水筒とおにぎりをリュックに詰め、いってきまーす、とマンションの玄関ドアを開けた。後ろから母の「気をつけてねー」が聞こえる。この日、母はパン屋のパートは休みらしい。いつもは早朝からいない母が、今朝はいたので。
 外廊下を小走りすると、バスケットケースにつけた防犯ブザーが揺れているのがわかる。もうつけなくたって大丈夫なのに、心配性の母が外すのを許さなかった。ふだんついているかいないかをチェックするわけじゃないので、きっと安心がほしいんだと思う。いろんなものについている、一年保証、みたいな。母はきっと、いつもの公園に行くと思っている。ほんとうのことは、どうしてか言えなかった。
 図書館までの道のりは、遠くて近い。足がなかなか目的地まで進んでくれなくて、走るスピードがどんどん早くなる。その間も、蝉はなにかにせっつかれているみたいにじょわじょわ鳴いていて、太陽は全方位に攻撃的な光を放っていた。やっと図書館についた。喉が渇いて、リュックから水筒を取り出して飲む。しっかりと冷えた麦茶が喉の下を通過するとほっとして、ぷはー、と声が漏れた。
 図書館の自動ドアを通りすぎると、スリッパもなにもなくて、土足でいいのだとはじめて知る。ふだんまったく足を踏み入れない場所は、やけに緊張して背中がもぞもぞして、むむむ、と口をつぐんでしまう。もうひとつの自動ドアを抜けると図書館のなかは広く、きゅっと体が縮こまるような冷たさがあった。しん、とした空気と、学校のおたよりみたいな紙のにおいは、嫌いじゃないけれどしゃんと背筋を伸ばせない。こそこそと周囲をうかがうみたいに歩きながら、目当ての人物を探した。
 ここにもいない、ここにもいない。ひとつひとつ本棚を覗いていく。何番目かの棚を回ったとき、「あ」と声が出ていて、そこにいた何人かのおとなとひとりの子どもが巧のほうに向いた。かなりきまりが悪かったが、じろじろ向けられるおとなの白い目を無視し、子どものもとに走る。
「走っちゃだめだよ」
 アサノユウが小声で言った。
「よかった、いたんじゃんおまえ」
「しー。なにしに来たの?」
 自分の唇にひと差し指を当て、アサノユウは巧を見上げる。なにしに、と聞かれても、はっきり答えられる理由はなかった。
「おまえが来てるかなって思って」
 そう答えると、アサノユウはちいさく息を吐き、本棚から数冊本を抜き出した。巧にさっさと背を向けて歩き出すので、とたとたと小走りで追いかける。彼が腰を下ろした席には、もう荷物と何冊か本が置いてあった。アサノユウがあんまり静かに本を開くので、なるべく静かに隣の椅子を引き、そっと腰を落ち着ける。巧にかまうことなく、彼はリュックからノートと筆箱を取り出した。
 アサノユウのリュックは、上の部分がくたっとして黒のナイロンに細かい汚れがついていた。取り出したノートは巧が使っている自学用に使うファンシーな動物がついた五ミリ方眼ノートじゃなく(ほんとうはもっとシンプルだったりかっこいいほうがいい)、四隅もくしゃくしゃで、筆箱も磁石でぱこぱこ遊べるプーマとかがついた長方形のものじゃない。超がつくほどどシンプルな、百均で買えそうな文房具が、何年も使い込まれたように汚れていた。
 それはなんだか、「走っちゃだめだよ」と巧に注意したり、もの音を立てないように本を開くアサノユウとイメージがちぐはぐで、だけど「浅野瀀」と書かれた文字がうねったみみずみたいに雑なのは納得がいく。瀀、とはじめて知った漢字を頭のなかで呼んでみるけれど、文字と文房具のバランスが変に悪くて、バスケのオフェンスとディフェンスが噛み合わないような感覚にもやもやする。
「なあ」
 と、彼にならって声をひそめた。瀀は、視線だけ巧によこした。
「それって宿題? 自由研究とか?」
 瀀はノートを開き、「そんなかんじ」と雑な文字を書く。瀀が開いている本は、人間の体がとてもリアルに描かれていて、それが逆に噓っぽい気がした。書かれている文字も小さくて、巧は読む気にならない。積んである本には、ボクシングのポーズを取る上半身裸の男が写っていた。これがほんとうに自由研究の題材だとしたら、瀀がなにを調べたいのか見当もつかない。
 巧は瀀の筆箱を取り、鉛筆を一本借りた。返事を書くように、ノートの開いた場所に文字をつづる。
 ――なにしらべてんの?
 ――ひとの体のこと。
「ふーん」
 しっ、と瀀はひと差し指を唇に当てた。巧はぱっと左手を口に当てる。
 ――ひとの体のことしらべてどーすんの?
 ――いろいろ。
 的を射ない回答に、巧はうーん、と腕を組む。
 ――おまえほかの宿だいやってる?
