瀀がいない二学期がはじまって、もうずいぶん経つ。だけど、文化祭や体育祭が終わって、受験一色の日々になっても、巧は週二回は瀀の自宅に向かう習慣を変えなかった。家が真っ暗ならそのまま退散するが、ときどきチャイムを鳴らすようにしている。
 びー! と大きな音が鳴るのに、あたりはしんとしていた。きょうも空ぶり、とちょっと気落ちして、だけど最初からわかっていた。ただ、近隣住民と思しきひとの情報である「家の中がそのまま」というほんとうか嘘かわからない噂に、万が一の期待を持っているだけで。
 ――連絡、ないんすよねえ……。
 豆柴が、半分笑って半分諦めたように巧に言った。
 ――ま、そのうちひょっこり現れそうな気もしますけどねー。
 オオカミは、あっけらかんとしていた。今生の別れにはならないだろうというのんびりさのおかげで、却って気楽にかまえられた。
 ――パイセンにはそのうち会いに来るんじゃないの? 知らんけど。
 からかわれているのか本気なのかわからないやり取りに、とりあえず「どうだろなー」と流しておいた。巧もそうだと、思っていたかった。
 彼らが瀀の家庭の事情の詳細を知っているかは聞いたことがないし、この先聞くこともない。だけど、どんな環境にいたって待っている友人がいると瀀に伝えたかった。今、神戸のどこにいるかわからない瀀に。
 暑い季節が終わり、涼しくなって、本格的に寒くなり、推薦入試の合格発表を待つだけになると、ひんぱんに瀀の自宅に通った。家の周りの庭と呼べるかわからない敷地は雑草だらけで荒れていたが、寒さのせいか緑は枯れていた。まったく整えられていない敷地内を見ると、瀀が帰って来ているようすはなさそうだった。進捗はよろしくなく、来る日も来る日もばつ印をつけたくなる。
 この日も駅から瀀の自宅に向かう途中、空をあおいで息を吐く。白い靄が、のんびりと宙を舞った。冬の空はきりりと引きしまっていて、星が明るく見える。人間が恒星みたいに自分の力で輝けたら、どこからだって「ここにいるよ」とわかるのに。
 冷えた鼻先を、マフラーの中にうずめる。空気まできんきんに硬くて、いっそう虚しさが染み入った。足取りが重くなり、歩みが遅くなる。きょうもいなかったら、あしたもいなかったら、あさっても、しあさっても、その次の日も。瀀の自宅まで残り数十メートルというところなのに、もうこのまま、と思うと自然と瞼が下がっていく。ふー、と心を落ち着かせるように呼吸を整え、落としていた瞼を起こした。
 巧はぴたりと立ち止まり、目を凝らした。眇めるようにじっと、とつぜん現れた黒いひと影を見つめる。浅野宅付近から、さっとだれかが飛び出したかと思うと、背を向けて逃げ出すように小走りしたのだ。 瀀? と瞬時に浮かび、あり得ないほど心拍数が跳ね上がった。だけど動きが不審といえば不審で、もしもイソウラだったらと不安になる。巧が逡巡している間に、どんどん影が離れていく。
 でも、だけど、を繰り返し、巧はとっさに制服のポケットに手を突っ込んだ。まるくてつるんとしたちゃちなおもちゃ。それを取り出し、ええいもう知らん! と思い切って紐を引っ張る。
 ふつうに機能を果たした防犯ブザーは、こっちがびっくりするほど大きな音を立てた。近隣住民のかたすんません、と心のうちで謝罪しつつ、だけどほんとうに不審者だったらお手柄。まちがいだったら平謝り。いちかばちか勝負をかけた。巧は黒い影の方向に足を進めると、そいつは立ち止まり、ふり返る。あ、と思っていたら、影のほうから巧と距離を詰めてきて、正体がはっきりわかるほど近づく。
 その姿が本物だと確信した瞬間、足の力が抜けてその場にへたり込んだ。アスファルトの冷たさが太腿に伝うと、あれから何日ここに通い続けて季節が巡ったか思い知らされる。
