そんな中、二つ前に座っている美都が、座る位置をずらして、善樹の斜め前に来た。美都の前に座っていたのが座高の高い男だったので、スライドが見えづらかったのだろう。美都が斜め前に来たことで、彼女の表情がちょっとだけ垣間見えた。
 冷たく、澄んだ川のような瞳。周りのみんなが熱に浮かされている状態なので、彼女の冷気を放つような表情を見て、善樹の心臓がどきりと跳ねた。
 一体何を考えているのだろう。
 単にRESTARTの説明を冷静に聞いているだけのようにも見えるが、それ以上に、彼女の中でこの会社説明を冷めた気持ちで見なければならない理由があるみたいだった。

「……とういうわけで、以上が会社説明になります。五分ほど休憩を挟んだ後、質疑応答に移ります。それでは休憩してください」

 その場の空気がどっと弛緩して、トイレに行きたい人たちが大広間を出ていく。善樹はずっと部屋の中にいた。斜め前に座っている美都は、相変わらずしゃんと姿勢を正したまま、前方を見つめている。岩崎の動きを目で追っているようだった。

「はあーあ。早くおわんねーかな」

 舐め腐った風磨の声がして、善樹は「おい」と小さくたしなめる。こいつは、場を弁えずに不用意な発言をするから、善樹が注意しないと何をしでかすか分からない。

「だってさあ、質問したいことなんて何もないし」

「お前になくても、他のみんなにはあるだろ」

「そういう兄貴だって、質問なんかないだろ?」

「それは……まあ、そうだけど」

 正直、RESTARTについては他の誰よりも知っている自信がある。あえてこの場で手を挙げて聞きたいことは何もなかった。

「だったらやっぱり早く終わりたくね? 俺、腹が減ったんだ」

「風磨、お前はいつもご飯のことばっかりだな……」

 風磨に構っていると自分までそちらの世界に引きずり込まれそうになるので、この辺でやめておく。
 トイレ休憩が終わり、ぞろぞろと学生たちが戻ってきた。岩崎が再び前に進み出る。

「それでは質疑応答の時間に移ります。何かある人は挙手をお願いします」

 一斉に何人かの手が上がる。二日間の議論を終えて、みんなが積極的になっているのが分かった。

「じゃあ、Bグループのそこのきみ」

 最初に当てられたのはBグループの列にいる大柄の男だった。彼は立ち上がり、大学名と名前を告げた後、質問を始める。

「先ほどは説明ありがとうございました。一つ気になったのですが、営業以外に所属できる部署は、何があるんでしょうか?」

 おそらく、みんなが気になっているであろう質問をして彼は座る。善樹は社内組織についても詳しく知っていたのだが、普通の人はかなり念入りに調べないと分からないだろう。

「営業以外にみなさんが就くことのできる職種は、たとえば私たちのような人事部、経理部、総務部などのいわゆるスタッフ部門がまず挙げられます。それ以外の部署であれば、ITシステム部、デザイン部、企画戦略部、マーケティング部などがありますね。学生さんたちはマーケティングや企画戦略部に入りたいという方が多いみたいです。まあ、アプリ開発なんかもこの辺の部署でやりますから、そのせいでしょう」

「なるほど。ありがとうございます」

 RESTARTの部署は一般的な企業とほとんど変わらない。それぞれの部署で専門性の高い取り組みをしているので、すべての社員が自
分の部署のプロフェッショナルといえる——そんな説明を、善樹は以前聞いたことがあった。

 その後も、休暇制度や福利厚生について、女性の活躍ぶりなど、学生たちが気になる質問が次々と飛び交っていた。善樹はそのすべての回答に納得しながら聞いていた。

「それでは残り時間も少ないので、次が最後の質問としましょう。何かある方は手を挙げてください」

 意外にも多くの質問があったので、気づかないうちにどんどん時間が進んでいた。もう質問は出尽くしたので、手は挙がらないだろうと思っていたのだが、一人の女子がすっと右手を挙げた。美都だった。
「はい、ではきみは確か——長良さん、だったね。どうぞ」

 岩崎はなぜか美都の苗字を知っていて、名指しで指名した。美都が「はい」と言って立ち上がる。名乗る必要はないと思ったのか、早速質問を投げかけた。

「御社では『マイノリティ、社会的弱者が生きやすい世の中へ。人生を再スタートさせる』を基本理念とされていますが、“社会的弱者”とは、どんな人のことだと考えていますか」

