ドトールに向かう途中、パトカーのサイレンが聞こえて立ち止まる。だけどこのあたりは赤色灯がしょっちゅう道路をゆき交っているし、今回にかぎったことじゃない。
いらっしゃいませー、と店のスタッフから明るく出むかえられ、どことなくきまりが悪くなる。いろんなことがいっきにはじまって、猛スピードですぎ去ったあとのように、体がどっと疲れていた。店の中は外の蒸し暑さがつゆほどなく快適で、さっきのできごとを知っているひとたちはいるのだろうかと気になった。あの時間ごと消去された気がしてならない。
スタッフも客も黙々と自分のことだけに集中していた。接客に、仕事に、おしゃべりに、読書に。巧が素知らぬ顔でアイスカフェオレをオーダーしても、「少々お待ちください」の挨拶に会釈を返しても、心のうちまではだれも探ることができない。
アイスカフェオレを差し出したスタッフのひと差し指に、絆創膏が貼られていた。切り傷か、擦り傷か、あるいは軽い火傷か、わからないけれど、巧はこのひとの事情を知らないのだ。この店内にいる、だれの事情も。
窓際の席につき、スマホを見る。瀀はスマホを持っていないので、連絡の取りようがないのがじれったかった。しかたなく母親にラインを送る。遅くなる。メシいらない。親不孝だなあ、と自分ごとなのにひとごとみたいだった。
窓から道路を見下ろした。さっきと変わらず車は動いているし、大勢のひとが歩いている。目にまぶしいべっこう飴のようなライトが、夜の中で映えていた。
瀀は、どうしているだろう。一時間と時間を区切られたが、もう三十分以上すぎていた。喉が渇き、とっくに飲み切ったカフェオレだけじゃまったく足りず、グラスに水を入れて飲み干す。
店のドアが開くたび、瀀じゃないかと顔を上げた。スマホが鳴り、とっさに手に取った。瀀はスマホを持っていないのに。
「もっと早く連絡しなさいよ!」と怒ったスタンプと一緒に送られてきた母親のラインにため息を吐き、結局無視した。テーブルに突っ伏し、額をこすりつけるとやんわり冷えている。だけどすぐにぬくもってしまって、すべてが中途半端な気がした。
「いらっしゃいませー」というスタッフの声に、巧はがばっと顔を上げる。急いできたと一見してすぐにわかるほど肩で息をする瀀が、席をきょろきょろ見渡していた。瀀、と声を出す前に立ち上がると、彼は気づいたのか巧に手を上げた。オーダーした商品を受け取ってこちらにくる。真っ黒の液体が、氷と一緒にゆらゆら揺れていた。
「ごめん、遅くなった」
巧は首をぶんぶんふった。瀀はどこも怪我をしていないし、汚れてもいなくて安心した。
「それと、きょうはほんとうにごめん」
瀀の切実で引きしまった声音に、巧はもっと強く首を横にふる。悪いのは、瀀じゃない。謝られたとたん、簡単に騙された自分が恥ずかしくなりうつむく。騙されたのではなく、イソウラの見た目と雰囲気に、疑わなかったのだ。巧自身が。
そして、巧の正義感という暴力が、瀀を傷つけた。
「あいつはああいうやつだから、あんたのせいじゃない」
巧の羞恥を見破ったかのような答えに、もっと気まずくなって沈黙する。なかなか顔が上げられない。
「ほんとうは、少し前から予感はあった。だけど柴田のこともあったし、勘がはずれたのかもしれないって俺も気ぃ抜いてた」
ごめん。と瀀は三たび謝罪する。ひとりごとみたいに、彼は淡々としゃべっていた。
「父親には俺らに接近禁止令が出てるから、だからあんたのこと使ったんだと思う。あいつアル中だからさ、出所後にそういう施設に入ってんだけど、たぶん無許可で外出してどっかで飲んでんだろね」
「アル中って……」
巧からしたら顔をしかめたくなるほど重いワードなのに、瀀はけろりとしている。その気軽さがよけいに、あれが通常運転だったのだと知らしめられて歯を食いしばった。
そのとき巧は顔を上げ、そういえば、とふと思い出した。
「におい……」
イソウラに大通りから誘導された際、そのときはわからなかったけれど、つんとした不快なにおいがしたのだ。
「ああ、あんたも気づいた? 俺もさ、あいつにわざわざ詰め寄って確認したけど、ありゃだめだな」
