美都のことを考えながら部屋に戻ると、布団が一枚だけ敷かれていた。旅館のスタッフが敷いてくれたのだろうけれど、一人分しか敷かれていない。善樹は自分でもう一枚、布団を敷いた。その足でお風呂まで急ぐ。今日は色々と緊張で疲れてしまったので、早いところ寝てしまいたかった。
旅館のお風呂は文句なしに気持ちよかった。特に、一番の売りである「洞窟温泉」で身も心も温めることができた。風磨なんて、善樹がお風呂から出ようとしたら「もう上がるのかよ」と残念そうに文句を言ってくる始末だ。善樹は構わずお風呂から上がった。
「さて、今日の振り返りでもしますか」
「振り返り? そんなもんいるかよ」
ようやく部屋で一息つき、今日のディスカッションの要点をまとめたパンフレットのメモ欄を開いた時、風磨が面倒くさそうな声を上げた。
「そりゃするよ。何のために来たんだよ」
「言っただろ。美味い飯と最高の風呂に入れたらいいんだって」
「はいはい。分かった分かった。で、風磨は誰が怪しいと思う?」
「うーん、俺はあいつ、宗太郎」
「なんでそう思うんだ?」
「だって、ずっとニコニコしてて気持ち悪いし! 裏で何考えてるのか分かんねーじゃん」
容赦なく他人のことを「気持ち悪い」と言う風磨。だが。宗太郎が怪しいと思う気持ちは理解できなくもなかった。宗太郎はいつも、誰に対しても分け隔てなく平等に優しい。そういう人の方が、裏で何をやっているのか分かりづらいところがある。
「善樹はどうなんだよ。誰か見当はついたのか」
「僕は……正直まだ何も分からない。全員怪しく見える。自分史がヒントになるんだろうけど、やっぱり詳しく書いている人よりは、簡潔に書いてある人の方が、何かあるんじゃないかって疑うよね」
「ふーん。書かれていることより、“書かれていないこと”に注意ってわけか。探偵小説みたいだな」
「そんな大層なものじゃないよ」
善樹は、明日以降の議論でちゃんと自分なりの答えが出せるのか、ちょっと不安になった。正解は出さなくてもいい。でも、これまでの試験でどんな難題でも正解を導いてきた善樹にとっては、どうしても正解を当てたいと、躍起になっていた。
「とにかく俺は答えなんてどうでもいいし。もう寝る」
「お前……いつ何時でもブレないな」
「そこが俺のいいところだろ」
「はいはい。おやすみ」
風磨の自由奔放ぶりに呆れつつ、だが彼の言うとおり、善樹も早いところ身体を休めたかった。
明日の議論で何か展開があるかもしれない。今日はゆっくり寝よう。
午後十時には電気を落とし、すっかり夢の中へと入っていた。
二日目:八月二十一日 九時五十五分
翌朝、朝八時から九時の間に朝食会場で食事を済ませた善樹は、昨日と同じDグループのディスカッション部屋へと向かった。さあ、今日も議論が始まる。昨日は十分睡眠をとることができたので、身体はかなり回復した。頭も冴え渡っている。議論は今日までだから、この回で何か進展がありますように——と祈るような気持ちで部屋の扉を開けた。
「おはよう、みんな」
すでに着席していた美都と友里の顔を見て挨拶をした。二人ともよく眠れたのか、昨日より明るい表情をしているように見える。開と宗太郎も後からやってきて挨拶を交わす。最後に社員の今田が昨日と同じ席に座った。
「みなさんおはようございます。二日目、長い一日になりますが頑張ってください。まずは午前のディスカッションです。今から十二時まで、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
開の元気な挨拶に、全員がふふ、と笑った。そういえば、部屋に入るまではそばにいたはずの風磨がいない。またトイレに篭っているのか。まあいい。風磨は社員の今田からもとうに見放されているだろうし。優勝したいとも思ってないだろうから、善樹は構わず議論に参加することにした。
「善樹くん、今日は風磨くんは……?」
美都が小声で善樹に聞いた。善樹は首を横に振る。
「気分が悪いみたい。部屋で休んでるって」
「そう、なんだ」
