皇國では太古の昔から、あやかしと人間は対等な存在として助け合いながら生きてきた。
しかし二百年ほど前、並外れた霊力と身体能力を有するあやかしが出現し、政治・経済界を牛耳るようになると、あやかしと人間とのあいだには自然と優劣関係が生じ始めた。
ところが人間も負けっぱなしというわけではなかった。それから約百年後、霊力を有する人間の存在が初めて確認されたのだ。以来、せきを切ったように霊力をもつ人間が増幅していった。
これが契機となり、『あやかしばかりが高い地位に就いているのはおかしい』という声が人間サイドから上がり始めた。
そして五十年前に一度、あやかしと人間のあいだで大きな戦が起きたのだが、その結果はあやかしの圧勝であった。勝因はトップ層のあやかしの、ずばぬけた戦闘能力にあるというのが多くの識者の見解であった。
この戦以降、人間がトップ層のあやかしに楯突くことはなくなり、人間の中には好んで優れたあやかしの元で働きたいと考えるものも増えていった。
そうした背景もあってか、あやかしと人間の番も自然と増えていき、街には『半妖』と呼ばれる『半分あやかし、半分人間』という存在も現れ始めた。
澄香が嫁候補として送られる鬼京家は、トップ層のあやかしの中でも最上位に君臨する『鬼神』が当主を務める名家である――。
澄香は少ない荷物をまとめると住み慣れた納屋を後にし、玄関先で待機していた人力車に乗り込む。
今日出発することを父親たちも知っているはずなのに、誰一人として見送りに出てこない。
(まぁ、予想していたことではあったのだけれど……)
澄香はフッと自嘲気味に笑うと、出してください、と車夫に声をかける。
(思えば、こんなふうに人力車に乗ってどこかへ行くということ自体、初めてかもしれない……)
幼い頃から無能と罵られ続けてきた澄香は、両親にどこかに連れて行ってもらった記憶がない。
(明莉の誕生日パーティーのときだけは毎年、連れ出してもらえていたけれど……あれも他所の家から『上の娘さんは?』と尋ねられるのが面倒だったからよね)
ぼんやりとさまざまな回想をしていた澄香だったが、『明莉の誕生日パーティー』という言葉にハッとした。
(……あのお方にもう一度お会いできたなら、あのときのお礼をちゃんとお伝えしたいわ……)
艷やかな黒髪をなびかせ、澄香を猿のあやかしから救ってくれた美青年の姿を思い浮かべるだけで、澄香の心はホワッと暖かくなるのだった。
鬼京家は澄香が通っていた女学校と同じ地区に居を構えているようだった。
人力車に揺られていると、見慣れた風景がゆっくりと流れていく。
景色の中に、時代遅れの汚れた着物に身を包み、女学校へと続く一本道を歩いているやや猫背の自分の姿が見えた気がした。
一瞬、懐かさを感じた澄香だったが、自分を思う存分罵ってやろうと待ち構えている明莉の幻影が見えるやいなや、ギュッと目をつむった。
(もう二度と、あの人たちと関わりたくないわ。たとえ鬼に喰われるとしても、あの家を出たのは正解だった)
人力車を通り抜けていく初秋の風は心地よく、澄香は両腕を広げて深呼吸をする。
「なんて気持ちがいいのかしら……」
えもいわれぬ開放感に浸っていたそのとき――。
「――っ! 危ないっ!」
車夫の叫び声が聞こえたかと思うと、人力車が急停止した。
「きゃあっ! ――どうしたのですか?!」
体勢を立て直し、大きな声で尋ねると、青ざめた顔で振り返った車夫と目が合った。
(まずいな……何かを轢いた気がする……)
車夫の心の声が脳内に伝わってきた。
澄香は慌てて人力車から降りると、車輪のあたりを覗き込む。
すると、小さくて白っぽい何かが視界に飛び込んできた。
咄嗟に右手を伸ばし優しく掴むと、それは白黒のハチワレ猫だった。
猫は目をつむり、ぐったりとしていて動かない。
なんということ……! と、澄香は猫を胸に抱きしめる。
「そんな野良猫を鬼京家に連れて行ったらマズイんじゃないですかい?」
車夫は自分が轢いたにもかかわらず、心配そうな素振りすら見せていない。
「お屋敷に着くまでのあいだだけでも、こうさせておいてください」
澄香は小さく言うと、猫を抱きしめたまま人力車に乗り込んだ。
(猫ちゃん、猫ちゃん、かわいそうに……。このまま死んでしまうだなんて、あんまりだわ……。目を開けておくれ、可愛い猫ちゃん……)
そう念じながら、澄香は猫の汚れた背中を優しく撫で続けた。
どれだけの時間そうしていただろうか。
着きましたよ、という車夫の声に澄香は顔を上げた。
目の前には『絢爛豪華』という言葉がぴったりな西洋風の大豪邸がそびえていた。
(ここが鬼京家……! 納屋にこもっていた私なんかがお嫁さん候補として越して来るだなんて……不釣り合いにも程があるわ……)
