県大会前の部活は厳しく、練習を終えるとくたくたになった。練習着から制服に着替えながら、きょう瀀の家に行ってみようかな、と浮かんだ瞬間、急に体がしゃきっとする。ぱぱっと着替え終えると部室を出て、早々に電車に乗っていた。
 近くまで来てるから行っていい? と電話してたずねた巧に瀀は、「え?」と驚いたようすだった。「いいけど」と続けられるが、そのあとはぴたりと会話が止んだので、すぐに行く旨を伝えて電話を切った。「けど」にはどういう意味があったのか、巧にはわからなかった。
 玄関のチャイムを鳴らすと、中から足音がする。
「ほんとに来たんだ」
 引き戸を開けた瀀は、バイトから帰ったばかりなのかまだ制服だった。ブレザーを脱いでいて、だけどネクタイはつけていない。はずす以前に、毎日結んでいないんじゃないかと思う。
「こんばんは」
 とつぜん瀀の家に来たことに罪悪感がないわけではなかったが、わざと悪びれなくからりと笑ってみせる。瀀は巧が押しかけたことにもう降参してしまったのか、とやかく言うことなく自宅に招き入れてくれた。後ろ手で引き戸を閉めるとレールが重そうな音を立てるが、戸自体は意外と軽い。
 瀀の家はこの日も先日と同じにおいがして、すんすんかいでいるとそのうち違和感がなくなる。ひとさまのお宅にお邪魔するときって、まずは自分の体がそのにおいに溶け込むところからはじまる気がする。
「あんた部活帰りに来るとか、めんどくさくねえのかよ」
「いや? そうでもない」
「もの好きなひとだよね、ほんと」
 台所に向かう瀀について、巧も続いた。
「先輩腹減ってない? 俺コンビニの廃棄弁当もらってきたからさ、なんもねえんだよね。どうしようかな」
 そう言うと瀀は炊飯器を開け、「米が残ってんなー」とつぶやいた。巧はあたりを見渡すが、きょうは瀀の母親はいないらしい。居間にも台所にも、祭壇にもひとの気配はなくがらんとしており、この日も写真の中の瀀の祖母は、以前と変わらない表情で笑っていた。
「おにぎりでも食べる? 塩結びだけど」
「食う! やった!」
「一緒に握ってみる?」
「やるやる」
 自然と弾んだ巧の声につられたのか、瀀はくしゃっと目をほころばせた。手を洗った瀀は、炊飯器から釜だけをどんとワークトップに置いた。巧も手を洗い、袖をまくる。
「けっこう残ってるからぜんぶ握っとこうかな。あまったらあした俺が食うわ。つーかあまらせてね、楽だから」
「えー、ぜんぶ食っちゃだめなの?」
「あんたは家帰ってからちゃんとメシ食ってください。つかさ、俺のバイト帰り狙ったみたいにうちに電話かけてくんのな」
「そうなん? タイミングがよかっただけじゃね?」
「よかったんかねー」
 スマホから家電にかけるってめったにない。というより、ほぼゼロに等しい。電話をかけるときじゃっかん緊張して、だけど「はい、浅野です」と応える瀀の低くてちょっとかしこまった声がめずらしくて、当たりくじを引いた気分になった。だけどこの当たりくじは、巧がここに電話すれば100パーの確率で引くのだ。それもまたいい気分だった。
 瀀はコンロの傍にあるラックから塩を取って蓋を開けると、てきとうな量を釜の中のご飯に直接ぶち込んでしゃもじでざくざく混ぜた。ちょろちょろ出した水に手をさらし、ほどよく濡らしてしゃもじでご飯を掬うと三角に握っていく。巧も真似てやってみるが、うまく三角がつくれない。「ぶさいくー」とからかって笑う瀀は、ふだん通りの瀀だった。
「先輩早めに帰んなよ? お母さんに心配されちゃ困るし」
「わかってるよ!」