「あんた、使いかたちがうだろ」
 瀀も巧の前にしゃがみ、防犯ブザーを止めた。
「だっておまえ……」
「うん」
「なんかあったら鳴らしてっつったじゃん。すぐ行くって」
 離れた場所に住んでいても、勘でも、瀀はここに来た。
「ほんとうに、瀀が来た」
 瀀がいた。
 たまらなくなって瀀の腕をしっかりつかむと、そのまま立ち上がらせられた。巧の手を取った瀀に無言で引っ張られ、自宅の敷地内に入り、裏手まで連れていかれる。はじめて足を踏み入れる場所だったので巧はたじろぎ、その上真っ暗で瀀の顔が見えない。ひとを散々待たせたくせに、木の柵に囲まれた薄ら寒い不気味なところに連れ込むなんて、ひと言もふた言も文句を言ってやらなきゃ気がすまない。
 睨んでやるつもりで瀀を見ると、交わる視線がちょっとちがう。視線が少し高くて、たった数ヶ月会わなかっただけで身長が伸びていたことに驚かされた。また消えてしまったらととっさに浮かび、つかまれていない左手を伸ばす。すると、そっちもつかまれた。
「ゆ……」
 瀀、と呼ぶ前に口をふさがれた。キスされてる、と気づくまでに数秒かかり、手首が痛いことに気づくのもそのまた数秒かかった。離してほしくて手をよじっても瀀の力はそのままで、一瞬ちくりと頭痛がする。巧はもっと強く手をよじるが、瀀の舌が巧の唇を割り入り、舌同士が交わると抵抗できなくなった。生あたたかさとやわらかさが気持ちよく、鼻と唇の隙間から抜ける自分の息が甘ったるく聞こえ、とたんにいたたまれなくなる。
 びくともしない力に抗いようがない。これが瀀で、瀀だから、こわくもないしいやでもなかった。抵抗したいんじゃない、逃げたいんじゃない、だから早く、手を自由にしてほしい。
 この手で、瀀を抱きしめられないことがいやだった。
 ゆっくり唇を離されると、巧の手も自由になった。手首がじわっと熱くなり、血が通う感覚は一瞬の麻痺に似ていて、腕を下ろしたまま手のひらを開いたり握ったりする。瀀はじっと沈黙し、怒られるとわかって図星を差される前の子どもみたいに、むっすりしていた。
「瀀」
「ごめん、キスした。ごめん、あと出しジャンケンみたいだけど」
「まあ、先に『キスします』って宣言されても困る感はあるな」
「こわかった?」
「瀀、あのさ」
 瀀は気まずそうに巧を見た。
「オレ、こわかったらちゃんと言う。いやでも言う。だけどそれ、瀀に言うんだよ。イソウラじゃなくて、おまえに言う。瀀はもうだれにもなにも奪われないし、だれのものも奪わない。奪えないんだよ、おまえも、イソウラだって、だれのものも奪えない。瀀はあいつとはべつべつの人間だし、同じじゃない。似ててもそれは、似てるだけで一緒じゃない。だからオレから逃げんなよ、頼むから」
 ちゃんと瀀を抱きしめさせてよ。
 そう言って、巧はようやく瀀を抱きしめた。瀀も巧の背に手を回し、強く力を込める。瀀の指先から、ためらいも、喜びも、動揺も、欲求も、さまざまな感情が混ざり合って伝わってきた。たとえ制服越しでも、触れ合うってすごい。お互いに触れたいという欲望が重なる瞬間は、ときには言葉よりずっと雄弁だ。
「急にいなくなってごめん」
「ほんとだよ」
 じっとお互いの言葉を待つように黙るが、先に口火を切ったのは瀀だった。
「あのあと、昔世話になった弁護士さんに相談して、とりあえず叔母さんがいる神戸に行くことになってさ。だけどこういう状況だし、詳しい行き先はだれにも言わなかった」
「うん」
