瀀と屋上で会って以降、部活が試験休みの間は一年五組には顔を出さなかった(一応受験生なので)。中間試験の間もしかり。ようやく終わってほっとひと息ついたので、いっちょ部活前に覗いてやるか、と五組の教室に向かった。
最近は巧が行くと、「はいはい浅野くんですよね」という空気をかもし出されるようになってきた気がする。そんなに行ってるか? と軽く疑問になるが、いや、行ってるな。
瀀はどうしているのだろう。ちゃんと勉強して試験を受けるとか、あまり想像できない。だいたい、触りたいってなんだろう。弟を愛でるとか、黒猫をくちゃくちゃにしたい、みたいな純粋にかわいがりたい欲求と同義な気がするし、ちがう気もした。じゃあ純粋と不純の境界線とは。自分の心にやましさがあるとかないとか? あるいは「これは純粋です」という他者からのジャッジか。
だとしたら、自分が与えたいだけの欲求なんて、相手にとって不要なものならすべて有罪判決じゃないのか。セクハラやパワハラ、あるいは暴力と同じ。
考えれば考えるほどわからず、結論が出ないことがらというのはどうにも気持ち悪いのに、しかたないという気もした。というより、今結論が出ないのは、回りくどく考えているせいだと思った。自分で勝手に難しくしている。
五組の前では、やっと終わったよ、疲れたー、きょうから部活だりー、と気の抜けた会話がそこかしこから聞こえた。ぱんぱんに張っていた風船から、しゅわしゅわと空気が抜けていくみたいだった。巧と目が合った女子が、「あ」と言う。たしか最初に瀀を呼んでくれた子で、「どうも」と会釈した。
「あの、浅野くんは……」
彼女が言い淀むような口調で巧を見上げる。首をかしげると、「パイセン」とドアのほうから聞こえてふり向いた。岸だ。
「瀀、ここんとこ休みなんだよね」
「え? なんで」
その次に岸から聞いた言葉で、巧の頭は真っ白になった。
そのあとはふつうに部活に出るが、手と足がばらばらで、顧問から何度も注意を受けた。「はい」と出した返事は思った以上に低いものだったし、いいかげんあきれられた。駅で瀀から渡された紙を取り出し、じっと見つめていたら眉間に力が入っていた。
自宅方面に向かう電車とはべつの線に乗り、シートがちょうど空いていたのでドラムバックを抱えて腰を下ろした。夜の車内は、おしゃべりの気配があまりない。空気が張り詰めているわけじゃないのに、みなが疲労困憊の体を少しでも癒そうとじっと繭の中にでも入っているみたいた。
――瀀のばあちゃん、亡くなったんだ。
岸は落ち着いた口調だった。
――ばあちゃんには俺らも世話になったからさ、きのうの放課後お悔やみに行ったよ。
そうなんだ、と答えた気がする。
――中学卒業前くらいからかな、ばあちゃん入院しててね、もう長くないって言われてたらしい。俺らもきのう知った。まあ、パイセン会いに行ってやってよ。あいつ、だれにも頼れないかっこつけだからさ、パイセンには弱音吐くんじゃない?
