夜の肌寒さが、だんだんとやわらいできていた。瀀とふたりで歩く駅までの道すがら、夜風にすっきりとした心地よさを感じる。これから猛スピードで湿度が勢いを増していくのかもしれない。ついこの間までは風にも夜の気温にも、居残りを命じられて拗ねた冬の残骸があったのに。季節って、暦上ではきっちりスタートとゴールが割り振られているのに、人間の体感はまったくちがうのがふしぎだった。
 瀀は黙って巧の隣を歩いていた。ネクタイを着けたまま、ブレザーは着なくて、制服のポケットに手を突っ込んでいる。肩が触れるか触れないか、その距離がもどかしくて、首の裏がむずがゆいのか痛がゆいのかわからなくてむずむずする。瀀の「我慢」という表現を反芻していると、なんの違和感も気持ち悪さもなくて、巧はむしろ腑に落ちてしまった。
 こうなることが当たり前で、自然で、だれに理解してもらわなくてもかまわない、それ以外の選択肢なんて考えられないとうぜんの流れだと。
「瀀、ネクタイの結びかた覚えたか?」
「覚えられるわけねえっしょ、理性との戦いすわ」
 存外ぴしゃりと言い放たれ、巧はぐっと息を呑む。気恥ずかしいのか、立つ瀬がないのか、すごく微妙だった。「だけど」と続けられ、横目で瀀を覗く。瀀は眉をひそめ、小難しそうな顔をした。
「こわがらせたこと、ほんとうにごめんね」
 うん、と返事をしようにも、ちがう、と返そうにも自分の中で納得いかないから言葉にできない。オレだって瀀に触りたい、そう思うのに、うまくいかない。代わりに瀀の手を取り、痛いほど強く握る。「痛えな」とわざとらしく手を振って痛がる真似をするので、やっと緊張がゆるんだ。
「まだしんどい?」
 瀀が、小さな子どもにたずねるような口調で言う。自分のほうが年上なのにこうしていたわられるのは、大事にされているというより、変にくすぐったかった。
「だから大丈夫だっつってんだろ、だいたいおまえのせいじゃねえし」
 こういう言いかたをするから強がりだと誤解されるのかもしれない。だったらどう切り返すか、繋いだ手をぶんぶん振りながら、ぱっと思いつく。
「今度はもうちょっと、弱めに握って。強いとまだちょっとこえーから」
 なんの偽りなくきっぱり告げると、瀀は繋いだ手を勢いよくはずして深々とため息をつきながら手のひらで顔を覆う。
「あんたはもー……」
 立ち止まった瀀につられ、巧も足を止めた。瀀の顔を下からまじまじと覗き込むと、「見んな」と逆の手で払われる。照れてる、とわかりやすいほどわかるしぐさに、声を上げて笑ってしまった。
「ほんともう、そういうこと言うのやめて。あんたもわかるだろうけど、男なんて脳みそすぐばかになるからね。気をつけてくださいよ、まじで」
 瀀はそう言い、だけどすぐに失言だったとでも言うように「ごめん」と重ねた。
「いやちがうな、そういう問題じゃねえよな。ごめん」
 その口調はとりあえず謝っておこうとか、慌てて取りなすというやっつけ感はまったくなく、「ごめん」という「ごめん」だった。装飾のない、真っ向からの謝罪。瀀はひとり勝手に解決したようすで、巧の隣をざかざか歩く。ぴしゃりと簡潔なふる舞いに、巧の中に残るグレーに染まった欲はそのままごろごろとうごめいていた。
「ネクタイ、あしたはちゃんと結べよ……」
「善処します」
 笑った瀀の横顔を覗くと、黒髪が揺れていた。耳朶を飾る小さなピアスがちょこんと存在している。小四と小六の夏は、とうにすぎ去ったあとだとこういう瞬間に幾度となく思い知らされる。
 駅前は、ぽつぽつとひとの往来があった。あまり大きくないこの駅は、すぐ隣駅が動だとしたら、静だと思う。
「じゃあ、気をつけて」
 瀀が背を向けかけたとき、巧はどうしてか呼び止めていた。「ん?」と彼はふり返る。
「あー、いや、あのさ」
「うん」
 なにか話題、と思考を巡らせ、そうだったと閃いた。
「来週から県大会でさ、昼練もあるし夜も遅いかも」
「そっか、最後だもんな。がんばれ」
「え? そんだけ?」
 釈然としなくて早々に突っ込むと、瀀は首をかしげる。
「もっとなんかねえのかよ、ほれ、オレに会えなくて寂しい的ななんかが」
「いやー、期待はずれの回答で申し訳ないっすね」
「おまえなあ!」
 巧が食いつくと、瀀は瞼を伏せながら制服のポケットに手を突っ込み直す。
「そりゃあんた最後なんだからさ、俺にかまけてないでやんなきゃでしょ」
 つい三十分前も、ついさっきだって、こんなに落ち着いておとなびたようすなどなかったのに、この男はいくつの表情と感情を見せるのだろう。子どもとおとながごちゃ混ぜになる瀀には毎回負けている気がして、いまいちすっきりとしない。
「寂しくなってもかまってやんねえかんな」
「はいはい」
 瀀は屈託なく笑うと目がきゅっと細くなり、口角が上がって八重歯が目立つと幼い。要所要所にとうぜん小四の瀀の面影があり、それが今の瀀と混ざり合うと、グラデーションの幅についていけないときがある。置いていくなよ、と引き止めてしまいそうだ。