 ――あんまやってない。
 ははは、と笑ったら、右の二の腕を肘で小突かれた。また巧は口をふさぐ。
 ――オレもやってねー。
 ――やりなよ。
 ――おまえもな。
 ふっと瀀が笑った。
 ――としょかん毎日きてんの?
 こくん、と瀀はひとつうなずいた。
 ――としょかんすずしいし。
 ――家だってエアコンつけたらすずしいじゃん。
 瞼を下ろした瀀は、ふんと鼻から息を吐いて笑った。その笑顔はなんというか、巧をばかにしたような、あきれているような、だけど両方とも正解ではなくて、だけどどんな言葉で言い表していいのかわからない表情だった。巧が知らない感情をたずさえた見知らぬおとなのような顔だったから、次はどんな言葉を書いたらいいのかわからない。
 持っていた鉛筆で、瀀のノートに落書きする。すると彼は、ぶっと大きく吹き出した。
 ――なんでうんこ?
 ――なんとなく。
 巧を呼ぶように手のひらを上下にひらひらさせ、ノートに素早く文字を書く。
 ――あんたの名前がわからないです。
「あ」と口を開け、巧は鉛筆を持ち直して書いた。
 ――綾瀬巧。たくみって名前だけど、コウって読めるから母ちゃんはコウちゃんって呼んだりする。
「コウちゃん?」
 瀀が首をかしげながら、綿菓子を食べるときみたいにやわらかい口調で復唱する。名前ごと優しくつままれたような気分になって、だけどなんだか気恥ずかしかったから、やり返すみたいに今度は巧がひと差し指を口に当てる。
「しー」
 また頬をふくふくさせながら瀀が笑うので、喉のところがぎゅっと熱くなった。ごまかすつもりで笑い返すと、斜め前の席のおとなに、ごほんとひとつ咳き込まれて肩をすくめる。
 ずっと硬い椅子に座ってばかりじゃ退屈で、ちょっとぎこぎこ揺らしてみたら、さっき咳払いをしたおとなからちらりと覗かれた。自分が悪いのはわかっているけれど、そんな目で見なくたっていいのにと口を尖らせる。瀀が立ち上がり、文具をリュックに戻して背負った。読んでいた本を持って席から離れたので、ようやく動けると巧も席を立つ。本棚に一冊ずつ本を入れていく瀀の手つきはていねいで、くたくたの文房具とのバランスがやっぱり悪い気がした。最後に本棚に戻した本に、「児童」と書いてあるのが見えた。児童……、なんちゃら? ほかにも文字が並んでいたけれど、書いてある漢字が巧にはわからなかった。
 巧より十センチはちいさな瀀の後ろを歩きながら、黙ったまま図書館を出る。
「あーいうえおかきくけこ!」
「うるさいなあ」
「だってさ、すげえ暇だったししゃべらんねえし!」
「じゃあ帰ればよかったじゃん」
 もー、と瀀はあきれたように言う。歩いていると、バスケットケースにつけた防犯ブザーがぶらぶら揺れた。
「なあ、公園でバスケしねえ?」
「俺ルール知らないよ?」
「じゃあ見てて」
 きのう会った公園に足を進めた。日差しが強くてまぶしかったから、瀀がついて来ているか気になって横を見る。きちんと歩いているようで安心した。
「なあ、人間の体のなに調べてたの?」
「急所」
 きゅうしょ? と最初にぱっと思い浮かばず、すこし考えてそれが「急所」だとわかった。
「それって自由研究に使うの?」
「使うかもしれないし、使わないかもしれない」
 ふーん、と巧は答えながら、はぐらかすなあ、とちょっとおもしろくない。
「人間の急所ってどこ?」
「ちんこじゃん?」
 平然と言われるが、自分の股間が殴られたり蹴られたりしたのを想像すると、びっくりするほど背筋が冷えた。
「ちんこっていうか、金玉ね。あとはみぞおちとか、こめかみとか」
 みぞおちとかこめかみ、と考えていると「こことここ」と巧の胸の下のへこんだところと、目の横のあたりを指差して教えてくれる。
「あとは脇の下とかもかなあ」
 神経が集中してるんだって。と瀀はまた淡々とした口調で続けた。「ふーん」と答えながら、それをどんな自由研究に使うんだろう、と思ったけれど、尋ねたところで瀀はうまくはぐらかすだけで、答えてくれない気がした。
 公園につき、ベンチに腰かける。喉も渇いたしお腹が空いたので、水筒とおにぎりを取り出した。「水飲んでくるね」と瀀は先に水道のところに行ってしまう。あいつ水筒持ってこなかったのか、と巧は先に水分補給した。麦茶の味が、ぎゅっと喉に染み渡っておいしい。梅のおにぎりを食べていると、瀀が戻ってきてベンチに腰を下ろす。妙に視線を感じ、巧は首をかしげた。
「あ、おまえも腹減ってるよな? 食えよ」