咄嗟についた嘘を、美都は受け入れてくれたのかぎこちなく頷いた。
昨日の自分史を再度みんなでテーブルの上に広げる。今日の議論でも必要だろう。
「みんな、昨日は部屋で考えまとめてきた? 俺、全然分かんなくてさー気づいたらYouTubeずっと見てた」
おい、と思わずツッコみたくなることを開が笑いながら言う。こういうことをインターンの場で言えてしまう開はやっぱり大物だ。
「僕は考えましたよ。一番怪しいと思う人も、目星をつけてきました」
宗太郎の一言に、和やかだった空気に、突如緊張感が走る。
「それ……聞いてもいいですか?」
友里が宗太郎に先を促した。
「もちろん。僕が怪しいと思ったのは——善樹だ」
「……へ?」
宗太郎の優しいまなざしがすっと鋭く光り、善樹を見つめた。突然の名指しに、心臓の鼓動が分かりやすく速くなる。
「へえ、一条くんなんだ? なんでそう思ったの?」
開はこの展開を面白がっているのか、興味津々というふうに尋ねる。
「昨日、指摘させてもらったけど、善樹の自分史を見たら正義感が強いことが分かるよね。高校時代の善樹を知ってるから、僕も善樹の書いてることには納得できるんだけど、全面に押し出されすぎて逆に怪しいと思った。あと、弟の風磨の話がちょくちょく出てきてる。これって自分史に必要なのかな? 僕には、善樹が後ろめたいことを隠すために、あえて弟のことを持ち出しているように見える」
優しかったはずの宗太郎が、自分を犯罪者だと指摘する鬼へと変わっていく。善樹は唖然としたまま彼の主張を聞いていた。まさか、真っ先に自分が疑われることになろうとは。メンバーの中で、最も自分史の文量が多かったのは自分だ。疑われることはないと思っていた分、衝撃が大きかった。
「なるほどね。確かに弟について頻繁に書かれてることは、何かを隠したいって思ってるとも取れるけど、単に弟が好きなだけなんじゃない?」
意外にも善樹のことを擁護してくれる開。少しだけ心拍数が落ち着いた。
「それはそうかもしれないけど、僕は善樹が、弟の風磨に執着しすぎているように思える。風磨の素行の悪さについても言及しているよね。ほら、ここ。『夜に徘徊などをして生徒指導を受けたようだ』って書かれてる。友達に脅されて仕方なくやってしまったことも。もしかしたら、弟を守るためにその友人に怪我をさせてしまった——そういう暴力的な犯罪を働いているとしたら、納得できないかい? 善樹は正義感が強くて、悪者には絶対立ち向かおうとするよね。だったら僕の推論も、あり得なくはないと思うんだ」
宗太郎は善樹以外の全員の顔を見回した。
開と友里が意味深に頷く。美都だけは正面を向いたまま、頷くことも首を傾げることもしなかった。
「……宗太郎の言いたいことは分かるけど、証拠はどこにもないよね……?」
善樹の声は震えていた。ここぞという場面で踏ん張れる力はあると思っていたのだが、想定外の出来事に動揺してしまっている。
「そりゃ、証拠はないけど。それを言ったら、このディスカッション内で証拠を見つけるのは無理じゃないかな。警察にでも行かない限り。会社側だって、証拠を求めてるわけじゃない。いかに納得のある答えを導き出せるか。ですよね、今田さん?」
宗太郎が、ディスカッション中に初めて今田のことを呼んだ。今田は「はい」とも「いいえ」とも言わず、ただ黙って宗太郎の目を見つめ返している。社員が途中で議論に口出しをすることはない。初めに言われた通りだった。
宗太郎は「ほら」と勝ち誇った笑みを浮かべる。今田の目からすれば、今のところ宗太郎が優勢のように見えるだろう。なんとか、自分が犯罪者ではないと主張しなければ……。善樹は焦りで手に汗が滲んだ。
「あの、私も、林田くんの意見に賛成です。根拠は自分史と、みなさんの証言です。林田くんの言う通り、自分史でしきりに自分が正しいと思ったことを書いているのが、なんだか胡散臭いです。林田くんと長良さんは元々知り合いだったようですが、お二人からも正義感が強いというエピソードがありましたし。弟さんのことになると、頭に血が昇ってカッとなってしまう……そういう一面があってもおかしくありません」
