流唯が客間のドアを開けると、そこにはスイートピーが大胆に描かれた梅紫色の着物に身を包んだ少女が立っていた。栗色の長い髪はゆるくまとめてあり、顔周りの(おく)れ毛が華やかな顔立ちをさらに引き立てている。

「鬼京流唯様、おはようございます」

 少女は、くっきりとした二重まぶたを殊更(ことさら)に大きく見開くようにして挨拶をする。

「――何の用だ。橘花明莉」
「あらァ、婚約者の妹に随分なご挨拶ですこと~」

 明莉は濡れたように光る赤い唇の端を釣り上げた。

「この後、会議が入っている。さっさと用件を言え」

 流唯は明莉に椅子を勧めることもなく、両腕を組んだまま乾いた声で告げた。

「……レディーに椅子を勧めもしないだなんて、あなたも随分常識のない方ですのねッ! まぁ、いいわ。わたくしは心が広いので、大目に見ましょう」
「客がレディーであるかどうかは俺が決める。用件を言わないのであれば、失敬する」

 流唯がくるりと背を向けると、待ってよッ! という明莉の声が部屋に響いた。

「鬼京流唯様、今日からわたくしが姉の代わりにあなたの婚約者になってさしあげてもよろしくってよ!」

 明莉は胸に手を当て流唯の目をまっすぐに見つめると、そうはっきりと告げた。

「――フッ……ハハハッ! 何を言い出すのかと思ったら……」

 流唯は呆れたように額に手をやると、のけ反るようにして天を仰いだ。

「なぜ俺がおまえのような女を婚約者にしなければならないのだ?!」

 鋭い眼光でギロリと睨まれ一瞬目を逸らした明莉だったが、コホンと一度咳払いをすると再び口を開いた。

「だって……お、お姉様なんて……ただの『無能』じゃないッ! 鬼京家ほどの名家が、あんな無能を嫁に迎えるだなんて……! その点、高い霊力を有しているこのわたくしなら、きっと鬼京家のお役に立てますわッ! それに外見だって、あんな不器量で貧相な女よりわたくしの方が数段、鬼京家の嫁に相応しいのではなくってッ?!」

 興奮に目を赤くし(まく)し立てる明莉を前にし、流唯は自分の心が逆に冷静になっていくのを感じていた。

(――澄香には霊力がある。だが、この女にそれを告げるのは得策ではないな。後で面倒なことになりそうだ)

 流唯は一度大きく嘆息すると、血走った目で自分を凝視する明莉に向き合い告げた。

「――おまえは何か勘違いをしているようだ。俺は妻になる人に霊力など求めてはいない。なぜなら、この俺こそが最強の霊力の持ち主だからだ。妻に霊力がないのであれば、俺が守ってやればよい。それだけのことだ。それからおまえは外見のことをとやかく言っているが……俺にとって澄香は誰よりも可愛い。あんなに可愛らしい女は、どこを探しても他にはいないだろう。おまえのような傲慢で意地の悪い、人の物を盗むようなやつには分からないのかもしれないが……澄香はその心の美しさが外見に表れている……」

 愛しい人を思い出したからなのか、最後の方は自然と優しい声音になっていた。
 そんな流唯を間近に見ていた明莉は、音がしそうなほど爪を噛んだかと思うと、やがて大声で叫び始めた。

「な……何よッ! 『人の物を盗む』って……あ、あのときのリボンのことを言っているのかしら? 言っておきますけど、あれは本当にわたくしの物だったのよッ! あんたたちがあまりにもギャーギャーうるさいものだから、面倒で渡してしまっただけよッ!」

 そこまで言うと、明莉は拳を握りしめ地団駄を踏んだ。

「そ、それに何が『心の美しさ』よッ! あの女には……あの女には、あんたの他に好きな男がいるんだからねッ! そんなことも気付かないだなんて、何が『最強の霊力の持ち主』よ! 聞いて呆れるわッ!」

(『他に好きな男』だと……?)

 流唯はガツンと後頭部を殴られた気がしたが、それをおくびにも出さず、澄香と初めて会った日から今日までのことを倍速モードで脳内再生していた。

(とてもそんなふうには見えなかったが……。待てよ。ひょっとして、この女の罠か?)

 流唯は明莉との距離をさらにもう一歩詰めると、アーモンド型の瞳を釣り上げて目の前の女を見下ろし低い声で尋ねた。

「――何を根拠にそんなことを言っている? どうせ出鱈目(でたらめ)だろう」
「ち……違うわッ! れっきとした事実よ! あの女はね……わたくしがあげたスケッチブックにいつも殿方の絵を描いているのよッ! しかも、こっそりとね……。嫌だわ~なんていやらしいのかしらッ」

 明莉はわざとらしく両腕で自分の体をさすって見せる。

「――フッ……ハッハッ! 何かと思えば、そのことか!」

 流唯は額に手をやると、前かがみになり声を出して笑い始めた。あまりのおかしさに目の端には水滴が浮かんでいる。

「――なッ、何がおかしいのよッ!」

 期待していた反応が得られなかった明莉は、忙しなく目を左右に動かしながら、爪の跡が残るほど強く拳を握りしめている。
 ひとしきり笑った流唯は目尻の雫を手の甲で拭うと、俯いた状態でさらにもう一歩、明莉に近付く。
 やおら顔を上げると、真上から明かりを見下ろし、これ以上ないほど低い声で告げた。

「――あのスケッチブックに描かれている男はな……すべて『俺』だ。澄香の好きな男というのは、この俺なんだよ。……わかったなら、さっさと出ていけ!」

 踵を返した流唯の背中を切羽詰まった声が追いかける。

「……そんなの、どうせ出鱈目でしょッ! スケッチブックを見たこともないくせに! ――まぁ、いいわ。殿方のプライドというものがあるでしょうからねェ……とにかく、わたくしを婚約者にするというお話、考えておいてくださいねッ!」

 そう捲し立てると、明莉は早足で流唯の前を通り過ぎ、大きな音を立ててドアを閉め出ていった。
 流唯は腰に手をあて深く嘆息すると、そのまま澄香の部屋へと向かった。



 ドアをノックすると、澄香が小走りで近付いてくる気配がした。

「――旦那様! お仕事に行かれたとばかり思っていました!」

 そう言って目を細める澄香を見た瞬間、流唯は目の前の華奢な少女に覆いかぶさるようにして抱きついた。

「……だ、旦那様……?」

(――これが本当に姉妹なのか? まるで天使と悪魔ではないか……)

 自信満々に目を見開き自分を見上げてくる明莉を思い出すと、澄香を抱きしめる腕に自然と力が入ってしまう。

「――ちょっと、ルイぃ~、そんなに力を入れたら澄香が折れてしまうよぉ~」

 ハチ香ののんびりとした声にハッと我に返った流唯は、すまん、と言ってゆっくりと体を離した。

「だ……旦那様、どうかされましたか?」

 澄香は、真っ赤な顔を手の甲で抑えながら尋ねる。

「いや、ちょっと……おまえに聞きたいことがあってな」

 そう言って猫脚の椅子に腰掛けると、澄香に隣に座るよう勧めた。