 受験勉強をしながら、巧も調べたことがある。瀀にまつわるさまざまなこと。目を背けたくなることも、腹が立つことも、文字で記されないことも、きれいにまとめられた文章以外に、他人に押し測れないものが関係者には残ることも。どこまでもついてくるあの事件は、だれの心の中には残らなくても、瀀の中にはずっと存在するのだろう。
「でも俺はそのうちこっちに帰ってきたいし、ばあちゃんの仏壇もあるしね、たまに掃除しに戻ってる」
「そっか」
 瀀は巧から体を離し、「さて」とひと息つく。
「ごめんな、時間やべえから行くわ」
「え? もう?」
 いやだ。と瀀のマウンテンパーカーを握って引き止める。
「美以子さん、あー叔母さん待たせてんの。あっちのコインパーキング停めてんだよね」
「車で来てんの?」
「うん。ひさびさにこっち来たいって美以子さんは楽しんでたみたいだけど、たぶん今ごろ車ん中で文句言ってんなー、あのひと」
 はは、と笑った顔は、いつか見た子どもの瀀の面影がある、巧が大好きな笑顔だった。また会えなくなる、急にその事実が喉もとに襲いかかった瞬間、巧は瀀の襟を引っ張り、自分から口づけた。二度目のキスの味が、巧に猛烈な寂しさを教えてくれる。
 ずっと会えなかったやるせない数ヶ月より、一瞬でも会って触れ合ったあとのほうが、だんぜん寂しいのはどうしてだろう。瀀の皮膚と粘膜の温度と感触が、遠くなるのがとてつもなく苦しい。
 瀀から体を離すと巧は鞄からノートを出し、暗がりの中で目を凝らしながら文字を綴る。
「おまえ、今の高校の制服ってブレザー?」
「いや、学ラン」
「へえ、よかったじゃん。オレに会うためにわざわざ苦手なネクタイ結ぶ制服の高校選んだんだもんな」
 瀀はわかりやすく動揺して、そのあとおもむろに舌を打った。
「くっそ最悪……」
 してやった気分で巧はくつくつ笑い、ノートをちぎると瀀の胸もとに押しつける。
「ほれ」
「なにこれ」
「オレんちの住所と電話番号。スマホなくて電話無理なら手紙書け」
「は? 無理」
「即答かよ、無理じゃねえよやるんだよ」
 瀀の胸ぐらをつかんですごむと、彼は一拍押し黙り、深く息をついて、観念したらしい。
「へーへーわかりました。あんま期待されても困るけど」
「いいか? おまえはここにいるんだよ、あしたも」
 瀀は幽霊なんかじゃない。ここにいる。
 はにかんだ瀀は巧が渡した紙を手にし、今度こそ「またね」とひと言告げて行ってしまった。
 ここにいるって「ここ」はどこなんだろう。ずっと考えている。瀀は巧の傍にいないのに。だけど、瀀はここにいるって、今なら疑いようがなかった。

 コウちゃん
 元気ですか? 俺はぼちぼちやってます。書けと言われた手紙が、結局今になってごめんね。
 とりあえず、コウちゃんの卒業式の日に、そっちに数日帰ろうと思ってます。おめでとうはそのとき言わせてください。
 手紙なので、口には出せない秘密をひとつ明かします。俺が塩むすびを握る理由は、コウちゃんです。あの公園で、コウちゃんがくれたおにぎりがほんとうにおいしかったから。俺はなにも具を入れてないけど。
 あの日、俺に話しかけてくれてありがとう。ちゃんとここにいるよ。だからコウちゃんも、ここにいてください。
 では、てきとうな時間を見計らって、あの公園で待っています。
 またね。
 浅野瀀

 卒業証書を片手に、巧は公園まで走る。呼吸が早まり、心拍数も上がる。は、は、という息づかいが、自分の耳に響く。胸が逸り、足が宙をかくようにおぼつかない。ひさびさに来た公園は、以前と変わらずバスケットゴールがあり、ベンチがふたつ並んでいた。
そこに、ひょろっとして小さいとはとても言えない、だけどおとなにも満たない少年が、ひとりでベンチに座っている。
 巧は彼に駆け寄り、名前を呼ぶ。
 ふり向いた少年は、巧を待ち侘びていたように笑った。