友里までもが善樹のことを疑い始める。宗太郎の言い分を繰り返しているだけだが、四人中二人が同じ意見となると、自分の立場が危ういことは明らかだった。
くそ……。
善樹の中で、闘争心に火がついた。
このままでは自分が犯罪者だという結論に終わってしまう。明日の発表では四人とも今の二人の意見と同じ話をして、審査員を納得させてしまうかもしれない。事実、善樹は犯罪者ではない。ということはこの中に嘘をついている人がいるのだ。それなのに、自分が疑われている。善樹の中で、あまりにも由々しき事態であることは間違いない。
自分は小学校から大学まで、常に人として、真っ当な道を歩いてきたはずだ。
正しいと思ったことは曲げなかったし、間違ったことをしている人には堂々と意見してきた。いつの瞬間も、簡単なことじゃなかった。時に鬱陶しいやつと思われたり、面識のない人から罵声を浴びせられたり。けれど、善樹のしてきたことは間違っちゃいない。全部正しいはずなんだ——。
「俺は逆に、宗太郎くんが怪しいと思うけどなあ〜」
斜め前から声が上がった。開が、ニヒルな笑みを浮かべて宗太郎の方を見ている。
「僕のどこが怪しいんですか?」
「いやーほら、保育園時代のところに『女の子からよくモテた』って書いてある。そんなこと、企業のインターンシップで提出する自分史に書く必要あるのかな。しかも書いてるのは保育園時代だけ。でもさ、きみって、今もずっとモテるんじゃない? 顔も頭もいいでしょ。俺が女子だったら好きになっちゃうかも。……で、わざわざ保育園時代のところにだけ書いて、『◎』じゃなくて『△』だし。これってさ、つまりこういうことでしょ。『昔はモテたんだけど、まあそんなに嬉しくはなかったかなw』って言いたいんだろ。すごいプライドが高そうだって思ったんだけど」
挑戦的な開の台詞に、宗太郎の眉毛の端がぴくりと持ち上がる。
「プライドが高いことは、悪いことかい?」
「ふっ、そこに反応するんだ。いや、悪いことだとは思わない。でもプライドを守るために、ろくでもないことをするやつだっている
じゃないか」
「……たとえばどんな?」
「そうだな。たとえば大学受験の時に、カンニングをしちゃうとか。不合格は不名誉なことでしょ。それを阻止するためにやってしまうかもしれない」
「カンニングって犯罪なんですか?」
友里がすかさずつっこむ。
「そうだ。カンニングが犯罪かどうか、分からないじゃないか」
宗太郎の声がどんどん硬くなっていく。焦っている。先ほどまで窮地に立たされていたのは善樹であったはずなのに、形勢逆転とい
ったところか。
「……カンニングや替え玉受験は、偽計業務妨害罪に該当する可能性がある」
善樹は静かに、宗太郎の問いに対する答えを呟いた。開が「ほら」と得意げに言った。今、宗太郎・友里vs開・善樹という構図が出来上がっていた。ただ一人、美都だけが出方に迷って困惑の色を浮かべていた。
「みんな、そろそろ時間が」
白熱した議論を繰り広げているうちに、残り時間が十分に迫っていた。
「長良さん、きみはどう思うんだい?」
宗太郎の鋭い視線が美都の方へと向けられる。彼女の額から、一筋の汗が流れ落ちた。
「私……私は、まだ考えがまとまらなくて。でも、書かれてることより、“書かれていないこと”が気になってます」
書かれていないこと。
昨晩、善樹が考えていたことと同じことを美都が口にした。
誰しも、犯罪を犯したような過去があるならば、隠したいと思うだろう。たとえ今回の課題の内容を知らなくても、自分ならそうする。だからこそ、美都も善樹も「書かれていないこと」に注目したのだ。
「自分史には犯罪のことなんて、書きませんよね。それを示唆するようなことも、私だったら書かないかなって……。そう思うと、さっき皆さんが指摘していた林田くんや善——一条くんの自分史には犯罪者かもしれないって疑われそうな記述があるから、逆に違うのかなって思ってるんです」
