――目が覚めると、澄香は、ふわりふわりと漂う透明な球体の中にいた。
(これは……シャボン玉?)
不思議に感じながら透明な膜の向こうに目をやると、そこはどうやら西洋の街のようだった。通りを長い脚で闊歩する人たちの髪色は明るく、みんなはっきりとした目鼻立ちをしている。
と、通りの奥から見覚えのある男性の姿が近付いてきた――高峰柴次郎だ。
(――っ! 柴次郎さん……!)
男の最期を知ってしまった澄香にとって、元気な姿を見ることはこのうえなく切ないことであった。
澄香は目に涙の膜を張ったまま、恋人の姿を必死に目で追う。
柴次郎は、とある店先で立ち止まると、ショーウインドーに手をついて何かを食い入るように見ている。
(――何を見ているのかしら……?)
そう思った瞬間、少女を包んでいたシャボン玉がスーッと動き出し、気付けば柴次郎のすぐ後ろまで来ていた。
(……どうやら柴次郎さんには、わたしの姿は見えていないみたいね)
ホッとした澄香は、恋人が何を熱心に見つめているのかが気になり、ショーウインドーの中を覗き込んだ。
(……あ……あれは……!)
澄香は目を大きく見開くと、両手で口を押さえた。
(……旦那様がわたしにくださった、あのレースのリボン……!)
柴次郎と澄香、ふたりの視線の先にあったのは、流唯が澄香にプレゼントした白いレースのリボンだった。
しばらくの間、ショーウインドーの前に佇んでいた柴次郎だったが、やがてひとつ頷くと店の中へと入っていった。
数分後、小さな包みを手にして現れた青年は、店の前で一度立ち止まったかと思うと、その包みをそっと目線の高さまで掲げた。
「穂の香、気に入ってくれるといいな……」
その呟きを耳にした瞬間、澄香の瞳を覆っていた水の膜がはじけ、せき止められていた涙がとめどなく流れ始めた。
――チャポン……スーッ……。
少女の頬から流れ落ちた涙の粒は、次々とシャボン玉に吸い取られていく。
(柴次郎さん……あなたは、前世の旦那様なのね……。だから今生でわたしは旦那様と巡り会ったのだわ……)
泣き疲れて目を閉じた澄香は、徐々に自分の身体が金色の温かい光に包まれていくのを感じていた――。
◇◇◇
目覚めると、そこには自分を覗き込む大きな金色の瞳があった。
「――ウ……ン……、あ……ハチ香……」
「澄香、おかえり」
愛猫は、どうだった? とでも言いたげな表情で澄香を見詰めている。
「わたしが穂の香さんで、旦那様が……柴次郎さんだったのね……」
ハチ香はゆっくり瞳を閉じたかと思うと、その倍以上の時間をかけて瞼を開いた。
「――そ、そうだわっ! 旦那様はっ……!」
少女は慌てて立ち上がると、ベッドに横たわる愛しい男の元へと駆け寄った。
「大丈夫だよ、澄香の体感ではかなり長いことここを離れていたかもしれないけれど、実際には三分ほどしか経っていないから」
ハチ香はそう言って片目を閉じてみせると、再び口を開いた。
「穂の香はね……あ、澄香がこれを知ったら複雑な気持ちになるかもしれないけれど……大事なことなんだ。言ってもいい? ……穂の香が人生の終わりに呟いた言葉だよ……」
(……わたしの前世の最期の言葉……)
澄香はゴクリと唾を飲み込むと、愛猫の瞳をしっかりと見詰めながら大きく頷いた。
「穂の香は柴次郎が伝染病で亡くなったことを心の底から悔しがっていた。『なぜ人の世に、治せない病が存在するの?』と常に言っていた。『医者でも治せない病があるというのなら、私は生まれ変わっても巫女になりたい。どんな病だろうと怪我であろうと、この両手で治してあげられる……そんな特殊な霊力をもった巫女として生まれ変わるの。そして、あの人とまた巡り会う……。次は、私があの人を必ず助けるわ……』。そう言って、息を引き取ったんだ」
前の飼い主の最期を思い出したからなのか、ハチ香の金色の瞳が濡れている。
「――だから、澄香。澄香になら、ルイを治せるよ。あ、それともう一つ……」
涙を拭うためだろうか、ハチ香は一度澄香に背を向けると、前足で顔を何度かこする動作をした。
そして振り返ると、首を傾げながらこう言った。
