浅野瀀は幽霊アパートに住んでいるらしい。
 バスケクラブのチームメイトであるかずきの一言に、巧はぎょっと肩を揺らす。おかげで手の位置がぶれ、シュートがはずれた。バスケットボールがリングに当たって跳ね、大げさなほどゴールが揺らいで見えた。
「アサノユウってだれ?」
 動揺が声に表れてなかったかが気になって、巧は転がったボールをそそくさと取りに行く。ゆうべ大学生の姉と見たYouTubeの心霊現象スポットの映像が脳裏に浮かび、足もとがもたついた。タイムリーにも事故物件がテーマだったので忘れようと頭を打ちふるが、ついきのうの記憶に消しゴムがかかるはずもない。
 忘れるって言葉は、ひょっとして忘れてないって意味?
「ほらー、一学期が終わる前に急に四年に転校してきた浅野瀀。小さくてひょろっとしてて、やけに生意気そうな」
 巧はボールを手に取り、視線をさまよわせてみるが、アサノユウの姿かたちがはっきりと思い浮かばなかった。体の線はなんとなーくふち取られて想像できるけれど、顔の中身となるとのっぺらぼうみたいなうすい輪郭しかわからない。目鼻口がない人間を頭で描くと、思いがけない箇所を冷たい手ですうっとなぞられたみたいにひやりとする。これもぜんぶ、きのうのYouTubeのせいだ。
「しかもさ、浅野瀀ってやべえらしい」
「なにが?」
 もう幽霊アパートの話はすんな、と思いながら、とんとん、とドリブルをし、ぴょんと飛んでレイアップをする。小六の体じゃ、どれだけがんばって飛んでもまだまだリングから遠いし、身長も足りない。ネットに吸い込まれたボールを手に取り、ふたたび突きながら、むーっと口を曲げてゴールを見上げた。
 ぽつ、とひと粒汗がたれる。夏休みの体育館は、この日も絶好調でむわむわ蒸し暑い。日が当たるとボールが見えづらいという理由で、カーテンを閉め切っているのもきっと、暑さに拍車をかけている原因のひとつだと思う。Tシャツの襟ぐりを引っ張って汗を拭い、あつ、とつぶやく。休憩時間にボールを突いているのは、巧だけだった。
「シバやんたち、負けたんだって」
「え、まじか」
 シバやんは、体がごつくてでかい、いつも腰巾着を引き連れて歩く六年の要注意人物で、あれが負けたとなると、「小さくてひょろっと」のイメージがいっそうぶれる。かずきは「いっぱつけーおー」と覚えたての言葉のような口ぶりで言い、ごろんと大の字になった。座って水分補給をしているほかのチームメイトに「かずき邪魔」と邪険にあつかわれる。「いてーじゃん」とかずきは口をとがらせた。
「つーかあいつら、下級生にもマウント取ってんの?」
 とんとん、と巧はボールを突きながらたずねる。
「六年のイゲンってやつじゃん? 出る杭は打っとけっていう」
 かずきはときどき、ちょっと難しい言葉を使う。だけど、かずきが口にする「イゲン」は、どうしてもカタカナに聞こえて意味が想像しづらかった。どんな漢字だったかも巧にははっきりわからず(かずきだってわかってないと思う)、自分もクラスメイトもしょっちゅう使う「マウント」だって、詳しい意味をたずねられたら「こんな感じ」とふんわりにしか答えられない気がした。だったら辞書引くのかと問われたら、どうせ言葉遊びみたいなものだから調べるつもりもない。
 だってオレには、シバやんもマウントも、幽霊だって関係ないし。
 巧はその場で飛び、ジャンプシュートを打った。がこん、とリングに当たり、「あーくそ!」と天井をあおぐ、
「そのアパートってさー、子どもの幽霊が出るんだって」
「へえー」
 平然と答えつつ、言うな言うなと心の中で唱える。
「階段上がったり下りたり、ぼーっと座ってたり」
「ふーん」
 だまれだまれ、早く練習再開しろ、と巧はひたすらシュートを放った。けれど、集中できないせいで、ことごとくリングに阻まれる。
「なあ巧! こわくねえ?」
 起き上がったかずきが巧をゆさゆさと揺さぶってきた。ふと、ゆうべ見た、ちょうちんのような薄暗いあかりが浮かぶ。事故物件のアパートは古くて、玄関も木でつくられていてぼろぼろで、郵便受けも我が家のマンションみたいに手紙がしゅっと吸い込まれそうにスマートなものじゃなくて錆だらけで、カメラがずずっと移動して部屋の中に入ると……。クライマックスの心霊現象がよみがえった瞬間、心臓がわしづかみにされたみたいにひゅんとすくむ。
 集合ー!