美都の言葉に、全員がごくりと息をのんだのが分かる。自然と、テーブルの上に並んだ自分史に、目がいっていた。
「てことは、長良さんは俺と、坂梨さんが怪しいと思ってるわけ?」
開がずばり核心をつくようなことを聞いた。
「そこまでは言ってないけれど、今の話だけだと、そういうことになりますね」
そこで、十二時を告げるタイマーが鳴り響いた。今田がタイマーを止めに席を立ち上がる。ピッという小気味良い音を響かせて、タイマーは止まった。今田が善樹たちの方を振り返る。そして、美都の方を一瞥して一言、
「良い意見でしたよ」
と言って、部屋から去っていった。
今田が善樹たちの議論に対して何らかの意見を言ったのはそれが初めてで、善樹はしばらく呆然と今田が去っていった方を眺めた。
「今の、なんだったんでしょうね」
友里が首を傾げている。みんな同じ気持ちだ。
「口出ししないって言ってたのに、急に気が変わったのかな?」
「あれぐらいのコメントは口出しに入らないんじゃない?」
そうかもしれない。今のは、今田の気持ちが不意に漏れてしまった、と解釈するのが自然だろう。宗太郎や開ではなく、美都にだけ「良い意見」だと言ったのは気になるところではあるが。あまり深く考えても仕方ない。それよりお腹が空いた。善樹は他のメンバーと共に、食事会場へ向かうのだった。
***
「さて、全グループ休憩に入ったようだな。ここまでの経過報告だが——今田くん、何かあるかい?」
『温泉旅館はまや』の三階会議室で、人事部の長、岩崎優希が今田に問いかける。Dグループを担当していた今田は「はい」と立ち上がる。
「高学歴の学生が集まっているからか、なかなかに白熱した議論を繰り広げています。昨日から何か話が進むかと不安でしたが、今日、具体的に犯罪者だと思う人間を言い合う場面がありました」
「ほう、それはいいね。頭の良さは諸刃の剣でもあるからな。確かDグループには彼もいるんだったね?」
「はい、そうです。珍しい課題で混乱している様子ですが、前向きに議論していますよ。彼の表の一面が、少しずつ剥がれているような気がしますが」
「はは、そうか。それは逆にいいことじゃないか。この課題では、いかに人間の根っこの部分を引き摺り出すかが重要だからね。ちょっと心配だったけど、大丈夫そうだね。引き続き審査を頼むよ」
「承知しました」
優希は今田から他の人事部のメンバーへと視線を移す。それぞれのグループに経過報告をしてもらい、その場はお開きとなった。
今回のインターンは、参加する学生を選ぶのにかなり労力を費やしている。なんて言ったって、過去に犯罪を犯したことのある学生を六人も捕まえる必要があったのだから。だが、優秀な部下たちのおかげで、無事に学生たちを集めることができたと思っている。このインターンで必ず優秀な人材を獲得する。そのためにかけた時間とお金だった。
「さて、どうなるかな」
明日の議論が終われば、特別選考に進むことのできる優秀な学生が決まる。
優希はすでに楽しみで仕方がなかった。
***
二日目:八月二十一日 十三時二十七分
「午前のディスカッション、お疲れ様でした。さて、それでは午後の議論を始めます。皆さん、準備はいいですか?」
「はい」
宗太郎の返事に合わせて今田がタイマーを十六時にセットした。
昼休憩に入ってから、どこからともなく現れた風磨は食事だけ満喫した後、またどこかへふらりと行こうとしていた。善樹はそんな彼に声をかけて、なんとか議論の場に引き摺り込んだのだけれど。どうやら今回も発言する気はないらしい。傍観者気取りで鼻歌なんか歌っている。周りのメンバーも、風磨のことなどもう相手にしていない様子だった。
「さっきの議論の続きだけど、俺と一条くんは林田くんを疑っていて、林田くんと坂梨さんは俺を疑っている。長良さんは今のところ意見をまとめられてないけど、俺と坂梨さんを疑っている——それで間違ってない? 気が変わったやつとか、いる?」
開が午前中のみんなの意見をまとめる。善樹たちは全員頷いた。
「じゃあ、追加で意見がある人はどうぞ」
