――タッタッタッ!

 何かがテーブルの上を横切る気配がした。

「ん……?」

 澄香が顔を上げると、流唯の鯛の煮付けに顔を突っ込んでいるハチワレ猫の姿が目に飛び込んできた。

「……っ!!」

 あまりに突然のことに、澄香は声が出ない。

「な、なんだこの猫はっ! どこから入ってきたっ!」

 隣で流唯が叫んでいる。

「も、申し訳ございません、旦那様! わ、わたしです。わたしが連れてきた猫なんです……!」

 澄香は身体の正面を流唯の方に向け、深く頭を下げるとひと息に言った。
 しばらく返事がなかったため、こわごわ顔を上げると、そこには自分をまっすぐに見下ろす流唯の姿があった。

(――こ、このお方は……もしかして……)

 澄香の心臓はドキンとひとつ大きく跳ねたかと思うと、狂ったように早鐘(はやがね)を打ち鳴らし始めた。

(……この黒曜石のような美しいアーモンド型の瞳! そして耳から肩にかけて流れるようなラインを描いている黒い髪……。あぁ、後ろ姿しか見ていなかったから、今まで気付かなかったのだわ!)

 三年前に自分を猿のあやかしから救ってくれた、あの麗しの君との再会に、澄香の胸は爆発寸前に高鳴っていた。

「――おまえの猫だと? 橘花の家から連れてきたのか?」

 流唯の声にハッと我に返った澄香は、火照(ほて)った頬を両手で押さえながら、しどろもどろになって答える。

「いいえ……き、昨日、こちらへ参る道すがら……じ、人力車に轢かれたようなのです。幸い、大きな怪我はなかったようなのですが……」
「人力車に轢かれただと?」

 流唯は(いぶか)しげに、テーブルの上で煮付けをペチャペチャと食べている猫に目をやった。

「も、申し訳ございません。あまりにも可哀想で……つい、連れてきてしまったのです……」

 話しているうちに澄香は、拾った猫を勝手に他所の屋敷に上げるとは、とんでもないマナー違反を犯してしまったのではないかと強烈な不安に襲われ、再び俯いた。
 しばしの沈黙の後、まぁよい、という流唯の優しい声がし、澄香は恐る恐る顔を上げた。
 そこには、自分に微笑みかける輝くようなアーモンド型の黒い瞳があった。

「少し驚いただけで、別に猫が嫌いなわけではない。使用人の中に獣医の資格をもっている者がいる。どこか悪いところがないか、後で()させることにしよう」

 流唯はそう言うと、先にダイニングルームを後にしたのだった。



 部屋に戻るやいなや、澄香は橘花家から持参した風呂敷包みをほどいた。
 中からスケッチブックを取り出すと、これまでに描いた絵を一枚一枚じっくりと確認していく。

「間違いないわ。旦那様こそが、あのときのお方なんだわ……」

 澄香はそっと呟くと、両腕でスケッチブックをぎゅっと抱きしめた。

(それに、さっきは咄嗟(とっさ)のことで思わず旦那様と目を合わせてしまったけれど、特に何の感情も伝わってこなかったわ……。ひょっとして、旦那様が『鬼神』だから……?)

 目を合わせると人の気持ちを読んでしまうことに悩み苦しみ続け、引きこもりになってしまった澄香にとって、この推測は一縷(いちる)の望みともいえるものであった。

(夕食のときに、また旦那様にお会いできるかしら。勇気を出して確認してみなければ……)

 澄香はそっと決意したのだった。



◇◇◇
「――なんと愛らしい娘なのだ……!!」

 その頃、流唯は執務室のデスクで頭を抱えていた。

「うっかり惚れてしまうことのないよう、必死に顔を見ないようにしてきたっていうのに……あの今にも泣き出しそうな優しい瞳! そして何よりもマズイのは、あの形の良いふっくらとした唇だ……。しかも捨て猫を放っておけない優しい性格ときている! これはマズイことになった……! それにしても、あの清楚な水色のドレス、実に似合っていたな……」

 天を仰ぎそう呟いていると、ドアをノックする音がした。
 流唯は咄嗟に姿勢を正すと、入れ、と低い声で告げる。
 ドアを開けて顔を覗かせたのは、堂元――黒レンズの眼鏡に黒スーツ姿の男――だった。

「社長、そろそろ出社のお時間です」

 あぁ、と短く答えると、流唯は深いため息をひとつつき、席を立った。



◇◇◇
 流唯の計らいで獣医によるチェックを受け、『まったくもって健康な雌の成猫である』とのお墨付きをもらった猫は、澄香のベッドの上で入念に毛繕いをしている。
 澄香は猫足が特徴的な焦茶色の椅子に腰掛け、猫の様子を眺めながら小さな握り飯を口に運んでいた。
 鬼京家では、昼餉は各自自由に取るというしきたりがあるとのこと。
 どこで何を食べたらよいのかわからない澄香のために、多江が握り飯をこしらえてくれたのだった。

「人力車に轢かれたっていうのに、あんたは本当に強い子だわねぇ」

 澄香はベッドに移動し浅く腰掛けると、猫に話しかけた。
 ずっと孤独だった澄香にとって、その猫は初めてできた友人のような存在だった。
 猫は毛繕いする舌を一瞬引っ込めたかと思うと、金色の瞳でじーっと澄香を見詰め返してきた。と、その瞬間――。

(『あんた』じゃないよ)

 少し不服そうな感情が伝わってきた。