 これまでの会社の制度や内部事情に関する質問とは一線を画す、会社の根幹の部分に関する質問に、岩崎の表情が一瞬固くなったのが分かった。だが、すぐに「いい質問ですね」と表情を和らげて話し出す。

「弊社が基本理念として掲げている“社会的弱者”ですが、先ほどの会社説明会でも申し上げたような高齢者や子供、障害者の方だと考えています。が、それだけではありません。たとえば、みなさんの中でも性格や体質などのちょっとしたことで生きづらいと感じている人もいるでしょう。大勢の前で緊張してしまうとか、友達をつくるのが苦手、他人の顔色をつい窺ってしまうというような悩みは誰もが抱えているものです。そういう方に向けた相談サービスなども行っているので、大きく捉えるとそういう人たちも社会的弱者に含みます。実際そういった方たちが他の人に比べて立場が弱いかどうかに関わらず、です」

「……分かりました。それなら、例えば今回の課題に出て来た犯罪者の人たちを、こうしてインターンシップに呼んだのも、犯罪者を社会的弱者だと捉えているからですか。彼らを“生きづらい人”だと認識しているということでしょうか」

 再度質問を投げかける美都の言葉に、会場全体が緊張感に包まれる。かなり核心をついた質問だった。

「そうですね……そうとも、捉えられるかもしれません。考えたことはなかったのですが、彼らはもしかしたら致し方なく犯罪をせざるを得なかったのかもしれませんからね。でも、犯罪をすることは決して容認できることではありませんよ。あくまで動機の話です。もし、誰かに脅されて犯罪に走ってしまったのだとしたら——それは、純粋な彼らの意思ではありませんから、犯罪者だとしても社会的弱者として扱うかもしれません」

「ご回答ありがとうございます。最後に、少し話はずれますが、岩崎部長は本当の正義とはなんだと思いますか」

 本当の正義とは。
 直接的に会社とは関係のない質問をする美都は、一体どういう意図で発言をしたのだろうか。善樹にとって、「正義」という言葉は、聞き逃すことができないものだった。

「本当の正義、ですか。難しい質問ですね。我々の——いや、私の一個人の考えとして聞いてほしいのですが、本当の正義とは、他者を裏切らないことだと思いますね。自分が正義だと主張する行為、発言をすることで、誰かを傷つけたり、誰かから羨まれたりすることがないこと。それが、正義ではないかと考えます」

「……ありがとうございます。なんだか、腑に落ちました」

 納得した様子で、美都がその場に座り込む。彼女の態度に反比例するように、善樹の心臓は暴れ始めていた。
 正義とは、他者を裏切らないこと。
 岩崎が出した答えは、先ほどのディスカッションで宗太郎が主張していたことを裏付けていた。自分では正義だと思い込んでやったことが、他人にとってはありがた迷惑だったこと。善樹は今日、十分に思い知らされたのだ。

 このインターンに参加しなければ、そんな残酷な事実に気づかなかった。参加してよかったのかそうでないか、今の善樹には見当もつかない。自分の生きるよすがとしていた信念をたった一日で崩されて、昨日、インターンが始まる前とは心の持ちようが全然違っていた。自分の魂がふらりとどこかへ飛んでいってしまって、とてもじゃないが、今また議論をしろと言われたら何も発言できそうにない。

「皆さん、たくさんの質問をありがとうございました。これより夕食に入ります。本日もお疲れ様でした。明日の発表に備えて、各自意見をまとめておくようにしてください」
 午後六時ぴったりに、会社説明会が終わった。
 今日は朝から一日中議論をして、説明会でも集中して話を聞いていたので、どっと疲れが押し寄せてくる。Dグループのメンバーと互いに目を合わせながら、「お疲れ」と労った。

「はあ〜やっとだ! 飯だ飯! 早く行くぞ」

 遠足前の子供のようにはしゃいだ声を上げる風磨に背中を押されて、善樹は食事会場へと向かう。

「善樹くん」

 その刹那、美都から声をかけられた。「なんだよ」と不機嫌な風磨の声が頭に響いて、善樹はぎくりとした。美都に聞こえてなければいいけど、と内心ヒヤヒヤする。

「どうしたの、長良さん」

「あの、今日の夜、少し話せないかな」

「今晩? うん、別にいいけど」

「良かった。じゃあ、九時にロビーで待ってる」

「ああ、分かった」

 幸い風磨の苛立たしげな声は聞こえなかったようだが、夜に話したいという美都の発言には驚いた。

「兄貴、お前、インターンに来てランデブーする気か」

「……風磨にだけは言われたくないな」

 間違ってもそんなことにはならないと思うが、彼に文句を言われる筋合いはない。
 美都とは、告白をされてからあれっきり何もないのだ。
 今日話したいと言ったのも、このインターンのことだというのは理解している。後ろめたいことは何もなかった。

