夏休みに入ると、学校の夏期講習に加えて塾、塾、塾!
塾帰りに瀀の自宅に連絡してみるが、電話には出なかった。つまんねーの、とふてくされつつ、行かない選択肢はない。せめて塾講師がわかりやすく熱血漢だったら愚痴もこぼせるものの、適度にジョークを交えつつ、わかりやすく楽しい講義にしてくれているのでとくに不満もない。結局推薦枠も問題なさそうという結論にいたったが、念のために併願も視野に入れているので学業もおろそかにできず、イコール勉強づくめで正直だるい。
瀀の家に着き、チャイムを鳴らすがひとがいる気配がなかった。まじかー、と空をあおぐと、もう十七時すぎているのに夏を真っ直ぐ言語化したような青々とした空の中を白い雲が泳いでいた。ソーダバー買ってくりゃよかった、と後悔するが、今さらコンビニに行くのも気が進まない。しかたなく玄関前に腰を下ろし、引き戸に背をつける。臀部についたコンクリートと背中越しの木とガラスはちょっとひんやりしていたが、すぐにぬくもってしまう。くそう夏め、と喧嘩を売ろうにも勝てる気がしなかった。
瀀早くー、と瞼を閉じていると、じわじわやかましい蝉の鳴き声が際立って聞こえはじめる。そういえば瀀とはじめて出会ったのも夏休みだったし、蝉が鳴いていた。それはそれは、耳をふさぎたくなるほど豪快なやかましさで。
あの公園は今どうなっているだろう、図書館は? 巧が高校入学と同時に地元に帰ってから、瀀を探すために足を運んだことがあった。だけどそこに瀀の姿はなかったし、何度おとずれても同じだった。それから結局、いないのをたしかめるためのような行動に気がめいり、やめてしまった。瀀はあそこにいたのに、巧だっていたのに、ふたりはもう存在しないみたいに時間だけがすぎていたのを直視するほどの強さが、自分にはなかった。
「ちょっとなにやってんだよ、あんた」
その声にはっとして、顔を上げる。エコバッグに白Tとグレーのスウェットを履いた瀀が立っていた。足もとは履き古したサンダルで、ご近所のお買いものスタイル感がすごい。
「なにって、おまえ待ってたんだけど」
「このくそ暑いときに外で待つなよ。熱中症にでもなったらどうすんの」
立てる? と瀀は巧の二の腕をつかみ、立たせようとする。ゆっくり立つと暑さのせいか一瞬立ちくらみがして、瀀の肩に額をあずけた。お日さまをじゅうぶんに吸い込んだふかふかのにおいは、ずっと吸っていたくなる。猫吸いならぬ瀀吸いは、正直毎日したい。頭皮とか、首の裏とか。
「ちょっともう、どきなって。鍵開けらんねえじゃん」
そっけなく体を離され、つれない黒猫のような態度にぶすくれた。瀀はスウェットのポケットから鍵を取り出すと玄関の鍵を開け、「どうぞ」と巧を促した。
「あっちーよー」
「はいはい、お茶飲みな」
玄関をあがり、台所に行くと瀀は、エコバッグを置いて冷蔵庫から冷水筒を出した。グラスに冷えた麦茶を注いでからエアコンをつける。巧はグラスのお茶をいっき飲みし、おかわりをねだってもういっぱい飲んだ。喉を伝って食道を通る感覚をクリアに感じるほど水分をほっしていたらしい。瀀がエコバッグの中身を片づけている間、巧は隣の畳の部屋でごろんと横になる。
エアコンの風がよく当たり、Tシャツの裾をばたばたあおぐ。「すずしー」とだらしない声が自然と口からこぼれ、畳のいぐさの感触もにおいにも安心する。きょう塾で勉強した内容がぜんぶ吹っ飛びそうなほどリラックスしていた。
「そういや、きょう瀀の母ちゃんは?」
あんまり大胆にくつろいでいたので、一度起き上がって瀀にたずねた。彼は冷蔵庫に野菜や肉類を収めていた。
「さあ、帰ってくんのかねー? 基本的にあのひとと俺、時間合わねえしなあ」
わからん、と言う瀀は、取り立てて焦るようすがひとつもない。
「え? なんだよそれ」
「あのひと夜の仕事だし、俺は日中いないしね。だけどそっちのが気楽だよ。彼氏の愚痴聞いたりなぐさめたり、めんどくせえもん」