あまりのことに身動きがとれずにいると、腕の中で何かがもぞもぞっと動く気配がした。
えっ? と下を見ると、先程のハチワレ猫が金色の瞳をぱちぱちさせて澄香を見上げているではないか。
「猫ちゃん! 意識が戻ったのね! よかった、よかったぁ~~!」
澄香は目の縁にこぼれんばかりの雫をため、猫をぎゅっと抱きしめる。
猫はニャーッと鳴き、澄香の頬をペロッと舐めた。
そこへ黒色のスーツに身を包み、黒レンズの眼鏡をかけた男性がやってきた。
橘花澄香様ですか、と訊かれ、澄香は首肯する。
男性は車夫に謝礼袋を手渡すと、澄香が橘花家から持ってきた風呂敷包みを手に取り、こちらへ、と自分に付いてくるよう促した。
「あの……この猫、怪我をしているみたいなんです……。連れて行ってもよろしいですか……?」
澄香は勇気をだして、男性に尋ねてみた。
ハチワレ猫は、もうすっかり元気そうに見えるが、つい先ほど人力車に轢かれたのだ。どこかに怪我をしているに違いないと澄香は思ったのだった。
男性はちらりと猫に目をやると、薄い唇を開いた。
「私では判断いたしかねますので、流唯様にお尋ねください。澄香様をお待ちです」
そう早口で告げると、背を向けてさっさと歩き出してしまった。
(――流唯様、わたしの夫になるかもしれないお方……。そして泣く子も黙る恐ろしい『鬼神』という噂の……)
しばしの間、猫の柔らかさとその体温に癒やされていた澄香だったが、これから冷酷な鬼神と対面するのかと思うと一気に緊張し、手の平にじっとりと嫌な汗が滲み出るのを感じていた。
猫を胸に抱えたまま屋敷に足を踏み入れると、十数人の使用人と思われる人たちが出迎えてくれた。
澄香は彼らの心を読んでしまわないよう、反射的にお辞儀の姿勢をとる。
そして、顔を伏せたままの状態で、黒レンズ眼鏡の男性の足元だけを見て前に進んだ。
(――だいぶ歩いた気がするけれど……どれだけ広いお屋敷なのかしら……)
澄香が屋敷の広さに圧倒されていると、黒レンズ眼鏡の男性が、ある部屋の前で立ち止まり扉をノックした。
「流唯様、澄香様をお連れいたしました」
やや間が空く。
やがて、入れ、という低い声が聞こえてきた。
「――し、失礼いたします!」
あまりの緊張に、一音目の『し』が上ずってしまう。
(……あ……穴があったら入りたいわ……)
澄香は真っ赤な顔で扉を開け、流唯の前に歩み出た。
しかし二百年ほど前、並外れた霊力と身体能力を有するあやかしが出現し、政治・経済界を牛耳るようになると、あやかしと人間とのあいだには自然と優劣関係が生じ始めた。
ところが人間も負けっぱなしというわけではなかった。それから約百年後、霊力を有する人間の存在が初めて確認されたのだ。以来、せきを切ったように霊力をもつ人間が増幅していった。
これが契機となり、『あやかしばかりが高い地位に就いているのはおかしい』という声が人間サイドから上がり始めた。
そして五十年前に一度、あやかしと人間のあいだで大きな戦が起きたのだが、その結果はあやかしの圧勝であった。勝因はトップ層のあやかしの、ずばぬけた戦闘能力にあるというのが多くの識者の見解であった。
この戦以降、人間がトップ層のあやかしに楯突くことはなくなり、人間の中には好んで優れたあやかしの元で働きたいと考えるものも増えていった。
そうした背景もあってか、あやかしと人間の番も自然と増えていき、街には『半妖』と呼ばれる『半分あやかし、半分人間』という存在も現れ始めた。
澄香が嫁候補として送られる鬼京家は、トップ層のあやかしの中でも最上位に君臨する『鬼神』が当主を務める名家である――。
澄香は少ない荷物をまとめると住み慣れた納屋を後にし、玄関先で待機していた人力車に乗り込む。
今日出発することを父親たちも知っているはずなのに、誰一人として見送りに出てこない。
(まぁ、予想していたことではあったのだけれど……)
澄香はフッと自嘲気味に笑うと、出してください、と車夫に声をかける。
(思えば、こんなふうに人力車に乗ってどこかへ行くということ自体、初めてかもしれない……)
幼い頃から無能と罵られ続けてきた澄香は、両親にどこかに連れて行ってもらった記憶がない。
(明莉の誕生日パーティーのときだけは毎年、連れ出してもらえていたけれど……あれも他所の家から『上の娘さんは?』と尋ねられるのが面倒だったからよね)
ぼんやりとさまざまな回想をしていた澄香だったが、『明莉の誕生日パーティー』という言葉にハッとした。
(……あのお方にもう一度お会いできたなら、あのときのお礼をちゃんとお伝えしたいわ……)
艷やかな黒髪をなびかせ、澄香を猿のあやかしから救ってくれた美青年の姿を思い浮かべるだけで、澄香の心はホワッと暖かくなるのだった。
