「なんだこれは……その猫から今朝とは異なる気配が漂ってきている……! もしや……あやかしか?」

 流唯はアーモンド形の目を見開き、ハチ香を凝視している。

「はい……。実はわたし、この子に『名前を付けて』と頼まれまして……。ハチ香という名前を付けましたら、あやかしになってしまったのです……。と申しますか、『あやかしに戻った』と申し上げた方がよいのかもしれませんが……」

 澄香がしどろもどろになって説明する間も、流唯はハチ香から目を離さない。
 ――と、次の瞬間。

「……ハッハッハッ!! 『あやかしに戻った』か、それは良いな」

 流唯は左手で額を押さえながら、身体を軽く『く』の字に曲げると楽しげに笑い始めたのだった。
 目尻を下げ、キリリと締まった口元から白い歯を覗かせている流唯を見た澄香は、激しい胸の高鳴りを感じていた。

(あぁ旦那様……笑ったお顔もなんて麗しい……)

 澄香がしばし見惚れていると、流唯はハッと我に返ったように居住まいを正した。

「まぁ……あれだ。われわれ鬼京家も、あやかしの一族だ。悪さをしないあやかしであれば、同居も問題ない」
「あ、ありがとうございます!」

 澄香がいま一度頭を下げると、ハチ香の食事を部屋の隅に置く多江の姿が目に入った。
 ハチ香は、待ってました! とばかりに、猫用の食器に勢いよく頭を突っ込んでいる。

「ハチ香、よく噛んで食べるのよ」

 澄香が話しかけると、ハチ香はゆっくりと振り向き、こくりと頷いた。

「おまえたちは、まるで心が通じ合っているかのようだなぁ……」

 流唯は感心したように呟いた。
 どうやらハチ香は、流唯の前では人間の言葉を話さないようにしているようだった。
 それは、これまで様々な修羅場をくぐり抜けてきたのであろうハチ香の処世術に違いなかった。
 一段落つき、澄香と流唯はいそいそとテーブルの方に身体の正面を向け直すと、箸を手に取った。
 朝餉のときに、ふたりのあいだに漂っていた緊張感は、薄れつつあった。

「ここの食事は口に合うか?」
「嫌いな食材やメニューはないか?」

 流唯は細やかな配慮を見せてくれていた。
 だが、生家で長年虐げられ疎まれてきた澄香にとって、気の利いた返事をすることは難しい。
 悪気はないのだが、つい「はい」、「特には……」といった愛想のない返答になりがちだ。
 だが、流唯はそんなことを気にする様子もなく、澄香の目を見て話しかけてくる。

(――やっぱり、旦那様とは目を合わせても心の声が聞こえてこないわ!)

 澄香は流唯と目を合わせる回数が増えるごとに、確信を深めていった。



◇◇◇
「マズイな……これはいよいよマズイ!!」

 夕餉の後、残っている仕事を片付けようと執務室にやってきた流唯だったが、仕事がまったく手につかない。
 猫を抱きしめ、『あやかしに戻った』と俺に告げたときの、澄香のあの困ったような顔!
 猫に『よく噛んで食べるのよ』と声をかけたときの、あの慈愛に満ちた表情と声!
 そして、俺の質問に答えるときの、あのはにかんだ表情!

「か、可愛すぎる……!」

 流唯はデスクに両肘を付き、頭を抱え込む。

(気持ちを抑えることができず、ついたくさん話しかけてしまったが――これからどうすればいいんだ?)

 顎に手を当て、しばらくのあいだ部屋の中を行ったり来たりしたかと思うと、流唯は突然覚悟を決めたかのようにデスクに再び腰かけた。
 そして、デスクの端にあった燭台(しょくだい)を目の前に置くと、引き出しからろうそくを取り出しこれに取り付ける。
 目をつむり、両腕を前に突き出すと手の平をろうそくに向けた。
 流唯がフッと力を入れると、手の平から発火した炎がろうそくへと移った。
 揺らめく炎を見詰めながら、流唯は何事かを唱え始めたのだった――。



◇◇◇
 それから一週間が経過した。
 流唯は仕事が立て込んでいるとのことで、夕餉の席に姿を見せることはめっきりなくなっていたが、ふたりは必ず朝餉を共にしていた。
 『流唯と目を合わせても、気持ちを読んでしまうことはない』と確信してからというもの、澄香が流唯に対して抱いていた緊張は少しずつではあるが、ほぐれつつあった。
 とはいうものの、家族と家族らしい会話も、級友と級友らしい会話もしたことがない澄香にとって、誰かと淀みなく話を繰り広げるということは至難の業であった。
 流唯の方も、澄香と目が合うと耳を赤くして目を逸らしてしまうことが度々あった。

(旦那様は視線を逸らされることが少なくないけれど、そんなにわたしのことがお嫌なのかしら……)

 そんな不安を覚えることも少なくなかった。

(だから、わたしと夕餉を共になさらないのかも……)

 悪い想像が一度頭をよぎると、無意識のうちに自分をいじめ抜いてしまう。そんなところが澄香にはあった。
 そんなギクシャクするふたりを救ってくれたのが、ハチ香である。
 ハチ香がニャーンとひと鳴きすれば――。

「おや、ハチ香、どうした? もうお腹がいっぱいかい?」と、流唯が話しかけ、
「ハチ香、今朝もいっぱい食べたね~」と、澄香が微笑みかける。

 ハチ香がゴロゴロと澄香にすり寄ってくれば――。

「おやおや、ハチ香は甘えん坊だねぇ。澄香に抱っこされたいのかい?」と、流唯が問いかける。

 そしてハチ香がすっぽりと澄香の胸に抱かれると――。

「いいなぁ、ハチ香。澄香にそんな風に抱っこされて」

 流唯はそう呟き、その後必ずといっていいほど耳を真っ赤にしてそっぽを向くのであった。

(――旦那様、いつの間にかわたしのことを『澄香』と呼んでくださってる……)

 これまで『無能』、『役立たず』、『恥さらし』とひたすら蔑まれてきた澄香にとって、名前で呼んでもらえることは、このうえない喜びだった。

「――ハチ香、ハチ香が『あんた』じゃなくて名前で呼ばれたがった理由が分かる気がする……」

 部屋に戻ると、澄香はハチ香に言うとはなしにそっと呟いた。
 するとハチ香はくるりと振り向き、長い尻尾をゆらゆらさせながら口を開いた。

「ルイに名前で呼んでもらえるようになって、よかったね~! す・み・か♪」

 ハチ香ははしゃぐようにそう言うと、澄香に向かってバチンと片方の目をつむってみせた。

「――もう、本当に人間みたいなんだから……」

 澄香は火照った顔を両手で包むと、ひとりごちた。