過去に何度も同じことがあったとでもいうような、ほとほと疲れはてたという口調だったが、彼女を心底憎んでもきらいでもないとでも言いたげな涼しげなものだった。だけど、彼女のほうは瀀をひとりにして心配じゃないのだろうか。
「おーい、眉間に皺寄ってるよ。先輩」
「だって……」
瀀に言われて気づいた。知らぬ間に、顔面に力が入っていた。あの母親が昔からそうだったから、だから結果的にあんなことになったんじゃないのかとむかむかする。だけど瀀は、ほんとうになんてことないように、むしろ甘やかな口調で巧に答えた。まるで巧をなぐさめるように。
「あのひとさ、すぐに泣いたり怒ったり、彼氏に合わせて服装変えたり、影響されやすいわりに薄情なんだよ。男と別れて俺に泣きついて、だけど三日もすりゃけろっとしてんの。起き上がり小法師みたいだよね、弱いんだか強いんだかわかんねえ。きょうも元気にスナックにお勤めすわ、あの母さんは」
冷蔵庫に食材を入れ終えたのか、瀀は冷蔵庫の戸をばたんと締める。ぶうん、という電子音が放たれるのが、ここまで聞こえた。
「生活費や学費やなんかはちゃんとしてるし、だからいいんじゃない? 俺もあのひとに今さら期待してないからさ、そういうのも薄情だろ? だからお互いさま」
「でも」
無理をしている雰囲気はなくて、寂しさを濁したり巧を突き放すための強がりとも思えなかった。本心からそうであるのは伝わって、だけどやっぱり、自分はまだ瀀を支えることも経済的に助けることも、なにもできないのだと突きつけられたみたいで反論したくなる。
「まあでも、母親だからさ、頼られたら放っとけないかもな。捨てるのって結局、弱いほうだしね」
どうしても納得できず、じっと瀀を見る。すると彼は困ったように笑い、巧に近づいて眉間の部分をぐいぐい広げようと触れる。いつの間にか、眉間の皺が深くなっていたらしい。
「あんたは? きょうはどうしてたの?」
瀀は巧の斜め前に腰を下ろす。
「……塾」
後ろめたいことなんてひとつもないのに、自分はなんて気楽だと思ってしまう。
「うーわ、まじで受験生やってんだね」
瀀の軽口にほっと安堵して、ふだん通りに話しはじめた。
「推薦はたぶん大丈夫なんだけどさー、一応すべり止めで併願すんの。だから塾行っときましょうやっていう」
瀀にはまだひとごとなのだろうけれど、二年後の今ごろ、彼も巧と同じようになるのかもしれない。まだ見当もつかないが、巧だって高一だったころは頭にもなかったのだ。自分が進学するとか、その先があることが。
巧はふたたび、畳にころんとあお向けになり瞼を下ろす。高校を卒業しても、そのあとも、一緒にいられるかぎり瀀といたい。瀀が今ひとりでいるからではなく、弱いほうが捨てるだなんて捨てられる覚悟を持っているからでもなく。
瞼を閉じたままでいると、ふっと影が落ちてきたのがわかった。気になって目を開けると、瀀が巧の顔の横に手をついて見下ろしていてびっくりした。驚いたのは、こんなにも近いのにこの男は、一点の狂いもなくずうずうしいほどきれいだったから。
今の瀀は、小四の瀀じゃない。もう何度実感しただろう。だけどその表情や行動を体感するたび、心臓が痛いほど跳ね上がった。自分の鼓動が、耳にはっきりと届く。体が蝋で固められたように身動きが取れなかった。
整っているとか美しいとかじゃなくて、だれもおいそれと近寄れない存在感が瀀にはあった。つるんとした肌質や、すうっと切れ長の瞳も、通った鼻筋も。そのどれもがただしいのに、どの言葉もただしくない圧倒的なひと。なにかの神さまに見そめられて、連れて行かれてしまったらどうしよう。
「あんた、見すぎだよ」
「だって……、瀀が悪い」
「コウちゃんが無警戒すぎるのが悪い」
瀀の顔が近づき、キスされる、と目をぎゅっとつぶった。だけどなにも起きず、触れられず、そろりと瞼を起こすと瀀は巧から離れていた。
「腹減らねえ?」
巧から顔を逸らした瀀は立ち上がり、さっさと台所に向かった。
