「は、はじめまして……。橘花澄香と申します。不束者ではございますが、な、なにとぞよろしくお願いいたします……」
たどたどしくも、そう一気に告げた澄香だったが、相変わらず顔を上げることはできない。
自分が鬼神に嫁ぐことになると聞かされたあの瞬間からずっと、澄香は鬼神の姿について、あれこれと想像を巡らせてきた。
鬼というからには、皮膚はやはり赤いのか、それとも青いのか。頭に角は生えているのか。毛むくじゃらの大男だったらどうしよう……という具合に。
しばらくの間、ああでもないこうでもないと想像しては、澄香は最後に必ずこう自分に言い聞かせるのだった。
(――わたしったら、なんてことを……わたしのような霊力もなければ美貌もない女を嫁にしてもいいと言ってくださっているのよ。どんなお姿であっても受け入れなくては……)
今この瞬間も、そう自分に言い聞かせた澄香は、意を決して頭を上げようとするも、次の瞬間、別の不安に襲われた。
(でも……流唯様の目を見てしまったら、お気持ちが脳内に流れてきてしまうわ。わたしのような地味で痩せっぽちな女を見て、さぞかし落胆されていることでしょう。そのお気持ちを感じとるのは、やっぱり怖いわ……)
顔を上げられずにいる澄香の耳に、やがて思いも寄らない言葉が届いた。
「長旅ご苦労だった。自分の家だと思って寛いでくれ」
想像だにしていなかった優しい言葉に、澄香は思わず、えっ? と顔を上げる。
そこにいたのは、壁面の書棚の方を向き、こちらに背を向けたまま手にした書類にペンを走らせているスーツ姿の男性だった。
(――お、鬼じゃない……)
流唯がふつうの人間の姿をしていることにホッとした澄香は、落ち着きを取り戻すと、改めて男の後ろ姿に目をやった。
(背がとってもお高いのね……。そしてなんて艶のある美しい黒髪なの……)
流唯の均整の取れた後ろ姿に、澄香は思わず見惚れてしまう。
「何をしている? もう部屋に行って休むといい」
流唯の素っ気ない言葉に澄香は我に返る。
「――は、はいっ! 失礼いたしました……」
澄香が部屋を出るまで、結局流唯は一度もこちらを振り返らなかった。
(わたしが霊力のないつまらない女だから、きっと関心がおありではないのね……)
廊下でしばし途方にくれていると、女性らしき人影がパタパタとこちらに向かって近付いてくるのが見えた。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません。私は多江と申します。この度、澄香様のお世話をさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします」
多江と名乗る中年女性は一息にそう言うと、澄香を部屋へ案内しようと先を行く。
その時、澄香に抱かれてすっかり寝入っていた猫がニャーッと泣いた。
「やだわ、わたしったら、流唯様にこの猫を飼ってもいいかお尋ねするのを忘れてしまったわ……」
「若旦那様は――あ、流唯様のことですが――この後、急なお仕事が入ってしまわれたようですので、明日の朝餉のお席でお尋ねになってみてはいかがでしょう」
多江は穏やかに言った。
澄香は、はい、と小さく返事をし、多江の後を付いていく。
「さぁ、どうぞ。こちらが澄香様のお部屋になります」
促され、室内に一歩足を踏み入れる。
「――まぁ……!」
澄香は目を大きく見開き、口に手をやったまま動けない。
眼前には、天井の高い広々とした空間が広がっていた。
最初に澄香の目を惹いたのは、豪奢なレースで覆われた天蓋付きのベッドだった。一人用にしては大きすぎるベッドには桜鼠色のシルクのスプレッドがふんわりと掛かっている。ベッドの頭の方に目をやると、お揃いの生地で包まれた、見るからにふかふかの枕が添えられていた。
