通称焼肉のタレ丼。豚肉(じゃなくても可)をてきとうな野菜と炒めて焼肉のタレをかけて白いご飯にどん! お好みで卵もどうぞ。という瀀の夕食に巧もあやかる。味噌汁もあ ったのでつけてくれた。
「味噌汁ってつくってんの?」
「うん、まあ」
「まじ? すげー」
「すごくないって。ばあちゃんがさ、とりあえず味噌汁飲んで野菜摂れってひとだったから、その習慣が残ってるだけ」
 へえー、と巧はめずらしいものでも眺めるように汁椀を眺める。たしかにこの中には、豆腐とわかめだけじゃなく玉ねぎやキャベツやにんじん、きのこまで入っている。ずず、と口をつけると、滋養が染み入るような味がして、ほっと息を吐いた。
「出汁取ったりすんの?」
「まさか。ほんだし最強」
 簡単だよ。と瀀も味噌汁をすすった。その「簡単」の工程も巧にしたら難しいのに、瀀はその手間暇を平然と否定する。以前クラスの調理実習の授業があり、巧は要領が悪く、てんやわんやだったくらいだ。同じ班の女子から「綾瀬まじ邪魔なんだけど」と笑われた歴史がある。それを瀀に話すと、彼は「想像つくわ」と笑っていた。
 瀀は、この家で何度味噌汁をつくってきたのだろう。焼肉のタレ丼にしろ、米にしろ、塩むすびだってそう。祖母に教わりながら、身の回りのことはなるべく自分でしてきたにちがいない。
 味噌汁のにおいをかぐ。すごく優しいにおいがして、だけど瀀は、この味噌汁が優しいにおいであることを、きっと知らない。
「瀀、オレさ」
「うん」
 巧はいったん箸を置き、瀀を見つめる。
「大学行って、小学校教諭の免許取ろうかなって考えてる」
 瀀は目をまばたかせた。
「瀀がきっかけだよ。オレん中から、あのときのことが消えない」
 自然と巧は居住まいをただしていた。
 もっと早く止められた。やれることがあった。だけどできなかった。まだ子どもだったから。ちがう、「子どもだったから」なんて、子どもだから気づいているはずがない。そうじゃなくて、巧にとって、自分の外で起きる想像がおよばないできごとは遠い国の話だった。
「悔しいままだから、ずっと。今でも」
 まるで説得でもするかのような熱のこもった口調になり、言ったそばから羞恥で顔が熱くなる。瀀は箸を持ったまま動かず、眉間の皺を深くし、なにか巧がまちがったことを言ったんじゃないかと思わせるほど、苦々しい顔をする。首の裏をかき、うつむいて箸を置いた。
「嬉しい」
「え?」
 嬉しいの? 瀀の表情と答えられた言葉が合致しなくて、巧もうまく返事ができない。
「ありがとう。嬉しい。だけど」
 瀀はうつむいたままで、これが「嬉しい」に当たるとはとうてい思えなかった。
「俺がほんとうに幽霊ならよかった」
「え、なに? なんで?」
「幽霊だったら、コウちゃんがこわがって、最初から俺に近づかなかったのに」
 肘をつき、口もとを手のひらで覆って隠し、巧から目を逸らす。
 ――浅野瀀は幽霊アパートに住んでいるらしい。
 階段上がったり下りたり、ぼーっと座っている、子どもの幽霊が出るアパートに。
 塗装がはがれた手すりを頼りに、瀀はひとり階段を上がったり下りたり、ときどきぼんやり座り、父親の怒りの波が落ち着くのをじっと待つ。そこにだれも手を差し伸べず、薄暗い街灯で浮かび上がる子どもを幽霊だとみなして。はなから巧が瀀に話しかけない可能性だってあっただろうし、話しかけたとしても翌日図書館に行かない確率だってゼロじゃなかった。むしろ、瀀に話しかけた上に翌日図書館へ行き、夏休みの間毎日のように遊ぶ確率のほうが、かぎりなくゼロに近かったはず。
 ただの分岐の問題。巧と瀀の関係も同様に。
「……そんなわけあるか」
 低く発した巧の声に、瀀は顔を上げる。とぼけたツラだったら勘弁してほしいし、反論なんてもっと聞きたくなかった。巧は焼肉のタレ丼をかっこみ、味噌汁を飲み終える。こんなに腹が立つのに、こんなにおいしい。瀀が手をかけてつくったものが。
 ごちそうさまでした、とばちんと音が鳴るほどしっかり手を合わせてから、巧は斜め前に座る瀀の肩を思い切りたたき、二の腕をたたき、胸もとをたたき、最後両肩を激しく押した。
「いてえな、なにすん……」
 こっちを見た瀀に向けて、ポケットから取り出した防犯ブザーを投げつける。反射的に目を閉じた瀀の傍に、プラスチックのまるっこいブザーが音も立てずに転がった。
