巧の腹がとつぜんぐうっと鳴って、あまりの空気の読めなさにばつが悪くなる。「ごめん」とぼそりと謝ると、瀀は巧の肩に額をくっつけながら笑いをこらえるように肩を震わせた。体を離して少し距離を取ると、瀀の表情は、晴れやかとは言い難いけれど、ちょっとすっきりした顔に変わっていた。
「部活帰りだもんね、なんか食う? っつって俺ん家今なんもねえかもな」
「いや、帰る。長居してごめん」
「あんたきょう、めずらしく謝ってばっか」
 よいしょ、と瀀は立ち上がり、ぐっと腰を伸ばす。「駅まで送るよ」と言って、巧に背を向けた。巧は、ふたたび祖母の写真を見やる。また来ます、と彼女に向けて唱え、瀀の背中を追う。
 ガラス戸を開けると、瀀の姿はなかった。きょろきょろとあたりを見渡しながら、まあそのうち来るかと玄関でスニーカーを履きながら待った。木がきしむ音に、だれかが階段を下りてくるのがわかる。振り向くと、瀀だった。彼は「お待たせ」とひと言言い、三和土でサンダルを履く。つっかけ、という名称が似合いそうな、庭で履くのが定番っぽいサンダルだった。
 外に出ると、夜はまだ肌寒いのだと今さらながら気づいた。瀀の家に行くまでのはじめての道中で気づかなかったのは、ひょっとして緊張していたせいかもしれない。心と体が繋がっているのだと、こういうときに改めさせられる。初夏の夜にふさわしく、なんとなく草木のにおいが嗅ぎ取れる空気だった。
 昼間はわくわくしたのに、夜はどことなく寂しい。
「このへん暗いからさ、慣れないとこわいかもね」
 たしかにこの周辺は、街灯もあまりなくて暗かった。だけど。
「大丈夫大丈夫、よゆー」
「ほら、あんた幽霊苦手じゃん」
「それ昔の話だろ!」
「あれ? 克服した? おめでとう」
 からかわれているのは百も承知だが、正直なところ克服はできていないので言い返せない。ぐぬぬ、と口をつぐんでいると、背中にふと悪寒が走る。以前ファミレスで感じた視線と同じで、反射的に振り向いた。生々しくてとがった感情を隠す気のない、ぞっとする気配。あのときとあまりに同じで、驚いた。
「どうした?」
 瀀も振り返り、来た道をじっと睨んだ。ひとはもちろん歩いていないし、野良猫もいなければ、散歩する犬だってとうぜんいない。勘ちがいかと訝しむが、そう何度も同じ気持ち悪さを感じるのだろうか。まさかほんとうに幽霊? と背筋が急に寒くなり、体がこわばる。
「なあ、ひょっとしてさ、まじで幽霊なんかな」
「どうだろ、そうなんかもね」
「おどかすなよ!」
「自分から振ったんだろ」
 瀀は半分笑いながら言った。
「前もあったんだよな、こういうの……」
 巧がぼそぼそしゃべると、「は?」と瀀はとたんに表情を険しくさせる。
「ファミレスから出てすぐ、なんか変な視線感じてさ、だけどだれもいなかった」
「それって俺といたとき?」
 巧は一度、こくりとうなずいた。すると瀀は、「行こう」と巧の手を取ってずんずん歩き出す。最初は多少動揺して、だけどじょじょに気分がほぐれてくる。以前も同じことがあったよなあ、とさっきまでの張り詰めていた気持ちが次第におだやかになっていった。さんざん幽霊だの視線だの騒いでいたくせに、こうして手を繋ぐと(でもないけれど)、平気になってくる自分の単純さに拍子抜けしつつ、意外とまんざらでもなかったりする。
 瀀に引っ張られながら、探り探り歩いてきた最初とは印象がまったくちがうと気づいた。入り組んだ道だな、とか、わかりづれー、とか、マイナス要素が多かったけれど、よくよく眺めてみると、閑静な住宅街とはちがう、のんびりしたあたたかみのある道が続いていた。
 ここ歩いてた? と後ろから瀀に尋ねてみる。毎日歩いてる、と淡々とした口調で返ってきた。手なんか繋がなくたってオレは大丈夫だよ、と伝えそうになったけれど、まあいいか、と放っておいた。あれがしたい、これがしたい、という欲求って結局、純粋な甘えの一種なのかもしれないから。