部屋全体を見渡すと、建具や家具は落ち着いた焦茶色で統一されている。
一方で、壁には紅色の小さな薔薇模様が散りばめられており、全体として上品で粋でありつつも『愛らしい部屋』という印象を与えていた。
「今日はお疲れでしょうから、どうぞゆっくりとお休みください。夕餉は若旦那様もいらっしゃいませんし、今夜は気兼ねなくお部屋でお召し上がりください。後ほど、お持ちいたします。他に何かあれば、この呼び鈴でいつでも私をお呼びください」
多江はそう言うと、ナイトテーブルに置かれているガラス製の呼び鈴をチリンチリンと鳴らした。
多江が出ていくと、澄香はフウーッと、天蓋付きのベッドに腰をかけた。
その瞬間、痩せ細りゴツゴツとした臀部が、これまでに感じたことのない柔らかな弾力に包まれているのを感じた。
初めての感覚に嬉しくなった澄香は、そのまま全身をベッドに横たえる。
(こんなことが、このわたしの身に起きるだなんて……)
目を閉じると、橘花家の暗くてジメジメした納屋で過ごしていた自分が脳裏に浮かんだ。
(……ううん、わたしはこんなに贅沢なお部屋にふさわしい人間じゃないわ。流唯様だって先ほど、こちらをちらりとも振り返らなかったじゃないの。きっと明日には追い出されるのだわ……)
そんな不安が過りはしたものの、一日続いた緊張とベッドの極上の柔らかさが澄香を眠りへと誘っていった。
カーテンの隙間から差し込む光が、ベッドの隅で丸くなっているハチワレ猫を照らしている。
やがて猫はモゾモゾと動き出し、両腕を前に出して伸びをすると、そっと澄香の顔に近付いた。
頬をかすめたザラッとした感触に、澄香は目を開ける。
「――ん……? 今のは? ……ひょっとして、猫ちゃん?」
猫は知らん顔をしている。
起こしてくれたの? と猫を撫でていると、ドアの外から多江の声がした。
「澄香様、おはようございます。よくお休みになられましたでしょうか。じき朝餉のお時間ですので、ご準備ができましたら階段を降りた正面のダイニングルームにお越しくださいませ。お着替えはクローゼットにご用意してございますので」
澄香は、はいっ、と答えると、慌ててベッドから飛び出た。
(クローゼットって、これのことかしら……)
なにやら西洋風の箪笥のようなものの取っ手を手前に引いてみると、そこには色とりどりの豪華なドレスが所狭しと吊るされていた。
「――まぁっ……!」
澄香は左手を口元に当てたまま、右手でドレスを一着ずつ見ていく。
「こんなに素晴らしいドレス、明莉ですら着ているのを見たことがないわ……」
思わず口にしてしまった『明莉』という名に、澄香はほんの一瞬、陰鬱な気持ちになる。
(……そうだわ、早く支度をしなければ!)
澄香は気を取り直すと、一番地味であると感じた水色のドレスを選び、これに袖を通した。
指定されたダイニングルームのドアを開けると、着流し姿の流唯が既にテーブルについていた。
だが、なぜかドアの方に背を向けて座っている。
「――る……」
流唯様、と呼びそうになった澄香だったが、馴れ馴れしいかしら、と言葉を飲み込む。
「……だ、旦那様、おはようございます」
澄香はそう言って、頭を下げた。
ややあって、おはよう、という声が返ってきたが、流唯はやはり振り向きもしない。
(……怒ってらっしゃるのかしら……分からないわ……。それに、どこに座ればよいのかも分からない……)
あたふたしていると、多江の声がドアの外から響いてきた。
「あ、澄香様は若旦那様のお隣にお座りくださいませ~」
(なぜ旦那様の向かい側ではなく隣なのかしら……?)