 少々乱暴に答え、当てこするように握ったおにぎりを頬ばった。「フライングすんな」と苦笑する瀀に笑い返す。塩かげんがちょうどいい塩梅で、部活後の体によく沁みた。
 昔、瀀におにぎりをたくさん握ったなあ、と思い出して、ちょっと感慨にふける。あのころ瀀は、最大のごちそうのようにおにぎりを食べた。頬にときどき、米をつけて。かわいかったんだよなー、と思わずじっと瀀を覗くと、「なんだよ」とあやしまれる。巧は首をふり、ふたたびおにぎりを握った。
 できあがったおにぎりを皿に盛ると、瀀は隣の食卓に運ぼうとする。「あ」と巧が口を開けると、瀀の足が止まった。
「なあ、瀀の部屋ってどんな感じ?」
「は? どんなって、ふつうだよ」
「見せろよ、なあ」
「え、まあ、いいけど……」
 また出た。「いいけど」。そのふくみはなんだ、と問いたくなるけれど我慢して、まずは瀀の祖母に線香をあげる。こんばんは、また来ました、と挨拶してから台所をあとにした。
 階段はやっぱり急な勾配で、足を置くたびに踏み板がぎいぎい鳴った。甲高い声で鳴く動物みたいな音で、慣れるまではちょっとこわそうだ(とくに夜中)。手すりはさらりとした丸板で、触れるとすべすべした感触が心地よく、ひんやりしている。二階はすべて襖で、右にひとつ、左にふたつあった。瀀は右手側の襖を開けたので、ここが瀀の部屋か、と入った瞬間にきょろきょろ見渡す。
「そんなじろじろ見んなよ。めずらしいもんなんもねえって」
 言われた通り、ほんとうに殺風景だった。小さな丸テーブルに、触るとざらりと粒がこぼれそうな砂壁の前にラックが置いてあり、押し入れの前には制服のブレザーとネクタイがハンガーにひっかけた状態でかかっていた。畳の部屋は狭く、ひとがふたり入ればじゅうぶんという面積じゃないだろうか。
 瀀はおにぎりとお茶が乗った盆をテーブルに置き、きまりが悪そうに巧を睨む。見るな、と眼差しから手厳しく注意を受けた気分で、だけどその表情を見ると、いたずらが成功した気分でほくほくした。
 巧はテーブルの前にあぐらをかき、「いただきまーす」とのびのびした声で告げて手を合わせた。ぱくりと大きなひと口で食べたら、やっぱり塩かげんがちょうどよくてとてもおいしい。茶碗に装う米と同じはずなのに、どうしておにぎりと名がつくといつもより多めに食べられるんだろう。
「おまえ毎朝おにぎり食べてんの?」
「炊いたご飯があまってたら」
「自分でするんだよな?」
「そうだけど」
 ちゃんとしてる、と巧は軽くショックを受けた。なにもしていない自分にも、せざるを得ない状況に置かれている瀀にも。
 それに、見た目や性別で判断するのはよくないけれど、ぱっと見そういうタイプに見えない男が、ささっとおにぎりを握ったりするのはギャップがすごい。たとえば超問題児というマイナスからスタートした男が、家事をすると聞いたとたんポイント増加を引き起こす謎現象と同じで。
 ただでさえ瀀は顔がいいのに、これ以上のギャップが来るともててしまう。というか、すでにもてているかもしれないのだ、巧が知らないだけで。想像すると、胃のあたりが変な感じでもたついた。名前も知らない未知の食べものが、ずっと胃の中でぐるぐるさまよっている感覚。
「おまえって、もてる?」
「は? なんなの急に」
「もてんのかって聞いてんの」
「べつに……、もてないよ」
「嘘つけ!」
「決めつけんなら最初から聞くなっつの」
 むーっと巧が睨みながら口を曲げると、瀀はぐしゃぐしゃと頭をかいた。
「だいたいさ、もてたとしていいことなのそれ。好きでもないひとからもらう好意なんて、無理やり口にドリアン突っ込まれるみたいなもんだろ」