「それとね、柴次郎の最期の言葉も、アタシ知ってるんだ」
思いもよらぬ愛猫の言葉に、澄香はただただ唖然とし何も返せない。
それを肯定と捉えたのか、ハチ香は言葉を継いだ。
「柴次郎はね……『流行り病などで死んだりしない、強靭な身体で生まれたかった……』そう言って亡くなったんだ。――なぜアタシがそんなことを知っているのかって? それはね、アタシが最強の猫のあやかしだからだよ」
――最後の方は、ただの自慢のように聞こえないでもなかったが、澄香はハチ香の言葉を素直に受け止めていた。
「だから旦那様は今生、強靭な肉体をもった最強の鬼神として生まれたのね……」
澄香の言葉に、ハチ香はやはりゆっくりとした瞬きで応える。
「澄香……、ルイの生命力はとてつもなく強いよ。そして澄香には、難しい病や怪我を治す特殊な霊力が備わっている。だから、できるよ! あとは自分を信じるだけだよ!」
澄香は『流唯を助けたい』という気持ちと、『自分に本当にそんなことができるのか』という不安のあいだで揺れていた。
(――でも……このままでは……このままでは、旦那様は、助からないわ……)
いついかなるときも自分を支え、認め、愛してくれた男の顔を、澄香は見詰める。
(二度も、この人を失うわけにはいかない……!)
少女は両手をぎゅっと握りしめると、ひとつ大きく頷いた。
「ハチ香……わたし……やってみる」
自分自身に宣言するかのようにそう呟くと、澄香は愛しい男のすぐ側に立った。
「旦那様……必ず助けます! だから、わたしを信じていてください」
流唯に向かってそう囁くと、澄香は流唯の心臓のあたりに両手をかざす。
そして目を瞑り、全神経を両手に集中させると、胸の中で一心に唱え始めた。
――旦那様は元の元気な姿に戻りつつある……旦那様は元の元気な姿に戻りつつある……
完璧な静寂が澄香を包みこんでいた。
何の雑念もない。
まるでこの世界に存在しているのは、目の前に横たわる愛しい男と自分だけであるかのような感覚に包まれていた。
唱え続けているうちに、澄香の中にあった不安や恐れの気持ちはすべて消え去り、それらの感情は、ある確信に置き換えられていた。
――そう。
自分ならば、必ず流唯を救うことができるという確たる想い――。
しばらくすると、流唯の頭部、胸部、そして腹部から流れ出ていた大量の赤い液体がスーッと体内に戻り始めた。
その瞬間、わぁっ! と驚く声が部屋中に響いた。
離れたところから事の成り行きを見守っていた堂元の声だった。
集中が途切れた澄香が目を開けると、そこには色を取り戻した流唯の顔があった。
「――澄香、よくやったね! もう大丈夫だ!」
声のする方を向くと、ハチ香が金色の瞳をきらきらと輝かせて澄香を見詰めていた。
「……ハチ香ぁ……」
緊張の糸が切れたかのように少女はその場にしゃがみこみ、愛猫の小さなもふもふとした体を抱きしめる。
「――ウ……ン……澄香……」
「――だ、旦那様っ!」
枕元から聞こえてきた愛しい男の声に、澄香は急いで立ち上がる。
そこには、自分をまっすぐに見詰めるアーモンド型のきらめく瞳があった。
「……おまえが……助けてくれたのだな……ありがとう、澄香……」
流唯は右腕をゆっくりと伸ばし、少女の手をそっと撫でた。
「……だ……旦那様ぁ……!」
澄香は幼子のように顔をくしゃくしゃにしたかと思うと、声を上げて泣き始めた。
大粒の涙が流唯の腕にポタポタとこぼれ落ちる。
「――夢を見ていたよ……。俺は西洋の病院にいて……そこにおまえによく似た巫女がやって来た。その巫女はためらうことなく俺の身体に次々と鍼を打っていった……。目が覚めたら、その巫女は澄香、おまえになっていたんだ……。不思議な夢だったよ……」
そう言うと、流唯は澄香の頬を流れる涙を指で拭った。
澄香はしゃくりあげながら婚約者に顔を近づけると、色を完全に取り戻したその頬に、そっと唇を押し当てた。
(――旦那様……柴次郎さん……二度とあなたと離れたくありません。わたしたちは、ずっと一緒です……)
心の中で強く強く、そう誓ったのだった――。
(これは……シャボン玉?)
