――十一月。木々が赤く色づき、日没が早まる季節。
毎年この時期になると、澄香は流唯に救ってもらった三年前のあの日のことを思い出す。
澄香はスケッチブックを取り出すと、自分が描いた流唯を一枚一枚じっくりと見ていく。
(わたしが、こんなに美しくてお優しいお方の婚約者だなんて……いまだに信じられないわ)
少女は頬を赤らめ、そっとスケッチブックを閉じる。
(旦那様の婚約者として恥ずかしくないように、できることはしておかなきゃ)
澄香は女学校時代に使っていた教科書を書棚から取り出すと、勉強にとりかかった。
「ほんと、澄香はもの好きだなぁ。勉強なんてできなくても、流唯は気にしないと思うけどな~」
ハチ香はベッドの上で仰向けになり、白い腹部を丁寧に掃除しながら言った。
「うん、そうだとは思う。けれど……これは自分自身の問題なのよね」
自らの意思で、毎日少しずつ何かを続ける。それが自己肯定感を高めてくれるということを、澄香は鬼京家に来てからの約二ヶ月間で学んでいた。
「わたしね、ここに来てからしばらくの間、ずっと『わたしなんか』って言ってた。旦那様に『もう言いません』って約束したものの、『どうしたら言わなくなるのだろう?』ってずっと考えてた。そして出した答えが、『些細なことでもいいから、自分に自信をもつこと』だったの」
いつの間に毛繕いをやめたハチ香は、金色の瞳を輝かせて澄香の話に聞き入っている。
「毎朝、旦那様のために料理をこしらえて褒めてもらえることや、毎日勉強を続ける中で『あ、昨日まで分からなかったことが、今日は分かるようになってる』って思えることが、確かにわたしの自信になっているのよね……。だから、続けているの」
そこまで言うと、急に恥ずかしくなったのか、澄香はハチ香に背を向けるようにして湯呑みを口に運んだ。
「――澄香、変わったね」
えっ? と振り向くと、ハチ香はベッドからぴょんと飛び降り、澄香の足元にやって来た。
「やっぱり澄香は、今も昔も澄香なんだね……大好きだよ」
そう言うと、白黒模様の小さな頭を少女のくるぶしにコツンとぶつけた。
「……ハチ香……ありがとう。わたしもハチ香のことが、大好きよ」
澄香はもふもふとした体をふわり持ち上げると、胸にしっかりと抱きしめた。
「それにしてもハチ香、『今も昔も』って……。わたしたち、出逢ってからまだ二ヶ月ほどしか経っていないのに」
澄香は愛猫の顔を覗き込んで、フフッと微笑む。
「――まぁ、細かいことはいいじゃない? それよりさ、澄香。もっともっと撫で撫でしてちょうだい~」
ハチ香は白い首を伸ばして少女に甘えるのだった。
勉強を終え、お風呂を済ませた澄香は、窓辺に進むとカーテンをほんの少しだけ開いた。
すっかり夜の帳が下り、少女の目に映るのは点在する外灯の光だけだ。
(――旦那様は、きっと今夜もあやかしと闘ってらっしゃるのだわ……)
手の平から次々と炎玉を放つ流唯の姿が闇夜に見えた気がして、澄香は目の淵に水滴を滲ませる。
(旦那様……どうか……どうかご無事で……)
少女が手を合わせ、群青色の空に瞬く星たちに祈りを捧げていた。そのとき――。
「――流唯様っ! 流唯様! しっかりしてくださいっ……!」
悲痛ともいえるような堂元の叫び声が廊下から聞こえてきた。
(……も、もしや旦那様の身に、何か……!)
澄香は真っ青になりドアへ向かうも、長襦袢姿であったことに気付き、急いで羽織に袖を通す。
廊下に出た澄香だったが、足は震え、背中を冷たい汗が流れているのを感じていた。
(……だ、旦那様……どうしよう、旦那様にもしものことがあったら、わたしは……わたしは……)
早く流唯の元へ行かなくては、と思えば思うほど、少女の足はもつれるばかり。
早鐘を鳴らす心臓に手を当て、もう片方の手で手すりを掴むと、流れる涙はそのままに澄香は必死で歩みを進めた。
流唯の部屋にたどり着くと、流唯様! と声をかけ続けている堂元の姿が目に入った。
澄香は不安な気持ちと闘いながら、なんとかベッドに歩み寄る。
「――っ!!」
そこには、頭や胸、腹部から大量の血を流している婚約者の姿があった。
気絶しているのか目を瞑っており、顔は青緑色をしている。
「……だ……旦那様っ……!!」
澄香は赤く染まった手を両手で包み込むと、瞳から大粒の涙を流しながら叫び続けた。
「旦那様っ……どうか……どうか目を開けてくださいっ……!!」
しかし、青年の目は閉じたまま、ぴくりとも動かない。
「――澄香様……」
堂元の声に我に返った澄香は、婚約者に目をやったまま、なぜこんなことに……? と呟いた。
「――流唯様は……瞬間移動の術でここまで帰ってくる力も、もう残っていなかったのでしょう……。体力が尽きてしまうギリギリのところで私に式を飛ばしてくださったようです。指定された場所に急いで向かうと、流唯様が倒れていました……。式には……『白河医院には絶対に搬送するな。絶対に、だ。堂元、おまえを信じている』と書かれていたのです……」
そう話すと、堂元は黒レンズの眼鏡を外し、涙を拭った。
堂元が再び眼鏡をかけようと顔を上げた瞬間、澄香は堂元と目線を合わせてしまった――。
(……『白河に世話になるくらいなら、このまま死んだ方がマシだ』――そう書かれていたことは、澄香様にお伝えするわけにはいかない……)
脳内に流れてきた事実に、澄香は声をあげて泣き始めた。
「……そんなっ!……旦那様……わたしを置いて、死なないで……そんなの、嫌ですっ! 絶対に、イヤっ!」
少女は両手で顔を覆うと、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。
と、そのときだった――。
――タッタッタッ!