「は? え? あれってひょっとしてわざとかよ」
まさかあれが演技? 嘘だ。と思ったと同時に、巧は口をつぐむ。ついさっき、瀀の父親だって似たようなことをした。
「まあ、あんたに手ぇ出されたのがムカついたのもあったけど、アル中ってまじで治んないね。あんなもん病気じゃねえよ、ただの悪癖」
ずずず、と瀀はアイスコーヒーをストローですする。ミルクもシロップも使わず、ただ喉を潤わすためのような飲みかたに、最初の文言がよけいにばつが悪くなる。おそらくあれが瀀の精一杯のたしなめなのだと思うと、頭をかきむしりたくなった。それに対して父親には突き放すでも、感情的でもなく、ただ語るだけ。同情はもちろん、激情も、なにもない。
「とにかくもう、あんたは心配しないで。施設にも連絡したし、警察とも連携取ってるから」
瀀はアイスコーヒーをすべて飲み干すと、「帰ろう」とひと言言って立ち上がった。巧もそれに続き、店を出る。無言で駅に向かう道すがら、さっさと足を進ませる瀀のあとを巧は歩く。
「ごめん、歩くの早かった?」
「いや、大丈夫」
どうしてそんなに優しくするのだろう。巧は瀀に、責め立てられても詰られてもおかしくないことをした。過去の傷を、だれでもなく巧がえぐったのに。瀀の背中が遠い。巧はひとの波をかき分け、光の隙間を泳ぐだけで精いっぱいだった。瀀はふり向き、「家まで送る」と言った。ひとりで帰れる、と返したかったのに、答えられなかった。
巧の自宅につく直前まで、ほぼ会話はなかった。瀀はふと、近くの小さな公園に入る。巧もついていくと、彼はブランコに座った。子どもが遊べそうなすべり台やジャングルジムがあるくらいで、とうぜんバスケットゴールはない。瀀の隣のブランコに腰を下ろすと、きい、とかん高い音が際立つ。
夏の夜の公園は、ふだんより音も響くし、昼間の喧騒とはにおいがちがう。ひとの気配がなく、植物の息づかいだけがただよっていた。
「きょうは、ほんとうにごめん」
また瀀に謝られた。こう何度も謝られると、はっきりといやだ。過失ゼロの相手からの謝罪は、否応なく巧を無関係だと示してくるみたいで。まるで、この謝罪でふたりの関係そのものをなかったことにしてくださいと願われているようだった。
「なんでだよ、瀀が悪いわけじゃねえじゃん。悪かったのはオレだよ。ごめん」
だから、これでチャラにしてほしい。喧嘩両成敗ではないけれど、その原理で、もういいじゃないか。
ずっと、いやな予感が胸にある。ざわざわする。早くそれを、だれよりも瀀にどうにかしてほしい。
「ちがうよ」
瀀は静かに視線を下げ、ほほ笑んだ。足を動かしたからか、じゃりじゃり砂が動く。
「もう俺に、関わんないほうがいいよ」
予感めいた言いようのないものの答えを、はっきり告げられた気がした。瀀と再会した最初のころの冗談染みた、なるべく近寄らないで、という曖昧さはなく、はっきりとした拒絶。
「なんで。オレ何回もいやだっつってんじゃん」
どうあっても抵抗したいのに、瀀はかすかな笑みをこぼしたまま、ゆっくり首をふる。
「高校入学したとき、コウちゃんのこと見てるだけでじゅうぶんって思ってだけど、調子に乗っちゃったんだろなー」
瀀は、巧の話など聞いていないように、自分のことなのにひとごとの口調で、暗いの空をあおぎ見る。巧も同じように見上げると、星がまたたいていた。何年も前に送られた信号、やっと届いた光。
「俺さ、やりたいんだよね」
急に話が変わったように感じ、「なにを?」と瀀にたずねた。
「セックス、したいんだよ。コウちゃんと」
とうとつな発言に、巧が腰かけるブランコが、ぎぎぎ、ときしむ。自分の意思関係なく脈が跳ね上がった。
「いやがられたらやめよう、とか、だけど止めらんなかったらどうしようって考えるんだけど、いやがられてもたぶん、乱暴にやるよ、俺」
瀀は顔を上げ、巧だけを見つめた。目は口ほどにものを言うのか、黒々とした瞳が嘘をついているようには思えなかった。でも、じゃあ、これが嘘だったら。瀀の父親がしたように、巧を欺いていたとしたら。
「あの父親さ、これまで何度も『もう酒はやめる、瀀ごめん』って謝ってた。あんたもわかるだろ、あの感じで縋ってくんの」
