「無能が学校にすら行かないだなんて、よく恥ずかしくもなく生きていられるわね?!  アンタみたいな引きこもりに、こんなに立派な部屋で暮らす権利なんてなくてよっ!」

 この日、澄香は陽の差さないジメついた納屋(なや)へと追いやられてしまったのだった――。



◇◇◇
 澄香が納屋で暮らすようになってからおよそ三年の月日が経過し、少女は十九歳になっていた。
 今朝も澄香は誰よりも早く起床し、脂の抜けたガサガサの手をこすり合わせながら足早に台所へ向かった。

(もうすっかり秋の気配がする……。季節の変わり目は体調を崩しやすいから、体を温める豚汁をこしらえようかしら)

 自分が口にすることができるのは家族が余らせた分だけだと分かっていながらも、澄香はつい食べる人の体調を(おもんぱか)ったメニューを考えてしまう。

(私ったら馬鹿ね……。いくら頑張ったって、ここにいる人は誰も私のことなど想ってくれないって分かっているのに……)

 橘花家に長年仕えてきた使用人のタキが体調を崩し、いとまごいをしたのは半年前のこと。
 以来、食事の用意、掃除、買物などすべての家事を澄香はひとりで担っている。

(仕方がないわ。無能な私にできることといったら、これくらいのことしかないのだもの。納屋とはいえ、置いてもらえているだけでも感謝しなくてはね)

 タキがいた頃は、うっかり目を合わせてしまうと自分に対する蔑みの感情が伝わってきてしまっていたため、常に彼女の目線を避けて動かなくてはならず、気苦労が耐えなかった。
 それに比べると、今ではすべての仕事をひとりで切り盛りできるため、体力的にはしんどくなったものの精神的にはラクになっているのを感じていた。
 
 そのうえ、ここ最近の澄香には密かな楽しみがあった。
 それは、十六歳のときに自分を猿のあやかしから救ってくれた謎の美青年の絵を描くことであった。
 約三年の月日が流れてしまったため、記憶の中の青年の姿はおぼろげになってしまってはいる。
 だが澄香には、青年に助けてもらった日の夜、寝ずに描いた絵がある。
 その絵を眺めては、青年の姿をリアルに想像する。そして、また違う角度から見た青年を描くのだ。
 目を合わせると相手の心を読んでしまうようになって以来、気苦労と自己嫌悪感に苛まれてきた澄香は、二年半ものあいだ、楽しみの時間をもつ心の余裕がなかった。
 だが、タキがいとまごいをしてくれたおかげで、また絵を描くことを楽しめるようになってきていた。

(あの美しいお方にもう一度お会いできたら、どんなに幸せかしら……)

 実際に会えたとしても、自分は顔すら上げられないだろうと心の奥底では分かっていつつも、夢のような想像をすること自体が澄香の心の支えとなっていたのだった。

 そんなある日のこと、澄香が納屋で朝餉――とはいっても、残り物の麦飯と具のない汁物のみではあるが――を口にしていると、ドア越しに父親の(しわが)れた声がした。

「食事を終えたら、居間に来なさい」

 澄香の実母を気遣わないどころか孤独のうちに死においやり、底意地の悪い後妻を娶った父親のことを、澄香は軽蔑していた。
 だが、父親はこの橘花家の当主であり命令は絶対である。

(あの人が私を呼び出すなんて、何かあったのかしら……)

 不安を覚えつつ、食事を終えた澄香は居間へと向かった。
 失礼いたします、と言ってドアを開けると、父親と継母の明美が並んでソファーに腰掛けているのが目に入った。
 澄香は二人の目を見ないように俯いたままその場で膝をつき、礼をする。

「お前ももう十九だ。嫁にいってもちっともおかしくない年齢だな」

 『嫁』という言葉に、澄香は反射的に顔を上げる。
 そこには深い皺がいくつも刻まれた父親の顔があった。

(なんだ、年頃の娘だというのに、ひどく顔色が悪く痩せぎすだな。アレに似て、顔の造作は悪くないのだが……。しかしこうも肉付きが悪いと先方に嫌がられやしないだろうか)

 目を合わせてしまったせいで、父親のあけすけな心情が澄香の脳に侵入してきた。
 頬がカァッと熱くなるのを感じた澄香は、拳をぎゅっと握りしめ、再び俯いた。

「嫁ぎ先は、鬼京(ききょう)家だ。お前の夫になるのは、鬼京家の長男で次期当主の流唯(るい)殿だ」

 嗄れた声が澄香の頭上で鳴り響く。

(鬼京家? 次期当主の流唯様……?)

