「怖い思いをさせてしまったな……すまない」
 
 部屋に戻ると、流唯は澄香を再びベッドに横たわらせた。

「……いいえ……それよりも旦那様、お千代さんを許してくださってありがとうございました。お千代さんは、朝餉をこしらえたいと申し出たわたしを快く迎え入れてくださいました。いつも笑顔でざっくばらんにお話をしてくださるんです。そんな方は、実家にはひとりもいませんでした……。わたし、お千代さんには本当に感謝しているんです。だから――」

 青い顔をして必死に伝えようとする澄香の唇に、流唯はそっと人差し指を当てて言った。

「おまえの気持ちは、よくわかった。さっきの炎玉は、あの者が再び同じ罪を犯さないよう少しだけ脅しておこうと思ってな。処罰は重いものにはしない。約束しよう。だから心配しないで今夜はゆっくり休みなさい」
「旦那様……ありがとうございます」

 澄香はホッと息をつくと柔らかく微笑み、目を閉じた――。



◇◇◇

 一週間後、澄香は再び人間に変身したハチ香と共に、鬼京百貨店のレストランを訪れていた。

「澄香ちゃん、ハチ香ちゃん、いらっしゃいませ」

 芽唯は笑顔で出迎えると、窓際から少し離れた席にふたりを案内した。
 
(日当たりが良すぎる席だとハチ香が居眠りをしてしまうから、配慮してくださったのね……)

 澄香は芽唯のさりげない心配りを感じていた。
 オーダーを済ませると、ハチ香は茶色のクラッチバッグ――もちろん澄香のクローゼットから拝借したものだ――から手鏡を取り出し、髪型のチェックを始めた。

「この頭、一度してみたかったのよね~! ルイってば、すごいよね! 前に人間に変身した時はショートヘアだったのに。髪型のイメージを伝えたら、本当にそのとおりにしてくれた~!」

 今日のハチ香の髪型は、左右に分けた長い髪を三つ編みにし、耳が隠れるようにぐるぐる巻きにする、いわゆる『ラジオ巻き』である。

「そうね、旦那様は本当にすごいわね。ハチ香は短い髪もよく似合うけれど、今日みたいなまとめ髪も可愛らしくていいわね」

 澄香がそう言って目尻を下げると、ハチ香は、そうでしょ~! と、カタツムリのような形をした髪に手を当てにっこり微笑んだ。
 無邪気に楽しむハチ香とは対称的に、澄香は気付けばキョロキョロと周囲を見回していた。

「――澄香……気持ちは分からないでもないけどさ、あの女はいないから、気にするのやめなよ。芽唯も、あれから来ていないって言ってたじゃん」
「……そう、よね……」

 澄香は慌てて正面に向き直る。

「アタシ思うんだけどさ、『会いたくないと思っているから、そいつが現れる』ってこと、あると思うんだよね」

 ハチ香は手鏡をしまうと、真剣な顔で話し始めた。

「……ん? どういうこと?」
「説明が難しいのだけれど……『会いたくない』って常に思っているってことはさ、いつもそいつのことを考えてるってことなんじゃないかなぁ。裏を返せば、澄香の頭の中はそいつのことでいっぱいで、まるで『そいつに会いたくて仕方がない』って無意識に祈ってるのと同じ状態を生み出してるんじゃないかなぁ?」
「……」

 澄香は直感的に、ハチ香の言っていることは正しいのではないかと感じていた。
 ただ、返す言葉が見つからなかった。

(そうね……『明莉がここにいやしないだろうか』と恐れる気持ちは、『明莉を探している』ことと同じなのよね……。自分では意識していなくても、『明莉に会いたがっている』という状態を引き起こしているのかもしれない……)

「ハチ香は哲学的なところがあるのね……。さすが、人生の大先輩だわ」

 感心したように澄香が呟くと、ハチ香はコホンと咳払いをする。

「まぁ……人生というか、『ネコ生』だけどね」

 フフ、本当ね、とふたりは笑いあった。

 食事を終え帰り支度をしていると、忙しそうにホールを動き回っていた芽唯が急ぎ足で近付いてきた。

「澄香ちゃん、ハチ香ちゃん、もうお帰り?」
「芽唯さん、今日もとても美味しかったです。ご馳走様でした。……とてもお忙しそうですね」
「まぁね。これも修行の一貫と思って頑張るわ! そういえば澄香ちゃん、兄さんに洋食をこしらえてるんだって? すごいね! 私、料理はからっきしダメだから尊敬する!」

 芽唯は兄によく似た黒目がちの瞳を輝かせている。

「尊敬だなんて……見様見真似(みようみまね)で作っているだけで……」
「ううん、この前、兄さんがここで食事したとき『澄香のこしらえたものは、ここで出すものと遜色(そんしょく)ないな』って嬉しそうに言ってたよ~!」

 そう言って芽唯は澄香の肩をポンポンと優しく叩いた。

「だ、旦那様が……ですか?」

 澄香は喜びに胸が震えるのを感じていた。

(人から何かを褒められたことなどなかった人生だけれど……旦那様はいつだってわたしのことを褒めてくださる……)

 思わず涙ぐんだ澄香を見て、芽唯は慌ててエプロンから化粧紙を取り出した。

「……澄香ちゃん、あなたはとっても素敵な子ね……。兄さんのこと、あなたになら安心して任せられるわ」
「……芽唯さん……」

 芽唯はフフッと微笑むと、じゃあ気を付けて帰るのよ~、と手を振りながら客で溢れるホールへと戻っていった。
 
「――澄香、よかったね。これからは澄香が大事だと思う人たちのことだけを考えて生きていけばいいと思うよ」

 振り返ると、ハチ香が大きな瞳を優しく揺らして澄香を見詰めていた。

(……そうね、今のわたしには大切な人たちがたくさんいる。その人たちのことで頭をいっぱいにして生きていけたなら、きっともっともっと幸せになれるわ……)

 澄香は自分より少しだけ大きなハチ香の手を握ると、レストランを後にした――。



 エレベーターを待っていると、澄香さん、という男の声がした。
 振り返ると、そこには先日レストランで明莉と同席していた男――たしか白河と名乗っていた――が口元に笑みを浮かべて立っていた。
 澄香は反射的に周囲を見回す。

「――大丈夫ですよ。今日は明莉さんはいません。僕ひとりです」
 
 白河はロイド眼鏡の縁を指で持ち上げながら、フッと笑った。その瞬間――。

(可愛らしいなぁ。僕の姿を捉えた瞬間に、そばに明莉さんがいやしないかと身構えるだなんて。本当にあの女が苦手なんだな)

 自分をすっかり見透かしている白河の言葉が脳内に伝わってきて、澄香は咄嗟に下を向く。

(――そうだわ、この(ひと)は人間だった……)

 半妖との生活に慣れきっていた澄香は警戒することを忘れ、目の前の相手と視線を合わせてしまっていたのだった。

「べ、別にそういうつもりでは……。それではわたしたちはこれで……」

 澄香はハチ香の手をギュッと握り直すと、エレベーターに乗るのを諦め、エスカレーター乗り場の方へとずんずん歩き出した。

(エスカレーターは苦手だけれど……あの白河っていう人は、もっと苦手だわ。それに何と言っても明莉の婚約者ですもの。下手に接触してしまったら、あることないこと明莉に伝えるに違いないわ)

 すると後ろから、男性にしてはやや高めのよく通る声が澄香の耳に届いた。

「流唯さんのことでお話があるのです。婚約者であれば、彼を助けたいとは思いませんか?」