――翌年、九月のとある日曜日の朝。

「まぁ……とっても素敵!」
 
 『ボナペティ』と大きく書かれた水色の看板を見上げ、澄香は目を細めた。
 そこにハチ香と芽唯がやって来て、おぉ~! と感嘆の声をあげている。

「一週間後に開店だなんて、本当に夢のようだわ……」

 澄香は両手で頬を包むと、再び看板をうっとりと眺める。

「っていうかさ、『ボナペティ』ってどういう意味?」

 ハチ香はすっかり猫の姿のままで人間の言葉を話すようになっていた。

「フランス語で、『どうぞ召し上がれ』という意味よ」

 芽唯がハチ香の小さな頭をそっと撫でながら答える。
 
 澄香は昨年末の婚約パーティー後も鬼京百貨店の洋食レストランに定期的に通い、朝餉の席で再現料理を披露し続けていた。
 そんな澄香に『洋食レストランを開いたらどうか』と勧めたのは、流唯だ。
 初めのうちは、自分には無理だと言っていた澄香だったが、心強い協力者が次々と現れた。

「私は鬼京百貨店のあのレストランで、ホールさばきと接客を徹底的に学んだわ。それに西洋で経営学もみっちり頭に叩き込んでる。だから接客と経営は私に任せて!」

 芽唯はなんと、鬼京百貨店を既に辞めてきたというではないか。

「だって、こっちの方が断然面白そうだし……。それに、兄さんをあんなにも変えてくれた澄香ちゃんにお礼がしたいのよ」

 それでもまだ腹を(くく)ることのできなかった澄香だったが、さらに協力者が現れた。

「――お嬢様、ぜひあたいに材料の調達と下処理、それから食器洗いをお任せくだせぇ。あたいはどうしてもお嬢様にあん時の恩返しがしたいんです。二度と悪さはしないと誓います。だからどうか、お願いします……!」

 そう言って手を挙げてくれたのは、炊事担当の千代だった。
 千代は、流唯のプライベートな情報を橘花家に流していた(かど)で、三ヶ月間の減給処分を受けた過去がある。

「でも……ご病気がちなご主人やお子さんたちのこともありますし、手伝っていただくわけには――」
「それなら大丈夫ですぅ」

 千代は澄香の言葉を遮ると、勢いよく喋り始めた。

「実は、若旦那様が漢方医の先生を紹介してくださったんですよぉ。処方された薬を飲み始めたら、あの人めっきり元気になっちゃって、今は毎日酒屋で働いているんですぅ。最近じゃあ子供たちの面倒もよく見てくれるようになりましたし、我が家の経済状態もだいぶマシになりました。それにあたいがお嬢様のお手伝いをすることは、若旦那様への恩返しになるとも思うんですぅ。あ、鬼京家の炊事担当から抜けることは、若旦那様から許可をいただいておりますんで、どうか……」

 千代は顔の前で手を合わせている。

(あのときはお千代さんに厳しい態度を取られていたけれど、やはり旦那様は心根のお優しい方だわ……。そうね、力持ちで仕事の速いお千代さんが手伝ってくれれば、千人力ね)

 澄香はひとつ頷くと、千代をまっすぐに見て言った。

「お千代さん、ありがとうございます! よろしくお願いします!」

 二人は笑顔で手を取り合った。

 そして、最後のひとり――いや、一匹――がやってきた。

 ハチ香だ。

「アタシは……澄香が発案したメニューの試食係と……看板猫をやるね!」
「ハチ香ったら……。うん、美人のハチ香なら、評判の看板猫になるわね。ありがとう」

 澄香は目尻に涙を浮かべながら、愛猫を抱きしめた。



 それから六日が経過し、『ボナペティ』の開店を翌日に控えた夜――。
 澄香は流唯と鬼京百貨店の屋上に来ていた。
 ふたりは流唯の例のミッションが完了するまでは、籍は入れずに婚約者のままでいようと決めていた。
 それは自分を守るための流唯の優しさであると、澄香は知っていた。
 ふたりは想い出のベンチに腰掛けている。

