◇◇◇
 
 鬼京百貨店のレストランから戻ってきた澄香は、食事も取らずに自室にこもっていた。

「澄香様……おむすびをこしらえて参りました。こちらに置いておきますね。……少しでもいいので、召し上がってください。ハチ香さんの分も、隣に置いておきます。なにかあれば、いつでもベルを鳴らしてお呼びください」

 ドアの外から多江の声がしたかと思うと、やがてパタパタと去っていく音が耳に届いた。

「澄香、何も食べないのは体によくないよ。ひと口だけでも食べようよ」

 猫の姿に戻ったハチ香は、ベッドに横たわっている澄香に頬ずりをする。

「ハチ香……ごめんね。ハチ香はお腹空いてるわよね。今ドアを開けてあげるわ」

 澄香はふらつく足取りでドアへと向かった。ドアを開け、食事が載せられている盆を取ろうと膝をついたその時――。

「――澄香」

 優しく呼ぶ声にハッと顔を上げると、そこには目を細め自分を見つめている流唯の姿があった。

「――旦那様……」

 柔らかな瞳と視線を合わせた澄香は、気付くと涙を流していた。

「……澄香、どうした?」

 流唯は澄香をひょいと抱き上げると、ベッドに横たえた。続いて盆を手に取ると、澄香の食事はテーブルの上に、ハチ香の分は窓際に置いた。

「ハチ香、おまえの分はここに置いておくからな」

 澄香の頬をペロペロと舐めているハチ香に、流唯は声をかけた。

「澄香……昼間の……あの男の言ったことで悩んでいるのか」

 顔を流唯の方に向けた状態で横たわっている少女は、しばらく考えてから口を開いた。

「旦那様……呪いを解くための『ミッション』ってなんですか……」
「……」

 流唯は無言で目を逸らすと、下唇を噛んで俯いた。

「白河さんが……旦那様は呪いを解くために命を賭けて闘っているって……。いったい何をなさっているのですか……? 教えてくださいっ……」

 澄香は涙に声をつまらせながら、必死に語りかける。

「――おまえには余計な心配をかけたくないのだ。分かっておくれ、澄香……」

 流唯は顔を上げると、少女の頬を伝う涙を指で優しく拭った。

「『余計な心配』って……。わたしは……わたしは旦那様の婚約者なのです。旦那様の心配をすることの、なにが余計なのでしょうか……。わたしは旦那様をいつも心配していたい! いつも旦那様の幸せを祈っていたいのです!」

 澄香はそこまで言うと、手で顔を覆い声をあげて泣き始めた。
 
 どれだけの間、そうして泣いていたのだろうか――。
 気付くと流唯は窓辺に佇み、カーテンの隙間から外を眺めていた。

「――昼間はあんなに晴れていたというのにな……」

 窓を叩く水の粒に目をやりながら、流唯は口を開いた。

「前に話したとおり、俺には二つの大きな呪いがかけられている。だが実は、その呪いを解く方法があるんだ……。それが、あの男の言っていた『ミッション』だよ」

 澄香は黙って婚約者の話に耳を傾けている。

「そのミッションというのは、あやかしから人間を守るというものだ。一万人の人間を救うことができたならば、その瞬間に俺にかけられている二つの呪いは解ける」
「……い、一万人……!」

 あまりの桁の大きさに、澄香は言葉を失う。

「……そうだ。あやかしの悪行にも色々あって、割と容易に防げるものもあれば、身の危険を感じるレベルのものまである」

(――えっ? それって……)

 澄香は慌てて身を起こす。

「わたしを……三年前わたしを(やまこ)から救ってくださった時……あのときもかなり危険だったのではありませんか?」

 少女は婚約者の目をまっすぐに見て尋ねた。

「……あのあやかしも強かったが一匹だったからな……まぁ、そこまででもなかったよ」

 流唯はそう答えると、おどけるように両手を広げてみせた。

「でも……相当危ないときもあるのですよね? 相手が複数のときとか……あっ――!」

 そこまで口にして、澄香はあることを思い出す。

「――三週間ほど前、旦那様が朝餉に遅れていらして、ほとんど箸を付けずにお部屋に戻られたことがありました……。あれはもしや、ミッションのせいだったのではないですか?!」

 流唯は窓の外に目をやったまま、頭を掻いている。

「それに……わたしがこちらに越してきてから、旦那様は夕餉をお屋敷でほとんど召し上がっていません。お多江さんから聞いたんです。以前は、週に二、三度はこちらで召し上がっていたと。お仕事のせいだと思っていたのですが……本当は、ミッションのせいだったのですね……」
「――澄香……」
「……そんな……そんな危険なミッションなんて、今すぐやめてくださいっ! わたしは……わたしは別に、寿命が縮んだって構いません! もともと生きる価値のない人生だったのです。旦那様と出逢って、十分すぎるくらいの幸せをいただきました。だから――」
「もういい、澄香! やめてくれ!」