 ドリアンときた。巧はぽかんとし、口をあんぐりと開けた。そして我に返り、いやいや、と手をふる。
「それ失礼じゃね?」
「なんで。あんただってきらいなもんわざわざ選んで食わねえだろ? 中途半端に受け入れるほうが失礼じゃん」
 ぐうの音も出ず、巧は口をつぐんで押し黙った。ということは、瀀はとっくにだれかに告白されたことがあり、おそらく邪険にはせずきっぱりと断っているということだ。ショックだった。清々しいほど自分の気持ちに潔くて、いいかげんさも、だらしなさもない。
おとなみたいにきっぱりと線引きしているのか、それとも子ども特有の残酷さに加えて無鉄砲なこだわりか。なにより、瀀から寵愛を受けた相手は、こんなふうに大切にされることが、ショックだった。
 だからなんで、オレがショックなんだよ。
「ムカつく!」
「なにが」
「なんかねえのかよ! この部屋におまえの弱点とかエロ的ななにかが!」
「ねえよ、あったとしてもあんたには見せねえよ」
 こうなったら探してやるとばたばたしようとしたら手首をつかまれ、内臓ぜんぶを鷲づかみされたように体がひゅっとすくむ。手首からじょじょに瀀の熱がこもり、その生あたたかさに生身の人間の体温を感じて心臓が大きく鳴った。急に室内がしんとして、部屋全体に緊張がただようように空気が張り詰める。
 すると、瀀がぱっと手を離した。拗ねたみたいに口をとがらせたので、ほっと肩の力が抜ける。ちょうど目にネクタイが入ったので、立ち上がってそれをハンガーから抜いた。
「おまえの弱点みーっけ」
「もー、今度はなに」
「なんでネクタイ着けねえの?」
 巧はネクタイを瀀の首にかけてたらした。
「苦手なんだよ。どう結んだらいいかわかんねえし」
 くっと肩を内側にすぼめて巧は笑った。
「じゃあネクタイ巻かないですむ高校選べばよかったのに、学ランとかさ、あるじゃん。まあ、だから会えたんだけど」
 瀀は制服のシャツを着たままだったので、やってみせるように襟にネクタイを通して結んでいく。
「おまえ、なんで藤南高選んだの? こっからならけっこう距離あるじゃん。たまたま?」
 毎朝巧がしている作業を、瀀にほどこすのはふしぎな気分だった。同じ制服なのに、同じ動作をしない瀀に、巧のルーティンを授けているような。ボタンがひとつ開いたシャツの一番上を合わせながら、少しだけ隙間をつくってネクタイのかたちを整える。
「たまたまなら運命的だよな、すげえよね」
 ていねいに、じっくりと、こんなに慈しむようにしてネクタイを結ぶのははじめてだった。瀀があした、ちゃんと結べますように。
 できた、と結び目のかたちをきれいに整えて触れる。するとふたたび、手首をつかまれた。今度はもっと、意思を持つように強く。
「瀀?」
 巧が見上げると、瀀はこれまで見たことのない表情をしていた。けわしいでもないけれど強くて、怒っているでもないのにむき出しだった。じゃあなにがむき出されている? と質問されると、わかるようでわからない。
 つかまれた手首が痛くて、ほどこうとよじるのに外れない。あれ? と思った瞬間、どん! と大きく鼓動が揺れ動く。
「あんた、不用心すぎる」
「な、にが……」
 瀀の力が強くて、手首が固まったみたいに動かなかった。
「俺がどれだけ我慢してるか、コウちゃんはわかってない」
 もっと強く、瀀は巧の手首を握る。血の気が引くようにその部分がしびれ、抵抗したいのにできなかった。ぷつりと思考停止した一瞬、頭の中が騒がしくなる。息を吸うと、瀀が幼いころ住んでいたアパートでかいだ生ぐさいにおいがよみがえり、背中を打ちつけられた痛みが電流を流されたように襲う。暴力に対する抵抗が無意味で、こわいからじっとしていないといけないと思い込んだこと。