澄香は不思議に思ったが、何も言わずに指定された席についた。
(そうだわ、猫のことを旦那様にお尋ねしないと……)
そう思い、ちらりと隣の席に目をやるも、目を合わせてしまったら流唯の心の声――きっと澄香の容姿に落胆している――が聞こえてきてしまうと思うと怖くてなかなか切り出せない。
一方の流唯は流唯で澄香に話しかけることはなく、どうやら書類に目を落としたまま黙々と料理を口に運んでいるようだった。
どうしよう、と思いつつ料理に箸を伸ばしたその時だった。
たどたどしくも、そう一気に告げた澄香だったが、相変わらず顔を上げることはできない。
自分が鬼神に嫁ぐことになると聞かされたあの瞬間からずっと、澄香は鬼神の姿について、あれこれと想像を巡らせてきた。
鬼というからには、皮膚はやはり赤いのか、それとも青いのか。頭に角は生えているのか。毛むくじゃらの大男だったらどうしよう……という具合に。
しばらくの間、ああでもないこうでもないと想像しては、澄香は最後に必ずこう自分に言い聞かせるのだった。
(――わたしったら、なんてことを……わたしのような霊力もなければ美貌もない女を嫁にしてもいいと言ってくださっているのよ。どんなお姿であっても受け入れなくては……)
今この瞬間も、そう自分に言い聞かせた澄香は、意を決して頭を上げようとするも、次の瞬間、別の不安に襲われた。
(でも……流唯様の目を見てしまったら、お気持ちが脳内に流れてきてしまうわ。わたしのような地味で痩せっぽちな女を見て、さぞかし落胆されていることでしょう。そのお気持ちを感じとるのは、やっぱり怖いわ……)
顔を上げられずにいる澄香の耳に、やがて思いも寄らない言葉が届いた。
「長旅ご苦労だった。自分の家だと思って寛いでくれ」
想像だにしていなかった優しい言葉に、澄香は思わず、えっ? と顔を上げる。
そこにいたのは、壁面の書棚の方を向き、こちらに背を向けたまま手にした書類にペンを走らせているスーツ姿の男性だった。
(――お、鬼じゃない……)
流唯がふつうの人間の姿をしていることにホッとした澄香は、落ち着きを取り戻すと、改めて男の後ろ姿に目をやった。
(背がとってもお高いのね……。そしてなんて艶のある美しい黒髪なの……)
流唯の均整の取れた後ろ姿に、澄香は思わず見惚れてしまう。
「何をしている? もう部屋に行って休むといい」
流唯の素っ気ない言葉に澄香は我に返る。
「――は、はいっ! 失礼いたしました……」
澄香が部屋を出るまで、結局流唯は一度もこちらを振り返らなかった。
(わたしが霊力のないつまらない女だから、きっと関心がおありではないのね……)
廊下でしばし途方にくれていると、女性らしき人影がパタパタとこちらに向かって近付いてくるのが見えた。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません。私は多江と申します。この度、澄香様のお世話をさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします」
多江と名乗る中年女性は一息にそう言うと、澄香を部屋へ案内しようと先を行く。
その時、澄香に抱かれてすっかり寝入っていた猫がニャーッと泣いた。
「やだわ、わたしったら、流唯様にこの猫を飼ってもいいかお尋ねするのを忘れてしまったわ……」
「若旦那様は――あ、流唯様のことですが――この後、急なお仕事が入ってしまわれたようですので、明日の朝餉のお席でお尋ねになってみてはいかがでしょう」
多江は穏やかに言った。
澄香は、はい、と小さく返事をし、多江の後を付いていく。
「さぁ、どうぞ。こちらが澄香様のお部屋になります」
促され、室内に一歩足を踏み入れる。
「――まぁ……!」
澄香は目を大きく見開き、口に手をやったまま動けない。
眼前には、天井の高い広々とした空間が広がっていた。
最初に澄香の目を惹いたのは、豪奢なレースで覆われた天蓋付きのベッドだった。一人用にしては大きすぎるベッドには桜鼠色のシルクのスプレッドがふんわりと掛かっている。ベッドの頭の方に目をやると、お揃いの生地で包まれた、見るからにふかふかの枕が添えられていた。