白黒模様の小さな生き物が、澄香の足元に駆け寄ってきた。
踝に感じた、もふもふとした感触に、少女は顔を覆っていた手を離す。
「――澄香、しっかりして! 澄香なら、ルイを助けることができるよ!」
ハチ香はその小さな頭をぐりぐりと少女の踝に押し付けながら言った。
「――ハチ香……わたしが、旦那様を助ける……? そんなこと、できっこないわ……」
澄香は再び俯くと、ポタポタと床に涙の染みを作り続けた。
「ううん、澄香ならできるよ! ほら、思い出して! 人力車に轢かれて意識を失ったアタシを治してくれたのは、澄香だったじゃない!」
「……あれは……たまたまよ。ハチ香の生命力が強かったから、治ったのよ……」
「ルイだって……ううん、ルイは皇國一の鬼神だよ! ルイ以上に生命力の強い存在なんて、いやしないよ!」
ハチ香の言葉に、澄香は顔を上げる。
「……それは……確かにそうかもしれないけれど……具体的に、どうやって治したらいいのか、医学の知識のないわたしには見当もつかないわ……」
少女は手の甲で涙を拭いながら、愛猫の瞳を見詰めた。
「――澄香……いえ、『穂の香』……思い出して……あなたは、穂の香……あなたなら、必ずできる!」
ハチ香の大きな瞳から金色の光が放たれたかと思うと、澄香はその光の輪に包まれた。
毎年この時期になると、澄香は流唯に救ってもらった三年前のあの日のことを思い出す。
澄香はスケッチブックを取り出すと、自分が描いた流唯を一枚一枚じっくりと見ていく。
(わたしが、こんなに美しくてお優しいお方の婚約者だなんて……いまだに信じられないわ)
少女は頬を赤らめ、そっとスケッチブックを閉じる。
(旦那様の婚約者として恥ずかしくないように、できることはしておかなきゃ)
澄香は女学校時代に使っていた教科書を書棚から取り出すと、勉強にとりかかった。
「ほんと、澄香はもの好きだなぁ。勉強なんてできなくても、流唯は気にしないと思うけどな~」
ハチ香はベッドの上で仰向けになり、白い腹部を丁寧に掃除しながら言った。
「うん、そうだとは思う。けれど……これは自分自身の問題なのよね」
自らの意思で、毎日少しずつ何かを続ける。それが自己肯定感を高めてくれるということを、澄香は鬼京家に来てからの約二ヶ月間で学んでいた。
「わたしね、ここに来てからしばらくの間、ずっと『わたしなんか』って言ってた。旦那様に『もう言いません』って約束したものの、『どうしたら言わなくなるのだろう?』ってずっと考えてた。そして出した答えが、『些細なことでもいいから、自分に自信をもつこと』だったの」
いつの間に毛繕いをやめたハチ香は、金色の瞳を輝かせて澄香の話に聞き入っている。
「毎朝、旦那様のために料理をこしらえて褒めてもらえることや、毎日勉強を続ける中で『あ、昨日まで分からなかったことが、今日は分かるようになってる』って思えることが、確かにわたしの自信になっているのよね……。だから、続けているの」
そこまで言うと、急に恥ずかしくなったのか、澄香はハチ香に背を向けるようにして湯呑みを口に運んだ。
「――澄香、変わったね」
えっ? と振り向くと、ハチ香はベッドからぴょんと飛び降り、澄香の足元にやって来た。
「やっぱり澄香は、今も昔も澄香なんだね……大好きだよ」
そう言うと、白黒模様の小さな頭を少女のくるぶしにコツンとぶつけた。
「……ハチ香……ありがとう。わたしもハチ香のことが、大好きよ」
澄香はもふもふとした体をふわり持ち上げると、胸にしっかりと抱きしめた。
「それにしてもハチ香、『今も昔も』って……。わたしたち、出逢ってからまだ二ヶ月ほどしか経っていないのに」
澄香は愛猫の顔を覗き込んで、フフッと微笑む。
「――まぁ、細かいことはいいじゃない? それよりさ、澄香。もっともっと撫で撫でしてちょうだい~」
ハチ香は白い首を伸ばして少女に甘えるのだった。
勉強を終え、お風呂を済ませた澄香は、窓辺に進むとカーテンをほんの少しだけ開いた。
すっかり夜の帳が下り、少女の目に映るのは点在する外灯の光だけだ。
(――旦那様は、きっと今夜もあやかしと闘ってらっしゃるのだわ……)
手の平から次々と炎玉を放つ流唯の姿が闇夜に見えた気がして、澄香は目の淵に水滴を滲ませる。
(旦那様……どうか……どうかご無事で……)
少女が手を合わせ、群青色の空に瞬く星たちに祈りを捧げていた。そのとき――。
「――流唯様っ! 流唯様! しっかりしてくださいっ……!」
悲痛ともいえるような堂元の叫び声が廊下から聞こえてきた。
(……も、もしや旦那様の身に、何か……!)