うん、と曖昧な口調だったと思う。ほんとうは、瀀はオレにだって弱音は吐かない、と反論したかった。だって、切羽詰まった究極の状況でさえ瀀は「助けて」なんてひと言も口にしなかったのだ。助けられたのは巧のほうだった。「ばあちゃん早く退院するといいな」なんてお気楽な発言を、なぜしてしまったのだろう。身内の死が身近になかったから、想像もしなかった。
降りたのは、はじめての駅だった。地元民は用がなければ降りないが、観光客はそこそこ降り立つ場所。瀀にもらった紙をふたたび開く。四つ折りにたたんで財布にしまっておいたもの。雑な文字で、豪快にびりっとやぶって紙の端がぎざぎざにもならないてきとうな切りかた。スマホのグーグルマップに住所を打ち込んだとき、瀀の声が聞こえた気がした。
――おー、文明の利器。
ばーか、とだれにも聞こえない大きさの声でつぶやいた。早く瀀に会いたかった。
なかなか入り組んだ道のりを歩いていると、そのうち趣のある住宅が並びはじめる。その中の一軒で、マップがここだと示していた。玄関にあかりはついていて無人ではなさそうだが、確信が持てないので一歩踏み込むのをちゅうちょする。
二、三メートルうろついてふたたび立ち止まり、家の外観を眺めた。この家は、巧が住む箱みたいなつくりじゃない。瓦屋根に、開けるとぎしぎし鳴りそうな玄関、ところどころ割れた木の柵で囲まれた小さな庭。
うろついてばかりだと怪しまれそうだが、表札がないのではたしてこの家がほんとうに浅野宅なのか自信がない。しかし玄関に、「忌中」と黒文字で書かれた札が貼ってあり、その札の意味も知らないくせに雰囲気からおそらくそうなんじゃないかと予想がついた。
いったん呼吸を落ち着かせ、インターホンを押した。待っていると、家の中から足音がする。玄関先に出てきたのは瀀で、巧を見るやいなや鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「なんで?」
「岸から聞いた。ばあちゃんのこと」
こういうときに伝える定型句があるはずで、だけどそれも浮かばない自分が情けない。代わりに深々と頭を下げると、頭上から小さく笑う声がした。
「上がんなよ」
巧が顔を上げると、瀀はちょっとだけ疲れたような、抗えないものに傷ついたあとのような、だけどほっとしたような、そういう表情で笑った。「お邪魔します」と添えてスニーカーを脱ぎ、上り框に足を踏み入れた。ひとの家のにおいというのはやっぱり慣れなくて、ほのかにただよう線香の香りに、言いようのない寂しさが襲う。カラスが泣いたらかーえろ、という夕暮れに口ずさむ音楽が、脳裏をよぎった。
家の外観に反して、玄関も廊下もきれいに片づいていて整然としていた。玄関を上がってすぐに階段があり、少し先の右手側にあるドアふたつはおそらくトイレと風呂だと思う。
向かいの磨りガラスの引き戸を瀀が開けると、台所があった。クリーム色の壁紙はちょっと汚れているけれど不潔な感じはいっさいなく、プロペラタイプの換気扇もガスコンロも、使い古されてはいたけれど掃除が行き届いている気がした。瀀の祖母がしていたのを、彼女が入院してからは瀀が倣っていたのかもしれない。
隣の部屋もその奥も畳で、一番奥の部屋に祭壇があった。その手前の食卓と思しき部屋で、テーブルにうなだれている女性がいる。彼女の周りには、瓶ビールとコップが並んでいた。
「母さん、部屋で寝なよ」
瀀は彼女に近づき、肩を揺する。うーん、ともだえるような甘えた口ぶりで、それだけで過去の件が腑に落ちた。巧は正直にかちんときているのに、瀀はまったく気に留めたようすもなく彼女を起こし、肩に腕をかけさせる。おぼつかない足取りを引きずるように歩かせた。
「だってぇ……、かーさんにわたし、なにも言えてないのよぅ?」
「うん、そうだね」
「けんかしっぱなしでさぁ、あやまってもないし、あやまられてもないのよぅ?」
「はいはい、そうだったね」
彼女を抱えたまま、瀀は巧に「ちょっと待ってて」とだけ伝え、磨りガラスを開けて部屋を出た。階段を上がるときの木がきしむ音は、台所にいてもよく聞こえる。勾配の急そうな階段を、瀀はよく母親を連れて歩いているのかもしれない。慣れた手つきに、そんなことを考えた。せめてテーブルくらいは片づけを手伝ったほうがいいのか、と逡巡するが、へたに触ってもよろしくないと結局やめ、だけど瀀はこれも整えているのだと思ったら、どうにも苦しくなる。
所在なさから室内を見渡すも、最終的にどこに焦点を当てていいのかわからない。うーん、と考えているうちに、瀀が戻ってきた。