 二日目の夕食は、一日目と少しずつメニューが違っていて、相変わらず豪華で美味しかった。きっとここにいる多くの学生は二日も連続で会席料理なんて食べないだろうから、みんな、夢中になって食事を口に運んでいるのが分かった。Dグループのメンバーも、「やっぱり飯は最高だな」と言いながら全身で絶品料理を噛み締めている様子だ。

 午後七時半、デザートまできっちり食べ終えて満腹になったところで、各々自分の部屋へと戻って行った。明日の発表に備えて、自分の意見を整理するための貴重な時間だ。善樹も、昨日同様お風呂を済ませると、パンフレットのメモ欄に記載して議論の内容を見返した。だが、正直今日の議論の途中からメモを取る気力が失せてしまっていたので、メモはとても雑だった。これではメモを見返してもほとんど意味がない。善樹は記憶の中のみんなの「自分史」と、議論をしているときの彼らの様子を思い返して、なんとか推理しようとした。

 でもダメだ。
 頭が上手く回らないのだ。
 自分は「偽善者」だというレッテルを貼られてから、どうも調子が出ない。分かってはいた。いつか、自分のしてきた「正義」の表の皮が剥がされて、痛い目を見るんじゃないだろうかって、薄々予感していた。それでも気づかないふりをし続けてきた罰が当たったんだ。

「お手上げみたいだな」

 他人事のように風磨がそう告げる。暗くなった窓に映る風磨の顔が見たことないくらい真剣で、思わず自分の頬を触る。善樹自身、顔の筋肉が強張っていて、とてもじゃないが冗談でも今は笑えそうになかった。いっそのこと、善樹がどれだけ偽善的な行為を繰り返していたか、馬鹿らしいと笑い飛ばしてくれれば良かったのに。こんな時こそ、風磨の軽い性格が救いになりそうなものを、一緒になって暗くならないでほしい。

「まあ、発表なんて適当に作り話をでっち上げればいいんじゃないの。善樹ってそういうの得意だろ。頭いいんだし」 

「そんなに簡単なことじゃない。作り話に整合性を持たせるのには、念入りに準備が必要なんだ」

「そんなこと言うけどさ、あんな議論で誰が犯罪者かなんて正確に推理することなんて不可能じゃん。宗太郎だっけ? あいつも言ってたけど、犯罪の証拠なんて警察にでも行かない限り分かんねえんだし。善樹の頭なら、それっぽい推論をして周りを納得させられるんじゃないの」

「お前は……いいよな。お気楽に傍観者気取りで、明日も軽いノリで行くんだろ」

 思わず口から嫌味がこぼれ出た。
 風磨はいい。いつも、親から期待もされず、自由奔放に生きているんだから。
 そう考えたところで、善樹ははっとする。
 自分は今、何を……。

 善樹はこれまで、風磨のことを、一人の人間としてきちんと尊重して生きてきたつもりだ。確かに自由すぎて周りからは呆れられているけれど、風磨にも優しい一面があって。今こうして「適当に作り話をすればいい」と言っているのも、本当は自分を励ますためだと知っている。だからこそ、中学時代に風磨が不良に絡まれて非行に走った時は、本気で心配したし、きちんと彼の言い分を聞いた。親でさえ分からない風磨の複雑な気持ちを分かってあげようと努めた。なんとかして風磨には真っ当な人生を送ってほしくて必死だった。
 だけど本当は善樹自身、風磨のことを馬鹿にしていたのではないか……?
 どこかで自分とは違うやつだって一線を画して、自分よりも人として劣っていると思い込んでいたのではないか。

「風磨を救いたいから」とそれらしい理由で納得して、正義を貫いていると勘違いしていたのではないか。

「……」 

 これ以上は考えていられなくなって、善樹は思考を止めた。風磨もそんな善樹を見かねてか、もう何も声をかけてこない。きっと明日の朝まで彼とは口を利かないだろう。

 午後九時になり、美都と約束をしたロビーに向かう。ロビーには旅館のスタッフ以外、ちらほらと売店に来る学生や他のお客さんが数名いるだけだった。大広間に集まる時は大勢の学生がひしめき合っているので、こうして見ると普通に温泉旅館に泊まりに来たような錯覚に陥った。