不思議に感じながら透明な膜の向こうに目をやると、そこはどうやら西洋の街のようだった。通りを長い脚で闊歩する人たちの髪色は明るく、みんなはっきりとした目鼻立ちをしている。
と、通りの奥から見覚えのある男性の姿が近付いてきた――高峰柴次郎だ。
(――っ! 柴次郎さん……!)
男の最期を知ってしまった澄香にとって、元気な姿を見ることはこのうえなく切ないことであった。
澄香は目に涙の膜を張ったまま、恋人の姿を必死に目で追う。
柴次郎は、とある店先で立ち止まると、ショーウインドーに手をついて何かを食い入るように見ている。
(――何を見ているのかしら……?)
そう思った瞬間、少女を包んでいたシャボン玉がスーッと動き出し、気付けば柴次郎のすぐ後ろまで来ていた。
(……どうやら柴次郎さんには、わたしの姿は見えていないみたいね)
ホッとした澄香は、恋人が何を熱心に見つめているのかが気になり、ショーウインドーの中を覗き込んだ。
(……あ……あれは……!)
澄香は目を大きく見開くと、両手で口を押さえた。
(……旦那様がわたしにくださった、あのレースのリボン……!)
柴次郎と澄香、ふたりの視線の先にあったのは、流唯が澄香にプレゼントした白いレースのリボンだった。
しばらくの間、ショーウインドーの前に佇んでいた柴次郎だったが、やがてひとつ頷くと店の中へと入っていった。
数分後、小さな包みを手にして現れた青年は、店の前で一度立ち止まったかと思うと、その包みをそっと目線の高さまで掲げた。
「穂の香、気に入ってくれるといいな……」
その呟きを耳にした瞬間、澄香の瞳を覆っていた水の膜がはじけ、せき止められていた涙がとめどなく流れ始めた。
――チャポン……スーッ……。
少女の頬から流れ落ちた涙の粒は、次々とシャボン玉に吸い取られていく。
(柴次郎さん……あなたは、前世の旦那様なのね……。だから今生でわたしは旦那様と巡り会ったのだわ……)
泣き疲れて目を閉じた澄香は、徐々に自分の身体が金色の温かい光に包まれていくのを感じていた――。
◇◇◇
目覚めると、そこには自分を覗き込む大きな金色の瞳があった。
「――ウ……ン……、あ……ハチ香……」
「澄香、おかえり」
愛猫は、どうだった? とでも言いたげな表情で澄香を見詰めている。
「わたしが穂の香さんで、旦那様が……柴次郎さんだったのね……」
ハチ香はゆっくり瞳を閉じたかと思うと、その倍以上の時間をかけて瞼を開いた。
「――そ、そうだわっ! 旦那様はっ……!」
少女は慌てて立ち上がると、ベッドに横たわる愛しい男の元へと駆け寄った。
「大丈夫だよ、澄香の体感ではかなり長いことここを離れていたかもしれないけれど、実際には三分ほどしか経っていないから」
ハチ香はそう言って片目を閉じてみせると、再び口を開いた。
「穂の香はね……あ、澄香がこれを知ったら複雑な気持ちになるかもしれないけれど……大事なことなんだ。言ってもいい? ……穂の香が人生の終わりに呟いた言葉だよ……」
(……わたしの前世の最期の言葉……)
澄香はゴクリと唾を飲み込むと、愛猫の瞳をしっかりと見詰めながら大きく頷いた。
「穂の香は柴次郎が伝染病で亡くなったことを心の底から悔しがっていた。『なぜ人の世に、治せない病が存在するの?』と常に言っていた。『医者でも治せない病があるというのなら、私は生まれ変わっても巫女になりたい。どんな病だろうと怪我であろうと、この両手で治してあげられる……そんな特殊な霊力をもった巫女として生まれ変わるの。そして、あの人とまた巡り会う……。次は、私があの人を必ず助けるわ……』。そう言って、息を引き取ったんだ」
前の飼い主の最期を思い出したからなのか、ハチ香の金色の瞳が濡れている。
「――だから、澄香。澄香になら、ルイを治せるよ。あ、それともう一つ……」
涙を拭うためだろうか、ハチ香は一度澄香に背を向けると、前足で顔を何度かこする動作をした。
そして振り返ると、首を傾げながらこう言った。
「それとね、柴次郎の最期の言葉も、アタシ知ってるんだ」
