振り向かずとも誰の声か分かった澄香は、何も言わずに側溝に寄った。
 やがて一台の人力車が澄香を追い越し少し先で止まったかと思うと、中からぱっちりとした顔の少女が顔を出した。

「まぁ、相変わらずセンスのない着こなしですことォ! 老舗呉服店の長女ともあろう人が恥ずかしくないのかしら! でも、無能だから仕方がないですわねェ~!」

 明莉は、オーホッホと左手の甲を右頬に当てて高笑いをしている。
 澄香は俯いたまま何も言わず、その横を通り過ぎた。
 道行く女学生たちは、いつもの光景にヒソヒソとささやきあったかと思うと、お追従(ついしょう)の笑みを浮かべながら、おもむろに明莉に近寄っていく。

「明莉様、おはようございます。今日のお着物もとってもお美しいですわね~。西洋のお品でしょうか。いつもおキレイでいらして、羨ましいわぁ~」

 気付くと、明莉を乗せた人力車は女学生たちに囲まれていた。
 そんな中、誰一人として澄香に声をかける者はいないが、これもいつものこと。
 澄香はなるべく何も感じないように、考えないようにして、ただただ女学校へと続く一本道を見つめていた。
 そして、徐々に痛みを増しているこめかみを指で押さえながら、必死に歩みを進めた。

 教室に到着すると、澄香は誰に挨拶をするでもなく黙って一番後ろの席についた。
 


 入学したての頃は、澄香にも友人と呼べる少女が数人いた。
 しかし、その平和で穏やかな日々は、明莉の入学と共に消え去った。
 明莉は入学したその日のうちに澄香の教室へやってきた。そして、ドアから顔をのぞかせると大声でこう叫んだのだった。

「お姉さまァ~! お姉さまのクラス番号を聞いていなかったのだけれど、よかった、すぐに見つかりましたわ! 時代遅れのみっともない着物姿の娘を探せばいいだけですもの、簡単ですわァ~。お姉さまが無能でさえなければ、そんなボロ切れをまとわずに済みましたものを~!」

 その日からというもの、友人だと思っていた少女たちは徐々に澄香と距離を取るようになっていった。
 この時代、女学校に進学してくる少女たちはほぼ全員、その力に大小あれど『なにかしらの霊力』を備えていた。
 例えば、明莉は『相手の好みを瞬時に察知する霊力』を有していた。客が一歩『橘花屋』に足を踏み入れるやいなや、その客がどんな着物を求めているかを瞬時に見抜く力であり、橘花家の子女に代々受け継がれている霊力である。この力を活かし、明莉は『橘花屋』の商売繁盛に一役も二役もかっていた。

「本当に、明莉ちゃんは『橘花屋』の守り神ねぇ……」

 外から嫁いできた明莉の母、明美にはこの霊力は備わっていないため、橘花家で明莉は『蝶よ花よ』と、これ以上ないほど可愛がられて育った。
 明莉ほどの霊力を備えた女学生の存在は稀だったが、少なくとも少女たちはみんな人間とあやかしの区別をつけることはできた。
 だが、澄香にはこの霊力すら備わっていなかったのである。

(そりゃあみんな、ボロ切れをまとった無能の娘と仲良しだとは思われたくないわよね……)

 友人と思っていた少女たちの自分を見る目が、親しみから軽蔑へと変わっていく様子を、澄香は冷静に受け止めていた。
 長い年月、家族から疎まれ虐げられてきたため『自分は他人から蔑まれて当然の人間』という意識が、澄香の中に深く静かに根付いていたのだった。
 この日以来、澄香は友人を作ることを諦め、ひとりぼっちの学校生活を送っている。
 それは他人から見れば、孤独で退屈な毎日かもしれない。
 しかし、澄香にしてみれば、事あるごとに罵声を浴びせてくる継母や、娘がどれだけ虐げられていても見て見ぬふりを決め込む父親から離れていられる安らぎの時間だった。
 もちろん、明莉が教室までやってきて絡んで来なければ、の話ではあるが……。



 この日もいつものように授業が始まった。一時限目は『国語』である。
 最前列に座る少女が担任の市川先生に指名され、教科書を読み上げている。
 澄香は教科書に目を落としつつも、頭の中は今朝の台所での出来事でいっぱいだった。

(なぜあの時、おタキさんの心の声が聞こえてきたのかしら)
(おタキさん、あの人だけは私のことを嫌っていないと思っていたのに……。あの家に私の味方は本当にひとりもいないのね……)

 嘆息した澄香が視線を感じて顔を上げると、眼鏡を下方にずらしてこちらを睨む市川先生と目が合った。

(――ったく、聞いていなかったのかしら)

 苛ついた先生の声が澄香の脳内を走る。

「橘花澄香さん、続きを読みなさい」

 今度は、先生の口から言葉が聞こえてきた。

(――えっと、どこからだったかしら……)
 
 しばらく教科書に目を走らせていた澄香だったが、観念しておずおずと顔を上げると、再び先生の冷たい視線とぶつかった。

(まったく、覇気(はき)のない陰気な子ね! 妹の明莉さんとは大違いだわ!)

 澄香には、ハッキリとわかった。
 今のは、先生の口から出た言葉ではない。

「私が……先生の心を、読んだんだわ……」

 澄香は口をパクパクと動かしたが、その呟きが声になることはなかった。
 少女の背中に冷たい汗が流れる。
 と、次の瞬間、澄香の視界は大きな渦を描き出し、鋭い痛みがこめかみに走った。

「――くッ……!」

 耐えきれず床に崩れ落ちた澄香の耳に、級友たちの慌てふためく声が聞こえてきた。

「きゃあっ!」
「大丈夫?」
「いったいどうされたの?」
「どなたか『式』を飛ばせる方、橘花さんのお家にご連絡を……」

 澄香は額に脂汗を流しながら、必死に首を横に振った。

(家に連絡なんてされたら、何を言われるかわからないわ……。やめてちょうだい……)

 朦朧(もうろう)とする意識と闘いながら、なんとか目を開けると、自分と一定の距離を保ちつつ様子をうかがっている少女と目が合った。その子は以前、澄香が『友達』だと思っていた子だった。

(うわっ! 何?! 何かの病気なの? 無能なだけじゃなく病気だなんて気持ち悪い! もっと離れた方がいいかしら……)

 少女の気持ちが澄香の脳内に流れ込んでくる。

(……『無能なだけじゃなくて病気』……)

 そう反芻(はんすう)するやいなや、澄香は完全に意識を失った――。



 澄香が女学校で気を失い、部屋にこもるようになってから三日が経過した。
 部屋にこもるとは言っても、女学校へ行けなくなっただけであり、継母から言いつけられた食事の支度はきちんとこなしていた。
 だが、継母は澄香の部屋にやってくると、乱暴にふすまを開け放ち叫んだ。