 コーチの声が体育館に響き渡った。巧ははっとして、コーチのほうに向き直す。座っていたチームメイトが最後の水分補給をして立ち上がった。ようやくこわい思いから抜け出せると心底安堵した。
 バスケクラブの練習が終わると、巧はお疲れー、とさっさと体育館を出る。きょうの公園もひとがいませんように、と頭の中で唱えた。夏休みは水金の週二日、十三時から十五時三十分まで練習があって(ときどき練習試合もある)、だけどそれだけじゃ足りないから、練習帰りやクラブがない日は公園に立ち寄ってバスケをすることが多い。ひとがあまりこない場所は自分だけが見つけた秘密基地みたいで、そんな場所でひとりでするバスケは、チームメイトをこっそり出し抜く優越感もあった。だって、もっとうまくなりたいのに、夏休みはやりたくもない宿題も多くて時間が足りない。
 きょうもいちばーん。と足を踏み入れた公園のベンチに、ちいさくてひょろっとした男子が、足をぶらぶらさせながら座っていた。ん? と目を凝らし、ベンチをじっと見る。その男子は、狂おしいくらい蝉が鳴いていて太陽もかっかと照って暑いのに、キャップもかぶっていないのだ。小さくて、ひょろっとして……、と巧が視線を持ち上げて繰り返すと、曖昧だった線がばちっと合致する。
「アサノユウ」
 その名を口にすると、男子はゆっくりこっちを見た。すうっと横に長い瞳はまるで猫のようで、野良猫みたいにすぐ飛んで逃げるかと思いきや、じっと巧をうかがうように見ているだけでベンチから立ち去るようすはない。
「なに?」
 まさか返事がくるとは思わず口ごもる。じゃり、と靴底と砂がこすれた。アサノユウはすぐにふいっと視線をそらし、やっぱり足もとをぶらぶらさせ、空を見上げた。巧もあおぎ見ると、一色でずばっと描き切ったような青と、グレーがちょっと混じった入道雲がもくもくしている。きんきんに凍ったソーダバー食いたい、と喉がうなった。
 一歩足を進めてみた。もう一歩、二歩、三歩、と歩いてみる。アサノユウはまだ逃げる気はないようで、巧はそろそろっと近づき、隣に腰かけた。彼は一瞬だけこっちを見たが、とりあえずとどまってくれている。
「なあなあ、おまえシバやんに勝ったってまじ?」
「しばやん?」
 ぜんぶひらがなみたいな発音で、高いような低いような中途半端な声音だった。
「ほら六年の、ジャイアンみたいなやつ」
「あー」
 そう言って、アサノユウは視線を持ち上げた。まぶしいのか、何度か目をしばたかせる。
「勝ったっていうか、練習? させてもらっただけ」
 練習? はて、と巧は首をかしげる。なんの練習だろう。空手でも習っているのかもしれない。だれかをやっつけるとか? まさか幽霊を?
「なあ、おまえん家って幽霊出るってほんと?」
 もしもほんとうなら、その周辺にあんまり近寄りたくない。といっても、アサノユウの家を知らないので、単に巧の安心材料を増やしたいだけだったりする。彼は、「幽霊?」と巧に聞き返し、ふたたび、んー、と首ごと空にかかげて少し考えるしぐさをした。
「見たことない」
「え! まじで?」
「声大きいよ」
 アサノユウは眉根を寄せながら、巧から体を半分引いた。
「ひょっとして、おまえ幽霊までいっぱつけーおー?」
「はは! なに言ってんの? さすがに幽霊殴れないでしょ」
 生意気そう、とかずきは言っていたけれど、アサノユウは屈託なく笑うと頬だけはふくふくして、思わずつつきたくなる親しみがあった。はじめて話したのにまったく身がまえなくてすむ気安さに、友達になれる予感がする。
「だってさ、だって子どもの幽霊なんだよ? いけるかなって思わなくもなくねえ?」
「いや、ふつうに思わない」
「そっか?」
「どんな幽霊が出んの?」
「えーっと、夜にさ、階段のとこ座ってたり、上がったり下りたり?」
 こわくねえ? と彼のTシャツの袖をくいくい握る。すると、んー、と考えるように、アサノユウはまどろっこしい声を出した。
「ていうか、俺が幽霊なのかもね」
 急に下から覗き込まれ、巧はとっさに身を引いていた。その反動でベンチから落ちそうになるが、彼はいたずらっ子みたいな顔でけたけた笑って、「大丈夫?」と巧の手を取った。口をぱくぱく開けると、ぬるい空気が入ってきて首の裏がやけに暑い。
「バスケするんでしょ? 俺は帰るね」
「え? なんで」
 わかったんだろう。と、立ち上がったアサノユウを見上げた。ベンチに座っていてもわかる、小さくてひょろっとしていて、とてもシバやんをいっぱつけーおーしたとは思えない幼い体だった。彼はちょん、とひと差し指で巧が持っているバスケットボールを差し、「それ」とひと言言う。あ、と声を出すが、彼はさっと背を向けてしまった。
「おまえ、あしたもここいる?」
 巧も立ち上がり、彼を引き止めるみたいに口にしていた。すると、アサノユウは首だけふり返る。
「あしたは図書館にいると思う」
「ベンキョーすんの?」
「そうかもね」
 そう言って、たったっ、と足音を立てながら公園から去って行った。幽霊なのかも、なんて言ったくせに、巧の手首をつかんだ手は生きもののあたたかみがあって、人間と同じだった。ぎたい? と浮かんで、どんな漢字かと想像したけれど、まったくわからない。もしもアサノユウが幽霊だったとして、だけどふしぎと、ぜんぜんこわくなかった。