「ごめん、お待たせ」
「いや、こっちこそ急にごめんな。お疲れさん」
瀀は、ふるふると首を振った。
「お茶入れるよ。あっち座ってて」
瀀は居間を顎でしゃくると、テーブルの上のようすに気づいたのか、瓶とコップを先に運んでシンクに置いた。巧はまるで借りてきた猫状態で、テーブルの前にちょんと座る。したくする瀀の背中は、この日は真っ白の長袖カットソーに覆われていて、下はスウェットを履いている。
私服はじめて見たなあ、と的はずれなことを考えながら、冷蔵庫を開け、グラスにお茶を注ぐ瀀の姿を目で追った。当たり前だけれど、この家の一部みたいに馴染んでいた。
グラスをふたつ、テーブルの上に並べた。「いただきます」と巧は口をつける。ふつうの麦茶なのに、冷たくて喉に染みて、おいしかった。
「屋上でさ、病院に着替え持ってくって話してたじゃん」
瀀も麦茶をひと口飲んで言う。
「うん」
あの日以来、一週間以上顔を合わせていなかった。
「その次の日だったかな、急変して、それからずっと病院と家の往復で学校休んでて、きのう葬儀が終わったとこ」
「そっか」
「癌でね、病院行けって言ってんのにあのひと俺の言うことなんてぜんぜん聞いてくんねえし、気づいたらもう手のほどこしようがないっていうありがちなやつ」
「うん」
瀀はずっと、奥の写真に視線を投げていた。写真の中のそのひとは病気の片鱗もなく、若々しくきれいで、笑顔がチャーミングなひとだった。もう答えてくれない相手に言葉を投げかけるって、どんな気持ちなんだろう。後悔とか、寂しさとか、だけどどれだけ手を尽くして伝えたとしても、満足に見送れることはない気がした。
「瀀ごめん、こういうのはじめてで、なんて言ったらいいのかわかんなくて」
巧がどの言葉をどんなふうに伝えても、うわつらにすぎないと思った。だったらせめて定型句でも言えたらいいのにそれもわからない。やっぱり情けない。
「大丈夫だよ、俺もはじめてだから」
「そうなん?」
「もうね、やること多すぎて。書類読んだり捺印したりすんだけど、未成年じゃ署名捺印できねえし、母親があれだろ? あのひとにいちいち説明しなきゃなんなくて。早く彼氏んとこ帰ってくんねえかなって思っちゃったよ、悲しむ暇もないってほんとだよな」
覚悟する暇もないのかもしれない、となんとなく思った。
「彼氏って?」
「今回はまともなひとっぽくて俺も安心してる。母をよろしくお願いしますって頭下げるとかまじであんだね」
ははは、と瀀は嫌味なく笑うので、本心なのだと思った。
「だから、前にあんたに『もう大丈夫』って言ったの嘘じゃないんだ、ほんとうに」
「……寂しく、ねえの?」
しまった、と口をふさいだ。なにをそんな、小学生みたいな質問を。頭を抱えたくなるほど恥ずかしい。
「そうだなあ、悲しいのはもちろんあって、だけどちょっとまだ、実感湧かねえかなあ。でも」
「ん?」
「あのひと定食屋やってて、こっちに来たばっかのころよくそこで食っててさ」
「うん」
「俺に『わがまま言っていいんだよ』ってしょっちゅう言ってたから、じゃあ小鉢に入ってる煮物いらないっつったら『わがまま言うな』って怒るんだよ。理不尽だなって思ったけど、あの煮物、ときどきすげえ食いたくなる」
瀀はやっぱり、頬杖をついて祖母の写真を眺めている。笑ってばかりで表情を変えない彼女に、巧は無性に悔しくなった。
「オレも線香、あげてもいい?」
「いいよ、ありがとう」
「そんでわりーんだけど、あのー……」
ん? と瀀は首をかしぐ。
「やりかた、教えてください……」
「はは、わかりました」
瀀に手招きされ、祭壇の前に正座する。瀀が線香を一本持つと、巧も真似をした。ライターで火をつけ、ついでに巧の線香にもつけた。左手で軽くあおいで火を消す。
「俺もはじめて知ったけど、そんな難しく考えなくていいよ。香炉に線香立てて手ぇ合わせるだけ」
瀀が線香を香炉に立てたのも真似て、巧も同じようにする。手を合わせ、目を閉じた。
はじめまして。綾瀬巧です。小六のとき、瀀と少しだけ一緒にいました。ほんのちょっとの時間だったけど、瀀と毎日すごすのが楽しくて、ほんとうに楽しかったです。だけどオレは、瀀に負担をかけさせたかもしれないです。ごめんなさい。すごく大事で、大切で、大事なのに守れなくて、ほんとうにごめんなさい。あなたとの思い出話を聞きました。ほんの少しだけど、聞きました。なんていうか、ふつうに、子どもとして、たとえばオレが母親にしてもらうみたいなことを、あんなことがあったからって閉じ込めてしまうような気づかいじゃなくて、優しさも苛立ちもぜんぶ混ぜこぜだったのが嬉しかったです。えらそうでごめんなさい。瀀が生きてきた生活を、ちょっとだけ知れました。ありがとうございました。