開の目が鋭く光った。
そのタイミングを見計らって、善樹は手を挙げる。
ここで挽回できなければ、宗太郎と友里から犯罪者と指摘され続けることになってしまう。それだけは、プライドが許さなかった。
「やっぱり僕は、宗太郎と坂梨さんの意見には納得できない。風磨を守るためなら暴行罪をはたらくかもしれないと言っていたけれど、犯罪は僕が今まで生きてきた中で、もっとも忌むべきものだ。宗太郎、きみは知ってるよね。僕がそんなことできる人間じゃないって。きみだって昨日、言ってくれたじゃないか。高校時代に不登校のクラスメイトを助けたいって思って動いたところとか、体育のペア決めで二人組が組めなかったきみと、三人で組んだこととか。僕の正義感を認めてくれたのは、宗太郎だろ」
そうだ。そもそも善樹に対して正義感が強いとか、高校時代の善樹の行動を褒めてくれたのは宗太郎だった。善樹は宗太郎のことを、仲の良い友達だと思っていたから、素直に嬉しかった。それなのに、一晩明けると彼が一瞬にして敵になってしまったような気がして。善樹にはそれが、悲しかったのだ。
宗太郎は善樹の意見を聞いた後、しばらくの間黙りこくった。
いつも、誰に対しても優しく微笑みながら受け答えをしていた宗太郎。
今朝のディスカッションで見た彼の表情は、善樹が知らない厳しいものだった。
今も、真剣なまなざしで一人、考えをまとめているように見える。知らず知らずのうちに、善樹の心臓はバクバクと激しく鳴っていた。
やがて宗太郎がふと口を開く。何か、反論の言葉が見つかったのか——そうかと思うと、彼は口の端を持ち上げて、クククと笑い出した。
「善樹、きみはおめでたい人だね。まさか僕が本当に、きみのことを正義感が強くて尊敬してると思ってる? それなら、とんだ間違いだよ。僕は嘘をついていた。僕は昔から、きみのことが大嫌いなんだ」
ピエロが観客を欺いて笑っているかのように、赤い舌が彼の開いた口からのぞいていた。
「……どういう意味?」
善樹の声は知らず知らずのうちに震えている。その場にいる誰もが、善樹と宗太郎の間で崩れゆく友情の欠片を目で追っているようだった。
「そのままの意味だよ。僕はずっと、クラスで一番になりたがるきみのことが嫌いだった。鬱陶しかった。成績だって僕とほとんど変わらないのに、クラスの人気をもぎ取るために正義感を振りかざす。でも、きみの正義感はどこまでも偽善的で。不登校だったクラスの子——相模くんだって、きみに助けてほしいなんて言わなかっただろ。僕は彼に直接聞いたんだ。『一条が余計なことをするから、また学校に行かなくちゃいけなくなった。それが嫌だから転校する』って」
「相模くんが? そんな、ありえない」
「ありえるんだよ。本人から聞いた話だからね。それに僕もさ、体育で三人組になろうって言われて、余計に屈辱的だった。二人組になれないだけでも恥ずかしいことだったのに、きみに手を差し伸べられた時——僕はその場から消えたくなった」
ギィン、ギィン、と金属音のような耳鳴りが聞こえる。善樹は思わず両手で耳を塞いだ。宗太郎の言葉が、固い石になって善樹の全身を打ち付ける。受け止めるにはあまりにも強烈な痛みを伴った。
「そんな……そんなこと」
「あるんだよ。きみはずっと気づかなかっただろう? 自分の正義の裏に、傷ついている人がいることを」
「正義の裏……」
善樹の中で、これまでの人生の映像が走馬灯のようにコマ送りで流れ出す。
保育園で、小学校で、中学校で、高校で。
自分はいつも、ひとりぼっちでいる子に声をかけて、友達になった。でも、他の友人から「あいつは陰キャだから、つるまないほうがいい」なんて大声で言われたことがある。善樹はそんな心無い台詞を無視してやったが、次の日からひとりぼっちでいた子は善樹から離れていった。
道端で転倒して倒れていたお婆さんを助けた時。彼女の持っていた買い物からこぼれ出た食品を、拾った人物がいた。その人は食品を手に取り、「これ、レジ通ってませんよね?」とお婆さんに問いかけた。お婆さんは驚愕して何も答えなかった。その後すぐに警察がやってきて、お婆さんは事情を聞かれる羽目になった。
