「――だ、旦那様っ!」
「澄香、大丈夫か? ……泣いたのか?」
流唯は持っていた盆をテーブルに置くと、その場にしゃがんで澄香の頬を伝う涙を指で優しく拭った。
「だ、大丈夫です……。それより、旦那様がいったいなぜここに……?」
「あぁ、ハチ香が式を飛ばしてくれたんだ。やはりこいつは頼りになる」
「ハチ香……」
「えへへ、ルイに褒められちゃった――それより澄香、本当に大丈夫?」
ハチ香は澄香の頭に自分の小さな頭をコツンと当てたかと思うと、白河の方に向き直り、シャーッ! と牙を剥いた。
「ちょっとアンタっ! 澄香にいったい何をしたのよっ!」
「……おやおやハチ香さん、せっかくの器量よしが台無しですよ」
白河は動じることなく、余裕の笑みを浮かべている。
「……は、話を逸らすなっ!」
興奮するハチ香を手で制すと、流唯はゆっくりと立ち上がり白河に鋭い目を向ける。
「――おい、おまえ……俺の澄香にいったい何をした……?」
怒気を含んだ低い声に、白河はビクリと体を震わせる。
「……な、何って……じ、事実をお伝えしただけですよ! 僕は澄香さんを……澄香さんを助けたいと思っただけだっ!」
白河は上ずった声でそう叫ぶと、ソファー席に腰掛けたまま、隅の方にジリジリと移動する。
流唯は、額に脂汗を滲ませている男の耳元にスッと顔を近付けると、地の底から響くような声で告げた。
「――詳しい話を聞かせてもらおうか……」
「……」
すっかり色を失った白河は、ただガクガクと首を縦に振るのだった。
◇◇◇
――五分後、流唯は白河と共に鬼京百貨店の屋上にいた。
澄香とハチ香は、堂元の車で先に帰らせていた。
(澄香との想い出の場所に、こんな男と一緒にいるなんてな……)
会話の内容が人の耳に届きにくい場所で話した方がよいと判断してのことではあったが、流唯は早くも後悔していた。
「――うちは代々、あやかし専門の医者をやっていましてね……あの猫のあやかしのお嬢さんから僕の名前を聞きませんでしたか? 白河進一といいます」
「……白河……」
ハチ香が飛ばしてきた式には、『澄香がロイド眼鏡の男に捕まった! 鬼京百貨店四階のカフェーにいる!』とだけ記されていた。ハチ香は男の名前を覚えていなかったのだった。
「白河先生の息子か……」
流唯は合点がいったように腕を組んでひとつ頷いた。
――白河医院。それは皇都唯一のあやかし専門の病院で、鬼や半妖はもちろんのこと、あらゆるあやかしの傷の手当や病の治療を一手に引き受けている。あやかしにとって、なくてはならない場所だ。
「三週間ほど前だったかな、肩にひどい怪我を負ったあなたがうちの病院に運ばれてきて、父と僕とで治療にあたりました。あなたはほぼ意識がありませんでしたし、こちらも手術着にマスク姿ですからね、覚えていなくて当然です。あなたが皇都一の鬼神であることは知っていましたから、『鬼京流唯にこんな怪我を負わせるなんて、敵はどれほど強いあやかしなのだろう?』と、父と話していたのですよ……」
流唯は皇都の街を見下ろしながら、そのときのことを思い出していた。
(あのときのあやかし……あれは赤ん坊を狙う鳥――姑獲鳥だった。あいつらは複数で俺に襲いかかってきた。よほど赤ん坊に飢えていたのか、鋭い爪と嘴に酷くやられてしまった……)
そのときの痛みを思い出したかのように、流唯は一瞬顔をしかめた。
その様子を見ていた白河はフッと口元を緩め、言葉を継ぐ。
「あなたが医院にやってきたのは、あのときが初めてでした。外来担当の父によると、その後もちょくちょくいらしているそうですね。三週間前までは一度も医者にかかったことがなかったというのに……。これは何かあるな、と思ったんです。そんなときに、橘花明莉との縁談が入りましてね。あんな性悪女だとは知らなかったものですから、写真だけ見てお付き合いを決めてしまったんですよ」
そこまで言うと白河は眼鏡を外し、ポケットから出した白いハンカチでレンズを磨き始めた。
「橘花明莉が姉の澄香さんについて話し出すまで、あまり時間はかかりませんでした。『姉は無能の引きこもり』だの『地味で不器量』だの、それはそれは酷い言いようでした……。実際にお会いしてみたら、不器量なんかではなく、むしろ非常に可愛らしい方だったので驚きましたよ」