 そのとき、とん、と後ろからだれかに肩に手を置かれ、ひゅんと全身が跳ね上がるほど驚いた。いきなり触れてくる馴れ馴れしさに訝しみながらふり返ると、巧は「あ、」と口を開ける。
「綾瀬、ぐうぜんだね」
「柴田?」
 平浜高のバスケ部の三年だった。家がこのあたりなのだろうか。それよりも最初の感触の薄気味悪さが気にかかったが、フラッシュバックの件もあって、単に自分が驚いただけかもしれない。
「藤南は、最近練習どう?」
 柴田はやわらかくほほ笑みながら巧に問う。
「あー、まあ県大会来週だしな、厳しいよ」
「だよね、うちも」
 柴田に気づかれないよう、こっそりと瀀を見やった。彼は睨むでもないじっくりとした眼差しで柴田を見ている。柴田はというと、瀀の視線にも気づいていないのかにこやかだった。
「柴田はこのへん住んでんの?」
「いや、友達ん家の帰りだよ」
 へえ、と答えたと思う。柴田って、こんなふうに静かでおだやかな口調だっただろうか。PGというポジション柄、指示を出す際はもっと声音をはり、大胆ではなかったか。だけどそのようすは、ひょっとして巧の思い込みか。今の柴田とどうにもうまく重ならず、判然としない。
「あ、そうだライン、交換しない? 丹羽にも話したんだけど」
 そうだった、と思い返しつつ、ポケットに手を突っ込む。スマホを握り、だけど結局表には出さなかった。
「ごめん、家に忘れてきたみたいでさ。また今度な」
「そうか、わかった」
 柴田はひと当たりのよさそうな笑みをこぼし、「じゃあ大会で」と駅構内に向かっていく。足を踏み入れる前に、一度ふり向いた。
「そっちの彼も、さよなら」
「どーも、お疲れす」
 おざなりに会釈した瀀は、柴田の背から目を逸らす。巧はポケットに手を突っ込んだまま、その手を出せないでいた。
「嘘つき」
 瀀が鼻で笑うように言うので、かすかにむっとした。
「なにがだよ」
「スマホ。家に忘れてないくせに」
「あれは……」
 なんとなく、柴田に個人情報を渡すのをためらった。しいて言えば、肩に置かれた手の感触が、不気味だったことがどうしても気になる。
「まあ、あんたが嘘ついてくれてよかったよ。じゃなかったら止めてた」
 巧は瀀の発言に驚く。
「え、まさか嫉妬……? やめとけよおまえ、あいつはそういうんじゃねえぞまじで」
「ちがうわ」
「ちがうんかい」
 けっ、と唾を吐くみたいに下唇を突き出してやると、瀀はふっと吹き出した。
「あんたさ、ちゃんと防犯ブザー持ってるよな?」
 瀀がまるで忘れものがないか確認するおとなみたいな口ぶりでたずねてくるので、今度は巧が笑ってしまう。スマホとは逆側のポケットに手を突っ込み、瀀に見せつけてやった。
「これが目に入らぬか」
「はは、えらそーに」
 瀀は少しだけ笑って、だけどそのあと真剣さをたたえた表情で見つめられて、巧はごくりと息を呑んだ。
「いやな予感がする。用心して」
 瀀の真顔におどされているみたいで、いやな方向に心臓が跳ねる。
「やめろよ、おどかすなよ」
「おどかしてるっつーか、ただの勘。ちがうならべつにいいけど、にこにこ近づいてくるやつにろくな人間はいねえなっていう俺調べ」
 どことなく、当たらずとも遠からずな気がしなくもなくて、巧は腕を組んだ。むむ、と口を結び、柴田とのこれまでのやり取りを思い返してみるが、いちばん大きな関わりといえば練習試合くらいしかない。公式戦で当たったのも数回だし、ファウル関連の悪質さもない。よくも悪くも平浜高はフェアプレーをするし、柴田もしかり。バスケ以外の話をしたこともない。
「わかんねえー」
 頭を抱えて空をあおぐと、このあたりは街灯も少なく高層ビルもないせいか、星がきれいに見えた。白い点がきらびやかに、等間隔ではなくまだらに浮かんでいる。こうして夜空を見上げていると、あちらが上なのかこちらが下なのかときどき判別がつかなくなりそうだった。だってあっちにはきっと、上も下も、その認識はない。きれいに見える星だって、ほんとうはただの岩なのに。こっち側の人間たちに「美しいですよ、ごらんなさい」なんてのたまってもいない。
「わからん、思いつかねえや」
「つーか、いきなり肩に触ってくるとかふつうにアウトだろ」
「やっぱ嫉妬じゃん」
「だからちがうって」
「かわいいなー瀀は」
 からかってやろうと瀀の頭をぐしゃぐしゃになでてやると、「やめろ」と猫がしゃーっと怒って噛みつくみたいに雑に手を払われた。ちえ、と巧は口をとがらせる。
「とにかく気ぃつけな。なんかあったらすぐに連絡して」
「へーい」
 じゃあな、と巧は瀀に手をふって駅構内に向かう。数メートル歩いてふり返ると、瀀はまだそこにいた。大きくぶんぶんふると、彼は右手を上げる。大げさにふるのではなく、そっと見守るように。ここにいるよ、と大仰ではないかたちで示す。オレもここにいるよ。
 巧はポケットにふたたび手を入れる。触れたプラスチックのつるんとした手触りが、そこにあった。