身につまされる話で、巧はぐっと息を呑む。
「だけどそのたび裏切られて、母親は『病気だから』って言った。あいつの病院代稼いでんのか酒代稼いでんのか、ほかの男と遊んでたのか知らんけど、あのひとずっと働いてた。そんとき俺、病気って無敵かよって思ったんだよね。病気だったら暴力オッケーなんだって。そんなわけねえだろ、俺が痛いのもあいつが病気だから我慢すんのかよって。一応抵抗するんだけど、だんだん思考停止すんの、俺が我慢すりゃいいやって」
瀀はこれまで何度、期待して、だけど裏切られて、期待した自分に苛立って、何度二重にも三重にも傷ついてきたんだろう。その結果が考えるのをやめることなら、巧がなにを伝えても、行動しても、太刀打ちできないんじゃないか。
「そんときコウちゃんに会って、そのときからずっと、たぶんだけど、あんたとやりたかったと思う」
ぎょっと体ごと揺れ、またブランコが鳴る。
「この先、もしそういう流れになって、あんたが受け入れてくれたとして、だけどフラッシュバックが起きたり、コウちゃんの頭の中で俺の父親が出てきたらって考えてて」
さっきから、どう答えたらいいのかわからなかった。例題がたくさん出題されて、ひとつただしいものにまるをしないと落ちますよ、と急かされるのに、解答欄が真っ白の状態。
「あいつと似た顔の俺とそういうことして、そのたびにあんたの頭に父親の顔がチラついたら、それはいやだなって」
瀀はずっと、感情をどこかに置きっぱなしにしたような口調だった。心を的確に言語化し、成熟したおとなが自己分析するみたいに、落ち着いてしゃべっていた。
「昔、父親を殴ったときも、柴田のときも、頭ん中暴力でいっぱいだった。コウちゃんにもいつか、うるせえって言いながら無理やりやっちゃうかもしれない」
俺はあいつの息子だから。
最後、ぽつんと落とされた言葉が、爆弾みたいになって巧の心に落ちてはじけた。塩むすびをつくったとき、指で塩をつまんでちょんと釜の中に入れたときのように軽く、瀀はさらさらとこぼしてくる。あの味を忘れられないのと一緒で、瀀の中にずっと、存在するもの。
巧も瀀のように、今ある気持ちをじょうずに言語化したかった。骨の奥の奥がずっと黒ずんで靄がかかっているのはわかるのに、きちんと表現できない。もっと気楽に考えろよ、とか、そんな重くとらえんなよ、とか、笑って瀀の背中をたたいてやりすごせたらいいのに、その回答が不正解ということだけはわかる。
どうして、瀀にかけるべき言葉だけがわからないんだろう。オレはいやじゃないよ、でもないし、平気だよ、ともちがう。瀀がほしいものが言葉じゃないことだけがわかっていたって、巧がそれを選びたくない。
「そんなん、オレにしたらただの脅迫だろ……」
瀀の希望に抗うために出た言葉がこれって、ろくでもないと自分でも思った。
「そうだよ、脅迫してんの」
え? と巧は口を開け、瀀を見つめる。
「あんたの大嫌いな暴力を使って、俺は脅してる」
巧の体に魔法でもかけられたみたいに動かなくなった。もしも、と想像する余地を、瀀がよこしてくるせいで。
「俺、コウちゃんには嫌われたくないからさ、だからせめて、きれいな思い出だけちょうだいよ」
いやだと声を発したいのにその三文字が出てこず、けれど拒絶だけは示したくて首をふる。これまで瀀は、巧がいやだと伝えたら、行動したら、最後には聞き入れてくれた。だけど今回はそうはいかないらしい。
だって、瀀がどうしてもこの場で手にしたいのは、オレと離れることだから。
「じゃあ俺行くわ。こっからならあんたひとりで帰れるだろ?」
「いやだ、帰れない。ちゃんと送れよ最後まで」
ここにいてよ、と言葉には表せず、眼差しでどうにかしようと訴える。
「言いかたまちがえた。もう、ここにいないで」
瀀はブランコから下り、巧にさっと背を向けて行ってしまった。瀀、とこんなに小さくか細い声で呼んだって聞こえるはずがない。強引に、瀀の肩を引き寄せて無理やり抱きしめるくらいの勢いで、体だけで向かっていけたらいいのに。オレだってできるよこれくらいって。だけど、体力ゲージがゼロに等しくて動けなかった。