よかったのに、と瀀に背を向けるように右を向く。
塾帰りに瀀の自宅に連絡してみるが、電話には出なかった。つまんねーの、とふてくされつつ、行かない選択肢はない。せめて塾講師がわかりやすく熱血漢だったら愚痴もこぼせるものの、適度にジョークを交えつつ、わかりやすく楽しい講義にしてくれているのでとくに不満もない。結局推薦枠も問題なさそうという結論にいたったが、念のために併願も視野に入れているので学業もおろそかにできず、イコール勉強づくめで正直だるい。
瀀の家に着き、チャイムを鳴らすがひとがいる気配がなかった。まじかー、と空をあおぐと、もう十七時すぎているのに夏を真っ直ぐ言語化したような青々とした空の中を白い雲が泳いでいた。ソーダバー買ってくりゃよかった、と後悔するが、今さらコンビニに行くのも気が進まない。しかたなく玄関前に腰を下ろし、引き戸に背をつける。臀部についたコンクリートと背中越しの木とガラスはちょっとひんやりしていたが、すぐにぬくもってしまう。くそう夏め、と喧嘩を売ろうにも勝てる気がしなかった。
瀀早くー、と瞼を閉じていると、じわじわやかましい蝉の鳴き声が際立って聞こえはじめる。そういえば瀀とはじめて出会ったのも夏休みだったし、蝉が鳴いていた。それはそれは、耳をふさぎたくなるほど豪快なやかましさで。
あの公園は今どうなっているだろう、図書館は? 巧が高校入学と同時に地元に帰ってから、瀀を探すために足を運んだことがあった。だけどそこに瀀の姿はなかったし、何度おとずれても同じだった。それから結局、いないのをたしかめるためのような行動に気がめいり、やめてしまった。瀀はあそこにいたのに、巧だっていたのに、ふたりはもう存在しないみたいに時間だけがすぎていたのを直視するほどの強さが、自分にはなかった。
「ちょっとなにやってんだよ、あんた」
その声にはっとして、顔を上げる。エコバッグに白Tとグレーのスウェットを履いた瀀が立っていた。足もとは履き古したサンダルで、ご近所のお買いものスタイル感がすごい。
「なにって、おまえ待ってたんだけど」
「このくそ暑いときに外で待つなよ。熱中症にでもなったらどうすんの」
立てる? と瀀は巧の二の腕をつかみ、立たせようとする。ゆっくり立つと暑さのせいか一瞬立ちくらみがして、瀀の肩に額をあずけた。お日さまをじゅうぶんに吸い込んだふかふかのにおいは、ずっと吸っていたくなる。猫吸いならぬ瀀吸いは、正直毎日したい。頭皮とか、首の裏とか。
「ちょっともう、どきなって。鍵開けらんねえじゃん」
そっけなく体を離され、つれない黒猫のような態度にぶすくれた。瀀はスウェットのポケットから鍵を取り出すと玄関の鍵を開け、「どうぞ」と巧を促した。
「あっちーよー」
「はいはい、お茶飲みな」
玄関をあがり、台所に行くと瀀は、エコバッグを置いて冷蔵庫から冷水筒を出した。グラスに冷えた麦茶を注いでからエアコンをつける。巧はグラスのお茶をいっき飲みし、おかわりをねだってもういっぱい飲んだ。喉を伝って食道を通る感覚をクリアに感じるほど水分をほっしていたらしい。瀀がエコバッグの中身を片づけている間、巧は隣の畳の部屋でごろんと横になる。
エアコンの風がよく当たり、Tシャツの裾をばたばたあおぐ。「すずしー」とだらしない声が自然と口からこぼれ、畳のいぐさの感触もにおいにも安心する。きょう塾で勉強した内容がぜんぶ吹っ飛びそうなほどリラックスしていた。
「そういや、きょう瀀の母ちゃんは?」
あんまり大胆にくつろいでいたので、一度起き上がって瀀にたずねた。彼は冷蔵庫に野菜や肉類を収めていた。
「さあ、帰ってくんのかねー? 基本的にあのひとと俺、時間合わねえしなあ」
わからん、と言う瀀は、取り立てて焦るようすがひとつもない。
「え? なんだよそれ」
「あのひと夜の仕事だし、俺は日中いないしね。だけどそっちのが気楽だよ。彼氏の愚痴聞いたりなぐさめたり、めんどくせえもん」
