駅からそう遠くない、だけど線路沿いの、ひと通りの少ない狭い生活道路に入る。街灯が少なく、ほんのとき折り、ひとりふたり、ぽつぽつと巧たちを横切った。イソウラが立ち止まると、数メートル先のマンションから漏れたあかりが、彼の横顔を照らす。それはまぎれもなく瀀の印象が色濃くて、過去のことがあるはずなのに目が離せずつい見つめてしまう。この男がほんとうに、巧にトラウマを残した人間と同一人物なのか、ピントがずれたみたいに照準が合わなかった。
 イソウラが申し訳なさげに、巧に目配せする。巧はいったん息を吐き、スマホを取り出した。瀀の自宅に電話をかける。
『はい、浅野です』
 いつもの応答に、瀀を騙している気分に陥り罪悪感に見舞われた。
『もしもし?』
「あ……、オレ」
『コウちゃん? どうした?』
 ふだん通りのなんの疑いのない問いかけに、ちらりとイソウラを見やる。しかし、彼は正面を向いたままだった。
「今、塾の帰りでさ……。ちょっと出てこれねえ?」
『え? ああ、いいけど』
 なんの迷いなく了承する瀀に、さらに後ろめたさがのしかかる。巧は今いる場所を告げ、手短かに通話を終えた。瀀からかすかに訝しんでいる気配を察したが、この男に謝らせるためだと無理やり自分を納得させるしかない。
 イソウラに瀀がここに来る旨を伝えると、彼はほっと胸をなで下ろしたような表情を見せる。そのなかにはかすかな緊張の入り混じりを感じずにはおれず、これが嘘にはどうしても思えなかった。彼はそわそわと、ポケットに手を突っ込んだり、靴底を動かしたりする。
「ごめんね、緊張してるのかな」
 巧はイソウラを見上げた。苦笑混じりの横顔に、これが過去の後悔の表れなんじゃないかと都合のいい想像をしてしまう。だけど、この選択がほんとうにただしかったのか? と焦る気持ちも少なからずあった。正当化にすぎなかったら? 瀀が会いたくなかったら。
 ちかっと頭が痛くなる。額を押さえ、巧は過去の映像を消そうとする。
「大丈夫?」
 そっと二の腕に手を置かれ、そちらを見た。不安そうで、だけど巧をいたわる表情が、どうしても瀀を彷彿とさせる。
「どうして?」
 だからこそ、尋ねずにはいられなかった。
「どうして瀀にあんなこと……、したんですか」
 どうして。
 巧が重ねて責めるように問うと、イソウラは眉根にぐっと皺を寄せ、シャツの胸もとを握る。
「瀀が産まれたときふにゃふにゃで、この子はおとながいないと死んじゃうんだって単純に思った」
 巧が黙っていると、彼は淡々と続ける。目がすっと静謐な色になり、夜と同化したとき、このひとはほんとうに瀀の父親なのだと思った。
「俺がなにしても泣くから、すごくかわいくてね。俺も幼いとき母親しかいなかったし、そんな家庭はいやだなって思ってた。だけど仕事がうまくいかなくなって、昼間から酒飲んで、イラついて、小さな瀀に当たって、だけどすっきりなんかしなかった。刑務所でひとりになって、やっと自分が起こした事件の重大さを知った」
 夜の風は、ずっと生ぬるかった。肌を湿らせ、体をじっとりと汗ばませる。それなのに彼の額も頬もどこかつるりとして、清潔感があった。あのアパート見た不潔で悲惨な光景とは無縁のようなひとに見えた。
「ぜんぶ言い訳だけどね、あれを起こしたのは俺だから」
 その通りだ。こんな表情をして、ままならないと嘆いたって、許されるわけじゃない。本人が、家族が、周りが、あの事件を忘れないし背負ったまま生きていかなきゃならないのだ。あれらの荷物をぜんぶ下ろしたいという欲求があるかぎり、忘れられない証拠だった。だけどじゃあ、きちんと罪を償ったあと生活する上で、このひとはずっとだれからも許されない? 謝罪のチャンスすら与えられない? それもちがう気がした。