思いもよらぬ愛猫の言葉に、澄香はただただ唖然とし何も返せない。
それを肯定と捉えたのか、ハチ香は言葉を継いだ。
「柴次郎はね……『流行り病などで死んだりしない、強靭な身体で生まれたかった……』そう言って亡くなったんだ。――なぜアタシがそんなことを知っているのかって? それはね、アタシが最強の猫のあやかしだからだよ」
――最後の方は、ただの自慢のように聞こえないでもなかったが、澄香はハチ香の言葉を素直に受け止めていた。
「だから旦那様は今生、強靭な肉体をもった最強の鬼神として生まれたのね……」
澄香の言葉に、ハチ香はやはりゆっくりとした瞬きで応える。
「澄香……、ルイの生命力はとてつもなく強いよ。そして澄香には、難しい病や怪我を治す特殊な霊力が備わっている。だから、できるよ! あとは自分を信じるだけだよ!」
澄香は『流唯を助けたい』という気持ちと、『自分に本当にそんなことができるのか』という不安のあいだで揺れていた。
(――でも……このままでは……このままでは、旦那様は、助からないわ……)
いついかなるときも自分を支え、認め、愛してくれた男の顔を、澄香は見詰める。
(二度も、この人を失うわけにはいかない……!)
少女は両手をぎゅっと握りしめると、ひとつ大きく頷いた。
「ハチ香……わたし……やってみる」
自分自身に宣言するかのようにそう呟くと、澄香は愛しい男のすぐ側に立った。
「旦那様……必ず助けます! だから、わたしを信じていてください」
流唯に向かってそう囁くと、澄香は流唯の心臓のあたりに両手をかざす。
そして目を瞑り、全神経を両手に集中させると、胸の中で一心に唱え始めた。
――旦那様は元の元気な姿に戻りつつある……旦那様は元の元気な姿に戻りつつある……
完璧な静寂が澄香を包みこんでいた。
何の雑念もない。
まるでこの世界に存在しているのは、目の前に横たわる愛しい男と自分だけであるかのような感覚に包まれていた。
唱え続けているうちに、澄香の中にあった不安や恐れの気持ちはすべて消え去り、それらの感情は、ある確信に置き換えられていた。
――そう。
自分ならば、必ず流唯を救うことができるという確たる想い――。
しばらくすると、流唯の頭部、胸部、そして腹部から流れ出ていた大量の赤い液体がスーッと体内に戻り始めた。
その瞬間、わぁっ! と驚く声が部屋中に響いた。
離れたところから事の成り行きを見守っていた堂元の声だった。
集中が途切れた澄香が目を開けると、そこには色を取り戻した流唯の顔があった。
「――澄香、よくやったね! もう大丈夫だ!」
声のする方を向くと、ハチ香が金色の瞳をきらきらと輝かせて澄香を見詰めていた。
「……ハチ香ぁ……」
緊張の糸が切れたかのように少女はその場にしゃがみこみ、愛猫の小さなもふもふとした体を抱きしめる。
「――ウ……ン……澄香……」
「――だ、旦那様っ!」
枕元から聞こえてきた愛しい男の声に、澄香は急いで立ち上がる。
そこには、自分をまっすぐに見詰めるアーモンド型のきらめく瞳があった。
「……おまえが……助けてくれたのだな……ありがとう、澄香……」
流唯は右腕をゆっくりと伸ばし、少女の手をそっと撫でた。
「……だ……旦那様ぁ……!」
澄香は幼子のように顔をくしゃくしゃにしたかと思うと、声を上げて泣き始めた。
大粒の涙が流唯の腕にポタポタとこぼれ落ちる。
「――夢を見ていたよ……。俺は西洋の病院にいて……そこにおまえによく似た巫女がやって来た。その巫女はためらうことなく俺の身体に次々と鍼を打っていった……。目が覚めたら、その巫女は澄香、おまえになっていたんだ……。不思議な夢だったよ……」
そう言うと、流唯は澄香の頬を流れる涙を指で拭った。
澄香はしゃくりあげながら婚約者に顔を近づけると、色を完全に取り戻したその頬に、そっと唇を押し当てた。
(――旦那様……柴次郎さん……二度とあなたと離れたくありません。わたしたちは、ずっと一緒です……)
心の中で強く強く、そう誓ったのだった――。