするのは難しいのですが、とにかく私が他人には絶対に知られたくないと思っていたことでした。一人だけ……その秘密の話をした人物がいます。それが、一条くんでした。私は一条くんが、店長にその話をしてしまったのだと、悟りました」

 私のお父さん……この間、警察に捕まったの。
 ねえ、善樹くん、私、どうすればいいんだろう。
 
 二年生になったばかりの春に、美都が泣きそうな顔をしながら相談をしてきたのを思い出す。
 父親が警察に捕まった。
 父親の罪の内容について、彼女は話してはくれなかった。
 もしかしたら万引きのような軽犯罪だったかもしれない。
 それでも、今まで家族を大切にして生きてきた彼女にとっては、とても辛く、衝撃的な事件だった。
 善樹は彼女が泣いているのを見て、「大丈夫だよ」と慰めた。お父さんのことは警察に任せて、長良さんは自分の生活に目を向けようって。今まで通り、夢を追いかけていいんだよ——そんなことを言ったような気がする。

 でも私、このことが周りにバレたら、まともに生活できなくなるかもしれない。
 
 怯える彼女の背中をさすりながら、善樹はどうすれば美都がこれまで通り普通に過ごせるかを考えていた。

「大丈夫、僕がなんとかするから」

「本当に? 善樹くんが?」

「うん。任せて」

 彼女は善樹の言葉を聞いて、幾分か気が和らいだようにほっとしていた。
 善樹がバイト先の店長に、美都の父親のことを話し、「誰にも言わないでほしいです。もし誰かがこのことを話題にしていたら注意してほしいですし、長良さんのことは今まで通り、普通に接してください」とお願いしたのは翌日のことだった。
 店長は、「分かりました。伝えてくれてありがとう。もちろん長良さんのことを色眼鏡で見るようなことは絶対にない。他のスタッフの言動にも注意してみるよ」と答えてくれてほっとしたのを覚えている。
 でも……まさか。
 そのことが発端で、美都は退職に追い込まれたのか……?

「一条くんが、店長に私の相談内容を話したのは、きっと私が今後も気持ちよくアルバイトをできるようにと思ってくれてのことでしょう。悪気はなかったと思います。むしろ、彼の正義感がそうさせたんだと知っています。でも私にとってはその善意が……とてつもない悪意に感じられてしまいました」

 美都の表情がぐにゃりと歪む。今にも泣き出しそうな勢いで、善樹を見つめていた。
 心臓に細かな棘が刺さったみたいに痛い。自分が最善と思ってやったことで、彼女をも苦しめていた。初めて知った事実に、もう心は限界まで近づいていた。

「だから……と言うと、私が彼のことを恨んでいるから仕返しをしているように思えるかもしれませんが。私は一条くんがその正義感で他人を傷つけ、犯罪を犯してしまったと考えます。彼が犯罪をするのは、致し方ないんじゃないかって、そんなふうにも思います。長くなってすみません。私の発表は以上になります」
 カタン、と立ち上がる時と同じように椅子を引いてその場に腰を下ろす美都。彼女はもう、善樹の方を見ていなかった。何もない虚空に視線を彷徨わせ、恍惚感に浸っているような気さえした。

「ありがとうございます。これで全員の発表が終了しましたね。お疲れ様でした」

 残り「十秒」を示していたタイマーを止めた今田が、労いの言葉をかけてくる。善樹はふうと大きく息を吐き、乱れた呼吸を整えた。美都はいまだに、誰とも目を合わせようとしない。

「発表が終わりましたので、最後にフィードバックをします。まずは昨日の議論から。みなさん、最初に論点を整理して自分史から何かヒントを見つけようとしていたところはさすがです。メンバーの人となりが分かっていないと、犯罪者だと指摘するのは難しいですからね。まあ、他のグループでも同じようなことをしていたと思いますが、根拠を探すのは重要なことです。そして実際の議論では、自分史に書かれていたことを土台にしながらも、もともと知り合いだった方たちがぶつかって議論を展開していましたね。特に林田くん、きみの変容には驚きましたが、他人の本性を暴いていくあの感じ、私は嫌いじゃない(・・・・・・・・)ですよ」

「はあ。ありがとうございます」

 宗太郎が間の抜けたような声を上げる。
 私は嫌いじゃない。
 今田が私情を挟んでいるのを聞いて、善樹は驚いた。フィードバックで彼自身の気持ちを聞くことになるとは思っていなかったからだ。

「坂梨さんは、最後まで淡々と論理的に考えようとしていましたね。その姿勢はお見事です。発表もすっきりまとまっていました。欲を言えば、議論中ももっと誰かの言動につっこんだり、暴いたりしてみても良かったかもしれません。天海くんはグループのまとめ役として、大変重要な役割を担ってくれました。高学歴の皆さんの中でやりにくかったと思いますが、立派ですよ」