アルバイト先のカフェで後輩がとある男の先輩から言い寄られていると相談をしてきた。善樹は後輩を助けようと、店長に報告をした。店長は全員に分かるように、相談内容を公開して男の先輩を指導した。男の先輩がすぐに辞めたのでこれでもう安心だとほっとしていたのも束の間、今度は相談をしてきた後輩も退職してしまった。どうして辞めてしまったのか、その時の善樹は想像しなかった。いや、想像することを避けていた。だって、もしかしたら自分が余計なことをしたせいで、後輩に嫌な思いをさせてしまったのかもしれないということを、自覚することになるから。
悪はいつか成敗される。正義こそがこの世界で最も大切なことだって、信じて疑わなかった。でも宗太郎の言う通り、自分がしたことで、何人もの人が傷ついていたのだ——……。
「ようやく気づいたの? ちょっと遅かったね。この年になるまで、無自覚に他人を傷つけてきたこと、きみは反省したほうがいい」
「……」
善樹は宗太郎に返す言葉もなかった。他のメンバーも、口を挟むことができずに俯いている。この中に一人犯罪者がいる。先ほどまで、善樹は自分が犯罪者だと指をさされることが嫌でたまらなかった。でも今は、自分の人生の軸だと思っていた信条を否定されたことで、魂が抜けたような状態に陥っていた。
「あの、二人には申し訳ないんだけど……今は一条くんのことばかり話してても進まないから、他のメンバーについても考えませんか?」
このいたたまれない状況に耐えかねたのか、友里がそう提案してくれた。善樹は否定も肯定もできず、ぼうっと宙を見つめる。
僕はこれまで、他人に自分の正義を押し付けてきた。
誰もそんなこと、望んでいないのに。
「そういう坂梨さん自身はどうなの? 自分史を見る限り、なんでも一番になることが生きる原動力って感じだよね」
宗太郎が、今度は友里に矛先を向けた。メガネの奥で、彼の眼光が鋭くなる。
「まあ、そうですね。別に隠すことでもないです。私、常に一番じゃないと気が済まないんです。悪いですか?」
挑発的な宗太郎の発言に、友里の方もきっぱりと答える。この二人が味方同士だと思っていたが、そうでもないらしい。今や全員が全員のことをどう出し抜こうか考えているようだった。
「悪くないよ。でもさ、たとえばテストで一位になれなかった時に、一位だった人を羨んで、嫌がらせをしてしまったとか、いくらでも考えられるよね。ちょっと怪我させてしまったり傷つけてしまったりして犯罪になることだってあるんだし」
平然と言ってのける宗太郎が、善樹にはもはや恐ろしい怪物のように見えてならなかった。
「そんなこと、するわけないです」
「いやーどうだか。ちなみに坂梨さんはどうしてこのインターンに参加したの?」
「それは、父親が公務員で……福祉事業に関わってて、影響を受けたからです」
「なるほどねえ」
へびのように目を細めて、友里のことを舐め回すように見る宗太郎は、すでに善樹が知っている宗太郎ではなかった。誰にでも優しくて、成績が良くて、女の子にモテる。彼の人物像が、ガタガタと音を立てて崩れ始めていた。
宗太郎のいやらしい反応に、ついに友里は嫌気が差してしまったのか、それ以上反論をしなかった。善樹と同じだ。宗太郎の手にかかれば、みんな戦意が喪失していく。彼は一体何者なのかと、善樹は課題とは別の方向へ思考がもっていかれていた。
「……あのさ、さっきから不快なんだけど」
突如、聞いたことのない低い声がして善樹はぎょっとした。宗太郎の演説中に黙りこくっていた開が口を開いたのだ。そうだ。これまでの議論は開が進めてきたのに、今回の議論でいきなり宗太郎が主導権を握り始めた。開にとっては面白くなかっただろう。
「なにか、文句でも?」
遠慮をなくした宗太郎が噛み付く。開の顔には見たことのない暗い翳ができていた。善樹はごくりと生唾を飲み込む。あれは誰だ? 本当にこれまで明るく自分たちを取りまとめてくれた人なのか?