ハハ、と笑った白河だったが、流唯の目がギロリと光ったのを見て慌てて視線を逸らした。
「……そして橘花明莉は言ったのです。『そんな姉だから、「冷酷な鬼神」と呼ばれる鬼京家次期当主の元へ嫁がされたのだ』と。話がよく見えなかった僕は、詳しく説明してくれと頼んだんです。そうしたら、あなたの元に婚約者候補としてやってきた何十人もの令嬢たちは、みんな泣きながら実家に戻っていったというではないですか……。妙に気になった僕は、鬼京家について父に尋ねました。そうしたら『鬼京家の現当主、鬼京流霞の妻は早逝していて、現当主自身も非常に病気がちだ。だから次期当主の結婚を急いでいるのではないか』というではないですか。鬼京家といえば、もともと頑丈な肉体に恵まれた家系です。それなのに、現当主のことといい、あなたのここ最近の病院通いといい、おかしいなと……。そのうえ、あなたの婚約者騒動ですよ。これは何かある、と思ったのです」
流唯は、男の話が核心に迫りつつあるのを感じ、ただただ黙って目の前に広がる風景に目をやっていた。
「実は、うちは表向きはあやかし専門の医院ですが、裏では代々『ほどき屋』をやっていましてね。あやかしの中には仕事に就いていないものや、その日暮らしをしているものもいますから、診察してあげても代金を支払ってもらえない場合も少なくない。だから、資金繰りのために裏稼業をする必要があるんです。ほどき屋――あやかしにかけられた呪いを解く仕事です」
(――やはり、な……)
流唯は自分の勘が的中したのを感じ、フーッと大きく息を吐いた。
「ほどき屋……そんな気がしていた」
ボソッと低く呟いた流唯にちらりと視線を投げかけると、白河は言葉を継いだ。
「先日、橘花明莉とこちらのレストランを訪れたとき、澄香さんとバッタリ遭遇し、やがてあなたが現れました。気になっていた人物たちの相次ぐ登場に、僕は内心どれだけワクワクしていたことか……!」
白河はそこでいったん言葉を区切り、空を仰ぎ見た。
「澄香、大丈夫か? ……泣いたのか?」
流唯は持っていた盆をテーブルに置くと、その場にしゃがんで澄香の頬を伝う涙を指で優しく拭った。
「だ、大丈夫です……。それより、旦那様がいったいなぜここに……?」
「あぁ、ハチ香が式を飛ばしてくれたんだ。やはりこいつは頼りになる」
「ハチ香……」
「えへへ、ルイに褒められちゃった――それより澄香、本当に大丈夫?」
ハチ香は澄香の頭に自分の小さな頭をコツンと当てたかと思うと、白河の方に向き直り、シャーッ! と牙を剥いた。
「ちょっとアンタっ! 澄香にいったい何をしたのよっ!」
「……おやおやハチ香さん、せっかくの器量よしが台無しですよ」
白河は動じることなく、余裕の笑みを浮かべている。
「……は、話を逸らすなっ!」
興奮するハチ香を手で制すと、流唯はゆっくりと立ち上がり白河に鋭い目を向ける。
「――おい、おまえ……俺の澄香にいったい何をした……?」
怒気を含んだ低い声に、白河はビクリと体を震わせる。
「……な、何って……じ、事実をお伝えしただけですよ! 僕は澄香さんを……澄香さんを助けたいと思っただけだっ!」
白河は上ずった声でそう叫ぶと、ソファー席に腰掛けたまま、隅の方にジリジリと移動する。
流唯は、額に脂汗を滲ませている男の耳元にスッと顔を近付けると、地の底から響くような声で告げた。
「――詳しい話を聞かせてもらおうか……」
「……」
すっかり色を失った白河は、ただガクガクと首を縦に振るのだった。
◇◇◇
――五分後、流唯は白河と共に鬼京百貨店の屋上にいた。
澄香とハチ香は、堂元の車で先に帰らせていた。
(澄香との想い出の場所に、こんな男と一緒にいるなんてな……)
会話の内容が人の耳に届きにくい場所で話した方がよいと判断してのことではあったが、流唯は早くも後悔していた。
「――うちは代々、あやかし専門の医者をやっていましてね……あの猫のあやかしのお嬢さんから僕の名前を聞きませんでしたか? 白河進一といいます」
「……白河……」