 駅前になると、さすがにひとの往来が目立ってくる。瀀は巧の手を離し、ポケットのなかに手を突っ込んだ。するとなにかを取り出し、巧に差し出してくる。
「なに?」
「これ返す」
 手のひらに乗せられたものを見て、巧は目をまばたかせた。
「え? これって……」
「そう、あんたに貸してもらった防犯ブザー」
「懐かしいな、まだ持ってたのかよ」
「そりゃそうでしょ」
 返すの遅くなってごめん、と瀀は頭をかく。
「いらねえって。おまえ持っといたら?」
 プラスチックのなめらかな手触りと子ども騙しのようなちゃちな防犯グッズにくすくす笑っていると、瀀は真剣な表情で首を振る。
「なんかあったら鳴らして。すぐ行く」
 巧を真っ直ぐ見つめる瀀の眼差しからは、すっかり少年の色が消えていた。じゃあ少年の色とは、と思うのだけれど、改めて考えてみたらどんな色合いが混ざっているのかはわからない。だけど、小四だった瀀のまんまるの瞳とはちがうことだけはわかる。巧を「ヒーロー」だと称したときの瞳は七色の光を放っていたし、図書館で意地悪く笑ったときはおとなを嘲笑う性悪さもあった。大男から巧を守ってくれたときは、ぎらぎらした青い火を宿していたし、別れぎわに涙を流したときは、こぼれそうなほどの輝きをたたえていた。どんなときも、たとえおとなみたいであっても、真っ向からのおとなではなく「おとなみたい」が色濃かったのに、今はまったくちがう。
 噓がなく、おちょくったり冗談にできない真面目さがあった。こんなの少年じゃない、ただの、ただの男だった。
「すぐとかさ、無理じゃん……」
 この空気に耐え切れず、現実的なもの言いになってしまう。だけど実際問題、離れていたり、ひと駅とも言わず距離があれば無理だ。
「でも行く。今度は、俺がちゃんと助けるから」
 防犯ブザーをつつむようにして巧の手のひらに収められ、これ以外ないというきっぱりとした口調で告げられてしまったら、もう口をつぐむしかない。今度と言われたって、あの事件の話を持ち出しているのなら、それはまったく逆だ。巧は瀀に助けられたし、子どものころだけなんの疑いもなく持てる圧倒的な無敵感を粉々に砕かれたのだ。
 子どもができることなんてたかが知れている、親をはじめとするさまざまなおとなから態度と行動で散々繰り返し示され、だけど本能で抵抗していたことを、瀀はその存在で表した。
 抵抗や拒絶は、どうあっても抗えないことにだって屈したくないから。
「離れてたらどうすんの……」
 瀀を試すような言いかたになった。
「行くよ」
「ブザーの音なんて気づかねえだろ」
「そうなったら勘で」
「勘って」
 真剣なんだか不真面目なんだかわからない言いかたに巧は苦笑する。だけど、スマホ買ったら? とは言えなかった。たとえ冗談でも。
「ほら、早く帰んな。お母さん心配するだろ?」
 瀀は急かすように、構内に行かせようと巧の背中に触れる。押すのではなく、そっと促すみたいにして。
「瀀、あしたは学校来んの?」
「あー、あしたは無理かな。来週には」
 きょうが木曜日なので、と指折り数えてみる。土日挟んだら四日、だけど今週の登校日は残り一日だ。
「じゃあ、また来週」
「うん、気ぃつけなよ?」
「わかってるって」
「ばいばい」
 コウちゃん。
 最後のひと言は、瀀の声がか細くてうまく届かなかった。だけどきっと、ほんとうに「コウちゃん」と呼ばれたのはわかったから、顔をうつむけながら巧は笑った。嬉しいのか、気恥ずかしいのか、くすぐったいのか、どの表現が適切なのかわからなくて、瀀に手を振ってごまかすように構内に入る。
 改札を抜ける前に、もう一度振り返る。だけどもう、見知らぬ他人がぞろぞろと行き来しているだけだった。
 どくん、と心臓が鳴る。少年の時間を終えた瀀の眼差しがどんな色を表すのか、巧はまだ知らない。