最後にあんな言いかたをするのは、最高にずるい。
いらっしゃいませー、と店のスタッフから明るく出むかえられ、どことなくきまりが悪くなる。いろんなことがいっきにはじまって、猛スピードですぎ去ったあとのように、体がどっと疲れていた。店の中は外の蒸し暑さがつゆほどなく快適で、さっきのできごとを知っているひとたちはいるのだろうかと気になった。あの時間ごと消去された気がしてならない。
スタッフも客も黙々と自分のことだけに集中していた。接客に、仕事に、おしゃべりに、読書に。巧が素知らぬ顔でアイスカフェオレをオーダーしても、「少々お待ちください」の挨拶に会釈を返しても、心のうちまではだれも探ることができない。
アイスカフェオレを差し出したスタッフのひと差し指に、絆創膏が貼られていた。切り傷か、擦り傷か、あるいは軽い火傷か、わからないけれど、巧はこのひとの事情を知らないのだ。この店内にいる、だれの事情も。
窓際の席につき、スマホを見る。瀀はスマホを持っていないので、連絡の取りようがないのがじれったかった。しかたなく母親にラインを送る。遅くなる。メシいらない。親不孝だなあ、と自分ごとなのにひとごとみたいだった。
窓から道路を見下ろした。さっきと変わらず車は動いているし、大勢のひとが歩いている。目にまぶしいべっこう飴のようなライトが、夜の中で映えていた。
瀀は、どうしているだろう。一時間と時間を区切られたが、もう三十分以上すぎていた。喉が渇き、とっくに飲み切ったカフェオレだけじゃまったく足りず、グラスに水を入れて飲み干す。
店のドアが開くたび、瀀じゃないかと顔を上げた。スマホが鳴り、とっさに手に取った。瀀はスマホを持っていないのに。
「もっと早く連絡しなさいよ!」と怒ったスタンプと一緒に送られてきた母親のラインにため息を吐き、結局無視した。テーブルに突っ伏し、額をこすりつけるとやんわり冷えている。だけどすぐにぬくもってしまって、すべてが中途半端な気がした。
「いらっしゃいませー」というスタッフの声に、巧はがばっと顔を上げる。急いできたと一見してすぐにわかるほど肩で息をする瀀が、席をきょろきょろ見渡していた。瀀、と声を出す前に立ち上がると、彼は気づいたのか巧に手を上げた。オーダーした商品を受け取ってこちらにくる。真っ黒の液体が、氷と一緒にゆらゆら揺れていた。
「ごめん、遅くなった」
巧は首をぶんぶんふった。瀀はどこも怪我をしていないし、汚れてもいなくて安心した。
「それと、きょうはほんとうにごめん」
瀀の切実で引きしまった声音に、巧はもっと強く首を横にふる。悪いのは、瀀じゃない。謝られたとたん、簡単に騙された自分が恥ずかしくなりうつむく。騙されたのではなく、イソウラの見た目と雰囲気に、疑わなかったのだ。巧自身が。
そして、巧の正義感という暴力が、瀀を傷つけた。
「あいつはああいうやつだから、あんたのせいじゃない」
巧の羞恥を見破ったかのような答えに、もっと気まずくなって沈黙する。なかなか顔が上げられない。
「ほんとうは、少し前から予感はあった。だけど柴田のこともあったし、勘がはずれたのかもしれないって俺も気ぃ抜いてた」
ごめん。と瀀は三たび謝罪する。ひとりごとみたいに、彼は淡々としゃべっていた。
「父親には俺らに接近禁止令が出てるから、だからあんたのこと使ったんだと思う。あいつアル中だからさ、出所後にそういう施設に入ってんだけど、たぶん無許可で外出してどっかで飲んでんだろね」
「アル中って……」
巧からしたら顔をしかめたくなるほど重いワードなのに、瀀はけろりとしている。その気軽さがよけいに、あれが通常運転だったのだと知らしめられて歯を食いしばった。
そのとき巧は顔を上げ、そういえば、とふと思い出した。
「におい……」
イソウラに大通りから誘導された際、そのときはわからなかったけれど、つんとした不快なにおいがしたのだ。
「ああ、あんたも気づいた? 俺もさ、あいつにわざわざ詰め寄って確認したけど、ありゃだめだな」
「は? え? あれってひょっとしてわざとかよ」
