自宅と夏期講習と塾の往復の日々は、ひどく味けない。白米だけを延々と食べ続けているように目新しさのない毎日だった。せめて塩むすび、と思うのに、あれを握ってくれるひとはここにいない。
 おかげで模試の成績は上がり、塾講師からも両親からも喜ばれ、受験生ってこんなもんなのかもな、と納得してしまう気持ちも少なからずあった。
「綾瀬さー、修行僧みたいになってねえ?」
 夏休み後半の夏期講習後に立ち寄ったマックで、丹羽はマックシェイクを片手にそう言った。
「修行僧とは」
 巧はガムシロップもミルクもぜんぶ入れたアイスコーヒーを飲み、ポテトをもさもさ口にする。マックのポテトは、おいしいのか微妙なのか、その微妙なところがきらいじゃなかった。かりかりの部分よりもふやけているほうが好きだし、かといって冷えてしまえばふやふやのところはそうでもない。にもかかわらず、Lサイズを頼んでしまうあたり。
 こういう定番の、変わらないものってやっぱりどこにでも存在する。不変であればあるほど、説得力があるのだ。例、親子。
「最近めっちゃ勉強してるじゃん、暇か?」
「受験生は勉強するもんだろ」
「まあ、おまえもかまう相手がいなくなっちゃったもんなあ」
 シェイクがほどよく溶けてきたのか、丹羽はいっきにずぞぞ、とストローを吸う。
「かまう相手ってだれだよ」
 ふん、と鼻で笑った。なにも知らないくせに、と各方面に当てこすりたい気持ちになる。たとえばこのポテト相手にとか。
「だって浅野転校するじゃん。だからおまえも遊び相手がいなくなって修行僧になってんだろ?」
「は?」
 てんこう? と言葉がひらがなで浮かび、反応できなかった。
「あれ? おまえ聞いてねえの?」
 丹羽のほうがびっくりしたのか目をぱちくりとして、巧をまじまじと見つめる。
「浅野、転校すんだって。てか、した? のかな?」
そこでようやく、「てんこう」が「転校」だとわかり、頭のてっぺんから血の気が引いたように冷えた。次第に、目の前が転々と、黒だか白だかに彩られてぼやけていく。何度目をまばたかせても治らず、頭が働かない。
「なんで……」
 なんで、瀀、なんで。そればかりが脳を埋め尽くしていく。
「オレもたまたま知ったんだって。夏期講習の帰りに職員室の前通ったら浅野がいて……」
 丹羽が話し終えたあと、巧はよろよろと席を立ち、店を出ると電車に乗っていた。平日昼間の混雑した車内で立ちっぱなしの三十分を耐え抜き、瀀の自宅の最寄り駅につくといつもと同じように静かだった。
 嘘だ。
 巧は足を動かし、最近は通っていない道を歩く。みぃーんみんみんみん、今年も蝉はやかましく、鳴き声だけで夏を味わっている気配がある。
 嘘だ。
 このあたりはなんとなく雑草が多いようで、空気の中に青くささがじゅう満していた。歩くたびに、もわっとした蒸し暑さが立ち込める。
 嘘だ。
 瀀の自宅につき、チャイムを鳴らした。家の中にいればだれでも気づきそうな大きな音に、数秒待った。応答はなく、ふたたび鳴らす。数秒後に、もう一度鳴らす。四度目を鳴らす。わん! と犬の鳴き声がしてふり向く。中年の女性が柴犬の散歩中だったようで、巧と目が合った。
「浅野さん、先週引っ越されましたよ。家の中はまだそのままみたいですけど」
 ザ・定番の台詞を聞き、不変がここにも存在していたと知った。「そうですか」と巧は答え、あまりの暑さに耐えきれずしゃがみ込んだ。目の前が、やっぱりちかちかした。
 嘘だ。
 ――母ちゃんの仕事の関係で神戸行くっつってたよ? 叔母さん? の店を手伝うとかなんとか。寂しいじゃんーって言ったらさー、「俺もです」っていつものあの感じでさらっと笑ってんの。あーこいつあっちでももてるんだろうなーって思っちゃったよ。
 嘘だ!
