澄香は椅子に浅く腰掛け、流唯の言葉を待つ。

「――例のスケッチブックだが……あれは実家にいた頃に買ってもらったのか」
「いえ……あれは明莉――妹のお下がりなんです。お恥ずかしいのですが」
「妹に見せたことはあるか」
「……いいえ。本当にお恥ずかしいのですが――」

 澄香はそこで一度言葉を切ると、俯いた。

「――わたしは納屋で暮らしていたんです。なので近寄る人は誰もいませんでした……」

 想像を遥かに超える澄香の過去に、流唯は絶句する。

(――納屋、だと……? ひ、人の住処(すみか)ではないではないか……! そこまで……そこまで澄香は家族に虐げられていたのか?!)

 流唯は背中が冷たくなるのを感じていた。

「ごめんなさいっ、驚かれましたよね。……でも、旦那様には嘘をつきたくないと思ったんです。本当に、こんなわたしが旦那様のような立派な方の婚約者だなんて、申し訳ないです……」

 そう絞り出すように口にした少女の声は、すっかり涙声になっていた。
 流唯はすぐさま立ち上がると澄香の前で膝を付き、涙で濡れた少女の頬を両手で包んだ。

「澄香、話してくれてありがとう。俺に嘘をつきたくないというその気持ち……本当に嬉しく思う。おまえは『こんなわたし』と言うが、悪いのは澄香ではない。橘花の家の者たちがすべて悪い。だから気にするな」

 流唯が澄香の背中をポンポンと優しく叩くと、少女はわぁっ、と声をあげて泣き始めた。

「……わ、わたし……ヒック、家族に嫌われて……暗くてジメジメした納屋で……三年間もひとりぼっちで暮らしてきました……ヒック、女学校でも先生や級友に嫌われて……とうとう通えなくなってしまったんです……引きこもりになって……本当に寂しくて、つらかった……」

 椅子から崩れ落ち、しゃくり上げて大泣きする澄香を、流唯は優しく抱きしめる。

(まさかここまで壮絶な暮らしを強いられていたとは……俺の可愛い澄香を、よくも……! 橘花のやつら、絶対に許せん――)

 流唯は自分の胸が復讐の炎で燃えたぎっているのを感じていた。

 泣きすぎたせいか、頭が痛い、とぽつりこぼした澄香を流唯はベッドに横たわらせた。

(納屋で過ごしていた三年の間に、あの明莉という女が澄香のいない隙を狙って納屋に入ったというのは考えにくいな……。その頃、澄香は女学校にも行っておらず人との接触はなかっただろうから、あの女がスケッチブックをチェックしたくなる動機が見当たらない)

 ベッド脇に膝をつき、少女の小さな手を優しく握りしめながら流唯は考えを巡らせていた。

(――ということは、この家にやってきてからか……。誰か……内通者がいるということか?!)

 流唯は、カッ! と目を見開くと立ち上がり、部屋の中心に移動した。
 大きく一度深呼吸をすると、部屋に残存している『臭い』に意識を集中させる。
 意識は現在から過去へと少しずつ遡っていった。

(――これは澄香とハチ香だ……そしてこれは女中の多江だ。……っ! こ、この臭いは……っ!)

 流唯は呆然と、その場に立ち尽くすのだった――。



 それから二時間後。

「――う……ん……旦那、様?」

 目を覚ました澄香は、窓から外を眺めている流唯に気付き声をかける。

「――澄香! 体調はどうだ」

 流唯はすぐさま少女の枕元に駆け寄る。

「はい、旦那様がずっと側にいてくださったので、もうすっかりよくなりました」

 澄香は頬を桃色に染め、婚約者を見詰めている。

「そうか、よかった……それでだな、澄香。体調が回復したばかりのところを悪いのだが……もし大丈夫そうであれば、悪いがこれから俺と一緒にダイニングルームに来てくれないか」