今度こそ、瀀はオレが守ります。大事にします。あなたの代わりっていうんじゃなくて、オレがそうしたいから。あなたがつくる煮物がどんな味なのか知りたかったです。オレにつくれるかはさておき。勉強します。
目を開け、彼女の写真を見つめた。やっぱり笑顔だったので、都合よく考えてしまう単純な自分に苦笑したくなる。きっと届いているよ、とか、あっちで喜んでいるよ、なんて自分だけが楽なほうに捉えたくなかった。
「瀀」
「ん?」
「ほら、おいで」
巧はあぐらをかき、両手を広げ、彼を待つ。
「は? え、なに?」
「いいから来い。甘えさせてやる」
瀀はなんのことかわからないというように、目をぱちくりとさせた。
「コウちゃんだよ、瀀」
そう言うと、瀀は眉尻を下げて、困ったように笑った。
「なんだそりゃ」
あきれた口ぶりなのに、瀀に巧を拒絶したようすはなくて、ちょっとずつ距離を詰めてくる。
「じゃあ……、お言葉に甘えて遠慮なく」
ぽすん、と巧の腕の中に収まる瀀の背中をよしよしとさすった。お疲れさん、あしたもぼちぼちやってこうな、と心の中でつぶやいた。その声は瀀に聞こえていないはずなのに、呼応するように巧の背に腕を回し、制服をぎゅっと握る。
きょう、この家に来て思ったこと。玄関がきれいだった。廊下も台所も居間も、変な美しさじゃなくて手をかけて整えた労力と時間を感じた。瀀が手間暇をかけて、麦茶を沸かして冷やしていた。ばあちゃんから受け継いださまざまなもの。
瀀の背中をぎゅっと握ると、なぜか巧のほうがよしよしとなでられた。
ちがうよ、甘えていいんだよ、オレには。
最近は巧が行くと、「はいはい浅野くんですよね」という空気をかもし出されるようになってきた気がする。そんなに行ってるか? と軽く疑問になるが、いや、行ってるな。
瀀はどうしているのだろう。ちゃんと勉強して試験を受けるとか、あまり想像できない。だいたい、触りたいってなんだろう。弟を愛でるとか、黒猫をくちゃくちゃにしたい、みたいな純粋にかわいがりたい欲求と同義な気がするし、ちがう気もした。じゃあ純粋と不純の境界線とは。自分の心にやましさがあるとかないとか? あるいは「これは純粋です」という他者からのジャッジか。
だとしたら、自分が与えたいだけの欲求なんて、相手にとって不要なものならすべて有罪判決じゃないのか。セクハラやパワハラ、あるいは暴力と同じ。
考えれば考えるほどわからず、結論が出ないことがらというのはどうにも気持ち悪いのに、しかたないという気もした。というより、今結論が出ないのは、回りくどく考えているせいだと思った。自分で勝手に難しくしている。
五組の前では、やっと終わったよ、疲れたー、きょうから部活だりー、と気の抜けた会話がそこかしこから聞こえた。ぱんぱんに張っていた風船から、しゅわしゅわと空気が抜けていくみたいだった。巧と目が合った女子が、「あ」と言う。たしか最初に瀀を呼んでくれた子で、「どうも」と会釈した。
「あの、浅野くんは……」
彼女が言い淀むような口調で巧を見上げる。首をかしげると、「パイセン」とドアのほうから聞こえてふり向いた。岸だ。
「瀀、ここんとこ休みなんだよね」
「え? なんで」
その次に岸から聞いた言葉で、巧の頭は真っ白になった。
そのあとはふつうに部活に出るが、手と足がばらばらで、顧問から何度も注意を受けた。「はい」と出した返事は思った以上に低いものだったし、いいかげんあきれられた。駅で瀀から渡された紙を取り出し、じっと見つめていたら眉間に力が入っていた。
自宅方面に向かう電車とはべつの線に乗り、シートがちょうど空いていたのでドラムバックを抱えて腰を下ろした。夜の車内は、おしゃべりの気配があまりない。空気が張り詰めているわけじゃないのに、みなが疲労困憊の体を少しでも癒そうとじっと繭の中にでも入っているみたいた。
――瀀のばあちゃん、亡くなったんだ。
岸は落ち着いた口調だった。
――ばあちゃんには俺らも世話になったからさ、きのうの放課後お悔やみに行ったよ。
そうなんだ、と答えた気がする。
――中学卒業前くらいからかな、ばあちゃん入院しててね、もう長くないって言われてたらしい。俺らもきのう知った。まあ、パイセン会いに行ってやってよ。あいつ、だれにも頼れないかっこつけだからさ、パイセンには弱音吐くんじゃない?