「待たせてごめん」

 美都はロビーのソファに座って、本を読んでいた。善樹が声をかけると本から顔を上げる。

「うん、待ってないから大丈夫」

 パタンと閉じた本をテーブルの上に置いた。

「実はちょっと、善樹くんに相談があって……」

「相談? どうしたの」

 彼女から相談を受けるのはいつぶりだろう。カフェで一緒に働いていた時には仕事の相談を度々受けていた。だが彼女がアルバイトを辞めてから、ほとんど関わりがなくなっていたから久しぶりの感覚だった。

「実は昨日の夜、天海くんから連絡先を聞かれたんだよね」

「え? 開?」

 予想外の方向から話が飛んできて、善樹は面食らう。Dグループのまとめ役でいつも明るく自分たちを引っ張ってくれる開と、美都の間でそんなやりとりが繰り広げられているなんて想像もしていなかった。

「うん。それでどうしようか迷ってたっていうか。連絡先は、『インターンが終わってからなら』ってなんとなく濁したんだけど、ちょっと気まずくなってしまって」

「そっか、そうだったんだ。だから、今日のディスカッション中に辞退するなんて言ったの?」

「あれは……あの時も言ったように、その場の空気に耐えられなくなって言ってしまったんだけど……そうだね、昨日の天海くんとのこともあって、もう限界だって思ったのかもしれない」

 彼女の口ぶりからするに、開から連絡先を聞かれたことが、少なくとも彼女の中では想定外の出来事だったと分かる。自分だったらどうだろう。インターンの場であれ、異性から連絡先を聞かれたら——ちょっとは嬉しいと思ってしまうかもしれない。でも、美都にとってはプラスの方向に気持ちが転じなかったようだ。

「それは、仕方ないね。うん、長良さんの気持ちは分かるよ」

「私の気持ちが? あのさ、善樹くんはその……私のこと、どう思ってる」

 話の流れが絶妙にずれていって、善樹は「え?」と思わず声を上げた。

「一年生の時、私が善樹くんに告白をしたこと、覚えてるよね」

「え、う、うん。それはもちろん」

 美都は何を考えているのだろう。揺れる瞳から彼女の感情を読み取ることができない。

「今は、どう思ってる……? 私のこと、ありか、なしか」

 まさか、美都から色恋沙汰の話で相談を受けるとは思っておらず、善樹はドキマギとするばかりで、咄嗟に答えが口から出てこない。美都とは久しぶりに再会をして、懐かしい気分にはさせられていた。ひょっとしたらまだ自分のことを好きなのではないか——そんなふうに、心のどこかで思っていた節もある。いや、正直に認めよう。善樹は美都からまだ好意を寄せられていると信じ、自惚れていた。

「なしとかじゃ、ないよ。というか……自分に好きだと言ってくれた人に対して、ありとかなしとか、そんな上から目線で答えるのは好きじゃない」

 善樹は率直に思ったことを告げる。美都は瞳を何度か瞬かせた。

「そっか……なんか、嬉しい。バイトを辞めたあと、関わることがなくなっちゃって、ちょっと寂しいと思ってた。ふふ、自分が告白なんてしたからいけないんだけどね。ぶっちゃけ善樹くん、私がまだ自分のこと好きなんじゃないかって、思ってた?」

「ああ……正直なところね。男ってバカだから」

「そっかあ。じゃあ、まだチャンスはあるってことかな」 

 小悪魔的に微笑む彼女が、なんだか愛らしい生き物に思えてくる。聡明な彼女のことだから、善樹をその気にさせる作戦かも、なんて勘繰ってしまう自分がいた。
「僕からは、なんともね。開には明日連絡先を教えるの?」

「うーん、どうしよう。正直あんまりいい気はしなくて……。昨日の夜、ちょっと強引に迫られたから引いてしまったというか」

「強引? 開が?」

「ええ。部屋に無理やり入ってこようとしたから、なんとか止めたんだけど。怖くて」

「そんなことが」

 意外だ。子犬のような子どもらしい笑顔を浮かべる開のイメージが、強欲なオオカミの鋭い爪に変わる。
 思えば、Dグループのメンバーの中で一番本性が見えないのは開だったかもしれない。最初は宗太郎の変わりように驚いていたが、開は一貫して明るく、あっけらかんとした物言いだった。途中宗太郎に詰め寄られた場面で、初めて悔しそうに顔を歪めていた。あの瞬間こそが、開の本当の心を垣間見た時だった。けれどそれも一瞬の揺らぎだったので、あの場ではそれ以上開の性格や人生について、深掘りすることはできなかった。