「おまえは幽霊なんかじゃねえよ! ちゃんとここにいるくせに!」
 巧は畳から立ち上がると、ずかずか床が鳴るほど足音を響かせ、玄関では苛立ちが轟くように引き戸を強く引いて閉めた。帰宅するために駅に向かって足を動かしながら、腹が立ってしかたないのにふり返る。なんで追いかけてこねえんだよばか。こういう考えかたはおそらく理不尽と呼ばれるもので、わかっているのに腹の中がくすぶっている。
 巧はふと立ち止まった。理不尽であることを瀀は、「人間っぽい」と言っていた。優しくて、厳しくて、理不尽で、人間っぽい。瀀がもっと、人間らしい矛盾や葛藤に触れて生きていたら、そういう環境にいたら、自分を「幽霊だったらよかった」などと評したりしなかっただろうか。
 巧は拳を握りしめる。歯を食いしばる。とても腹が立つのに、その苛立ちを解消する方法がわからない。だから早く追いかけてこいよ瀀。
 そのとき、肩に手を置かれて全身がひやりとする。瀀じゃない、と一瞬で脳裏をよぎり、ばっとふり返った。
「え、あ、柴田?」
「こんばんは」
 にこにこ笑って近づいてくる人間にろくなやつはいない、瀀が以前口にした言葉が思い浮かび、夏だというのに皮膚の表面がぞっと粟立つ。だけど、巧のこの感覚がまちがっていたら?
「友達ん家、近いんだっけ」
「うん」
 にこにこ、そんなオノマトペがぴったりくる笑顔なのに、玉ねぎのように皮をはいだら一枚一枚茶色く濁っていそうな気がしてしかたない。
 足がすくんでしまう前に、巧は足の裏をずらした。
「お疲れ、オレも今帰るとこ。そんじゃお先」
 手早くすませて帰ろうとすると、引き止めるつもりか右手首をつかまれる。その強さとねばついた手のひらの感触が、単純に気持ち悪くて鳥肌が立った。だけど無理やりふり払うのも気が引けて、それとなく手首をひねって抜け出そうとする。しかし、もっと強く握られたあげく、手を引っぱって走り出される。
「柴田、柴田! 離せよ!」
 異議を唱えても柴田に聞き入れる気配はなく、街灯が少なくひとけのない路地に入ってようやく、手首を離される。
「いてえな、さっきからなに? いいかげんにしろよおまえ」
「……どうして」
「は?」
「どうして!」
 急に大声で怒鳴りつけられ、巧の体がびくつく。両肩をつかまれ、コンクリートに背中をたたきつけられた。顔をあげると柴田が至近距離にいて、脳天からつま先までいっきに悪寒が駆け巡る。
「きょうもあの男と一緒にいたんだろ! 俺とはラインさえ交換してくれないのにどうして! 俺がこんなに綾瀬を思ってるのにどうしてわからないんだどうして!」
 肩に食い込むほどの指の圧力と大声に、巧の心拍数がいっきに上昇する。鼓動が早くなり、腕も足もしびれて動かない。呼吸が荒くなり、まばたきするたび瞼の裏に薄汚いアパートの光景がよみがえる。近寄ってくる足音、にちゃにちゃした下品な笑み、大きな男、体を壁に放られ背中を思い切り打った。痛くて苦しくてまともに息ができない、早く逃げないと、ここから逃げないと。
 は、は、という息づかいが自分の耳にうるさい。
 こわい、たすけて。
 目の前のだれかが、巧に大声を投げていた。
 こわい、たすけて。
 耳に水が入ったみたいに、男の声がぼやけていてよく聞こえない。
 こわい、こわい。
 肩が痛かった。背中が悲鳴をあげている。息ができない。声が出せない。たすけてほしいのにだれもいない。
 とつぜん、肩にあった圧力がほどけたようになくなる。鈍く弾けるような音に意識が戻り、ここが外だとわかった。巧の前に黒髪の男が素早く通りすぎ、あ、と現状を思い出した。
「てめえなにしてやがる、殺すぞ」
 路地のコンクリートに転がる柴田に瀀がまたがる。胸ぐらをつかんで引き上げると、濁点をつけたような男の汚い声がして、巧は眉をひそめた。
「な……、なんえおまえが……、なん……」
 言葉足らずのひしゃげた男の声をさえぎるように、ふたたび肉を弾く音が鳴る。巧はぎゅっと目をつぶった。
「防犯ブザーよりでけえ声でわめき散らされたらだれだって気づくだろ」
 瀀は冷たく言い放ち、首もとを絞めるようにして襟ぐりを握った。
「おいストーカー。ずっと見てやがったのはてめえか? 警察突き出すぞ」
「……っちが、」
「あ?」
 瀀がもっと強く締め上げたのか、柴田はうなった。その気持ち悪い声を聞いているといっそう気分が悪くなりそうで、巧は瀀に駆け寄って背中を抱えて止める。