うん、と曖昧な口調だったと思う。ほんとうは、瀀はオレにだって弱音は吐かない、と反論したかった。だって、切羽詰まった究極の状況でさえ瀀は「助けて」なんてひと言も口にしなかったのだ。助けられたのは巧のほうだった。「ばあちゃん早く退院するといいな」なんてお気楽な発言を、なぜしてしまったのだろう。身内の死が身近になかったから、想像もしなかった。
降りたのは、はじめての駅だった。地元民は用がなければ降りないが、観光客はそこそこ降り立つ場所。瀀にもらった紙をふたたび開く。四つ折りにたたんで財布にしまっておいたもの。雑な文字で、豪快にびりっとやぶって紙の端がぎざぎざにもならないてきとうな切りかた。スマホのグーグルマップに住所を打ち込んだとき、瀀の声が聞こえた気がした。
――おー、文明の利器。
ばーか、とだれにも聞こえない大きさの声でつぶやいた。早く瀀に会いたかった。
なかなか入り組んだ道のりを歩いていると、そのうち趣のある住宅が並びはじめる。その中の一軒で、マップがここだと示していた。玄関にあかりはついていて無人ではなさそうだが、確信が持てないので一歩踏み込むのをちゅうちょする。
二、三メートルうろついてふたたび立ち止まり、家の外観を眺めた。この家は、巧が住む箱みたいなつくりじゃない。瓦屋根に、開けるとぎしぎし鳴りそうな玄関、ところどころ割れた木の柵で囲まれた小さな庭。
うろついてばかりだと怪しまれそうだが、表札がないのではたしてこの家がほんとうに浅野宅なのか自信がない。しかし玄関に、「忌中」と黒文字で書かれた札が貼ってあり、その札の意味も知らないくせに雰囲気からおそらくそうなんじゃないかと予想がついた。
いったん呼吸を落ち着かせ、インターホンを押した。待っていると、家の中から足音がする。玄関先に出てきたのは瀀で、巧を見るやいなや鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「なんで?」
「岸から聞いた。ばあちゃんのこと」
こういうときに伝える定型句があるはずで、だけどそれも浮かばない自分が情けない。代わりに深々と頭を下げると、頭上から小さく笑う声がした。
「上がんなよ」
巧が顔を上げると、瀀はちょっとだけ疲れたような、抗えないものに傷ついたあとのような、だけどほっとしたような、そういう表情で笑った。「お邪魔します」と添えてスニーカーを脱ぎ、上り框に足を踏み入れた。ひとの家のにおいというのはやっぱり慣れなくて、ほのかにただよう線香の香りに、言いようのない寂しさが襲う。カラスが泣いたらかーえろ、という夕暮れに口ずさむ音楽が、脳裏をよぎった。
家の外観に反して、玄関も廊下もきれいに片づいていて整然としていた。玄関を上がってすぐに階段があり、少し先の右手側にあるドアふたつはおそらくトイレと風呂だと思う。
向かいの磨りガラスの引き戸を瀀が開けると、台所があった。クリーム色の壁紙はちょっと汚れているけれど不潔な感じはいっさいなく、プロペラタイプの換気扇もガスコンロも、使い古されてはいたけれど掃除が行き届いている気がした。瀀の祖母がしていたのを、彼女が入院してからは瀀が倣っていたのかもしれない。
隣の部屋もその奥も畳で、一番奥の部屋に祭壇があった。その手前の食卓と思しき部屋で、テーブルにうなだれている女性がいる。彼女の周りには、瓶ビールとコップが並んでいた。
「母さん、部屋で寝なよ」
瀀は彼女に近づき、肩を揺する。うーん、ともだえるような甘えた口ぶりで、それだけで過去の件が腑に落ちた。巧は正直にかちんときているのに、瀀はまったく気に留めたようすもなく彼女を起こし、肩に腕をかけさせる。おぼつかない足取りを引きずるように歩かせた。