「……」

 少しばかり嫌味を含んだような今田の物言いに、開はムッとした様子で口を閉じていた。「それから一条くん。この中で最も知り合いが多かったきみは、自分史以外のところで相当いろんなことが明るみにされましたね。……いかがでしたか、自分の本性を暴かれていくのは。きみは丁寧に自分史を書いていたし、誰かを不快にさせるような言動はしませんでした。その代わり、叩かれる側に回ることも多く苦しかったと思いますが、きっとその経験が、今後の人生に活きてきます。特に、我々のような会社ではね(・・・・・・・・・・・)

「そうですか」

 最後の台詞のところで今田がニヤリと口の端を持ち上げたのが気になった。今田が何を考えているのか、善樹には分からない。気味の悪ささえ感じていた。

「最後に長良さん。素晴らしい発表でした。まさか、きみのような大人しい性格の人が、最後の最後でちゃぶ台をひっくり返すような発表をしたんですから。誰も、きみが一条くんのことを指摘するとは思っていなかったでしょう。いやいや、聞き応えのある発表でした。一条くんのことを疑っているきみの話を聞きながら、背筋がゾクゾクしましたよ。お疲れ様です」

「ありがとう、ございます」

 美都に対して何も言うことはないというふうにベタ褒めした今田はパチパチ、と二度ほど大きな拍手を送った。美都はやっぱり感情のこもらない瞳で彼の話を受け止めている様子だった。一体どうしたんだろう。本人に聞いてみたいけれど、さっきの美都の発表を聞いた後に、彼女に真意を尋ねる勇気はなかった。

「以上でフィードバックを終わります。これにて、当社RESTARTのインターンシップ全課程を終了します。皆さん、お疲れ様でした。結果については、後日優勝者にメールをお送りします。メールが来た方は、特別選考に進むことができます。結果を楽しみにしていてください。それではここで解散となります」

 普段の事務的な口調に戻った今田が、淡々と終了の合図をした。
 彼が部屋から出ていくと同時に、善樹たちは一斉に「ふーっ」と息を吐いた。

「お疲れ、みんな」

「お疲れ様です」

 犯罪者だと指摘し合った仲なので、インターンの終わりにワッと盛り上がることはできなかった。それぞれに思うところがあるのだろう。善樹たちは互いに「お疲れ様」以外の言葉をかけることができないまま、その場を後にした。
「はあ〜やっと終わったな。疲れまくったぜ」

『温泉旅館はまや』の門をくぐり、二日前に歩いた道を辿って駅まで進んでいる最中、ずっとなりを潜めていた風磨がようやく声をかけてきた。

「疲れまくったって、風磨は何もしてないだろ」

「いやいや、頑張る兄貴を見守るのも立派な仕事なんだぜ。途中ずっとヒヤヒヤさせられたし」

「ヒヤヒヤってなんだよ。そんなに失言したかなあ」

「失言とかじゃなくてほら、偽善者だって宗太郎に詰められたところとか、最後に美都から犯罪者だって指摘された時とか」

「ああ……まあ、あれはね」

 風磨に心を見透かされたようで、善樹は返す言葉がなかった。実際、善樹自身、このインターンで自分の本性を暴かれて、人生を見直すきっかけになった。だがそれにしても、最後に美都に犯罪者だと指摘されたのは本当に堪えた。彼女は自分のことを、まだ好きなんじゃないかって自惚れていたんだ。発表前夜、彼女は善樹に「まだチャンスはあるってことかな」と言っていた。あの発言が本心だったのか、自分のことを惑わすためだったのか分からない。

 どちらにせよ、善樹はもう、美都と関わることはない。
 心のどこかでほっとしながらも、少し後味の悪さを覚えていた。

「俺はもう、二度とあの会社のインターンには関わらないよ。兄貴もそうしな」

「いや……そういうわけにはいかないって」

 まだ今回のインターンの結果は出ていないんだし、善樹は最終的にRESTARTに就職することを目標としている。それに——。
 思考を続けていたところで、今日乗る予定の電車の出発時刻が近づいていることに気がついた。善樹はダッシュで改札まで向かう。風磨に「ちょっと待てって〜」と怒られながら、頭の中は電車に乗ることでいっぱいになっていた。
 こうして善樹の夏は、車窓の外を流れゆく田舎の風景と共に、過ぎ去っていった。
『【株式会社RESTART:特別選考のご案内】
 長良美都様
 先日は、弊社の宿泊型インターンシップにお越しいただきまして、誠にありがとうございます。
 おめでとうございます。
 貴殿はDグループで最も優秀な成績を収められましたので、特別選考にご招待いたします。
 この選考で、弊社の社員としてふさわしいと判断された場合、即採用の内定を通知いたします。もちろん、選考前に選考を辞退されるのであればそれはそれで問題ありません。もし貴殿が弊社に入社したいという希望があれば、ぜひ特別選考にご参加ください。
 選考の概要は以下の通りです。