まさかあれが演技? 嘘だ。と思ったと同時に、巧は口をつぐむ。ついさっき、瀀の父親だって似たようなことをした。
「まあ、あんたに手ぇ出されたのがムカついたのもあったけど、アル中ってまじで治んないね。あんなもん病気じゃねえよ、ただの悪癖」
ずずず、と瀀はアイスコーヒーをストローですする。ミルクもシロップも使わず、ただ喉を潤わすためのような飲みかたに、最初の文言がよけいにばつが悪くなる。おそらくあれが瀀の精一杯のたしなめなのだと思うと、頭をかきむしりたくなった。それに対して父親には突き放すでも、感情的でもなく、ただ語るだけ。同情はもちろん、激情も、なにもない。
「とにかくもう、あんたは心配しないで。施設にも連絡したし、警察とも連携取ってるから」
瀀はアイスコーヒーをすべて飲み干すと、「帰ろう」とひと言言って立ち上がった。巧もそれに続き、店を出る。無言で駅に向かう道すがら、さっさと足を進ませる瀀のあとを巧は歩く。
「ごめん、歩くの早かった?」
「いや、大丈夫」
どうしてそんなに優しくするのだろう。巧は瀀に、責め立てられても詰られてもおかしくないことをした。過去の傷を、だれでもなく巧がえぐったのに。瀀の背中が遠い。巧はひとの波をかき分け、光の隙間を泳ぐだけで精いっぱいだった。瀀はふり向き、「家まで送る」と言った。ひとりで帰れる、と返したかったのに、答えられなかった。
巧の自宅につく直前まで、ほぼ会話はなかった。瀀はふと、近くの小さな公園に入る。巧もついていくと、彼はブランコに座った。子どもが遊べそうなすべり台やジャングルジムがあるくらいで、とうぜんバスケットゴールはない。瀀の隣のブランコに腰を下ろすと、きい、とかん高い音が際立つ。
夏の夜の公園は、ふだんより音も響くし、昼間の喧騒とはにおいがちがう。ひとの気配がなく、植物の息づかいだけがただよっていた。
「きょうは、ほんとうにごめん」
また瀀に謝られた。こう何度も謝られると、はっきりといやだ。過失ゼロの相手からの謝罪は、否応なく巧を無関係だと示してくるみたいで。まるで、この謝罪でふたりの関係そのものをなかったことにしてくださいと願われているようだった。
「なんでだよ、瀀が悪いわけじゃねえじゃん。悪かったのはオレだよ。ごめん」
だから、これでチャラにしてほしい。喧嘩両成敗ではないけれど、その原理で、もういいじゃないか。
ずっと、いやな予感が胸にある。ざわざわする。早くそれを、だれよりも瀀にどうにかしてほしい。
「ちがうよ」
瀀は静かに視線を下げ、ほほ笑んだ。足を動かしたからか、じゃりじゃり砂が動く。
「もう俺に、関わんないほうがいいよ」
予感めいた言いようのないものの答えを、はっきり告げられた気がした。瀀と再会した最初のころの冗談染みた、なるべく近寄らないで、という曖昧さはなく、はっきりとした拒絶。
「なんで。オレ何回もいやだっつってんじゃん」
どうあっても抵抗したいのに、瀀はかすかな笑みをこぼしたまま、ゆっくり首をふる。
「高校入学したとき、コウちゃんのこと見てるだけでじゅうぶんって思ってだけど、調子に乗っちゃったんだろなー」
瀀は、巧の話など聞いていないように、自分のことなのにひとごとの口調で、暗いの空をあおぎ見る。巧も同じように見上げると、星がまたたいていた。何年も前に送られた信号、やっと届いた光。
「俺さ、やりたいんだよね」
急に話が変わったように感じ、「なにを?」と瀀にたずねた。
「セックス、したいんだよ。コウちゃんと」
とうとつな発言に、巧が腰かけるブランコが、ぎぎぎ、ときしむ。自分の意思関係なく脈が跳ね上がった。
「いやがられたらやめよう、とか、だけど止めらんなかったらどうしようって考えるんだけど、いやがられてもたぶん、乱暴にやるよ、俺」
瀀は顔を上げ、巧だけを見つめた。目は口ほどにものを言うのか、黒々とした瞳が嘘をついているようには思えなかった。でも、じゃあ、これが嘘だったら。瀀の父親がしたように、巧を欺いていたとしたら。
「あの父親さ、これまで何度も『もう酒はやめる、瀀ごめん』って謝ってた。あんたもわかるだろ、あの感じで縋ってくんの」
身につまされる話で、巧はぐっと息を呑む。