「だってぇ……、かーさんにわたし、なにも言えてないのよぅ?」
「うん、そうだね」
「けんかしっぱなしでさぁ、あやまってもないし、あやまられてもないのよぅ?」
「はいはい、そうだったね」
彼女を抱えたまま、瀀は巧に「ちょっと待ってて」とだけ伝え、磨りガラスを開けて部屋を出た。階段を上がるときの木がきしむ音は、台所にいてもよく聞こえる。勾配の急そうな階段を、瀀はよく母親を連れて歩いているのかもしれない。慣れた手つきに、そんなことを考えた。せめてテーブルくらいは片づけを手伝ったほうがいいのか、と逡巡するが、へたに触ってもよろしくないと結局やめ、だけど瀀はこれも整えているのだと思ったら、どうにも苦しくなる。
所在なさから室内を見渡すも、最終的にどこに焦点を当てていいのかわからない。うーん、と考えているうちに、瀀が戻ってきた。
「ごめん、お待たせ」
「いや、こっちこそ急にごめんな。お疲れさん」
瀀は、ふるふると首を振った。
「お茶入れるよ。あっち座ってて」
瀀は居間を顎でしゃくると、テーブルの上のようすに気づいたのか、瓶とコップを先に運んでシンクに置いた。巧はまるで借りてきた猫状態で、テーブルの前にちょんと座る。したくする瀀の背中は、この日は真っ白の長袖カットソーに覆われていて、下はスウェットを履いている。
私服はじめて見たなあ、と的はずれなことを考えながら、冷蔵庫を開け、グラスにお茶を注ぐ瀀の姿を目で追った。当たり前だけれど、この家の一部みたいに馴染んでいた。
グラスをふたつ、テーブルの上に並べた。「いただきます」と巧は口をつける。ふつうの麦茶なのに、冷たくて喉に染みて、おいしかった。
「屋上でさ、病院に着替え持ってくって話してたじゃん」
瀀も麦茶をひと口飲んで言う。
「うん」
あの日以来、一週間以上顔を合わせていなかった。
「その次の日だったかな、急変して、それからずっと病院と家の往復で学校休んでて、きのう葬儀が終わったとこ」
「そっか」
「癌でね、病院行けって言ってんのにあのひと俺の言うことなんてぜんぜん聞いてくんねえし、気づいたらもう手のほどこしようがないっていうありがちなやつ」
「うん」
瀀はずっと、奥の写真に視線を投げていた。写真の中のそのひとは病気の片鱗もなく、若々しくきれいで、笑顔がチャーミングなひとだった。もう答えてくれない相手に言葉を投げかけるって、どんな気持ちなんだろう。後悔とか、寂しさとか、だけどどれだけ手を尽くして伝えたとしても、満足に見送れることはない気がした。
「瀀ごめん、こういうのはじめてで、なんて言ったらいいのかわかんなくて」
巧がどの言葉をどんなふうに伝えても、うわつらにすぎないと思った。だったらせめて定型句でも言えたらいいのにそれもわからない。やっぱり情けない。
「大丈夫だよ、俺もはじめてだから」
「そうなん?」
「もうね、やること多すぎて。書類読んだり捺印したりすんだけど、未成年じゃ署名捺印できねえし、母親があれだろ? あのひとにいちいち説明しなきゃなんなくて。早く彼氏んとこ帰ってくんねえかなって思っちゃったよ、悲しむ暇もないってほんとだよな」
覚悟する暇もないのかもしれない、となんとなく思った。
「彼氏って?」
「今回はまともなひとっぽくて俺も安心してる。母をよろしくお願いしますって頭下げるとかまじであんだね」
ははは、と瀀は嫌味なく笑うので、本心なのだと思った。
「だから、前にあんたに『もう大丈夫』って言ったの嘘じゃないんだ、ほんとうに」
「……寂しく、ねえの?」