 ラップにつつんであるおにぎりを瀀に差し出すと、まるで暗闇に光でも差したような明るい表情に変わったので巧は目を見開く。
「いいの? ほんとに?」
「え、あ、そんな腹減ってたの? いいよ、残り食って」
 前のめりになる瀀に動揺しつつ、ふたつほど残っていたおにぎりをぜんぶ瀀に手渡すと、とても大切なものでも受け取ったみたいにじっと見つめる。ゆっくりラップをはがしてひと口頬張ったかと思えば、すぐにがつがつと食いついた。いっきに食べたからか喉が苦しそうで、巧が瀀に水筒を差し出すとごくごく飲む。
「はは! 慌てすぎ」
「ごめん、ありがとう」
「いいよそんなん」
 瀀は首を振る。黒髪が、首を振った振動でふわふわ揺れた。
「おいしかった、すごく」
「まじ? ただのおにぎりと麦茶じゃん」
 ははは、と笑うと、瀀はさっき以上に強く、ぶんぶんと首を振る。
「ほんとに、すごくすごくおいしかった」
 ありがとう。
 と頭を下げた瀀の表情は見えなくて、だけどその「ありがとう」にいっぱいの気持ちがこもっていることだけはわかって、なんだかどうしようもなく苦しくなって、巧はベンチから勢いよく立ち上がる。
「バスケする!」
 瀀が顔を上げた。
「瀀、見てろよ!」
 瀀の瞳に太陽の光がちかちか反射して、とてもまぶしかった。まぶしいから瀀の目が揺れて見えるのか、じっと見られていてまばたきできないせいか、わからなかった。
 そこで見てて、ちゃんと見てて。
「見てるよ、コウちゃん」
 目を細めて歯を目いっぱい見せて笑う瀀は、ほんとうに小さくてひょろっとした子どもだった。四年生の、いっぱしの子どもだった。図書館で「ふん」と笑った、巧が知らないおとなみたいな表情とはぜんぜんちがうので、ボールを持って、逃げるつもりなんてないのに走っていた。
 日がかたむきかけた帰り際、瀀が防犯ブザーを見て「なにこれ」ときょとんとする。
「防犯ブザー。変なひとに会ったら、この紐引っ張って鳴らすの」
 巧が紐を引っ張る真似をすると、「ふーん」と瀀はそれをまじまじと見つめる。
「今鳴らすなよ? すげえでかい音だし、まじでやべえから」
 瀀に釘を刺したあと、あ、とひらめき、バスケットケースから防犯ブザーをはずして渡した。
「幽霊撃退用」
 そう言うと、瀀は笑った。
「幽霊には効かないでしょ」
「わかんねえじゃん、びっくりするかもしんねえじゃん」
 防犯ブザーを手のひらの上でなでながら、瀀はまた、「ふん」とはちがうおとなみたいな顔を見せるので、巧は息を吞む。なんというか、嬉しいの超上位互換、みたいで、背中がむずむずした。
「なあ、おまえん家って、ほんとうに幽霊出んの? なんてアパート?」
 巧は靴底で、砂をじゃりじゃりこする。
「コーポさざなみ。幽霊は出ない。もっとこわいのがいる」
 瀀の横顔は、ぐっとなにかを噛みしめるようでもあったし、耐えているようでもあったし、決意と呼ばれる言葉のような厳しさもあった。どんな反応をするのが正解なのか巧にはわからなくて、胸もとをぎゅっと握る。
「ばいばい、コウちゃん」
瀀から厳しさは抜け落ち、だけどちょっと寂しそうに手を振った。防犯ブザーをポケットに突っ込むと、この日も彼は、たった、と足音を鳴らす。
「瀀ー! ばいばい!」
 体のなかで勝手に起きたざわざわした気持ちをかき消したくて、巧は大声で言う。振り返った瀀は、ぶんぶんと大きく手を振った。くるりと背を向けてしまったので、その姿が見えなくなるまで見送る。
 帰宅したら、母に「遅い!」と𠮟られた。バスケットケースに防犯ブザーがついていないのが見つかる前に部屋に引っ込んだ。母には、瀀のことは言えなかった。くしゃくしゃのノートや百均の文房具を、あのひとは好まないと思ったから。おにぎりと麦茶を、今世紀最大のごちそうみたいに食べるひとのことも。
 ――もっとこわいのがいる。
 コーポさざなみは、とてもぼろぼろのアパートだということは知っていた。あの周辺は治安も悪いので、あまり近寄っちゃいけませんと語らずとも知られていた。だけどふざけて立ち寄った学校の帰り道、クラスメイトと「ここやべえよなー」と二階建てのアパートを見上げてからかったことがあった。
 座り込んだフローリングは、昼間の熱気がこもっているせいか生あたたかかった。巧は自分の部屋のエアコンをつけなかった。「ふん」と笑った瀀は、図書館にいる全員を大嫌いだと言っているみたいに、とても意地が悪い顔だった。
 ご飯よー、と母の機嫌の悪そうな声が聞こえた。