部屋全体を見渡すと、建具や家具は落ち着いた焦茶色で統一されている。
一方で、壁には紅色の小さな薔薇模様が散りばめられており、全体として上品で粋でありつつも『愛らしい部屋』という印象を与えていた。
「今日はお疲れでしょうから、どうぞゆっくりとお休みください。夕餉は若旦那様もいらっしゃいませんし、今夜は気兼ねなくお部屋でお召し上がりください。後ほど、お持ちいたします。他に何かあれば、この呼び鈴でいつでも私をお呼びください」
多江はそう言うと、ナイトテーブルに置かれているガラス製の呼び鈴をチリンチリンと鳴らした。
多江が出ていくと、澄香はフウーッと、天蓋付きのベッドに腰をかけた。
その瞬間、痩せ細りゴツゴツとした臀部が、これまでに感じたことのない柔らかな弾力に包まれているのを感じた。
初めての感覚に嬉しくなった澄香は、そのまま全身をベッドに横たえる。
(こんなことが、このわたしの身に起きるだなんて……)
目を閉じると、橘花家の暗くてジメジメした納屋で過ごしていた自分が脳裏に浮かんだ。
(……ううん、わたしはこんなに贅沢なお部屋にふさわしい人間じゃないわ。流唯様だって先ほど、こちらをちらりとも振り返らなかったじゃないの。きっと明日には追い出されるのだわ……)
そんな不安が過りはしたものの、一日続いた緊張とベッドの極上の柔らかさが澄香を眠りへと誘っていった。
カーテンの隙間から差し込む光が、ベッドの隅で丸くなっているハチワレ猫を照らしている。
やがて猫はモゾモゾと動き出し、両腕を前に出して伸びをすると、そっと澄香の顔に近付いた。
頬をかすめたザラッとした感触に、澄香は目を開ける。
「――ん……? 今のは? ……ひょっとして、猫ちゃん?」
猫は知らん顔をしている。
起こしてくれたの? と猫を撫でていると、ドアの外から多江の声がした。
「澄香様、おはようございます。よくお休みになられましたでしょうか。じき朝餉のお時間ですので、ご準備ができましたら階段を降りた正面のダイニングルームにお越しくださいませ。お着替えはクローゼットにご用意してございますので」
澄香は、はいっ、と答えると、慌ててベッドから飛び出た。
(クローゼットって、これのことかしら……)
なにやら西洋風の箪笥のようなものの取っ手を手前に引いてみると、そこには色とりどりの豪華なドレスが所狭しと吊るされていた。
「――まぁっ……!」
澄香は左手を口元に当てたまま、右手でドレスを一着ずつ見ていく。
「こんなに素晴らしいドレス、明莉ですら着ているのを見たことがないわ……」
思わず口にしてしまった『明莉』という名に、澄香はほんの一瞬、陰鬱な気持ちになる。
(……そうだわ、早く支度をしなければ!)
澄香は気を取り直すと、一番地味であると感じた水色のドレスを選び、これに袖を通した。
指定されたダイニングルームのドアを開けると、着流し姿の流唯が既にテーブルについていた。
だが、なぜかドアの方に背を向けて座っている。
「――る……」
流唯様、と呼びそうになった澄香だったが、馴れ馴れしいかしら、と言葉を飲み込む。
「……だ、旦那様、おはようございます」
澄香はそう言って、頭を下げた。
ややあって、おはよう、という声が返ってきたが、流唯はやはり振り向きもしない。
(……怒ってらっしゃるのかしら……分からないわ……。それに、どこに座ればよいのかも分からない……)
あたふたしていると、多江の声がドアの外から響いてきた。
「あ、澄香様は若旦那様のお隣にお座りくださいませ~」
(なぜ旦那様の向かい側ではなく隣なのかしら……?)
澄香は不思議に思ったが、何も言わずに指定された席についた。
(そうだわ、猫のことを旦那様にお尋ねしないと……)
そう思い、ちらりと隣の席に目をやるも、目を合わせてしまったら流唯の心の声――きっと澄香の容姿に落胆している――が聞こえてきてしまうと思うと怖くてなかなか切り出せない。
一方の流唯は流唯で澄香に話しかけることはなく、どうやら書類に目を落としたまま黙々と料理を口に運んでいるようだった。
どうしよう、と思いつつ料理に箸を伸ばしたその時だった。