 そんな開が、美都の部屋に強引に押し入ろうとしていたなんて。
 善樹の中で抱いていた開への印象が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
 彼は何かを隠しているのではないか。
 一気に開への疑念が高まっていた。

「善樹くん、大丈夫?」

 善樹が思い詰めた表情をしていたからか、美都が心配そうに善樹の顔を覗き込んできた。

「あ、ああ、ごめん。それにしても開、最低なやつだな」

 自分の口から他人に対して「最低なやつ」なんて言葉が飛び出して来たこと自体、衝撃的だった。相手は今まで善人だと思っていた開だ。けれど、善樹がこのインターンで自分の善人ぶりに疑いの目を向けられたように、善樹もいつしか他人に対し、懐疑心を抱くようになっていた。

「こんな話、急にしてごめんね。誰かに話さないと、押しつぶされそうな気がして」

 美都が申し訳なさそうに頭を下げる。善樹は静かに首を横に振った。

「いや、そりゃ誰かに相談したくもなるよ。もし今日また同じようなことがあったら教えて。何か力になれることがあるかもしれないから」

「ありがとう。やっぱり善樹くんは優しいね」

 目元を細め、口を綻ばせる美都。「優しい」と誰かから評価を受けたのは久しぶりで、善樹の心に染み渡った。

「それで、長良さんは結局このインターン、辞退するの? 明日の発表はどうする?」

「うん……やっぱり、最後まで続けようかなって思う。ダメで元々だし、ここまで頑張ったから。天海くんのことは、善樹くんに話して
気持ちが少しすっきりしたし、大丈夫、かも」

「そうか。それなら良かった。こんなチャンス滅多にないからね。優勝したらラッキーぐらいの気持ちでいれば、気も楽になるよ」

「そうだね……本当にありがとう」

 美都は心底ほっとした様子で、椅子から立ち上がる。善樹もつられて席を立ち、部屋に戻ろうかと一息ついた。

「あ、そういえば義樹くん」

 今まさに歩き出そうとしていたところで、再び美都が口を開く。まだ何か相談事が残っていたのかと気になって、「何?」と聞き返す。

「風磨くんのことなんだけど……」

「風磨? 風磨がどうかした? もしかしてあいつ、開みたいに、長良さんに迷惑かけた?」

「う、ううん。大丈夫。ごめん、やっぱりなんでもない」

 と、彼女は首を振って「今のはなかったことにして」と付け加えた。それから、「また明日。おやすみなさい」と言われたので、善樹は強制的に彼女と別れることになった。
 もしかして、本当に風磨が美都にちょっかいをかけたのかもしれない。
 そうだとすれば美都は風磨を警戒しているだろう。帰ったら風磨に問いたださなければいけないな——そう思っていたのだが、部屋に戻った途端、善樹は今日一日分の疲れに身を任せて、すぐに布団の上で眠りに落ちてしまった。

 三日目:午前八時二分

 三日目の朝、朝食会場で目にしたDグループのメンバーは皆一様に寝不足気味にまなこを擦っていた。昨日の夜、今日の発表に備えて夜更かしをして頭を整理していたのだと分かる。善樹は割とたっぷり眠ることができたので、昨夜に比べるとかなり頭はすっきりしていた。

「おはよう」

 美都に挨拶をされて、善樹も「おはよう」と返す。

「昨日はありがとう。おかげで最後まで頑張れそう」

「それは良かった。ラスト一日、一緒に頑張ろう」

 美都が笑って頷く。インターンが始まって美都と会ったのは一年数ヶ月ぶりだったけれど、前みたいに普通に会話ができるようになって良かったと思う。
 朝から豪勢な食事を終えると、午前九時を回っていた。発表は十時から。今からは休憩と、発表前の心の準備の時間だ。皆それぞれの部屋で自分の意見をまとめているだろう。善樹も、昨日まで使っていたパンフレットのメモ欄を眺めながら、発表の際の説明の順序などを頭の中で組み立てていた。

「さすが、真面目くんは偉いね」

 時間ギリギリまでパンフレットと睨めっこをしている善樹に、どこからともなく降ってきた風磨の声。善樹はその声を無視して、鏡の前に立ち、顔にバシャバシャと水をかけた。今は風磨の戯言を聞いている余裕はない。どうせ風磨は発表だって理由をつけてサボるつもりだろう。
 タオルで顔を拭くと、自分の顔が思ったよりも険しく、目の下に皺が寄っていた。ゴシゴシと目を擦って、なんとか表情を明るくしようと努める。すると今度は、逆にニヤニヤと怪しい笑顔が浮かんでしまい、善樹はため息をついた。