 どの答えがただしくてまちがいなのか、一番知りたいことは、いつまで経ってもわからない。塾の授業では、なにひとつ教わらない回答。
「コウちゃん? あんたなにやってんだよ」
 この場が切り裂かれたような発言に、巧はどきりとして首を動かす。瀀が巧とイソウラを睨みつけていた。
「瀀、ごめんオレ、でもちゃんと聞いて。このひとは……」
「そいつから早く離れろ! 早く!」
 声を荒らげる瀀に、巧の体がびくりと揺れる。瀀がこちらに近づくが、そうじゃないと伝えたかった。すると背後からぐっと手首を取られて振り返る。
「ご苦労さん。ほんとかわいいね、おまえ」
 イソウラがにいっと口角を引き上げ、目をうねらせた瞬間、尾骶骨から首筋に向かって虫が這いずり回る感覚が襲う。ぞっと身がすくみ、自分の身になにが起きているかわからなかった。だけど、何度か感じていた気味の悪い視線の正体がこれだと、はっきり確信する。
「きみはほんとーに、素直で、健気で、気が強くて、そんで世間知らずのただの馬鹿」
 愉快そうに笑うイソウラに手首を強く握られて身動き取れず、歯の根が合わなくなるほどがちがち鳴る。瀀と似た瞳で、似た口調で、似た表情で、瀀が使わない言葉を平然と使い、不気味に笑って容赦なく巧を切りつける。めまいがしそうだった。
「どうして、だってさっきの話……」
「あー、信じた? まあどっちでもいいよ、嘘でもほんとうでも」
 頭が真っ白になるってほんとうで、夜なのに目の前がちかちか白ずむ。
 にこにこ笑って近づくやつにろくな人間はいない。
 どうしてもっと、早く気づかなかったんだろう。世間知らずのただのばか、ほんとだよ。
 ぼうぜんとしていると瀀が無理やり巧とイソウラを引き離し、距離を取る。瀀は巧の前に立ち、手で制するように下がらせた。
「あんたは早く帰って。こいつが用があんのは俺だから」
 ひりついた瀀の口調はほんものだと頭ではわかっているのに、声のトーンも、息継ぎの具合も、イソウラと重なってしかたない。じゃあこの行動も声も、あの男と同じようにぜんぶ嘘だったら? 騙されていたら。
 たとえ一瞬でもこんな思考に陥る自分に吐き気がしそうだ。恥ずかしくて、腹が立って、愕然とした。奥歯を噛み締め、瀀を守りたいだなんてどの口が言うのだとののしりたくなる。
「コウちゃん、早く」
「おー、おまえ正義のヒーローみたいだな。かっこいいねえ」
「このくそ野郎が」
 イソウラは明るくほがらかに、台詞と反した笑顔でぱちぱちと手をたたく。完全におちょくられているとわかるしぐさに、皮膚がかっと熱くなった。
「瀀は昔からおりこうさんだったよなあ。殴られても蹴られても、黙って、俺の言うことちゃんと聞いて」
 瀀の肩も腕も、小刻みに震えはじめる。呼吸がせわしく、首筋に汗が伝っていた。
「うるせえ……」
「おつかいもじょうずにできたもんな」
「黙れよ」
 巧は瀀のTシャツを握りしめる。瀀を連れて、今度こそ早く逃げたかった。
「なあ、ばばあ死んだんだろ? 金、よこせよ」
 この男はなにを、と巧はあぜんとイソウラを見る。そのとき、急に肩に寒気がした気がして驚いた。瀀を横目で見ると、こっちがぞっとするほど静かに殺気立っており、瞳は夜の闇にまぎれて真っ黒だった。冷徹な瀀の瞳に、巧は目を見開く。
「俺のこと殴るか? はは、おまえも傷害罪だな」
 一歩、瀀が前に出た。引き止めたいのに、真夜中に浮かんでも見劣りしないほどぎらついた瀀の目が瞼の裏にこびりつく。足の裏が地面と縫い合わせられたように動かない。