 流唯は俯いたまま、苦しそうに首を横に降っている。

「いいえ、やめません! もし旦那様がそれが嫌だとおっしゃるのであれば、白河さんに呪いを解いてもらえばよいのです。そうすれば、旦那様は他のどなたかと……わたしなんかよりずっと素敵な方と身も心も愛し合えるようになります!」

 泣くのを必死に(こら)え絞り出すように言葉を紡いだ澄香だったが、同時に胸のあたりがズキンと痛むのを感じていた。

(わたし……旦那様が他の女性と愛し合っているところを想像してしまったら……とても胸が苦しくなったわ……。わたしって、こんなに身勝手な人間だったかしら……)

 頭を抱え、分からない、と呟く澄香。
 少女の様子を見ていた流唯は、ゆっくりとベッドに近付き膝をついた。

「今のは……おまえの本心ではないだろう?」

 澄香は弾かれたように婚約者の顔を見る。

「俺は、おまえの婚約者だ。そして、おまえのことを誰よりも愛している。だから分かるのだよ」

 流唯はそっと腕を伸ばすと、澄香の頭を優しく撫でる。

「澄香、俺が他の誰かと結婚するなんて、本当は許せないのだろう? そして……寿命が縮んでもいいだなんて、本当は思っていないのではないか。一日でも長く、俺と……ずっと一緒にいたいと思ってくれているのではないか……?」

 そう言ってこちらを覗き込むアーモンド型の輝く瞳を前にして、澄香は自分の中で何かが噴水のように湧き上がってくるのを感じていた。

「……そ、そうですっ! わたしは……旦那様が結婚する相手は……わ、わたしじゃないと嫌ですっ! そして、旦那様が他の女の人に触れるだなんて……想像しただけで気が狂いそうですっ! 旦那様の隣にいるのは、わたしです! わたしじゃなきゃ嫌なんですっ! そう、ずっと……旦那様のお側にいたいのです……!」
 
 心の中をすべて(さら)してしまうと、澄香は再び、ワァッと声を上げて泣き始めた。

 しばらくして澄香が落ち着きを取り戻すと、流唯は立ち上がり、婚約者の隣に腰掛けた。
 そして、少女の頭を自分の肩に引き寄せると、その細い腰に手を回し囁く。

「澄香……俺は今、とっても幸せだ! 可愛い澄香が俺を求めてくれたのだからな……」
「……」

 澄香は赤く染まった頬を手の甲で冷やそうとするも、その手も流唯に絡め取られてしまう。

「……心配しなくていい。俺は強い。おまえと結婚して、毎日おまえを思いっきり抱きしめて、『もうやめて』と言われるまでおまえに接吻をする……俺はそう決めている」
「だ……旦那様……!」

 大胆な宣言に、澄香の心臓はもう爆発寸前である。

(腰に置かれている手に、わたしの手を掴んでいる手……それに……顔が、近い……。このままでは心臓がもたないわ……。でも、とっても幸せ……旦那様……)

「――だから、澄香……」

 流唯はそっと体勢を変えると、少女の頬に自分の両手を当て、目をまっすぐに見て言った。

「俺を信じて、付いてきてほしい」

 澄香は青年の目をしっかりと見詰め返すと、はい、と答えた。

「どこまでも、お供いたします。旦那様……」

 そう言って微笑んだ少女を抱き寄せると、その小さな背中を優しくさすりながら流唯は祈るように囁いた。

「――おまえの『人の心が読める霊力』も俺がミッションを完遂すれば、自然と消えるはずだ。それまでは……本当に申し訳ないのだが、なんとか堪えてくれ……」

 澄香はフフッと笑うと、同じ様に流唯の大きな背中をさすりながら答えた。

「全然へっちゃらです! 幸いなことに、半妖だらけの鬼京家ではこの霊力が発動することはありませんから。外に出たときだけ、気をつければいいんです。だから、心配しないでください」

 流唯は、ありがとう、と呟くと、背中に回していた腕をほどいた。
 そして、少女の頭に優しく手を添えると、バラ色に輝くその頬に唇を当てた。

「……今のところは、ここまでだが……この先の楽しみがあって、これはこれで良いものだな」

 そう言って目を細める婚約者を見詰めながら、澄香は心の底から幸せを感じていた。