巧はポケットに手を突っ込み、プラスチックのつるんとした感触をたしかめる。まちがって紐を引っ張らないようにしないと、と気づかうが、一度もその失敗を犯したことはない。一度ぎゅっと握りしめ、ポケットから手を出した。十七時からはじまった二時間の塾を終え、階段を下りていく。肩凝った、と首を回し、なんだか疲れて勝手にため息が漏れた。
 ――柴田のこと、あんなやりかたして、俺もごめん。
 あの日、巧を自宅まで送り届けた瀀は、巧に頭を下げた。
 ――本人にも謝れって話だけど、暴力で解決しようとしたのは、俺も同じだから。
 こわがらせてごめん。瀀はいっさいの淀みなく、そう告げて帰っていった。自宅の玄関を開け、安全地帯に戻ってきても、かたちにならないわだかまりのようなものが、ずっと内臓で巣食っていた。
 瀀は助けてくれただけじゃん、悪くないじゃん、ファミレスや瀀の家の近くで感じた視線だってきっと柴田で、あいつが否定したのは責任逃れの嘘なんだって。
 そう答えられたら、どれだけよかっただろう。だけど、あの風景を二度と見たくないと思う心もたしかに存在していた。
 煮詰まってる。巧は口のなかで声にならない声を漏らし、ビルの自動ドアを抜けた。さまざまなビルが建ち並ぶ駅前は、あかりが煌々と輝いている。空を見上げても星はよく見えなくて、ゆき交うヘッドライトもなんだか忙しく、瀀の自宅がある最寄り駅から十五分程度の場所なのに、景観がまったくちがった。ひとがずっと滞留している感じがやけに息苦しくなるのは、どうしてだろう。
 気だるい足取りで歩いていると、ガードレールに半分腰かけながらもたれている男性に、ぱっと目がついた。
「瀀?」
 思わず口をついて出て、慌ててふさぐ。瀀と似た雰囲気を持っていて、だけど確実に彼より年上だとわかるべつじんだった。髪は耳が隠れるほど長いし前髪も長い。身長だっておそらく瀀より高く、明らかにちがうひと。だけど、半袖シャツにチノパンというラフなスタイルなのにやけに雰囲気があって目を見はる。オレ恥ず……。巧は自分の趣味嗜好と面食いさにばつが悪くなり、そそくさと通りすぎようとした。
「綾瀬巧くん、だよね?」
 ふいに声をかけられ、そちらを向く。例の男性が、巧にほほ笑んだ。
「え? あ、はい」
 ガードレールから下り、するするとした足取りで近づく彼は、巧が見上げるほどの背が高さで、こちらが一瞬見惚れるほどきれいな顔立ちだった。瀀がもう少し歳を重ねたら、こういう雰囲気になるのかもしれない。二十代? 三十代? 詳しい年齢はわからないけれど。
「でもなんで、オレの名前……」
 いきなり懐に入ってこられてもまったく違和感がなく、ひとつも警戒心を抱かせない。急に名前を呼ばれても、少しも猜疑心が生まれなかった。
「……瀀の父で、磯浦といいます」
 そう聞いたとたん、ぎくりと肩が揺れた。自分の口がぱくりと開いたのはわかるが、その続きが行動できない。あの日のできごとが嵐のように駆け巡り、右手で左の二の腕をぎゅっと抱く。このひとが、この男が。
「あのとき、瀀と一緒にいた子だよね。謝って許されることじゃないのはわかっています。だけど謝らせてください。申し訳ありませんでした。ほんとうに」
 折り目ただしく、という以上に、額が膝につくほど体を折り曲げた謝罪に、許す許さない以前にひと目が気にかかった。往来するひとたちの視線を(しかもいやなほうの)顕著に感じ、周囲をきょろきょろ見渡す。あの事件を起こした瀀の父親のイメージに天と地ほどのちがいがあり、脳がバグったみたいにあたふたした。
「ごめんなさい。ほんとうに」
「困ります。ちょっとほんと」
 周りからじろじろと見られているのがわかり、いいかげんいたたまれない。イソウラが必死に訴えようとする震えた声に、いっそう焦ってどうしようもなくなった。
「困るんだって、まじで!」
 強く発すると彼は顔を上げ、子猫が縋ってくるような眼差しを向ける。そんな顔されても、と黙ってイソウラをじとりと睨むと、彼はとても遠慮がちにやわらかく笑んだ。その表情に瀀を連想させるものがあってどきりとする。
「あの、ほんとにやめてください。それに、オレに謝るのって、ちがうでしょ」
 巧はなるべく彼の顔を見なくてすむよう、視線を下げて逸らした。
「オレじゃなくて、まずは瀀に謝ってください」
 そう言ってうかがうように顔を上げると、イソウラは申し訳が立たないとでもいうように眉を下げた。
「そうだね、うん、ほんとうに」
 合わせる顔がないとでも言いたげな表情をされ、なにを当たり前のことを、と喉がもやもやする。どうしていつも、加害者が罪悪感を滲ませ、そっち側のやるせなさにこっちがつき合わなければならないのだろう。
「あの、ほんとうに瀀に謝る気あるんですか?」
「……許されるなら」
 ひどく痛ましげに唇を噛み締めているさまに、どうしてあんたが、と率直に苛立つ。
「じゃあなんで、そうしないんだよ」
 イソウラは、眉の溝をいっそう深くして押し黙るとうつむいた。彼は巧の疑問に答えようとせず、沈黙を守る。痺れを切らした巧は、とうとう自分から口を開いた。
「じゃあ、オレが瀀を呼び出したら謝罪してくれますか?」
 彼は顔を上げ、まるで子どもの瀀が甘えてくるみたいな表情で巧の顔をうかがった。瞼を何度もまばたかせるので、巧はぐっと顎を引く。ずるい、とだけ思った。
「いいの?」
「はっきり言って、たかが謝罪であんたらの関係が変わるとは思えない。だけど、しないよりはマシだ」
 というより、巧の溜飲が多少下がるというなんとも身勝手な理由だった。提案したあとに、これはとてつもなくよくないことなんじゃないかと逡巡するが、考えているうちにイソウラは、「ここじゃ目立つから」と巧を誘導する。そのとき、ふわりとなにかのにおいがして、それがあまり好まない香りだということしかわからなかった。