「文句——とはちょっと違う。ただ不快なんだ。林田くん、きみ、ずっと誰かの人生にいちゃもんをつけたいだけじゃないのか? 他人が自分よりも劣っていると指摘して、他のメンバーに自分が一番偉いんだという意識を植え付ける。そういうやつ、絶対クラスに一人はいたよな。自分が一番強いと思っていて、弱い者をいじめるやつ。自分では犯罪に手を染めず、他人の手を汚そうとする姑息なやつが。……俺はそういう卑怯なやつが、一番キライなんだよ」
吐き捨てるように言い放つ開の表情が、暗い翳りを帯びていて、逆にそれが彼の本心をむきだしにしていると感じた。
「ふ、言いがかりはよしてくれ。妄想でそこまで話を膨らませるやつが一番面倒だ。開って学校でいじめられてたの? 自分が弱い者だったから、そんなふうに卑屈になるんでしょ。ああ、そうか。だから自分史にも学校での出来事はほとんど書かれていないんだね」
宗太郎は臆することなく反撃した。開はまだ何か言いたそうにしていたが、「なんだと……」と言いかけた自分の声が思った以上に震えていることに気づいたからか、悔しそうに唇を噛んで口を噤んだ。
「みなさん、やめてください」
不意に美都の悲痛な声が響いた。その声に弾かれたように、全員の表情がはっと驚きに変わる。
「……長良さん」
善樹は呼び慣れた彼女の名前を呟いた。彼女の瞳は湿っていて、泣いているのだと分かった。
「私は、誰のことも犯罪者だなんて思いたくありませんっ。この課題を遂行することを——私は辞退します」
衝撃的な宣言に、善樹の身体は凍りついたように動かなくなった。横目で今田の方を見やる。彼は、何も口を挟まない。辞退したいなら勝手にどうぞ、とでも言いたいのか。
「ちょっと待って、まだ時間はあるし——」
そう言いかけたところで、テーブルの上のタイマーが鳴り響いた。
午後四時を知らせるベルだった。
「はい、それでは午後の議論はここまでとします。お疲れ様でした」
何事もなかったかのようにタイマーを止めた今田が、淡々と終了を告げる。
先ほど辞退宣言をした美都はぎゅっと口を噤んで、先生に説教をされるのを待っている生徒のように見えた。
「長良さん」
今田が美都の名前を呼んだ。美都の肩がぴくりと跳ねる。
「辞退するのはきみの自由ですが、少なくとも私は、きみに期待をしています。もう一度よく考えてください」
「……」
それだけ言い残すと、彼は「それでは次は会社説明なので、大広間に移動してください」と事務的な連絡だけしてその場から去っていった。
「すごいな」
善樹はポロッと呟く。
自分たちの議論には干渉しないと思っていた社員が、美都に「期待している」と言った。午前の議論の時もそうだ。美都の発言を褒めていた。今田には美都が、この中で一番優秀な人材だと感じられるのだろうか。不用意な発言をしない彼女の思慮深さが刺さっているのかもしれない。
他のメンバーの顔を見渡す。宗太郎が悔しそうに顔を歪めているのが目に飛び込んできた。開と友里は憔悴しきった様子でぼうっとしている。
「なあ善樹、早く行こうぜ」
まったく議論に参加せずに傍観者を貫いていた風磨が元気な声で善樹に囁く。善樹は「はあ」とため息をついて、部屋を出た。こいつが一番の大物かもしれない。不毛な議論の後に思ったことは、善樹もあんな議論、もう二度としたくないということだった。
大広間に移動すると、他のグループのメンバーも疲れ切った様子で定位置に座っていた。最初に説明を受けた時と同じ並びだ。善樹たちDグループのメンバーも、縦一列に並ぶ。
四時十五分ごろになると全員が着席し、その場は静かになった。前方に、岩崎が現れる。昨日と同じようにプロジェクターが設置されていて、会場の明かりが落とされた。
「それでは今から、弊社RESTARTの会社説明を行います。適宜、見やすい位置に移動していただいて構いません。質問事項は最後にまとめて受け付けます。よろしくお願いします」
岩崎は毅然とした態度で、プロジェクターに映し出された概要を読み上げる。一枚目のスライドにはHPに載っているような会社概要が記載されていた。
