目の前の青年は、黒目がちの瞳を揺らしながら澄香を見詰め返している。

(……いいえ、よく見ると旦那様ではないわ……。旦那様の方がもっとパチっとした二重だし、背も旦那様の方が高いわ。でもなぜ私はこの男性(ひと)を見た瞬間、旦那様だと感じたのかしら……)

 そんな風に戸惑っていると、空から突然金色に光る輪が降りてきて、あっという間に澄香を包みこんだ。

(あ……この温かい感じ……これはさっきの……)
 
 少女の意識はそこで途切れ、そのまま深い眠りへと(いざな)われていった――。




 ――再び目が覚めると、澄香は小さな和室にいた。

「穂の香、お先にお風呂いただいてくるわね」
 
 振り向くと、タオルを手にしたふみが、ふすまを開けて出ていこうとしているところだった。

「――ええ、行ってらっしゃい」

 ふすまが閉まると、澄香は部屋中を見回した。
 二人分の布団と枕、それから小さなちゃぶ台が目に入った。ちゃぶ台の上には新聞が置いてある。

(ふみさんと私は、ここで一緒に暮らしているのかしら……? そうだわ! 新聞を見れば日付がわかる! まずはそこからね)

 澄香は急いで新聞を手に取ると、日付欄に目をやる。

(――明治八年……大正から明治に来たっていうこと……?!)
 
 愕然とし、しばしのあいだ呆けていた澄香だったが、部屋の隅にある水色の小箱がふと目に入った。
 なぜだか気になって仕方がなくなり、少女は立ち上がるとその小箱を手にした。
 そっと蓋を開けてみると、何には横文字の記された封筒が何通も収められていた。
 横文字の読めない澄香ではあったが、『これは自分宛てに違いない』という確信に似た(ひらめ)きがあり、思い切って一通取り出すと、便箋を開いた。


『穂の香様、
 お元気ですか。私は元気でやっております』

 少し右肩上がりのおおらかな文字を目にした瞬間、澄香の胸に懐かしい感覚が広がった。
 少女は目を細めて続きを読む。


『西洋での暮らしにも、徐々に慣れてきました。友人も少しですができました。勉学は大変ですが、なんとか付いていっています。
 穂の香さんもお仕事がんばっているのだろうな。あなたは患者さんたちにとって「癒しの女神」だ。
 これからもたくさんの人たちを救ってあげてください。
 私はあなたを心から尊敬しています。そして……心から、愛しています。帰国したら、一日でも早く俺の嫁さんになってください。 
 穂の香……早く会いたい……。
 皇國の夏は蒸し暑いですから、お体には重々気をつけてください。
 また書きます。
 
 柴次郎より。 
 
 追伸:こちらで友人に撮ってもらった写真を送ります。これで俺のこと、いつでも思い出して』


(わたし……いえ、穂の香さんは、この柴次郎という人と深く愛し合っていたのね……。あ、この柴次郎さんって、ひょっとして……)

 澄香は封筒の中に残されていた写真を取り出す。

(……やはり先ほどの男性(ひと)が、柴次郎さんなのね……)
 
 そこに写っていたのは、しゃがみ込んで泣いていた澄香――厳密にいえば、穂の香だが――に優しく声をかけてくれた男性だった。

(旦那様にそっくりな柴次郎さんと、今わたしが体を借りている穂の香さんが恋人同士だったなんて……)

 澄香は不思議な気持ちで再度、手紙を読んだ。

(柴次郎さんは西洋に留学されているのね。いつ頃帰国されるのかしら。西洋まで会いに行くというのは、経済的にも容易ではないでしょうし……。穂の香さん、どれだけ寂しい思いをされていることか……)

 そう思っただけで、澄香は胸が痛み、頬をぽろぽろと涙の粒がつたった。

(……なぜなのかしら……わたし、穂の香さんの気持ちが手に取るように分かる……。まるで穂の香さんがわたしであるかのように……)

 そのときだった。

「――穂の香ぁ~! あんた宛に国際郵便が届いてるよぉ~!」

 階下から、中年女性のものとおぼしき太い声が響いてきた。
 澄香は、はい、と大きな声で答えると、手の甲で涙を拭いながら階段を駆け降りる。

「おやおや、そんなに慌てて! 愛しい男からの手紙かい?」

 女性は好奇に満ちた目を澄香に向けると、もったいぶるようにして手紙を渡した。
 少女は一礼すると踵を返し、階段を駆け上がる。
 高鳴る胸に手を当て、一度大きく深呼吸をすると、澄香は封筒に目を落とした。

(――え……この横文字……柴次郎さんの筆跡とは違うわ……)
 
 慌てて裏を返すと、横文字で『Yuriko Takamine』と記されている。
 澄香は、なんとなく嫌な予感に襲われ、封筒を開く手を一瞬止めた。
 そしてもう一度深呼吸をすると、意を決して封筒を開け便箋を取り出す。
 そこには、小さくて几帳面な文字が並んでいた。


『穂の香様、突然の手紙をお許しください。
 私は高峰柴次郎の母、百合子といいます。
 柴次郎があなたに頻繁に手紙を出していたことを知り、筆を取らせてもらいました。
 穂の香さん、驚かずに聞いてください。
 実は柴次郎は、二週間ほど前に流行り病で病院に運ばれました。
 あの子は懸命に病と闘おうとしていました。
 ですが、そんなあの子の想いも私たち家族の想いも虚しく、柴次郎は昨日、天国へと旅立ってしまいました――』


(――え……)

 澄香は、へなへなと膝から崩れ落ちた。

(……う、嘘よね……わたしが読み間違えたに決まっているわ、そんなはずないもの……)

 そう自分に言い聞かせる澄香だったが、再び手紙を読む勇気がどうしても湧いてこない。
 少女は何も考えられず、ただ呆然と宙を眺めていた――。
 そのとき、ふすまを軽く叩く音がした。

「――ふぅ……いいお湯だったわぁ……穂の香も入ってき――ほ、穂の香? どうしたの?!」

 ふみは蒸気した顔を澄香に近付けると、そっと少女の肩を揺らした。

「――ふみちゃん……わたし、どうしたらいいの……?」

 澄香はそう言うと、便箋をふみに差し出した。

「……読んでもいいの……?」

 眉尻を下げ、小さな声で尋ねるふみに、澄香は黙って頷く。

 ――ふたりの間に、沈黙が流れた。

 長い沈黙を破ったのは、澄香の力の入らない乾いた声だった。

「……ふみちゃん……あの人は……柴次郎さんは、本当にいなくなってしまったの……?」

 澄香は一点を見詰めたまま呟く。

「――穂の香……穂の香ぁ……」

 ふみは穂の香の小さな体を抱きしめると、声を出して泣き始めた。

「ふみちゃん……わたし、もうあの人に会えないのね……」
 
 そう声に出した瞬間、せきを切ったように涙が流れ出した。

「……柴次郎さんの嘘つき……! 必ず……必ず迎えに来るって……そう約束してくれたじゃない……。どうして私を置いて、ひとりで逝ってしまったの……? 私も連れて行ってよ……」

 とめどない想いが澄香の中から溢れ出し、涙の粒を伴って言葉になっていく。
 
 そのときだった――。
 金色の光の輪が上空から降ってきて、澄香の体を包んだ。

(――わたし……完全に穂の香さんの気持ちになっていたわ……。旦那様……いえ、柴次郎さんを失ってしまった穂の香さんの気持ちが、わたしには手に取るように分かった……。もしかして、わたしの前世は穂の香さんだったの……?)

 そこまで考えると、再び少女は深い眠りへと誘われたのだった――。