澄香は真っ青になりドアへ向かうも、長襦袢姿であったことに気付き、急いで羽織に袖を通す。
廊下に出た澄香だったが、足は震え、背中を冷たい汗が流れているのを感じていた。
(……だ、旦那様……どうしよう、旦那様にもしものことがあったら、わたしは……わたしは……)
早く流唯の元へ行かなくては、と思えば思うほど、少女の足はもつれるばかり。
早鐘を鳴らす心臓に手を当て、もう片方の手で手すりを掴むと、流れる涙はそのままに澄香は必死で歩みを進めた。
流唯の部屋にたどり着くと、流唯様! と声をかけ続けている堂元の姿が目に入った。
澄香は不安な気持ちと闘いながら、なんとかベッドに歩み寄る。
「――っ!!」
そこには、頭や胸、腹部から大量の血を流している婚約者の姿があった。
気絶しているのか目を瞑っており、顔は青緑色をしている。
「……だ……旦那様っ……!!」
澄香は赤く染まった手を両手で包み込むと、瞳から大粒の涙を流しながら叫び続けた。
「旦那様っ……どうか……どうか目を開けてくださいっ……!!」
しかし、青年の目は閉じたまま、ぴくりとも動かない。
「――澄香様……」
堂元の声に我に返った澄香は、婚約者に目をやったまま、なぜこんなことに……? と呟いた。
「――流唯様は……瞬間移動の術でここまで帰ってくる力も、もう残っていなかったのでしょう……。体力が尽きてしまうギリギリのところで私に式を飛ばしてくださったようです。指定された場所に急いで向かうと、流唯様が倒れていました……。式には……『白河医院には絶対に搬送するな。絶対に、だ。堂元、おまえを信じている』と書かれていたのです……」
そう話すと、堂元は黒レンズの眼鏡を外し、涙を拭った。
堂元が再び眼鏡をかけようと顔を上げた瞬間、澄香は堂元と目線を合わせてしまった――。
(……『白河に世話になるくらいなら、このまま死んだ方がマシだ』――そう書かれていたことは、澄香様にお伝えするわけにはいかない……)
脳内に流れてきた事実に、澄香は声をあげて泣き始めた。
「……そんなっ!……旦那様……わたしを置いて、死なないで……そんなの、嫌ですっ! 絶対に、イヤっ!」
少女は両手で顔を覆うと、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。
と、そのときだった――。
――タッタッタッ!
白黒模様の小さな生き物が、澄香の足元に駆け寄ってきた。
踝に感じた、もふもふとした感触に、少女は顔を覆っていた手を離す。
「――澄香、しっかりして! 澄香なら、ルイを助けることができるよ!」
ハチ香はその小さな頭をぐりぐりと少女の踝に押し付けながら言った。
「――ハチ香……わたしが、旦那様を助ける……? そんなこと、できっこないわ……」
澄香は再び俯くと、ポタポタと床に涙の染みを作り続けた。
「ううん、澄香ならできるよ! ほら、思い出して! 人力車に轢かれて意識を失ったアタシを治してくれたのは、澄香だったじゃない!」
「……あれは……たまたまよ。ハチ香の生命力が強かったから、治ったのよ……」
「ルイだって……ううん、ルイは皇國一の鬼神だよ! ルイ以上に生命力の強い存在なんて、いやしないよ!」
ハチ香の言葉に、澄香は顔を上げる。
「……それは……確かにそうかもしれないけれど……具体的に、どうやって治したらいいのか、医学の知識のないわたしには見当もつかないわ……」
少女は手の甲で涙を拭いながら、愛猫の瞳を見詰めた。
「――澄香……いえ、『穂の香』……思い出して……あなたは、穂の香……あなたなら、必ずできる!」
ハチ香の大きな瞳から金色の光が放たれたかと思うと、澄香はその光の輪に包まれた。