「皆さんもご存知の通り、弊社は社会福祉事業サービスを主要事業として業績を伸ばしてきました。今、世間でも声高に叫ばれている高齢者問題、マイノリティ、LGBTQなどの皆さんが心地よく暮らすためのサービスを提供しています。皆さんがパッと思いつくものであれば、老人ホーム、介護施設なんかの運営が挙げられますが、それだけではありません。最近ではマイノリティやLGBTQの皆さんが、同じ悩みを持つ人々とマッチングできるサービスなんかも開発しておりまして、いわゆる彼らの恋愛をアシストするためのマッチングアプリはダウンロードが増えています。老人ホームや介護施設ではIT技術を使った見守りシステムや介護マシンを導入して介護職の人材不足を補っているところも、評価をいただいていますね」
流暢に会社説明を行う岩崎は、これまで何度も学生や他の企業に同じ話をしてきたのだとすぐに分かる。善樹も知っている内容ではあったが、こうして改めて岩崎の口からRESTARTの話を聞くと、創業八年で学生たちの間でも人気企業となったこの会社が、どれだけす
ごいのかを実感することができた。
「とまあ、会社説明はHPを見れば誰でも分かることでしょう。ここからは皆さんが気になっている、採用についてのお話です。まず、去年の採用実績ですが——新卒採用は五十名、中途採用は五名でした。意外と少ないと思った方も多いのではないでしょうか? 弊社では余剰人材を確保する方針はありません。本当に優秀な一部の人間にだけ入社いただき、その人たちには多額の給与をお支払いすることを約束します。と言っても、学生の皆さんにはピンと来ない話でしょう。参考までに、我が社の新卒採用の総合職の方は、初任給が三十五万——このうち基本給が三十万です。他の企業と比べると一目瞭然だと思います。業界ではトップクラスです。別途、住宅手当や通勤手当ももちろんつきます。結婚祝い金、出産祝い金などもありますし、賞与も年に二回。完全週休二日制です。初任給だけ高くて、その後増えないのでは? と疑問を抱いたそこのきみたち。入社五年目の先輩は、年収八百万を達成しています。どうでしょう。もちろん、管理職になれば容易く年収一千万は超えてしまいます。弊社は商社や不動産会社ではありませんよ。社会福祉事業サービスを提供する会社です。皆さんがこうしてインターンシップに来てくださったのは、皆さんの将来の安泰を確立するために、決して間違ってはいません」
岩崎が給料の話を始めた途端、その場の熱気がぶわりと湧き上がり、全員が全身で話を聞き始めたのが分かった。やはり、学生にとって給料は気になるポイントの一つだ。就活生の中には、「初任給ランキング」「年収ランキング」を見て採用応募にエントリーする人だっているくらいだ。もちろん、善樹はやりがい重視だが、RESTARTの給料の高さには驚かされた。
「ザワついていますね。業界では類を見ない高待遇であることは、私が保証します。次に、新卒生のポジションについてですね。これも、皆さん気になる要素の一つだと思います」
スライドが「報酬」から「職種」に切り替わる。その瞬間を、善樹は固唾をのんで見守っていた。
「来年四月に入社をされた方はまず、営業職に所属してもらいます。弊社ではノルマはありませんが、頑張れば頑張るほど——つまり、業績を上げれば上げるほど、追加で報酬が支払われます。インセンティブのことですね。基本給は確約した上で、自らの手で稼ぎを増やすことができます。この点も、従業員のモチベーションにつながっています。
最初は営業職で頑張っていただきますが、一年ごとに上司との面談で、希望があれば他の部署に移ることも可能です。もちろん、必ず希望が通るとは限りませんが、会社が一方的に本人が望まない部署に異動させることはありません。従業員には常に気持ち良い状態で働いてほしいというのが、我が社の人事制度の特徴ですね。だから、離職率も低く、毎年十パーセント以下に止まっています」
学生たちはもう、岩崎の話に釘付けだった。どこか教祖的な雰囲気を醸し出す岩崎の言葉の一つ一つに、食らいつくようにして話を
聞いている。暑い。室内の熱気がどんどん膨らんで、冷房が追いついていないように感じられた。