「――いよいよ明日開店だな……。そうだ、澄香には一応伝えておこうと思う。橘花家の三人のことだが……」

 流唯は澄香の反応を確認するかのように、ちらりと視線を投げてきた。自分を傷つけまいと、気を使ってくれているようだった。

「あの三人が、どうかしましたか?」
 
 澄香は不思議なくらい平然と返している自分に驚いていた。元家族のことは、澄香にとってもはや過去でしかなく、どうでもよいことになっていた。

「昨年の婚約パーティーでの狼藉(ろうぜき)が皇都中の噂になってな……橘花呉服店を贔屓(ひいき)にする客はいなくなったらしい。それで店を廃業し、田舎に移り住むことになったそうだ。引っ越しは……確か明日だったはずだ」
「……奇遇です……ね」

 澄香はぽつり呟く。
 自分の門出の日と、自分を散々苦しめてきた人間たちが去る日が重なるとは……。

(――これで本当に、わたしの新しい人生が始まる気がする)
 
 澄香は立ち上がると、胸を広げて大きく深呼吸をした。

「澄香」

 優しく呼ぶ声に振り返ろうとした澄香だったが、力強い腕に羽交(はが)い締めされ、そのまま流唯の膝の上に座ることとなった。

「……だ、旦那様……」

 澄香は真っ赤な顔で辺りを見回す。

「今夜は貸し切りにしてあるから、周りのことは気にするな」
「……か、貸し切りって……」

 耳元で囁く流唯の低くて甘い声に、澄香は頭がくらくらしてきた。

「だから何をしても、誰にも見られる心配はないわけだ――」

 流唯はそう言うと、澄香の長い髪を指でそっとよけ、首筋に唇を当てた。

「……!!」
 
 澄香は飛び上がると、両手で顔を押さえ、その場にへなへなとしゃがみ込む。

「――すまなかった……。俺としたことが、調子に乗りすぎたな」

 流唯は、顔を伏せたまま何も言わない少女の頭を優しく撫でる。

「――違うんです」

 澄香はやっとの思いで上気した顔を上げると、口を開いた。

「だ、旦那様が調子に乗っているとか、そうされるのがイヤだとか……そういうことではないんです。ただ……わたしが旦那様のことが好きすぎて、ひとつひとつに過剰に反応してしまうのです……」
 
 流唯は、ふっ、と口元を緩めると、澄香の首と膝裏に腕を置き、ひょいと抱き上げ、そのままベンチに腰掛けた。

「――(ちまた)でいう『お姫様抱っこ』というやつだな」
 
 澄香は真っ赤になった顔を手で覆ったまま、言葉も出せずにいる。
 そんな恋人に優しい眼差しを注ぎながら、流唯は静かに語り始めた。

「……例のミッションを完遂するまで、まだ数年はかかる。少し前までは、その事実をまるで拷問のように感じていた。だが、今はちょっと違うんだ」

 澄香は顔を覆っていた手を下ろすと、流唯の瞳にかかる長いまつ毛をじっと見詰めた。

「おまえに接吻がしたいという欲望を感じたとき、俺は凄まじいほどの精神力で、それを抑えこんでいる。だがそれは果たして不幸なこと、辛いことなのか……? 澄香、俺はその瞬間、おまえへの愛を痛いほど感じるんだ。『俺は澄香とずっと、一日でも永く一緒にいたい。そして澄香には一分一秒でも長く、この素晴らしい人生を謳歌してほしい。そのためなら、これくらいのこと……』っていう具合にね」

 流唯はそう言うと、形のよい唇で、澄香の頬を優しく撫でた。

「だから俺は今、とっても幸せなんだ」
「旦那様……!」
 
 澄香は流唯の首に両腕を回すと、黒曜石のように輝く瞳を覆う(まぶた)に柔らかな唇をそっと当てた。

「わたしも今、とっても幸せです」



 これは、誰からも顧みられることなく孤独に生きてきた少女が、美貌の鬼神にとことん愛され、幸せになっていく物語……。