しまった、と口をふさいだ。なにをそんな、小学生みたいな質問を。頭を抱えたくなるほど恥ずかしい。
「そうだなあ、悲しいのはもちろんあって、だけどちょっとまだ、実感湧かねえかなあ。でも」
「ん?」
「あのひと定食屋やってて、こっちに来たばっかのころよくそこで食っててさ」
「うん」
「俺に『わがまま言っていいんだよ』ってしょっちゅう言ってたから、じゃあ小鉢に入ってる煮物いらないっつったら『わがまま言うな』って怒るんだよ。理不尽だなって思ったけど、あの煮物、ときどきすげえ食いたくなる」
瀀はやっぱり、頬杖をついて祖母の写真を眺めている。笑ってばかりで表情を変えない彼女に、巧は無性に悔しくなった。
「オレも線香、あげてもいい?」
「いいよ、ありがとう」
「そんでわりーんだけど、あのー……」
ん? と瀀は首をかしぐ。
「やりかた、教えてください……」
「はは、わかりました」
瀀に手招きされ、祭壇の前に正座する。瀀が線香を一本持つと、巧も真似をした。ライターで火をつけ、ついでに巧の線香にもつけた。左手で軽くあおいで火を消す。
「俺もはじめて知ったけど、そんな難しく考えなくていいよ。香炉に線香立てて手ぇ合わせるだけ」
瀀が線香を香炉に立てたのも真似て、巧も同じようにする。手を合わせ、目を閉じた。
はじめまして。綾瀬巧です。小六のとき、瀀と少しだけ一緒にいました。ほんのちょっとの時間だったけど、瀀と毎日すごすのが楽しくて、ほんとうに楽しかったです。だけどオレは、瀀に負担をかけさせたかもしれないです。ごめんなさい。すごく大事で、大切で、大事なのに守れなくて、ほんとうにごめんなさい。あなたとの思い出話を聞きました。ほんの少しだけど、聞きました。なんていうか、ふつうに、子どもとして、たとえばオレが母親にしてもらうみたいなことを、あんなことがあったからって閉じ込めてしまうような気づかいじゃなくて、優しさも苛立ちもぜんぶ混ぜこぜだったのが嬉しかったです。えらそうでごめんなさい。瀀が生きてきた生活を、ちょっとだけ知れました。ありがとうございました。
今度こそ、瀀はオレが守ります。大事にします。あなたの代わりっていうんじゃなくて、オレがそうしたいから。あなたがつくる煮物がどんな味なのか知りたかったです。オレにつくれるかはさておき。勉強します。
目を開け、彼女の写真を見つめた。やっぱり笑顔だったので、都合よく考えてしまう単純な自分に苦笑したくなる。きっと届いているよ、とか、あっちで喜んでいるよ、なんて自分だけが楽なほうに捉えたくなかった。
「瀀」
「ん?」
「ほら、おいで」
巧はあぐらをかき、両手を広げ、彼を待つ。
「は? え、なに?」
「いいから来い。甘えさせてやる」
瀀はなんのことかわからないというように、目をぱちくりとさせた。
「コウちゃんだよ、瀀」
そう言うと、瀀は眉尻を下げて、困ったように笑った。
「なんだそりゃ」
あきれた口ぶりなのに、瀀に巧を拒絶したようすはなくて、ちょっとずつ距離を詰めてくる。
「じゃあ……、お言葉に甘えて遠慮なく」
ぽすん、と巧の腕の中に収まる瀀の背中をよしよしとさすった。お疲れさん、あしたもぼちぼちやってこうな、と心の中でつぶやいた。その声は瀀に聞こえていないはずなのに、呼応するように巧の背に腕を回し、制服をぎゅっと握る。
きょう、この家に来て思ったこと。玄関がきれいだった。廊下も台所も居間も、変な美しさじゃなくて手をかけて整えた労力と時間を感じた。瀀が手間暇をかけて、麦茶を沸かして冷やしていた。ばあちゃんから受け継いださまざまなもの。
瀀の背中をぎゅっと握ると、なぜか巧のほうがよしよしとなでられた。
ちがうよ、甘えていいんだよ、オレには。