「とりあえず百万、それくらいあのばばあなら貯め込んでんだろ」
 瀀はイソウラに無言で詰め寄り、シャツの襟につかみかかる。以前と似たような光景に、巧の足はがくがくと震えた。防犯ブザー、と一瞬脳裏によぎるのに、この状況で瀀に否がないと判断されるかがわからない。通行人が数人じょじょにどよめきだし、逃げるひともいればスマホをかまえ出す人間もいた。だれかに通報してほしいと他力本願に思いながら、撮られるかもしれない恐怖に逃げ出したくなる。
 瀀はイソウラに手を出さず、胸ぐらを握りしめるだけだった。わかっているのだ、瀀だって。この状況でも、瀀は。
「瀀さー、おまえそんな乱暴で大丈夫? あのかわいい子に拒否られたらどうしようかね。俺とおまえ、よく似てっからなあ。あの子に思い出させちゃったら申し訳ねえよ」
 からからと笑いながら辱められ、迷うことなく怒りが湧く。巧は拳を握りしめ、唇を噛んだ。言い返すことも殴ることもしない瀀、体を震わせる瀀、冷や汗をかく瀀、巧の前に立つ瀀。この状況でも瀀は、わかっている。瀀にとって一番会いたくない相手を引き合わせたのは、巧だった。
 オレがした。オレのせいで。
 ぱっとスマホのフラッシュが焚かれた瞬間、巧のなにかがぷつりと切れた。
「撮るくらいなら通報しろよ!」
 巧が怒鳴ると、場が固まったようにしんと静まり返る。慌てた通行人が、耳にスマホを当てた。
 どこもかしこも暴力、暴力、暴力。暴力だらけか。
外的要因だけじゃなく、心理的にも内面的にもお遊びや悪ふざけで平気な顔で他人を傷つける。それがどれだけひとを傷つけるかも知らずに。もうたくさんだった。
 ――拒否られたらどうしようか。
 オレが瀀を守るとえらそうにのたまっておいて、自分の行動がどれだけ瀀を傷つけていたかなんて、考えたこともなかった。
 巧はイソウラのもとに駆け出し、瀀と男を引き離す。瀀の変わりに巧がイソウラの胸ぐらをつかみ、言葉にならない言語を至近距離で叫んだ。顔をゆがませたイソウラに、なおも怒鳴り散らす。
「おまえの顔忘れねえからな! おまえが瀀にしたこと忘れねえからな! おまえと瀀の話じゃない、おまえに言ってんだからなイソウラ!」
 能面を貼りつけたようなイソウラの表情は一変し、みるみるうちに厳しくなっていく。にこにこなんて効果音は消え失せ、さまざまな矛盾や巧に向かう理不尽な怒りを一緒くたに蓄えた顔は、とてもとても人間らしかった。イソウラは巧の手を振り払い、すぐに背を向けて走り出す。瀀はそれを追いかけようと足を動かすが、すぐに立ち止まってくるりと振り返った。
「コウちゃんは、早くここから離れて」
「あ……、え?」
 巧はようやく我に返り、ぼうぜんとする。あんなに大きな声で叫んだのは思い出せるかぎりであの事件の日以来で、どっと疲労がたたったみたいに体に力が入らない。
「どっか明るいところ、あー北口前のドトールにいて。一時間しても俺が戻らなかったら帰っていい」
「え、瀀は? おまえどうすんの? オレも、オレも一緒に行く」
「だめ」
 有無を言わせずぴしゃりと拒否された。
「いいから、コウちゃんがこわくないとこにいて。幽霊がいないとこ」
 瀀はすぐに背を向けて走り出し、巧の前から姿を消す。自分を幽霊だったらよかったと言った瀀、幽霊がいないところにいてほしいと告げた瀀。
 いつの間にか野次馬が消えていた狭い道を、足を引きずって大通りに向かって歩き出した。道が広くなるにつれ、やけにあかりが煌々として騒がしい。こんなに明るくきらびやかな場所にも、幽霊はきっといるだろう。