 社交の場とは無縁の澄香には、鬼京家がどんな家柄なのか、そもそも人間なのか『あやかし』なのかすら分からない。
 澄香が顔を伏せたまま疑問を口にしようとしたそのとき、居間のドアが勢いよく放たれ、真っ赤な顔をした明莉が飛び込んできた。
 明莉の姿を間近で見たのは何年ぶりだろうか。
 十七歳になった明莉は、女性らしい丸みを帯びた身体のラインをさりげなくアピールするような珊瑚朱(さんごしゅ)色のワンピースを身にまとっていた。

「お父様ッ? 鬼京家といえば、良家中の良家じゃない! なんで無能で引きこもりのお姉様なんかが次期当主に嫁ぐことになるのよ! なんで私じゃないのッ? 私だってもう十七なのよ!」

 肩を上下に激しく揺らし(まく)し立てる明莉をなだめるように、父親は続けた。

「明莉、まだ学生のおまえは知らないようだな……。たしかに鬼京家は皇都でも指折りの名家だ。だが……『鬼神(きしん)』の一族なのだよ」

 『鬼神』と聞いた明莉は、目を大きく見開いたまま動きを止めた。

「鬼京家の長男、流唯殿はそれはそれは恐ろしい鬼神なのだよ。これまで何十人もの名家の令嬢が嫁候補として鬼京家へ送られたそうだが、ひとり残らず泣きながら逃げ帰ってきたと聞いている。さすがの鬼京家も参ってしまってね。それで、辛抱強そうな澄香に話が回ってきたということだよ」

 父親の言葉を耳にした澄香は、ガタガタと震えだした。

(鬼神……って、鬼っていうこと?! わたし、鬼に嫁がなければならないの?! 『ひとり残らず泣きながら逃げ帰ってきた』って……いったいどんな仕打ちをされるの……?)

 震えが止まらず、少女は自分で自分の体をギューッと抱きしめる。

(それに……それに、せっかくひとりで生活することに居心地の良さを感じ始めていたというのに……! わたしって、とことん天から見放されているのね……)

 澄香は両腕を床につくと、ポタポタと涙の粒をこぼした。
 両腕を組み、澄香の様子を眺めていた明莉は、唇の片端を釣り上げると高らか言った。

「お父様、よーく分かったわ! つまり無能で引きこもりのお姉様であれば、鬼神からどんな目に遭わされようと知ったことではないから、嫁に出すという約束をなさったのね?! オーホッホ! おっかしいったらないわ!」

 明莉が白い喉をのけ反らせて笑うと、釣られたのか父親も継母も下卑(げび)た笑い声を部屋中に響かせ始めた。
 澄香は(こうべ)を垂れたまま、自分の目から落ちた水の粒が床に染み渡っていく様子を黙って見ていた。

(あの納屋での生活は、悪くなかったわ……。でも、もうこんなところにはいたくない。この人たちはわたしのことを人間扱いしていない。生ゴミ以下だと思っている。だったら、鬼神に食料扱いされて喰い捨てられようとも同じこと!)

 澄香はクッと頭を上げると、目線を誰にも合わせることなくはっきりと告げた。

「――かしこまりました。引っ越しはいつでしょうか」
「明後日だ。明日、荷物の整理をするように」

 澄香は足に力を入れて立ち上がると一礼し、静かに居間を出ていった――。



◇◇◇
 澄香が居間を出ていくと、明莉はフーッと大きく息を吐きながら、両親の隣にどさりと腰を下ろした。

「お父様ァ、お姉様を生贄(いけにえ)としてあちらに送る代わりに、どんなおいしいお約束を取り付けたのです?」

 そう訊かれた父親はニヤリと笑うと、何も言わずに居間を後にした。

「アァ! あの無能で役立たずのお姉様とも、とうとうお別れですのねェ~。せいせいするわァ!」

 晴れ晴れとした表情で両腕を上げ、ウーンと伸びをする明莉。

「しかもね、明莉ちゃん、こんなに面白い話があるのよぉ~!」

 上機嫌の愛娘を見て嬉しくなった明美は、早く言いたくてたまらないといった様子で、娘の耳元に真っ赤な唇を寄せる。

「……まぁッ……!!」

 母親からの思いも寄らない情報に、明莉はもう笑いが止まらない。

「可哀想なお姉様ァ~! お嫁にいくのかと思いきや、化け物に命を奪われることになるだなんてェ~!」

 二人の下卑た笑い声は、長いこと居間の壁を揺らし続けたのだった。