 しゃがんだままでいたら、巧の目に映るコンクリートが、ぐにゃんとゆがんだ。暑さのせいか、顎から粒がぽとんとこぼれる。たとえ熱中症になっても、ここで座っていても、もう瀀は巧に声をかけない。ここにはもう、いない。あしたも、あさっても。
 いつものあの感じってなんだよ、と思った。その感じを、きっと巧は知らない。瀀のその表情を、巧だけはきっと知らない。見たことがあるとしたら、似ている顔でちがう、似たような笑顔をするおとなのひと。自分と他人を取り繕うための。
 だったら瀀は、やっぱりイソウラとはちがう人間なんだよ。
 巧は立ち上がり、スマホを取り出す。ラインから電話をかけるとすぐに出た。わん! とは聞こえず、「もしもし」だった。
「よう、豆柴」
『……ってだれのことすか?』
「おまえだよ小野寺」
『え? オレそんなかわいいっすかね』
「それはそれとして、瀀って、まじで引っ越したの?」
『それはそれって……、え? つか先輩知らなかったんすか⁉︎』
 丹羽と同じ反応が返ってきて、もはや苦笑するしかない。おそらく瀀の友人関係には、全員そう思われているらしかった。小野寺は若干言いわけ気味に巧に事情を説明するのだが、丹羽から聞いたこととほぼ同じだった。
「瀀の新しい住所わかる? 返したいもんがあるから送りたいんだよね」
 たずねると、通話口が数秒、しんとする。「豆?」と呼ぶと、鼻から息を吸う呼吸音がする。
『オレらも、詳しい場所は知らないんっすよ。急にごめんなってそんだけで……』
「え……?」
『オレも朔も、そんなんあるかよってムカついたし、でも、家庭のジジョーって言われたらどうしようもないじゃないすか』
 小野寺は喉からひり出すようなかさついた声で、この状況に打つ手がないと、その声音と口調が物語っていた。「そっか」と巧が言うと、「うす」とだけ返される。しばし、お互いに黙った。
 そんなこと、ほんとうにあるんだ、とぼうぜんと立ち尽くす。
『そういや先輩、去年平浜高の近く歩いてませんでした?』
 その名を聞き、顔をしかめる。あまり思い出したくない名前だったので、今度はざかざかと足音を鳴らしながら歩き出した。
「知らねえけど歩いてたんじゃねえ? 合同練習とか練習試合とかあったし」
『今思えばなんすけど、あのときすれちがったの先輩なんじゃねーかなー』
 巧はぴたりと足を止め、「え?」と問う。すっとんきょうな声になって、唾を飲んだ。
『あの近くで、三人でコロッケ買った帰りだったんすけど、先輩がよく持ってるドラムバッグ、あれ肩にかけた藤南の制服着たひととぶつかったんです。お互いさーせんって感じで終わったんすけど、瀀がずっと見てたんすよね』
「へえ……」
 覚えてねえよ、と本人を前に言いたかった。瀀に、直接。
『あの制服どこ? って聞かれたから藤南じゃねー? なんつってたら急にそこ受験するって言い出したからオレらびっくりしたんすよ。瀀頭いいから、推薦蹴って』
「……へえ」
 蝉が鳴いていた。駅はもうすぐそこだった。とき折り、立ち止まる巧を知らないひとが通りすぎた。空を見上げたら、ソーダバーが食べたくなる清々しい青だった。瀀とはじめて会った日と、同じような青空。
『藤南ならオレらもギリいけんじゃね? って瀀に教わりながら受験勉強して、あんなに必死こいて勉強したのはじめてだったなー』
「……そっか」
 ネクタイが苦手なくせに藤南を選んだらしい。瀀が成績優秀だったのも巧は知らなかった。触れたくない部分にたくさん関わってきたし、お互いにしか見せない顔も知っているのに、簡単な自己紹介すらできていないような希薄さが、ふしぎだった。
『幼馴染のきみに会いたかったんすねー』
「さあ、どうだろな」
 真相は、瀀にしかわからない。そいつはもう、ここにいない。
 巧が先に置いていった夏休み。次は置いていかれた夏休み。夏休みがもうすぐ終わる。