過去に何度も同じことがあったとでもいうような、ほとほと疲れはてたという口調だったが、彼女を心底憎んでもきらいでもないとでも言いたげな涼しげなものだった。だけど、彼女のほうは瀀をひとりにして心配じゃないのだろうか。
「おーい、眉間に皺寄ってるよ。先輩」
「だって……」
瀀に言われて気づいた。知らぬ間に、顔面に力が入っていた。あの母親が昔からそうだったから、だから結果的にあんなことになったんじゃないのかとむかむかする。だけど瀀は、ほんとうになんてことないように、むしろ甘やかな口調で巧に答えた。まるで巧をなぐさめるように。
「あのひとさ、すぐに泣いたり怒ったり、彼氏に合わせて服装変えたり、影響されやすいわりに薄情なんだよ。男と別れて俺に泣きついて、だけど三日もすりゃけろっとしてんの。起き上がり小法師みたいだよね、弱いんだか強いんだかわかんねえ。きょうも元気にスナックにお勤めすわ、あの母さんは」
冷蔵庫に食材を入れ終えたのか、瀀は冷蔵庫の戸をばたんと締める。ぶうん、という電子音が放たれるのが、ここまで聞こえた。
「生活費や学費やなんかはちゃんとしてるし、だからいいんじゃない? 俺もあのひとに今さら期待してないからさ、そういうのも薄情だろ? だからお互いさま」
「でも」
無理をしている雰囲気はなくて、寂しさを濁したり巧を突き放すための強がりとも思えなかった。本心からそうであるのは伝わって、だけどやっぱり、自分はまだ瀀を支えることも経済的に助けることも、なにもできないのだと突きつけられたみたいで反論したくなる。
「まあでも、母親だからさ、頼られたら放っとけないかもな。捨てるのって結局、弱いほうだしね」
どうしても納得できず、じっと瀀を見る。すると彼は困ったように笑い、巧に近づいて眉間の部分をぐいぐい広げようと触れる。いつの間にか、眉間の皺が深くなっていたらしい。
「あんたは? きょうはどうしてたの?」
瀀は巧の斜め前に腰を下ろす。
「……塾」
後ろめたいことなんてひとつもないのに、自分はなんて気楽だと思ってしまう。
「うーわ、まじで受験生やってんだね」
瀀の軽口にほっと安堵して、ふだん通りに話しはじめた。
「推薦はたぶん大丈夫なんだけどさー、一応すべり止めで併願すんの。だから塾行っときましょうやっていう」
瀀にはまだひとごとなのだろうけれど、二年後の今ごろ、彼も巧と同じようになるのかもしれない。まだ見当もつかないが、巧だって高一だったころは頭にもなかったのだ。自分が進学するとか、その先があることが。
巧はふたたび、畳にころんとあお向けになり瞼を下ろす。高校を卒業しても、そのあとも、一緒にいられるかぎり瀀といたい。瀀が今ひとりでいるからではなく、弱いほうが捨てるだなんて捨てられる覚悟を持っているからでもなく。
瞼を閉じたままでいると、ふっと影が落ちてきたのがわかった。気になって目を開けると、瀀が巧の顔の横に手をついて見下ろしていてびっくりした。驚いたのは、こんなにも近いのにこの男は、一点の狂いもなくずうずうしいほどきれいだったから。
今の瀀は、小四の瀀じゃない。もう何度実感しただろう。だけどその表情や行動を体感するたび、心臓が痛いほど跳ね上がった。自分の鼓動が、耳にはっきりと届く。体が蝋で固められたように身動きが取れなかった。
整っているとか美しいとかじゃなくて、だれもおいそれと近寄れない存在感が瀀にはあった。つるんとした肌質や、すうっと切れ長の瞳も、通った鼻筋も。そのどれもがただしいのに、どの言葉もただしくない圧倒的なひと。なにかの神さまに見そめられて、連れて行かれてしまったらどうしよう。
「あんた、見すぎだよ」
「だって……、瀀が悪い」
「コウちゃんが無警戒すぎるのが悪い」
瀀の顔が近づき、キスされる、と目をぎゅっとつぶった。だけどなにも起きず、触れられず、そろりと瞼を起こすと瀀は巧から離れていた。
「腹減らねえ?」
巧から顔を逸らした瀀は立ち上がり、さっさと台所に向かった。
よかったのに、と瀀に背を向けるように右を向く。