「まあ、肩の力を抜けって。俺みたいに」

 鏡の中の風磨の顔を見ると、ひひひ、と乾いた笑みをこぼしている。
 本当に、こいつみたいに何も考えずにのんびりと生きたいところだ。
 そう思ったけれど、風磨は風磨なりに善樹の気が紛れるようにわざと茶化しているのかもしれないと思い至り、善樹は「そうだな」と適当に頷いた。
 洗面所から出て時計を見ると、時刻は九時五十分を指していた。

「さあ、そろそろ行こうか」

 誰にともなく呟く。風磨は「俺、トイレ行ってからにするわ」と予想通りの反応を見せた。そんな風磨を置いて、善樹は一人、ディスカッション部屋へと向かった。
 席には、昨日までと同じ並びでDグループのメンバーが座っている。昨日にも増す緊張感が漂っていて、善樹の心臓も自然に縮んでいた。こんなに緊迫したインターンに参加したのは今回が初めてだ。改めて、RESTARTのインターンの特異さを身に沁みて感じている。

「皆さん、おはようございます。昨日はよく眠れましたか」

 部屋にやって来た社員の今田が、善樹たち一人一人の顔を見回した。みんな、頷くことも首を横に振ることもしない。友里なんか目の下にクマができていて、「察してください」と言わんばかりの目つきで今田をじっと見ていた。

「寝不足の方もいるようですね。最後の発表が終わるまで、頑張ってください。それから長良さん——」

 今度は今田が美都の方に視線を合わせる。

「昨日は辞退するとおっしゃっていましたが、今の考えは?」

「辞退は、しないことにしました。最後までよろしくお願いします」

 毅然とした態度の美都を見て、今田は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにふっと微笑んで「そうですか。良かったです」と返した。昨日もそうだったが、今田は美都にどこか期待を寄せている——そんなふうに見えた。

「それでは全員揃っているようなので、これから最終発表の時間に移ります。発表の順番はくじ引きで決めます。こちらの紙を引いてください」

 今田は風磨がいないことは無視して、箱に入ったくじ引きの紙を善樹たちに見せた。彼の中でも風磨はとっくに見捨てられている。みんな、お互いの顔を見合わせた後、遠慮がちにくじを引いていく。

「紙を開いてください。書かれている番号が、発表の順番になります」

 善樹はそっとくじ引きの紙を開いた。番号は「三」。ちょうど真ん中だった。一番目はなんとなくプレッシャーを感じるので最初でなくて良かった——とほっとしていた。
 それぞれの番号を確認すると、一番目は友里、二番目は開、三番目は善樹、四番目は宗太郎、五番目が美都だった。

「順番が決まりましたね。坂梨さん、天海くん、一条くん、林田くん、長良さんの順に発表を行います。持ち時間は一人五分です。意外と短いので注意してください。それでは坂梨さんから、よろしくお願いします」

「はい」

 今田がタイマーを五分にセットする。友里がその場に立ち上がり、話し始めた。

「私がこの中で犯罪を犯したことがあると思ったのは……林田くんです」

 友里の口から出てきたまさかの名前に、宗太郎本人の眉がぴくりと動く。昨日の朝の議論では、どちらかと言えば友里は宗太郎側についていたように思えた。だが午後の議論で彼に詰められたことを、根に持っているのかもしれない。

「林田くんは最初、ニコニコしていて誰からも好かれそうだなっていう印象でした。でも、議論の途中で、みんなの自分史や性格について、何かにつけて難癖をつけていった。最初の優しかった印象はどこかにいってしまって、私は、彼の本質が優しさではないことが分かりました。彼の裏の顔は、何を考えているのかよく分からない。人の本性を見破ることに快感を覚えている。同時に、強い者として自分よりも弱い者をいたぶりたいという欲求があるんじゃないかって思いました。そんな彼だから、弱い者いじめをして、犯罪に繋がった——そんなふうに考えました」

 友里は最初、宗太郎からの蛇のような鋭い視線を感じ取ったからか、周りの様子を窺うようにして話していたが、途中からは彼女らしく堂々と意見を言っていた。その後も、宗太郎の自分史が出来事中心で気持ちの部分が欠けていることなどを指摘して、「他人に対して常に後ろ暗い気持ちがあるから、気持ちの部分を省略した」というようなことを発言した。確たる根拠があるわけではないが、このインターンの課題としては正当な理由をつけて犯罪者を指摘すれば良いのだから、絶対的な根拠は必要ないのだろう。いかに審査員を納得させるか。肝はそれだけだ。