「瀀、もういい」
「よくねえよ」
「いいんだって」
「よくねえだろ、どいて」
「いいっつってんのオレが!」
 声を張り上げると、また呼吸がみだれた。息苦しさと一緒に背中の痛みがじわじわ染みて、瀀の背中にしがみついて耐える。瀀の背中がゆっくり動き、深呼吸したのがわかった。もういやだった。大男を彷彿とさせる光景も、男の汚いうめき声も、だれかに暴力をふるう瀀を見るのも。
 瀀は柴田から手を離したのか、おかしな声がしなくなる。
「ごめん、ちょっと待ってて」
 瀀が巧をそっとどかし、柴田を乱暴に引き上げた。そのままコンクリートに背中を叩きつけて肩を押さえると、う、と柴田の濁った声がする。巧は眉根を寄せた。
「いつから見てた」
 瀀は低い声音で柴田に問い詰める。
「ほんとうに……、この間、綾瀬のこと……、バスケしてる綾瀬が、ずっと好きで……」
 その答えを聞き、胃が逆流しそうなほど気持ち悪くなる。ほんとうに、どうでもいいやつの好意なんてドリアンを口に無理やり突っ込まれるようなもんだ。思うのは勝手だし自由だけれど、やりかたが暴力に等しいことになぜ気づかないのか。
「じゃあファミレスは」
「ファミレス……?」
「俺ん家の帰りは」
 柴田は首を何度も横にふる。
「知らない、ほんとうに……」
 瀀はもっと強く柴田の肩に力を込めたのか、ううう、と地鳴りのような声が路地裏に響く。
「ほんとうに知らない! 俺は駅前で待ってただけで!」
 瀀は舌を打ち、柴田の背をもっと深くコンクリートに押しつけた。
「『だけ』なんておまえが使っていい言葉じゃねえんだよ、そのツラ二度と見せんな」
 首がもげそうなほど柴田は上下に首をふり、「ごめんなさい」と謝りながらうなだれた。瀀が手を離すと、ずるずるとしゃがみ込む。
「ごめんなさい。もうしません。二度としません。ごめんなさい……」
 ごめんなさい。と連呼する憔悴しきったその姿に、なんでおまえが、と率直に思った。こっちが処理しきれないほどの恐怖を勝手にぶつけておいて、通り魔みたいなやりかたで、暴力で押さえつけて、自分の気持ちが立ちゆかないと気づいたとたん、ひとりだけ納得したのか謝罪する。許さなければこちらのあと味が悪くなり、許したとしてもずっとやりきれなさが残る。どちらを選んだところで巧が自分自身で消化するしかすべがない。
 なんでおまえが被害者みたいな顔するんだよ殺すぞ。
 なんの迷いもなくそう思った。
「許すのも許さないのもしたくない」
 巧はゆっくり立ち上がって柴田に言い放つ。
「早くオレの前から消えて、頼むから」
 どうして? どうしてこっちが懇願しなきゃならない。どうして被害者が加害者側に考慮しなくちゃならない。どうせこの男を警察に突き出したところで不起訴、もしくは示談に持ち込まれて拒絶すればこちらの体力と気力が奪われるだけ。瀀の父親でさえ障害事件あつかいでたった三年の刑罰なのに。
 どうしようもない。悔しい。
 柴田はよろよろと立ち上がり、深々と頭を下げて路地裏からいなくなる。しんとしたこの場所の湿度が高いことに、巧はようやく気づいた。体は汗だくで、首は気持ち悪くて、肩を強くつかまれた感触が残っている。手で肩をさすり、それでも消えなくて強くこすった。
「コウちゃん」
 かきむしるように何度も何度もこすった。
「コウちゃん」
 ずっと消えてくれなくて、気が狂いそうになる。
 立ち尽くしたまま、目頭が熱くなった。止める暇もなく涙がこぼれ落ち、頬を伝い、ぽつん、と音もなく水滴がたれていく。
「コウちゃん」
「悔しい、ムカつく、悔しい」
 悔しい、悔しい、悔しい、結局オレはなにもできない。
「コウちゃん、抱きしめてもいい?」
 巧は黙ったまま深くうなずいた。ためらうように伸ばされた腕に掬われ、巧も瀀の背中に手を回す。Tシャツがくしゃくしゃになるほど強く握りしめ、そのあと瀀の背中をどんどんたたいた。
「瀀がもっと早く追いかけてこなかったから!」
「うん、そうだね、ごめん」
「今度は助けるっつったじゃん!」
「ごめん。俺のこと、許さないでいいよ」
「瀀のせいだ」
「うん、俺のせいだった」
 相手のせい、自分のせい、それで収められたらいちばん楽だった。たくさんの正解があるはずなのに、どこに導かれたとしても、どこにもまるをつけられそうにない。