 あの日の映像が、瞼の裏にまざまざと浮かび上がる。映画みたいなんて生易しいものじゃなく、現実のにおいと感触を連れて来た。引きずるような足音を鳴らしてのっそりと近寄ってくる大男、下品で薄汚い笑み、自分の傍でうずくまる瀀。早く助けないと、という正義感をあっさり超える恐怖。
 こわい。
 巧は身を隠すように頭を抱えた。小刻みに震える手が、あそこから逃げろと訴えた。落ち着いて深呼吸をしようとするのに体が従わず、叫びたいのに叫べない。泣きたいのに泣けない。だけど心が暴れて感情すべてがあふれそうだった。
「コウちゃん」
 瀀の声に顔を上げる。こっちが痛ましくなるほど心配そうに顔をゆがめる瀀に、ここが彼の部屋でまったくちがう状況だと気づいた。右手首は知らぬ間に自由になっており、血が通いはじめたように、じんわりとあたたかくなる。目の前にいるのははっきりと瀀で、彼が無事でいてくれたことに心底安堵して体の震えがおさまった。
「ごめん、乱暴だった。ごめん」
 瀀の謝罪に急に頭がしゃんとして、ついさっきのできごとを思い出す。とにかく否定したくて焦燥した。
「ちがうって、瀀のせいじゃなくて、瀀がこわいんじゃなくて、ちがうから、ほんとに」
 言葉を並べれば並べるほど、言い訳に聞こえる気がして焦った。さらにこの場を取りなそうと早口になって「ちがう」と「瀀のせいじゃない」を連呼してしまう。それが逆に瀀を責めているようで、どんどん空気が重くなっていくのがわかる。
「ちがうくないよ、ほんとうにごめん」
 何度も何度も首を横にふって「ちがう」と示すのに、瀀は巧を安心させようと優しくほほ笑むばかりで聞き入れてくれない。ほしくもない謝罪と、悪いと思っていない相手からの決めつけは、苛立つのに反論できない。自分だけが悪いと示されると、逆に責任転嫁されている気分になる。
 瀀は立ち上がり、「送るよ」と言った。この気持ちをどう表していいかわからず、勢いよく立ち上がるとなぜかよろけ、瀀が支えてくれた。つねに守られる側にあつかわれることが癪に障り、抵抗しようと瀀を力いっぱい抱きしめる。
「まじでちがうから。ほんとに」
 拒絶したんじゃない、だからオレを拒絶しないで。瀀をこわがったんじゃない、だからオレをこわがらないで。
「俺、我慢してるっつってんじゃん。もー……」
 瀀は遠慮がちに巧の二の腕のあたりをさするだけで、抱きしめ返したりはしなかった。優しくなで、やましさなどないと示すようすは、あなたが大切ですよと親愛の情を表していた。やっと、「むき出し」の答えがわかったかもしれない。あれは、瀀の欲だった。自我だけを全面に出した、いやらしくて、生々しくて、まどろっこしくてもどかしい、ままならない欲。
 お互いの「ほしい」が重ならないと、暴力と同様の欲のかたまりになるもの。
 我慢の意味がわからないほど巧もばかじゃない。だとしたら、ドリアン以外の相手が自分なのだろうか。「いいけど」の「けど」と言い淀む理由を考えると、胸のあたりがへこまされたり押されたみたいになって息苦しくなる。屋上で瀀とすごしたとき、この男に触りたいと思った巧の感情もこれと同じだったとしたら。
 瀀を抱きしめたまま、なかなか体を離せない。顔が熱い。首の裏がかっかしてほてる。脳天に熱が集中して、指先に力がこもった。今の自分の顔を、瀀に見られたくなかった。
 巧が瀀に結んだネクタイの結び目が、鎖骨の下のあたりに当たって痛かった。