 やがて友里の演説が終わり、同時にタイマーが鳴る。時間配分は完璧で、彼女が部屋でいかに発表の練習を重ねてきたかがよく分かった。
「坂梨さん、ありがとうございました。フィードバックは後ほど行いますので、ここではノーコメントで。さっそく次に進みましょう。天海くん、よろしくお願いします」

 今田が着実にその場を回していく。再びタイマーを五分にセットして、開が立ち上がった。

「俺も坂梨さんと同じで、林田くんが犯罪者だと思います」

 これは予想していた通りだった。昨日、宗太郎と開は互いに因縁をつけて喧嘩のような議論をしていたから、開の気持ち的に宗太郎を犯罪者だと言いたいのだろう。

「まあ、理由はさっき坂梨さんが言ってくれたのとほぼ同じだから、パクリと思われても仕方ないんだけど。林田くんは、表面上ではいい人のふりをして生きてきて、それなりに成功してきた側の人間だ。名門校に入って、大学だって一流私立大学で。自分史を見ると難関大学に合格したというところや大手企業へのインターンに参加したところに『◎』が付けられている。彼がどれほど自分の成功に誇りを持っているのかが、よく分かる。その一方で、昨日の議論。昨日は自分も熱くなった部分もあって、反省しているとところもあるけれど、それにしても彼の他人に対するものの見方は捻くれていた。ずっと友達として仲良くしてきた一条くんのこと、裏では偽善者だと思っていたと指摘した。本当は尊敬していなかった。でも、表面上では一条くんのことをすごい人だと思っているように装っていた。……その時点で、もう俺にとっては立派な詐欺師だった。インターンで偶然こういう課題が出て、偶然一条くんと同じ班だったから、心の中ではラッキーだって思ってたんだろうなって分かった。このインターンの課題を利用して、一条くんをとことん追い詰めてやろうっていう魂胆が見え見えだった。……俺は知ってる。林田くんが、一条くんや他のみんなを追い詰めている時の目は、教室で気に入らないやつをいじめるやつのそれだ。見たことがあるんだ。経験したことがある……だから俺は、さっき坂梨さんが言ったのと同じで、林田くんが弱い者を陰でいじめて、それが犯罪になったんじゃないかって思う」

 開は発表の場でもディスカッションの時と同じように、砕けた口調で自分の考えをぶつけていた。いくらか感情的だと感じたものの、宗太郎が犯罪者だと思った理由については昨日までの議論から誰もが推測できることだったので、発表として間違ってはいないだろう。同じ課題で、同じ人を犯罪者だと指摘する発表の場でも、こんなふうに発表の仕方に違いがある。善樹は背筋にゾクゾクとした感触が走ったような気がして、はっとする。

 自分はこの発表の場を、誰よりも楽しんでいる——。
 どうしてか、分からない。誰かを犯罪者だと指摘する発表なんて、最初はくそくらえと思っていた。どんな課題だよ、と困惑して、おかしな課題を出してくるRESTARTに対して怒りすら湧いていた。けれど今は違う。早く発表がしたい。早く、誰かを悪に仕立て上げたい(・・・・・・・・・・・・)——。

 宗太郎が苛立たしげに眉根を寄せて、唇を噛んでいるのがチラリと視界に入ってきた。だが、そんなことも気にならない。次は自分の番だ。今田に言われる前に、善樹は席から立ち上がった。
「三番目、一条くんですね。準備はよろしいですか?」

「はい、お願いします」

 食い気味に返事をする善樹に今田は少し驚いたような表情を見せ、先ほどまでと同じようにタイマーを押した。善樹はすうっと深く息を吸って、頭の中でイメージしていた台詞を、ゆっくりと再生し始めた。

「僕がこの中で犯罪者と思うのは——天海くんです」

 宗太郎以外の名前が出たのは、これが初めてだ。全員が善樹と、開の方を順番に見る。開の目は驚きに見開かれ、瞬きすることを忘れたようだった。

「まず、最初に違和感を覚えたのはこのメンバーの顔ぶれです。比較的、いやかなり高学歴が集まっていると思いました。僕と長良さんは東帝大学、坂梨さんは京都の国立大である京和大学、林田くんは東京の一流私立大である松慶大学。その中で唯一、天海くんだけが地元名古屋の私立大学。大変失礼ながら、僕は彼の大学の名前を知りませんでした。あとで部屋でスマホで調べたのですが、情報科が強い大学だそうですね。彼は勉強よりゲームやYouTubeの方に力を入れていたと自分史にも書いてあるので、そっちの方面を目指しているのだと分かりました。だから大学自体に違和感があるわけではなんいです。ただ、このメンバーの中に一人だけ、言ってしまえば無名の大学の人がいる——そこが、ちょっと引っかかりました」