【株式会社RESTART特別選考 概要】
 日時:二〇三〇年九月二十七日(金)十三時〜十四時
 場所:株式会社RESTART本社二階選考会場
 選考方法:面接
 服装:特に指定はなし

 概要をご確認の上、参加、不参加の旨を三日以内にこのメールにてご返信くださいますよう、よろしくお願いいたします。
 長良様からのお返事をお待ちしております。
 株式会社RESTART 
 人事部長 岩崎優希』


 肌にまとわりつくような夏の暑さがいつのまにか消え去り、あれだけ高かった気温も、ようやく落ち着いてきた。九月、喫茶店でイラストの仕事をしながらお気に入りのアールグレイティーを飲んでいた。店内は程よい音量でBGMのジャズミュージックが流れていて、手作業をするのにはもってこいの環境だった。

 スマホに新着メールが届いたのは、そんな心地の良い昼下がり、今月五件目に受注したイラストを仕上げていた時だ。描いていたのはSNS用のアイコン。女性からの注文で、柔らかい雰囲気で可愛らしい絵を求めているようだった。ピンクや黄色といった暖色を使いながらタブレットで色を塗っていた。
 スマホのメールフォルダに表示された「特別選考のご案内」という文字を見て、一瞬心臓が跳ねた。タブレットの上で動かしていた手が止まる。タッチペンを置いて、新着メールを開いた。

「うそ、私が選ばれた……?」

 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。
 株式会社RESTARTの宿泊型インターンシップに参加したのは、一ヶ月前のことだ。あれからまったく音沙汰がないので、選ばれた人にはすでに連絡がいっているのだと思っていた。それが、一ヶ月も経ってようやく自分にメールが送られてくるなんて。
 何かのドッキリかと思った。
 だって、あのインターン中、Dグループの中で一番発言の量が少なかったのは自分であるはずだ。発言していないのだから、自分のことをどうジャッジすればいいのか、審査員だって分からないはずだった。自分なんかより、善樹くんの方が——と考えたところで思考を止める。

 彼には、もう関わらないと決めた。
 最終発表で彼を犯罪者だと指摘した時に、彼との関係はもう終わってしまったと思った。彼だって、自分のことを疑ってかかってきた女のことを、これ以上気にしようとは思わないだろう。
 RESTARTから送られてきた特別選考についてのメールにざっと目を通す。書かれていることは何の変哲もない選考の案内メールなのに、心臓が早鐘のように鳴っている。BGMの音楽がアップテンポの曲に切り替わった。美都は、メールの画面を凝視しながら、どう返信するべきかどうか、しばらく迷っていた。

 選考に参加するかどうかは、私の自由。
 どこからともなく吹き出してきた汗が、首筋を伝う。店内は冷房が効いているはずなのに、おかしい。自分が思っているよりも、先方からのメールに動揺していることが分かった。
 美都は、ひとしきり考えた上で、ようやく決断を下した。
 恐る恐る、「返信」ボタンをタップする。

「株式会社RESTART 
 人事部長 岩崎優希様」
 一つずつ文字を打つたびに、本当にいいのだろうかという不安に駆られていた。確かに選ばれたのは自分だとこのメールには書いてあるけれど、何かの罠なのではないか。そんな疑いすら浮かんでしまう。
『お世話になっております。先日は、貴社の宿泊型インターンシップに参加させていただき、ありがとうございました。
 私がDグループの中で特別選考に選ばれたということで、正直驚きましたが、大変嬉しく存じます。
 ぜひ、特別選考に参加させていただきたいです。
 日時や場所についても確認いたしました。
 当日はどうぞよろしくお願い申し上げます。
 長良美都』

 返信の文章を打ち終わった美都は、躊躇いがちに送信ボタンを押した。メールが無事に岩崎の元へ送られていく。これで、後には引けなくなった。

「一週間後か……」

 今日は九月二十日なので、選考はちょうど一週間後の金曜日だ。時間的には問題ない。それまでにRESTARTについてより理解を深めなければ。やるべきことがどんどん頭に降ってくる。
 美都にとって、あの夏の宿泊型インターンシップは遠い日の幻のようだった。再びRESTARTと関わりを持つことになるとは。

 スマホのメール画面を閉じて、タッチペンを握り直す。
 一週間後の特別選考に備えてそれなりに対策をしなければならない。そのために、今は溜まっている仕事を早く片付けなければ。
 美都はイラストの続きを描くと同時に、仕事用に使っていたSNSに、「※ただいま新規ご依頼停止中」と書き足した。これでひとまず一週間は新しい依頼は来ない。RESTARTの特別選考に向けて、準備をしよう。