ハチ香が飛ばしてきた式には、『澄香がロイド眼鏡の男に捕まった! 鬼京百貨店四階のカフェーにいる!』とだけ記されていた。ハチ香は男の名前を覚えていなかったのだった。
「白河先生の息子か……」
流唯は合点がいったように腕を組んでひとつ頷いた。
――白河医院。それは皇都唯一のあやかし専門の病院で、鬼や半妖はもちろんのこと、あらゆるあやかしの傷の手当や病の治療を一手に引き受けている。あやかしにとって、なくてはならない場所だ。
「三週間ほど前だったかな、肩にひどい怪我を負ったあなたがうちの病院に運ばれてきて、父と僕とで治療にあたりました。あなたはほぼ意識がありませんでしたし、こちらも手術着にマスク姿ですからね、覚えていなくて当然です。あなたが皇都一の鬼神であることは知っていましたから、『鬼京流唯にこんな怪我を負わせるなんて、敵はどれほど強いあやかしなのだろう?』と、父と話していたのですよ……」
流唯は皇都の街を見下ろしながら、そのときのことを思い出していた。
(あのときのあやかし……あれは赤ん坊を狙う鳥――姑獲鳥だった。あいつらは複数で俺に襲いかかってきた。よほど赤ん坊に飢えていたのか、鋭い爪と嘴に酷くやられてしまった……)
そのときの痛みを思い出したかのように、流唯は一瞬顔をしかめた。
その様子を見ていた白河はフッと口元を緩め、言葉を継ぐ。
「あなたが医院にやってきたのは、あのときが初めてでした。外来担当の父によると、その後もちょくちょくいらしているそうですね。三週間前までは一度も医者にかかったことがなかったというのに……。これは何かあるな、と思ったんです。そんなときに、橘花明莉との縁談が入りましてね。あんな性悪女だとは知らなかったものですから、写真だけ見てお付き合いを決めてしまったんですよ」
そこまで言うと白河は眼鏡を外し、ポケットから出した白いハンカチでレンズを磨き始めた。
「橘花明莉が姉の澄香さんについて話し出すまで、あまり時間はかかりませんでした。『姉は無能の引きこもり』だの『地味で不器量』だの、それはそれは酷い言いようでした……。実際にお会いしてみたら、不器量なんかではなく、むしろ非常に可愛らしい方だったので驚きましたよ」
ハハ、と笑った白河だったが、流唯の目がギロリと光ったのを見て慌てて視線を逸らした。
「……そして橘花明莉は言ったのです。『そんな姉だから、「冷酷な鬼神」と呼ばれる鬼京家次期当主の元へ嫁がされたのだ』と。話がよく見えなかった僕は、詳しく説明してくれと頼んだんです。そうしたら、あなたの元に婚約者候補としてやってきた何十人もの令嬢たちは、みんな泣きながら実家に戻っていったというではないですか……。妙に気になった僕は、鬼京家について父に尋ねました。そうしたら『鬼京家の現当主、鬼京流霞の妻は早逝していて、現当主自身も非常に病気がちだ。だから次期当主の結婚を急いでいるのではないか』というではないですか。鬼京家といえば、もともと頑丈な肉体に恵まれた家系です。それなのに、現当主のことといい、あなたのここ最近の病院通いといい、おかしいなと……。そのうえ、あなたの婚約者騒動ですよ。これは何かある、と思ったのです」
流唯は、男の話が核心に迫りつつあるのを感じ、ただただ黙って目の前に広がる風景に目をやっていた。
「実は、うちは表向きはあやかし専門の医院ですが、裏では代々『ほどき屋』をやっていましてね。あやかしの中には仕事に就いていないものや、その日暮らしをしているものもいますから、診察してあげても代金を支払ってもらえない場合も少なくない。だから、資金繰りのために裏稼業をする必要があるんです。ほどき屋――あやかしにかけられた呪いを解く仕事です」
(――やはり、な……)
流唯は自分の勘が的中したのを感じ、フーッと大きく息を吐いた。
「ほどき屋……そんな気がしていた」
ボソッと低く呟いた流唯にちらりと視線を投げかけると、白河は言葉を継いだ。
「先日、橘花明莉とこちらのレストランを訪れたとき、澄香さんとバッタリ遭遇し、やがてあなたが現れました。気になっていた人物たちの相次ぐ登場に、僕は内心どれだけワクワクしていたことか……!」
白河はそこでいったん言葉を区切り、空を仰ぎ見た。