 全員が善樹の意見に真剣に耳を傾けている——なんて、なんて快感なのだろう。善樹の中で知らない自分が生まれるのをひしひしと感じた。

「もしかしたら、彼が犯罪者だから、高学歴の集まりの中に一人だけ違う人種を混ぜたんじゃないか——最初は、そんな単純な理由で彼を疑い始めました。彼の自分史には、学校での出来事がほとんど書かれていません。他のみんなは、小中高校、大学での出来事を中心に自分史が作成されています。学生なのだから、自分について分析をするのに学校での出来事を書くのは当然ですよね。でも彼だけは違った。唯一それらしいことといえば、幼稚園時代に『同級生たちと比べて身体が小さいことがコンプレックスだった』というところだけです。その後はずっとゲームやYouTubeといった趣味のことが書かれている。中学校のところでは、はっきりと『学校を休んでYouTubeに没頭する』とも記載されていました。そこで僕は、小学生から中学生にかけて、彼はすでに不登校になっていたのではなかと予想しました」

 そう。開の自分史を見て違和感を抱いたのは、そこだった。
 開は学校に行っていない。だからこそ、ゲームやYouTubeに邁進していった。それは他のみんなも気づいていたことかもしれない。

「では、どうして開は不登校になってしまったのか——色々考えました。開はこのインターンに来てからずっと明るくていいやつです。林田くんに詰め寄られている自分を庇ってくれるような発言もしてくれました。だから最初は単に勉強が嫌いで学校に行きたくなかったのだと思っていたのですが、それは違うなと思うことがありました。昨日までのディスカッションです」

 頭の中で、昨晩美都から聞いた開の話を思い出す。
 本当はあのことも根拠に入れてやりたい。
 でもさすがにこの場での発言としては相応しくないことくらい、善樹は心得ていた。

「先ほども言いましたが、彼は自分史で幼稚園時代のところに、唯一コンプレックスについて書いています。僕はそこで、このコンプレックスが原因で学校でいじめられた経験があるのではないかと予想しました。それから、昨日の午後の議論における林田くんの発言です。開は林田くんのことを『弱い者をいじめる卑怯なやつ』だと揶揄しました。それから『自分はそんなやつが一番嫌い』だとも言っていましたね。その後林田くんは『開って学校でいじめられてたの』と返しました。僕はその時再び、頭の中に『いじめ』という単語がくっきりと浮かんだんです。人が不登校になるきっかけで最も多いと思われるのがいじめですが、開が明るい性格だったから最初はそうかなと思いつつ、彼といじめが結びつかなかったんです。でも、言われてみれば『いじめ』以外に不登校になる理由はないんじゃないかと、どんどん想像が膨らんでいきました」

 高校時代にクラスで不登校になっていた相模くんは、どちらかといえば目立たないタイプで、女子から陰気なやつだと疎ましがられていた。彼女たちに実害を加えられたこともあったのだろう。善樹はそのことを知っていたからこそ、先生に解決策はないかと相談しに行
ったのだ。

 開のようにどんなに明るい人間でも、他人からの明確な悪意に心が折れてしまうことだってある。善樹だって、自分はずっと正義だと思っていたのに、宗太郎に偽善者だと指摘されて、自分の過ちに気づいた。正義感は折れてしまったのだ。

「開がいじめられているとしたら、犯罪を犯していても不思議ではありません。単純に、いじめっ子に仕返しして暴力沙汰になってしまったとも考えられるし、他には例えば、いじめっ子から万引きを要求されて仕方なくやってしまった——なんてことも、あるでしょう。本人の意思ではなく犯罪を犯してしまった……開はそんな犯罪者だと考えました。以上で僕の発表は終わります」

 開が実際にどんな犯罪を犯してしまったかは正直分からない。
 でも、いじめという暗い闇に突き落とされた人間が犯罪を犯してしまうことは十分に考えられる。善樹はそこを突いたのだ。
 自分の主張は、みんなの心に——いや、今田の心にどう響いたのだろう。 
 恐る恐る審査員の視線を辿る。彼は基本、前二人の発表も無表情で聞いていたが、その時だけは口の端をわずかに持ち上げた。意味深な笑みに、善樹はごくりと息を飲み込む。