目指せベスト8、なんてえらそうにのたまっておいて、今年の県大会もベスト16という結果に終わった。三年生はこれにて引退、バスケ部は後輩に引き継ぐようになり、キャプテンだった巧は、これもまたえらそうに挨拶をして、ちょっと感極まったりして、そうしたらほんとうに、「終わってしまった」感が打ち寄せてきた。
 丹羽と「お疲れ!」と言い合い、「これから受験一本かー」なんて打ちひしがれたみたいに気の抜けた声で現実的な話もして、なんというか、ナイフとフォークを使ってじょうずに食事をしていたはずが、これからはフォーク一本でどうぞ、と急にナイフを取り上げられた気分だった。
「ということなんだよ」
「なるほど」
 屋上で塩むすびを頬ばる瀀に話していると、きょうも部活ないんだよな、とことさら実感が湧く。空気がぜんぶなくなった風船みたいに、しおしおとしぼんでいった。
「まあ、なんにせよお疲れさん」
 瀀はそう言って、塩むすびをつつんでいたラップをビニール袋に入れた。この日も給水タンクにもたれながら話しているが、陰は陰でも日中は気温が上がってきたように思う。屋上の秘密基地感はいつまで経っても失われないくせに暑いものは暑くて、こちらも例にもれず時間の経過を感じさせる。いっきに進んだ季節にともない衣替えもすんで、瀀はもうネクタイを結ばずにすむようになった。ただの開襟シャツに濃紺のスラックスといういでたちは、とても平均的な制服だった(シャツの裾は出ているけれど)。
「なあ、浅野もバスケしねえ?」
 丹羽は瀀を誘うと、よっしゃ上がり! とトランプをアスファルトに清々しく投げた。小野寺と岸が大げさに残念がる。丹羽は最近、昼休みはこっちに合流するようになった。昼になるとしょっちゅう教室を抜け出す巧に、「最近どこ行ってんの?」と単純に疑問を投げかけられたのがきっかけだった。大事な要素を削ぎ落としたあらすじ以下の巧の説明に興味を持った丹羽は、屋上までついてきたのだ。
 もともと陽キャでコミュ強の丹羽と彼らはウマが合うのか、くだらない話をしたりトランプや花札に興じるようになった。
「俺がバスケに参加したらただの足手まといになっちゃうんで、パスでおなしゃす」
 瀀はほがらかに笑いながら答えた。丹羽は「そっかー?」となんとなく納得いかないようすだったが、リベンジだという小野寺につき合ってトランプを再開する。ただのババ抜きだけど。
 巧以外と話すときの瀀は、相手に合わせるのがうまい。丹羽と話すときは先輩だからか親しみを持ちつつ馴れ馴れしくしないし、岸や小野寺とは会話の内容も急にばかっぽくなって年相応。だけど、どっちもおだやかであるのが共通点だった。むやみやたらに不機嫌になったり、取りみだしたりもしない。基本的に平温状態を維持しており、熱が上がることもなければ、急激に下がることもないような。
 小四と高一の瀀を堪能できるのは巧だけだという自負があり、だれが相手だとしても一歩も二歩も出し抜いた気分だった。
「え、なに気持ち悪い顔してんの?」
 瀀は巧からほどよく距離を取った。
「気持ち悪い言うな! どこからどう見ても気持ちいい顔してんだろ!」
「どんな顔だよそれ」
 ゆるく笑う瀀の表情もしぐさも、ふたりきりのときと同じようで誤差があるし、肩が触れそうなくらいの距離にはいない。ほんの少し、十センチくらい開けている。気まずいとか周囲にばれてほしくないというマイナスの捉えかたではなく、ふたりのことをふたり以外に明かしたくない。それだけは、お互いに伝え合わなくてもわかる。
「それよりもさ、柴田だっけ? なんか変わったことあった?」
「いや、ないんだよそれが」