 理由を尋ねることもなく、はい、と言って微笑む婚約者の姿に、流唯は胸がチクリと痛むのを感じた。

(――これから明らかにする事実のせいで、またつらい思いをさせてしまうかもしれない……すまない、澄香……)

 流唯は心の中でそっと謝罪した。

 

「――あら……お千代さん、どうされたのですか……?」

 ダイニングルームの扉を開くと、目の前には青い顔をして小刻みに震える千代の姿があった。

「おまえが炊事担当の千代――ビーバーの半妖だな?」

 部屋に響き渡る流唯の冷たい声に、澄香は思わず振り返る。

「……だ、旦那様、いったいどうされたのですか……」

 澄香も、これから何かよくないことが起きると察知したのか、一度は桃色に戻った頬の色が早くも失われ始めていた。

「澄香、落ち着いて聞いてくれ……。つい先程、おまえの妹が俺に会いに来た」
「――あ、明莉が……?」

 澄香はめまいを感じたのか、椅子の背に手をつき必死に(こら)えている。

「澄香……! すまない、最初に座らせるべきだったな……」

 流唯は慌てて椅子を引くと少女を座らせた。

「……明莉が……なぜ旦那様に……?」
「あの女は、おまえには俺の他に好きな男がいる、と言った。――馬鹿げた話だ」

 澄香は両手で口を押さえ、目を大きく見開いた。

「――な……なんて事を!」

 いつもは控えめな澄香が、声を張った。

「……どうして……どうしてそんな出鱈目を言うのっ……! 明莉っ!」

 澄香は、どうして! と繰り返しながら、拳を何度も膝に打ち付けている。
 流唯は澄香の固く握られた拳をそっと掴むと両手で包み込み、一本ずつゆっくりと指を広げていった。
 すっかり汗ばんだ少女の手の平に自分の手を優しく当てると、今度は指を一本ずつ絡めていく。

「――澄香、心配するな。俺はそんな言葉を1ミリも信用していない。俺が信じるのは、おまえの口から発せられた言葉だけだ」

 流唯は澄香の瞳をまっすぐに見詰め、囁いた。

「旦那様……ありがとうございます……」

 澄香は目の淵に涙をいっぱいに溜めたまま、そっと口角を上げてみせた。

「――でも……でもなぜ明莉は旦那様にそんな嘘を?」
「それは――」

 流唯はそこで一旦言葉を切ると、くるりと千代の方に体を向けた。
 ビクリと反応する千代。

「それは、ここにいる千代という女がおまえの留守中に部屋に忍び込み、スケッチブックを盗み見たからだ」
「……部屋……に……?」

 澄香は驚いて立ち上がる。

「ああ。部屋にはビーバーの臭いが残っていた。この屋敷で働いているビーバーの半妖は、この女しかいない。おそらくおまえとハチ香が百貨店に出かけている隙をついて忍び込んだのだろう。スケッチブックに同じ男の顔が何枚も描かれているのを見て、おまえには惚れている男がいると勘違いしたのだろうな……。多江のような給仕担当の女中とは違い、炊事担当はふだん俺の顔を見ることはない。だから描かれている男が俺だとは気付かなかったのだろう」

 澄香は口を両手で押さえたまま、流唯と千代を交互に見ている。
 流唯は(こうべ)を垂れたままの千代にゆっくりと近付いていく。

「――俺の顔を見ろ」

 千代はまるで凍りついたかのように、微動だにしない。

「俺を見ろと言っている」
 
 地の底から響いてくるような低い声に、千代は首をぷるぷる震えさせながら必死に顔を上げようとする。

「おまえが盗み見たスケッチブックに描かれていたその男は、誰なんだ? 言ってみろ!」
「ひぃぃぃっ……! お、お許しくださいませぇっっ!」

 千代は逃げるように後退(あとずさ)りすると、流唯の顔にちらりと目をやり叫んだ。

「――た、確かにあの……あれは若旦那様でしたッ! ……も、申し訳ありませんッ!」 

 千代は頭と手を床につけ、お許しを~ッ! と泣き叫んでいる。