「だけどそのたび裏切られて、母親は『病気だから』って言った。あいつの病院代稼いでんのか酒代稼いでんのか、ほかの男と遊んでたのか知らんけど、あのひとずっと働いてた。そんとき俺、病気って無敵かよって思ったんだよね。病気だったら暴力オッケーなんだって。そんなわけねえだろ、俺が痛いのもあいつが病気だから我慢すんのかよって。一応抵抗するんだけど、だんだん思考停止すんの、俺が我慢すりゃいいやって」
瀀はこれまで何度、期待して、だけど裏切られて、期待した自分に苛立って、何度二重にも三重にも傷ついてきたんだろう。その結果が考えるのをやめることなら、巧がなにを伝えても、行動しても、太刀打ちできないんじゃないか。
「そんときコウちゃんに会って、そのときからずっと、たぶんだけど、あんたとやりたかったと思う」
ぎょっと体ごと揺れ、またブランコが鳴る。
「この先、もしそういう流れになって、あんたが受け入れてくれたとして、だけどフラッシュバックが起きたり、コウちゃんの頭の中で俺の父親が出てきたらって考えてて」
さっきから、どう答えたらいいのかわからなかった。例題がたくさん出題されて、ひとつただしいものにまるをしないと落ちますよ、と急かされるのに、解答欄が真っ白の状態。
「あいつと似た顔の俺とそういうことして、そのたびにあんたの頭に父親の顔がチラついたら、それはいやだなって」
瀀はずっと、感情をどこかに置きっぱなしにしたような口調だった。心を的確に言語化し、成熟したおとなが自己分析するみたいに、落ち着いてしゃべっていた。
「昔、父親を殴ったときも、柴田のときも、頭ん中暴力でいっぱいだった。コウちゃんにもいつか、うるせえって言いながら無理やりやっちゃうかもしれない」
俺はあいつの息子だから。
最後、ぽつんと落とされた言葉が、爆弾みたいになって巧の心に落ちてはじけた。塩むすびをつくったとき、指で塩をつまんでちょんと釜の中に入れたときのように軽く、瀀はさらさらとこぼしてくる。あの味を忘れられないのと一緒で、瀀の中にずっと、存在するもの。
巧も瀀のように、今ある気持ちをじょうずに言語化したかった。骨の奥の奥がずっと黒ずんで靄がかかっているのはわかるのに、きちんと表現できない。もっと気楽に考えろよ、とか、そんな重くとらえんなよ、とか、笑って瀀の背中をたたいてやりすごせたらいいのに、その回答が不正解ということだけはわかる。
どうして、瀀にかけるべき言葉だけがわからないんだろう。オレはいやじゃないよ、でもないし、平気だよ、ともちがう。瀀がほしいものが言葉じゃないことだけがわかっていたって、巧がそれを選びたくない。
「そんなん、オレにしたらただの脅迫だろ……」
瀀の希望に抗うために出た言葉がこれって、ろくでもないと自分でも思った。
「そうだよ、脅迫してんの」
え? と巧は口を開け、瀀を見つめる。
「あんたの大嫌いな暴力を使って、俺は脅してる」
巧の体に魔法でもかけられたみたいに動かなくなった。もしも、と想像する余地を、瀀がよこしてくるせいで。
「俺、コウちゃんには嫌われたくないからさ、だからせめて、きれいな思い出だけちょうだいよ」
いやだと声を発したいのにその三文字が出てこず、けれど拒絶だけは示したくて首をふる。これまで瀀は、巧がいやだと伝えたら、行動したら、最後には聞き入れてくれた。だけど今回はそうはいかないらしい。
だって、瀀がどうしてもこの場で手にしたいのは、オレと離れることだから。
「じゃあ俺行くわ。こっからならあんたひとりで帰れるだろ?」
「いやだ、帰れない。ちゃんと送れよ最後まで」
ここにいてよ、と言葉には表せず、眼差しでどうにかしようと訴える。
「言いかたまちがえた。もう、ここにいないで」
瀀はブランコから下り、巧にさっと背を向けて行ってしまった。瀀、とこんなに小さくか細い声で呼んだって聞こえるはずがない。強引に、瀀の肩を引き寄せて無理やり抱きしめるくらいの勢いで、体だけで向かっていけたらいいのに。オレだってできるよこれくらいって。だけど、体力ゲージがゼロに等しくて動けなかった。
最後にあんな言いかたをするのは、最高にずるい。