 県大会でも平浜高とは当たらず、その後はこちらが拍子抜けするほど関わりがなくなった。たまたま会うこともないし、ライン云々も同様に、会わなければ交換することもない。そういえばここのところ、あの生々しく陰湿な視線におびやかされることもなく、巧が過剰反応していただけかもしれない。
「ふーん」
 瀀はすこし考えるように親指で顎をなぞる。口をつぐみ、そのまま黙ってしまった。
「気にすんなって、大丈夫だろ」
 わはは、と口いっぱい開けて気前よく笑いながら、瀀の背をたたく。彼はあきれていたが、実際に重く考えすぎるのはよくない。なにもないならないほうがいい。最近ずっと上り調子でいるのに、それが崩されるのはたくさんだった。だって、瀀とこの高校で一緒にすごせる時間なんて、そう多くはないのだから。
 夏休み前になると、二者面談があった。担任の年齢や詳細な部分は知らないが、おそらく三十代半ばの彼と教室で机をくっつけて向かい合っている。志望大学の話やあるいは専門学校への進学か就職か、担任とマンツーマンで話す憂鬱な時間。担任は、巧が以前提出した進路希望の紙を、じっくりと眺めていた。
「この調子でいけば、綾瀬は推薦も大丈夫そうだな」
 巧は最初、とりあえず大学という程度の気持ちで指定校推薦の希望を記入していた。とくべつ向上心もなく、大学でもバスケをして楽しくすごして、ゆくゆくは就職、と自分の将来に深く追求することもなかった。だけど。
「先生オレ、ちょっと考えてることあるんですけど」
「ん?」
 担任はタブレット片手に、どうした? と尋ねるように小さく首をかしぐ。
「子どもが児童養護施設に行く手前のところで食い止める手助けっていうか、SOSを直接受け取りたいんです。それを勉強できる大学ってありますか?」
 瀀と再会したあとからくすぶっていた小さな塊が、ずっとあった。次第に大きくなっていたビジョンが、口にしたことにより明確になる。あのとき、瀀があの状況にいたるまでに、おとなが関わる方法はいくらでもあったはずだ。だけどだれかが中途半端にブレーキを踏んでやっかいごとを避け、首を突っ込もうとしなかった。第三者が、親以外が、たとえお節介でも介入できるチャンスがほしい。
 あのときの瀀に伝えたかった。瀀がかわいそうなんじゃない。オレがかわいそうなんじゃない。周りが、おとなが、瀀やオレを身勝手に傷つけただけだって。
 担任は一拍きょとんとしたのち、タブレットを使いはじめる。
「児童養護施設で働くなら、教員免許や保育士の資格が必要だけど、べつに資格がなくてもいいのか。だけどそれ以前となると……」
 かたかた、と静かな教室内にタブレットのキーボードを叩く音がした。しん、としているのに、空気そのものがこわばって重いわけじゃない。
「社会福祉士あたりか、小学校の教員もありかもしれない。となると心理学、教員免許が取れる大学か。しかし社会福祉士は難しいぞー?」
 ほれ、とタブレットを見せられたが、国家資格で合格率三十パーセントと書かれてあり、ぎょっと肩が揺れた。いきなり怯みそうになる。
「子どもと直接関わって最悪な事態を食い止めたいなら、小学校教諭もいいんじゃないか?」
 がんばんなさい。と担任はしみじみした口調で言い、またタブレットになにか打ち込みはじめた。小学校教諭、と想像し、まったくイメージが沸かず、ぼんやりした。自分が教師? と疑問符も浮かぶ。だけど、ぱっと目の前が明るく拓けた気がして窓に目を向けると、ほんとうに暑すぎるくらいの日差しが巧の頬を熱していた。夕暮れの手前の、目に痛いほどの強い橙色の光。
 進路なんて、これまでの自分には漠然とした言葉だったのに、きゅっと焦点が定まった気がした。