鬼京家は澄香が通っていた女学校と同じ地区に居を構えているようだった。
人力車に揺られていると、見慣れた風景がゆっくりと流れていく。
景色の中に、時代遅れの汚れた着物に身を包み、女学校へと続く一本道を歩いているやや猫背の自分の姿が見えた気がした。
一瞬、懐かさを感じた澄香だったが、自分を思う存分罵ってやろうと待ち構えている明莉の幻影が見えるやいなや、ギュッと目をつむった。
(もう二度と、あの人たちと関わりたくないわ。たとえ鬼に喰われるとしても、あの家を出たのは正解だった)
人力車を通り抜けていく初秋の風は心地よく、澄香は両腕を広げて深呼吸をする。
「なんて気持ちがいいのかしら……」
えもいわれぬ開放感に浸っていたそのとき――。
「――っ! 危ないっ!」
車夫の叫び声が聞こえたかと思うと、人力車が急停止した。
「きゃあっ! ――どうしたのですか?!」
体勢を立て直し、大きな声で尋ねると、青ざめた顔で振り返った車夫と目が合った。
(まずいな……何かを轢いた気がする……)
車夫の心の声が脳内に伝わってきた。
澄香は慌てて人力車から降りると、車輪のあたりを覗き込む。
すると、小さくて白っぽい何かが視界に飛び込んできた。
咄嗟に右手を伸ばし優しく掴むと、それは白黒のハチワレ猫だった。
猫は目をつむり、ぐったりとしていて動かない。
なんということ……! と、澄香は猫を胸に抱きしめる。
「そんな野良猫を鬼京家に連れて行ったらマズイんじゃないですかい?」
車夫は自分が轢いたにもかかわらず、心配そうな素振りすら見せていない。
「お屋敷に着くまでのあいだだけでも、こうさせておいてください」
澄香は小さく言うと、猫を抱きしめたまま人力車に乗り込んだ。
(猫ちゃん、猫ちゃん、かわいそうに……。このまま死んでしまうだなんて、あんまりだわ……。目を開けておくれ、可愛い猫ちゃん……)
そう念じながら、澄香は猫の汚れた背中を優しく撫で続けた。
どれだけの時間そうしていただろうか。
着きましたよ、という車夫の声に澄香は顔を上げた。
目の前には『絢爛豪華』という言葉がぴったりな西洋風の大豪邸がそびえていた。
(ここが鬼京家……! 納屋にこもっていた私なんかがお嫁さん候補として越して来るだなんて……不釣り合いにも程があるわ……)
あまりのことに身動きがとれずにいると、腕の中で何かがもぞもぞっと動く気配がした。
えっ? と下を見ると、先程のハチワレ猫が金色の瞳をぱちぱちさせて澄香を見上げているではないか。
「猫ちゃん! 意識が戻ったのね! よかった、よかったぁ~~!」
澄香は目の縁にこぼれんばかりの雫をため、猫をぎゅっと抱きしめる。
猫はニャーッと鳴き、澄香の頬をペロッと舐めた。
そこへ黒色のスーツに身を包み、黒レンズの眼鏡をかけた男性がやってきた。
橘花澄香様ですか、と訊かれ、澄香は首肯する。
男性は車夫に謝礼袋を手渡すと、澄香が橘花家から持ってきた風呂敷包みを手に取り、こちらへ、と自分に付いてくるよう促した。
「あの……この猫、怪我をしているみたいなんです……。連れて行ってもよろしいですか……?」
澄香は勇気をだして、男性に尋ねてみた。
ハチワレ猫は、もうすっかり元気そうに見えるが、つい先ほど人力車に轢かれたのだ。どこかに怪我をしているに違いないと澄香は思ったのだった。
男性はちらりと猫に目をやると、薄い唇を開いた。
「私では判断いたしかねますので、流唯様にお尋ねください。澄香様をお待ちです」
そう早口で告げると、背を向けてさっさと歩き出してしまった。
(――流唯様、わたしの夫になるかもしれないお方……。そして泣く子も黙る恐ろしい『鬼神』という噂の……)
しばしの間、猫の柔らかさとその体温に癒やされていた澄香だったが、これから冷酷な鬼神と対面するのかと思うと一気に緊張し、手の平にじっとりと嫌な汗が滲み出るのを感じていた。
猫を胸に抱えたまま屋敷に足を踏み入れると、十数人の使用人と思われる人たちが出迎えてくれた。
澄香は彼らの心を読んでしまわないよう、反射的にお辞儀の姿勢をとる。
そして、顔を伏せたままの状態で、黒レンズ眼鏡の男性の足元だけを見て前に進んだ。
(――だいぶ歩いた気がするけれど……どれだけ広いお屋敷なのかしら……)
澄香が屋敷の広さに圧倒されていると、黒レンズ眼鏡の男性が、ある部屋の前で立ち止まり扉をノックした。
「流唯様、澄香様をお連れいたしました」
やや間が空く。
やがて、入れ、という低い声が聞こえてきた。
「――し、失礼いたします!」
あまりの緊張に、一音目の『し』が上ずってしまう。
(……あ……穴があったら入りたいわ……)
澄香は真っ赤な顔で扉を開け、流唯の前に歩み出た。